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2013-02-11『翻訳の品格』亀山郁夫批判
http://d.hatena.ne.jp/yumetiyo/20130211/1360578857
私は学生だった頃、もう題名さえ忘れたが、あるロシア史の翻訳を買った。しかし、そこに次々と意味不明の文章が羅列されているのに驚いたので、原文を取り寄せ、比較対照した。意味不明の箇所はすべて誤訳だった。初歩的な誤訳が大半だった。そこで、全部ではないが一部分に限定し正誤対照表を作成し、詳しい解説も付け、出版社に送りつけた。これだけ狭い範囲にこれだけたくさん誤訳があるのだから、あとは推して知るべしという意味で送ったのだ。
その原文はロシア語の新聞を読める程度の学力があれば十分訳せるような内容だった。それにもかかわらず、訳者は意味不明の文章を羅列していた。初等文法さえ知らないのではないのかと思った。しかし、その訳書の訳者として名前が出ていたのは、驚いたことに、学生の私でさえ名を知っていた左翼の著作家だった。しかし、じっさいに訳したのは別人であるらしく、高名なその訳者はあとがきである人物に翻訳に協力してくれたことを感謝していた。今となっては記憶が曖昧になってしまったが、だいたいそんな風だったと思う。
結局、いくら待っても出版社から返事はこなかった。なぜ返事が来なかったのか。出版業界にはそういう慣例があるのか。いずれにせよ、それ以来、翻訳に文句を言うのは時間とエネルギーの無駄遣いだと思って、また、あとでも述べる理由のため、誤訳に満ちたロシア語の翻訳に出会っても知らぬ顔で通り過ぎるようになった。
しかし、そのような私にとってさえ、このたびの亀山訳『カラマーゾフの兄弟』は知らぬ顔で通り過ぎることができないほど不愉快なものだった。このブログで批判してきたように、亀山は自分の好きなように原文を加工して訳している。亀山がドストエフスキーより自分の方が偉いと思っているのは明らかだ。というより、まず自分が大事で、ドストエフスキーなどどうでもいいのだ。不正確な記憶にすぎないが、ロレンスの『息子と恋人たち』を訳した本多顕彰という英文学者が、ロレンスは文章が下手くそなので私が直して訳してやっている、というようなことを述べているのを読んだことがある。それ以来、本多の翻訳はもちろん、エッセイも読むのをやめた。亀山も本多の同類だろう。こんな翻訳以前のデタラメが世間に通用しては困る、そう思って、このブログで亀山訳を批判してきたのだが、どこまで私の批判は読者に届いているのだろうか。
ところで、亀山訳の『カラマーゾフの兄弟』ほどデタラメではないが、私は以前から、ドストエフスキーの翻訳全般がそう質の高いものではないことは知っていた。日本語能力が高いため、世評では良いと言われていた江川卓の翻訳も世評ほど良くはなかった。無神論者の江川卓はドストエフスキーが理解できないため、肝心なところになると誤訳を犯している。これは他の訳者も同じだ。ドストエフスキーの翻訳には、江川以上にひどいものもあったが、私には他人の誤訳を批判する余裕などなかった。そんな余裕があるのなら、一円でも多く稼ぎ、家族の飢えをしのぎたいと思っていたのだ。
言う必要もないことかもしれないが、明日どうなるかも分からない生活を送っている研究者に、誰かの翻訳が良いとか悪いとか言う余裕はない。ある程度自分の生活に余裕ができて初めて他人の翻訳を批判することができる。亀山のような人物が、出版社の営業路線に乗って、面白おかしく原作をねじまげて翻訳をしようが、卑猥なドストエフスキー論で若者の性欲をかきたてあざむこうが、そんなことはどうでもいい。生きているのが精一杯の研究者は、ペッと唾を吐き、「クソ野郎」とつぶやくだけだ。こういうロシア文学研究者は多い。なぜそう断言できるのかと言えば、私自身、定職に就くまでは、そうだったからだ。私が亀山の翻訳を批判できるようになったのは、定職につき、生活に少し余裕ができたからだ。
それでは生活に余裕があるはずの、大学で禄を食んでいるロシア文学研究者たちはなぜ誤訳に満ちた翻訳、とくに亀山の翻訳のように誤訳という言葉では足りないほどひどい翻訳さえ批判しないのか。
その理由は説明するまでもないだろう。このたびの東京電力の有様を見れば分かるように、日本的集団には自浄能力がないのだ。日本的集団内部の腐敗を正すのにはその内部に属さない第三者による批判が必要なのだ。これが丸山真男のいう日本的集団のもつ「たこつぼ」的性質だ。日本ロシア文学会もそのような「たこつぼ」のひとつにすぎない。
