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神田 阿部定の足跡 出生地と小学校
http://zassha.seesaa.net/article/313356355.html
阿部定は取調べで生い立ちから逮捕までの経過を詳細に供述しており、その記録が後年になり世に出回りました。その「予審尋問調書」を基礎資料として、さらに当時の新聞報道などを追加参考資料としてポイントとなる地点を「阿部定の足跡」と題して取り上げてゆきます。ですが、何分にも素人の趣味の範囲なのでミス等多々あると思います。(先に陳謝しておきます・・これで気楽)
今回は「予審尋問調書」で述べられた、出生から幼年・少女時代までの写真です。その「予審尋問調書」は何処にあるかというと「阿部定手記」1998年刊(中公文庫)に収録されております(文庫本なので手軽に入手できます)。
第1回尋問調書から・・・被告人名の次に「本籍 名古屋市東区千種町通7丁目79番地」「出生地 東京市神田区新銀町19番地」の記載。出生地の地番はもちろん旧表示で新銀町は現在、神田司町と多町の一部がそれにあたります。手書き地図に旧の地番を所々載せました。
阿部定の学歴については
「東京神田尋常小学校」(現在の区立千代田小学校)を卒業。調書では「卒業してからは家庭に先生を呼び習字を少し習いました」
と簡単に述べてます。畳屋「相模屋」の主人・阿部重吉と妻カツの末娘として新銀町に生まれた定は、小学2年位から三味線を習い始め、以降在学中、夢中になるほど打ち込みます。
家業の畳屋は常時6人ほどの職人が働いており、多忙期には10人〜15人ほどまで雇い入れていたと証言しています。その職人らから男女の話を色々と吹き込まれ、10歳くらいで性的な事は理解していたと述べ、更に15歳での初体験から16歳の暮れから月経が始まったことまで調書には記されています。
15歳(数えなので14歳)の夏に、女友達の福田ナミ子宅でその兄の友人(桜木という慶応の学生)と2階でふざけているうちに初体験・・・猟奇的事件の裏付けを取るためか調べは性関連を重点にして積み上げられてゆきます。
その後、16歳の4月に芝区聖坂のお屋敷に奉公に出されますが、その家の娘の着物や帯を勝手に持ち出し浅草で憂さ晴し、見つかったあげく初めての警察沙汰に。17歳の春、親は家業の畳屋を廃業して神田の家を売り払い埼玉県坂戸町に定を連れて移転します。
ここで定の生まれ故郷は消滅・・・以後、長い流転の人生が始まって行くのです。
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新銀町19番地と思われる地点 道路の向こう側左の区画 手前の路地は当時ありません (右)左のビルが神田尋常小学校跡 100周年記念で建てられた「神田の子」像(名称は不明)先の道路を右折した所が阿部定の出生地と想定した地点
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現在の千代田小学校の玄関は西側の路地に 反対側の東側路地に「神田小学校」名が記載された100周年記念像 西側は旧表示の地番が細かく記載(民家があった?) この像がある側に当時の木造校舎はあったものと想像します 「神田の子」像は下の地図の赤丸の位置
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阿部定の足跡 坂本町の長屋跡
http://zassha.seesaa.net/article/312996652.html
阿部定の足跡 星菊水
http://zassha.seesaa.net/article/312979470.html
阿部定の足跡 篠山・京口新地
http://zassha.seesaa.net/article/313095541.html
http://zassha.seesaa.net/article/313356355.html
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名古屋 阿部定の足跡 中村遊郭
http://zassha.seesaa.net/article/313453094.html
阿部定が名古屋の中村遊郭に娼妓として紹介屋を介して住み替えて来たことは間違いないのですが、「予審尋問調書」だけ読んでいると混乱が生じて年月日があいまいになってくるのです。年表を作成したいのですが、「22歳の正月に」とかが満年齢なのか数えで言ってるのか・・・資料によっては別の場所で短期間だけ働いていたり・・その期間があいまいだったりして・・時間経過がゆがんでくるのです。
