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山賊・海賊によってつくられたギリシャ・ローマ
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/619.html
投稿者 中川隆 日時 2015 年 7 月 04 日 15:34:53: 3bF/xW6Ehzs4I
 

【3500年前〜2500年前】 山賊・海賊によってつくられたギリシャ・ローマ
 

「白人文明はギリシア・ローマに起源を持つ、世界で最も優れた正しい文明である」というのは真っ赤な嘘。ルネサンス期からこの捏造が始まっているが、彼らの祖先は野蛮な山賊・海賊。それを隠すためにギリシア・ローマを美化した上で、それが起源であると称している。そこでは共同体は完全に崩壊している。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

3500年前頃 印欧語族アーリア人(R1a)がインドに侵入。
3500年前頃 中央アジア(カザフ草原周辺)で騎馬技術が発達。

3400年前頃 クレタ文明の崩壊
ミケーネ文明のアカイア人が、クレタ島を落としてクレタ文明を滅亡に追い込む。(クレタ文明の崩壊については、3450年前のテラ島の噴火とする説や木材の大量伐採などの自然破壊を原因とする説もある。)

3400年前(〜3100年前)頃 「海の民」=海賊の活動が活発化し、地中海沿岸の諸都市が侵略される。
3200年前頃には「海の民」によってヒッタイト崩壊(→高度な製鉄技術がヨーロッパ全域に拡散)。

3200年前(or3300年前?)頃 ギリシアのアカイア人が小アジア北西岸のトロイアを攻め滅ぼす(トロイア戦争)

3200年前(3400年前?)頃 印欧語族のラテン人(R1b)がイタリア半島に南下し、ラティウム地方=ローマ周辺に定住。

3150年前頃 ミケーネ文明の崩壊

※以上のように地中海の文明が次々に崩壊していった、犯人は「海の民」。ミケーネやヒッタイトによる過酷な奴隷狩り、その奴隷狩りによって逃げ延びた敗者が続々と登場する。彼らが海賊に転じていく。これが海の民の正体。彼らが地中海を荒らしまわって以降、3000年前にはこの地には略奪集団(山賊・海賊)と彼らが作った支配国家しか残っていない(部族共同体が崩壊)状態になった。

3150年前〜2800年前頃 ギリシア暗黒時代

2900年前頃 印欧語族ドーリア人(R1a)がギリシアに南下。スパルタをつくる。
※その農業生産力は乏しかったためスパルタは略奪を国家戦略として生きてゆく。

2800年前頃 コーカサス北方の草原地帯に、遊牧騎馬国家スキタイ登場(この部族の出自は、セム族or印欧語族orトルコ族?)

2800年前頃 フェニキア人がカルタゴを建設

2750年前頃 ギリシャにポリス成立
海の民(アカイア人orアカイア人から分派したイオニア人)の残党が、ミケーネ文明都市の要塞跡に再び流れ着き、2800年前から各地にポリス国家(12国家に分散)を建設していく。中心はアテネ・ポリス。もう一方では、印欧語族ドーリア人がスパルタ・ポリスを建設。

アテネやスパルタなどのポリスは、中心市街に住む貴族や商人と、郊外に住む平民(農民)に分かれ、それぞれ奴隷を持っていた。大量の奴隷には、農作業を担わせていた。

2750年前頃 ローマの建国(伝説)
印欧語族のラテン人(R1b)がローマ周辺に都市国家を建設し始める。(※印欧語族ラテン人の南下は、この時期か?)始原ローマは、掠奪闘争に敗れた生き残りや、部族のはみ出し者の男達が集まり、ロムルスという指導者を中心に建国したことから始まる。彼らはまず、男だけの集団統合のためにも、女の掠奪を図る。

2700年前頃 アッシリア(セム系)がメソポタミア〜エジプトを統一
2600年前頃(紀元前612年) コーカサス北方の遊牧騎馬国家スキタイによってアッシリア帝国が滅ぼされる

2500年前頃 ギリシャ平民の参政権を認める直接民主制へと移行
この時期のアテネでは、ソクラテスやプラトン、アリストテレスなどによるギリシャ哲学
一方のスパルタは、(アテネに対抗するため)市民男子への幼年期からの厳しい軍事訓練を課し、植民活動を盛んに行っていった。