この「たこつぼ」にもう一言説明を加えると、昔から不景気なロシア語業界で生きているロシア語およびロシア文学研究者は、大学で禄を食んでいる者を除けば(ということは、ロシア語およびロシア文学研究者の大半が)、今も一歩まちがえば路上生活者になるような生活をしているのだ。この生活苦が彼らの研究生活を不可能にし、ろくでもない翻訳を批判する意欲を削いでいるのだ。また、そのような研究者たちが師と仰いでいる、大学で禄を食む研究者たちも、自分の弟子の就職の妨げになるので、正面切って他人の誤訳を批判しない。そんなことをすれば、批判した人物に恨まれて、路頭に迷う弟子が増えるだけだ。
もっとも、染谷茂のように中村融の誤訳をきびしく批判した研究者もいる。しかし、そういう批判は例外中の例外だ。木下豊房や私の亀山批判もその例外に当たる。したがって、このたび出版された『翻訳の品格――"新訳にだまされるな"』(藤井一行、中島章利[寄稿]、著者自家出版会、2012)もその例外のひとつであり、ロシア語およびロシア文学研究者のみならず、一般読者にとっても、きわめて貴重なものだ。しかし、この本は日本ロシア文学会という「たこつぼ」では無視されるだろう。
さて、『翻訳の品格』で藤井氏が言いたいことは、次の一点に尽きる。
もっとも望ましいのは、先行訳の有無にかかわりなく、はじめから自分の手で原文から訳出することであろう。結果として、あちこちで訳文が先行訳とまったく同じになることがあったとしても、それこそ偶然の一致だと胸を張って主張できるはずである。自分の訳業が完了した段階で、必要を感じれば先行訳を参考にすればいい。
そもそも先行訳のあれこれの部分をそのまま自分の訳文として世に送ることに違和感を感じないものだろうか?文章を書く者には、それなりの文体も矜持もあるというものだろう。翻訳者といえども物書きのはしくれである。(『翻訳の品格』、p.195)
藤井氏は『翻訳の品格』で、この基準に違反する「先行訳を下敷きにしただけの翻訳」を次々に挙げてゆく。要するに藤井氏が言いたいのは、先行訳を下敷きにした翻訳を出して恥ずかしくないのか、品格のある翻訳をしろ、ということなのである。詳しくは『翻訳の品格』を見て頂きたいが、藤井氏がこの本で挙げた例だけではもちろん足りない。これ以外に、このような例は無数にある。その一部はこのブログでも挙げた。先行訳の誤訳をそのまま踏襲した翻訳はロシア語の翻訳の世界ではしばしば出会う。
ところで、言うまでもないことだが、誤訳を指摘するにはロシア語に対する広い知識が必要であると同時に、作品そのものを正確に理解していることが必要だ。批判する者がこの二つの条件を備えていないとすれば、それは単なる中傷に終わる。
この意味で、藤井氏と中島氏が批判しているトロツキーの翻訳は、彼ら自身がトロツキー研究者であるため、批判は的確だ。たとえば、内村剛介訳の『文学と革命』に対する批判など読者にとってきわめて有益なものである。それ以外にも読むに値する批判が随所にある。ロシア語の新聞を辞書を引きながら読むことができる読者なら十分理解可能な内容だと思うので、自分に関心のあるところから読んで頂きたい。
ところで、私は『翻訳の品格』の内容の大半には同意できるが、同意できないところもいくつかある。文学作品に関する批判にそれは集中している。そのすべてについて述べる時間はないので、いま、そのうちから二つだけ、取り上げる。
ひとつは、誤訳そのものに関わる話ではなく、藤井氏が、ロシアで「最優秀翻訳賞」を受賞した望月哲男訳の『アンナ・カレーニナ』は賞に値しない翻訳ではないのか、と述べているところだ。
藤井氏によれば、望月訳の『アンナ・カレーニナ』はかなり正確な訳だ。これは私自身、望月哲男の『白痴』の新訳(河出文庫)をかなり詳しく調べたことがあるので、この藤井氏の意見はたぶん正しいと思う。望月が亀山のようなデタラメな仕事をする人物ではないことは明らかだ。私の調べでは、望月訳の『白痴』では先行訳の誤りがかなり正されていた。それではなぜ藤井氏は望月哲男を批判するのか。それは、望月哲男訳の『アンナ・カレーニナ』訳が「最優秀翻訳賞」にふさわしい翻訳ではないからだ。藤井氏が列挙している望月訳の『アンナ・カレーニナ』の誤訳を見れば、そうかもしれないと思う。しかし、ここで批判すべきは望月訳ではない。誤訳のない翻訳などあり得ない。望月哲男の翻訳は良い翻訳の部類に入るものだと思う。だから、批判すべきは、ロシア科学アカデミーに「最優秀翻訳賞」の候補として望月訳を推薦した木村崇だ。木村のその推薦文はあまりにも不正確で大仰すぎる。横町一の美人を日本一の美人と言うのが仲人口というものだと言われれば、はいそうですか、と言うほかないが、これは嫁入り話ではない。選考するロシア科学アカデミーに嘘をついてはいけない。日本人研究者全体の信用にかかわる。だから、藤井氏は木村崇をきびしく批判するだけでよかったはずなのである。とばっちりを受けた望月こそ良い迷惑だろう。