1927年(昭和2年)の正月から大阪・飛田遊郭の御園楼に約1年間住み込み、その後、同じ大阪の朝日席で約半年間働く(調書ではこの間が欠落してる)・・1929年(昭和4年)1月には満年齢で23才・・調書では
「翌年早々、23歳の時名古屋市西区羽衣町の徳栄楼に前借二千六百円くらいで住み替えました」・・
ここでは翌年早々を「1929年(昭和4年)1月」にしておきます。
阿部定は調書で
「徳栄楼では二年ぐらい働きましたから、この頃は思い出の多かった時代です」
と述べ、
「貞子という源氏名で一生懸命働きましたので、売れっ子になり、可愛がられるようになりました」
と続ける。この中村遊郭で働くうちに
「チフスを患ったりして、だんだん商売が厭になったので、どこかえ住み替えようとして、無断で店を出て・・・」
となり結局その後、大阪の松島遊郭に流れて行きます。
当時、この中村遊廓は、大須観音の近くにあった旭遊郭が廃止になり1923年(大正12年)4月に移転・開設されたもので、阿部定が住み替えてきた時はまだピカピカの状態。遊郭内は南側から順に賑町・羽衣町・大門町・寿町・日吉町の5町で構成され、この町名は現在もそのまま存続してます。
阿部定の「羽衣町の徳栄楼」は下図で見ると下から2段目の通り・・通りの両側の建物がその町名となるのですが・・調査不足というか資料が見つからないまま。戦後の妓楼名はかなり詳細に判明してるのですが・・・。ここでまた永井荷風を尊敬してしまいます。空襲で焼け野原となり灰燼にきした玉の井の姿を見取り図に残していたのですから。昭和初期の妓楼名・位置が判る資料はあるのだろうか。
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中村遊郭跡の羽衣町の通りを名古屋駅方向(東向き)を奥にして撮影 かってはすぐ左側に遊郭「金華」その先には「第2松岡」がありました 現在は後ろにソープ・アラビアンナイトとハーベストムーンが向かいあって営業中 阿部定が在籍した「徳栄楼」は・・・この通りの前なのか後ろの方なのか・・・辿りつけません
(右)地図は上が北方向・・中村遊郭の敷地面積は約3万2千坪で東京・新吉原より広いといわれてます・・樋口一葉が描写した「お歯黒どぶ」と同様の堀が、この中村遊郭でもかっては存在してました。現在は全て埋め立てられ細い路地がその痕跡として残ってます・・その路幅は吉原とほとんど同じです。
中村区史には、大正12年の客数65万5千・・昭和12年が全盛で貸座敷数138軒・娼妓2千人。戦後はすぐに「名楽園」と改称し、売防法施行前の昭和32年12月27日に一斉に廃業。現在はその遊郭跡の所々で10軒ほどのソープランドが営業してるのみです(地図にSのマーク)。
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現在は営業形態を料理店や一般の会社などに変更して存続しているかっての独特の建物・・「中村遊郭跡」として別にアップする予定です。
「上野 阿部定の足跡 坂本町の長屋跡」
http://zassha.seesaa.net/article/312996652.html
「兵庫・篠山市 阿部定の足跡 京口新地」
http://zassha.seesaa.net/article/313095541.html
「神田 阿部定の足跡 出生地と小学校」
http://zassha.seesaa.net/article/313356355.html
「上野 阿部定の足跡 星菊水」
http://zassha.seesaa.net/article/312979470.html
「日本橋浜町 阿部定の足跡 浜町公園」
http://zassha.seesaa.net/article/316491763.html
「大津 阿部定の足跡 地蔵寺」
http://zassha.seesaa.net/article/316571479.html
参考資料
裁判予審調書
「阿部定正伝」1998年刊・情報センター出版局
映画「愛のコリーダ」大島渚監督(定役=松田英子)1976年10月公開
「坂口安吾全集5」1998年刊・筑摩書房(「阿部定さんの印象」)
「織田作之助全集5」1970年刊・講談社(P249からの「妖婦」)
その他
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