※彼らの出自は海賊・山賊集団であり、そこでは共同体もその規範も完全に破壊されてしまっている。彼らの特殊性(自我の強さ、観念性の強さ・・・)も、彼らが海賊・山賊と考えればつながって来る。彼らの社会は規範では統合できない。観念によって統合するしかないためギリシャの詭弁家たちに象徴されるような思弁性が強くなった。

また、山賊(泥棒)集団を統合するには利益共認しかない。利益の山分けを求めて、逃亡奴隷や滅亡部族の生き残りが集まる。彼らを統合するには「戦利品は平等に分配する」という約束事=契約が不可欠である。実際、スパルタでは戦利品である土地は均等に分配されていた。これが現代に繋がる西洋人の平等観念の原点である。また、西洋人の一対婚の起源も掠奪婚発の一対婚(戦利品である女の平等な分配)にある。

2500年前 共和政ローマ
都市国家の一つであったローマがエトルリア人の王を追放、元老院と呼ばれる貴族(氏族長?)議会が政治を主導する体制に。すぐに平民の権利要求が強まり、平民会の設置や法律の制定が進んでいく。

http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=305150  

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コメント
1. 中川隆[-10810] koaQ7Jey 2024年4月26日 09:40:42 : JptZAinZdg : YTc2Uzhob2xSQ1U=[3] 報告
<■57行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
【アメリカ】ローマ帝国と現代アメリカの意外な関係!ローマ滅亡の本当の原因からアメリカの未来を考える
世界史解体新書
2024/04/25
https://www.youtube.com/watch?v=C-xB7QmTjGA

本日のテーマは「古代ローマ帝国の滅亡」でした!


ローマの歴史を一本にまとめたぜ! 人の全てがここにある
俺の世界史ch
2023/03/04
https://www.youtube.com/watch?v=amNQaM-Xoh0&t=0s

00:00 王政ローマ(前編)
10:53 王政ローマ(後編)
19:06 カミルス
23:44 サムニウム戦争
31:13 ピュロス戦争
41:26 第一次ポエニ戦争
56:03 ハンニバル戦争
1:15:46 スキピオVSハンニバル
1:38:02 第三次ポエニ戦争
1:52:38 グラックス兄弟の改革
2:17:08 マリウスとスッラ
2:44:28 第一次三頭政治
3:15:26 共和政ローマの終焉
3:31:16 元首政ローマ
3:43:20 ユリウス・クラウディウス朝の成立
3:58:20 ユリウスクラウディウス朝の破滅
4:27:33 四皇帝時代
4:41:14 フラウィウス朝
5:05:46 ネルウァ&トラヤヌス(五賢帝時代の始まり)
5:33:17 ハドリアヌス
5:58:41 二人のアントニヌス
6:28:46 コンモドゥス
6:54:05 五皇帝時代
7:08:05 カラカラ帝
7:34:12 ヘリオガバルス
8:00:06 ユリア・メサ
8:22:11 軍人皇帝時代
8:39:24 テトラルキア
8:55:07 コンスタンティヌス帝
9:11:43 背教者ユリアヌス
9:28:11 ローマの東西分裂
9:39:14 ホノリウス
10:16:56 西ローマ帝国の滅亡

王政ローマ前編が公開されたのが2020年の2月15日、この時はまだチャンネル登録者数1000人に到達していなかったんだぜ

*オクタヴィアヌスは2023年現在の教科書でオクタウィアヌスとなっているなど、ラテン語は濁音を表記しないのが2023年現在の主流となっています。動画ではネルヴァなど濁音を表記していますが、試験などの際には教科書の表記通りに書きましょう。

小学生でもわかる古代ローマの歴史【西洋史第2弾】
2020/02/26
https://www.youtube.com/watch?v=2fB67WNYB-M&t=64s

古代ローマの歴史です。超古代文明って感じです。裕福な人が貧乏人から搾取するのを国が干渉して抑えるぞ的な、近現代の資本主義っぽい具合の感じにもなってます。中国の国共内戦とかにも似てます。もう少し条件が揃っていればもうこの時代から軍事革命や産業革命が起きてたかもしれません。まさに文字通りロマンです。古代ローマはあらゆる点において完璧すぎるのでツッコミどころがほとんどなく、ネタっぽい風味を出す隙を与えてくれなかったのが少し残念でしたが、それでこそ古代ローマ文明だとも思いました。