もうひとつの同意できない箇所を挙げると、これは誤訳そのものに関わる箇所だ。藤井氏が『カラマーゾフの兄弟』の「長老ゾシマの死の場面」の訳を誤訳であると述べているところだ。
ここは米川訳では次のようになっている。
・・・静かに肘椅子から床へすべり落ちて膝まずいた。うつ伏しに顔を土にすりつけて両手を拡げ、歓喜の溢れるようなさまで、たったいま人々に教えた通り、大地を接吻して祈祷を上げながら、静かに悦ばしげに魂を神へ捧げたのである。(岩波文庫第2巻、2009、pp.227-228)(下線は萩原、以下同じ)
この米川訳のあとに出た、原卓也訳では次のようになっている。
・・・静かに肘掛け椅子から床にすべりおりて、ひざまずいたあと、大地にひれ伏し、両手をひろげ喜ばしい歓喜に包まれたかのように大地に接吻し、祈りながら(みずから教えたとおりに)、静かに嬉しげに息を引き取ったのだった。(『カラマーゾフの兄弟(中)』、新潮文庫、原卓也訳、2010、p.154)
原文はこうだ。
...он...тихо опустился с кресел на пол и стал на колрени, затем склонился лицом ниц к земле, распростер свои руки и, как бы в радостном восторге, целуя землю и молясь (как сам учил) , тихо и радостно отдал душу богу.
藤井氏の疑問はこうだ。「床(пол)」にすべりおりたゾシマがなぜ「大地(земле)」にひれ伏し、「大地(землю)」に接吻できるのか、それは「床」であって「大地」ではありえない。米川訳にならって、原訳にも見られるように、後続の『カラマーゾフの兄弟』の訳者全員がすべて米川訳のように訳している。これは変ではないのか。「すべり落ちた」ところは「床」ではないのか、またそう訳さなくてはいけないのではないのか、というのが藤井氏の考えである。藤井氏のこの言葉を読めば、誰もが、なるほど、と思うだろう。
藤井氏はこの自分の考えをさらに確固としたものにするため、ソ連の17巻本辞書を引き、「земля(大地)=пол(床)」という語義があるのに気づく。それを藤井氏は「大発見」だという。しかし、私見によれば、それは大発見ではない。理由は不明だが(たぶん辞書の編集者が先に出た辞書を引き写したのだろう)、岩波、研究社、三省堂の露和辞典がそろって「земля(大地)=пол(床)」というきわめて重要な語義を掲載していないだけだ。日本の辞書にはないその語義は17巻本だけではなく、ロシアで出た標準的な辞書、たとえば、私が愛用しているウシャコフやダーリには載っている。ダーリの辞書では次のように記載されている。「земля:地表、床、(演壇などの)板張りの台、舗装道路。その上を歩いたりその上に立ったりする平面あるいは表面のこと。:Не роняй хлеба на землю(назем).[パンを床に落とすな。]」
従って、藤井氏が言うように、米川訳や原訳で「土」とか「大地」とか訳されている「земля」の意味が「床」であることは明らかだ。ここまでは藤井氏に私も同意する。 しかし、ドストエフスキーは、なぜ「床(пол)」という言葉を使い続けることをせず、「床(пол)」を「земля(土、大地)」に言い換えたのか。文章に凝って同じ言葉を使うことを避けたのか。ドストエフスキーはまずそういう小細工をしない作家だ。従って、そこには明らかにある意図があったと見るべきだろう。
たとえば、このゾシマの死のあと、アリョーシャの回心の場面が描かれる。そこでアリョーシャは「земля(土、大地)」を抱きしめ接吻する。その行為によってアリョーシャは自分をこの世界に送り出してくれた神に感謝している。なぜ「земля(土、大地)」を抱きしめ接吻するのか。それは神の造った「земля(土、大地)」が自分を育ててくれたからだ。「земля(土、大地)」を抱きしめ接吻することによってアリョーシャは、神に感謝しているのである。このとき神の被造物であるアリョーシャは造物主と一体となり回心し、これ以降、彼の信仰は揺るぎのないものになる。
ゾシマの死の場面は明らかにこのアリョーシャの回心の場面の予告になっている。アリョーシャはゾシマが教えてくれたように振る舞ったのだ。従って、ここは藤井氏のように、「земля(土、大地)」を「床(пол)」と訳してはいけない。ゾシマの祈りの対象は「床」ではなく、その先にある「大地」だ。われわれが家の中で祈るとき、天井を突き抜けた先にある天に向かって祈りを捧げるように、ゾシマは「床」の先にある「大地」に向かって祈りを捧げているのである。ここを「床」と訳すと、作者がこの場面にこめた意味が失われてしまう。
ちなみにAndrew.R.MacAndrewの英訳では「земля(土、大地)」は「ground」と訳されている。「ground」にはロシア語の「земля」と同様、「地表」という意味と同時に「床」という意味もあるので、「ground」という訳語を選んだのだろう。
ところで、藤井氏はさらに、このゾシマの死の場面での「たったいま人々に教えた通り」という次の米川訳も間違いだという。原文の「как сам учил」の「учил」が反復を表す不完了体なので「常々教えていた通り」と訳さなければならないのに、そうはなっていないという。それだけではない。米川訳に続く翻訳も原訳の「みずから教えたとおりに」に見られるように、すべて米川訳を踏襲している。これもおかしい、と藤井氏はいう。
この藤井氏の意見に私は半分賛成で半分賛成できない。なるほど、米川訳の「たったいま人々に教えた通り」の「たったいま」は、祈りを捧げるようゾシマはいつもアリョーシャたちに教えていたのだから間違いだ。これには賛成する。しかし、たとえば、原訳の「みずから教えたとおりに」について藤井氏が「〈教えていたとおり〉と不完了体の意義を生かしてほしかった」と言うのには賛成できない。その理由はふたつある。
ひとつは、日本語には完了、不完了も含め、事態をあいまいなまま表現するという特徴があり、それを明確に表現すると、別の意味が生じることになるということがあるからだ。たとえば、「ごはん、食べたの」「うん、食べたよ」と、答えるところを、「うん、食べてしまったよ」と言うと、たとえば、自分が食が細いのを心配している母親を安心させるために、わざとそんな風に完了表現を使って答えていることになるかもしれない。これは不完了、つまり反復や持続を表現する場合も同じだ。たとえば、「きみ、きのう、勉強したの」と聞かれたときは、「うん、したよ」と答えるのが普通で、これを「うん、していたよ」と答えることはない。そう答えるのは、「きみ、きのう、勉強していたの」と、持続した行為を行ったかどうかを聞かれた場合だけだ。そして、この場合、問う者が、きのう勉強をしていたアリバイがあるのか否かというようなことを聞いている場合が想定される。
以上から、どうしても反復や持続を表現しなければならないとき以外、日本語ではしいて反復表現を用いることはない。先のゾシマの場合もそうで、藤井のように、「常々教えていた通り」と訳すと、ゾシマの祈りに、「ほら、いつも教えていたように祈るから、よく見ておきなさい」というような押しつけがましい意味が付け加わることになる。だから日本語としては、原訳のように訳すのが正しい。
もうひとつの「常々教えていた通り」という藤井氏の訳に賛成できない理由は、ロシア語動詞の不完了体は、反復を示す副詞(「しばしば」とか「常々」)とともに用いられない場合、反復ではなく、動作事実を表すのが普通であるからだ。つまり、ある動作があったか否か、ということを伝える場合、不完了体が用いられるのである。「ゾシマ長老、祈ることを教えましたか」「はい、教えましたよ」というような場合、ここの「教える」という動詞はいずれも不完了体を使う。要するに、ここではゾシマが祈ることを「教えた」という事実を述べているだけなのだ。
これ以外にも納得できない箇所があるが、このような対話を行いながら『翻訳の品格』を読むのは楽しい。ロシア語・ロシア文学研究者諸君、さらにロシア文学の愛好者諸君、『翻訳の品格』を読もうではないか。『翻訳の品格』を購入したい方は、次のホームページをクリックしてほしい。
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