・その他用語
帝国になる前の古代ローマ・・・共和制ローマ
偉い人たちが集まった中央政府・・・元老院
アフリカ側の国の名前・・・カルタゴ
ポエニ戦争後に土地を占有して裕福になった人たち・・・ラティフンディア
貧困層助けようぜグループの名前・・・ポプラレス
貧困層助けねえよグループの名前・・・オプティマテス
アウグストゥスの皇帝になる前の名前・・・オクタウィアヌス
アウグストゥス(オクタウィアヌス)のライバル・・・アントニウス
一回目の時の中東のデカイ王国・・・パルティア
二回目目の時の中東のデカイ王国・・・ササン朝
北方の謎の異民族・・・ゲルマン人
ヤバイ皇帝・・・コンモドゥス帝
ダメな皇帝・・・カラカラ帝
ローマ帝国を半分に分けた皇帝・・・ディオクレティアヌス

【2ch歴史】ローマ帝国が滅んだ理由がヤバすぎるwww
2chで世界史学ぶ民
2023/06/09
https://www.youtube.com/watch?v=GGA0IAkM5I4&t=6s

2. 中川隆[-10569] koaQ7Jey 2024年5月19日 09:28:22 : Jph8KZqLro : d0RON2Fyc2czaVU=[11] 報告
<■206行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
雑記帳
2024年05月18日
宮嵜麻子『ローマ帝国の誕生』
https://sicambre.seesaa.net/article/202405article_18.html

https://www.amazon.co.jp/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E3%81%AE%E8%AA%95%E7%94%9F-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%AE%AE%E5%B5%9C-%E9%BA%BB%E5%AD%90/dp/4065350220


 講談社現代新書の一冊として、講談社より2024年2月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書はローマが帝国となっていく過程を検証し、おもにローマが大国化していく紀元前3世紀末からアウグストゥスの頃までを対象としていますが、それ以前の地中海地域の一都市国家だった時代も取り上げられています。確かに、ローマ帝国の成立において、規模や勢力の点で地中海に多数存在した都市国家と変わらなかった頃の歴史は、ローマの覇権を可能としたのが何だったのか、解明するうえで重要になると思います。

 都市国家ローマの起源は曖昧としていますが、紀元前8世紀頃に現在のローマ市の中心部にラテン人と呼ばれる人々の一部が集まり、都市の原型が建設されたのだろう、と推測されています。本書は、都市国家だった頃のローマ人にとって、精霊により守護され、神々の特別の恩寵を受けた都市こそが国の本質で、周囲の土地はそれに付随するものにすぎなかった、と指摘します。初期のローマの特徴は王が存在したことで、10人の王のうち最後の3人はラテン人とは異なるエトルリア人だった、とされています。ローマで王が追放されたのは紀元前509年と言われており、共和政が始まります。共和政の当初は、全市民が平等だったわけでも、国政に携わったわけでもなく、王政期以来の少数の貴族(パトリキ)がいました。共和政当初の貴族は、元老院の議席と政務官を独占していました。政務官の権限は行政のみならず軍事と司法と宗教行為にまで及び、とくに執政官(コンスル)と法務官(プラエトル)は戦地で軍の命令権など、絶大な権限を有していました。平民は政治決定機関の民会には出席できましたが、民会も貴族が議決を左右できました。しかし、エトルリアなど周辺勢力との戦いが相次ぎ、度々危機に陥る中で、戦力として重要な役割を果たしていた庶民が権利拡大を訴え、紀元前494年には平民の利益を代表する護民官が設置され、平民のみが参加し、護民官が主宰する平民会も設立されます。紀元前367年には、リキニウス=セクスティウス法により、二人いる執政官のうち一人は平民が就任することになります。紀元前287年のホルテンシウス法では、平民会の議決には貴族も従わねばならない、と定められました。

 こうして政治および社会的には、貴族と平民との間の格差は解消されていきましたが、経済的格差の解消はさほど進まなかったようです。本書は、都市国家時代のローマが元老院と政務官と民会の三機関の相互補完と牽制で成り立っていたことを指摘します。ただ、平民から執政官に一人選出されるとはいっても、一部の富裕な家系が独占するようになり、元老院の政務官への「助言」が実質的に「命令」になるなど、共和政とはいっても現実には寡頭政だった、と指摘されています。身分闘争後に権力を有した貴族は、旧来の貴族(パトリキ)と区別して、ノビレス(貴顕貴族)と呼ばれます。しかし、平民がこうした寡頭政に本格的に抵抗するようになるのは紀元前2世紀半ば以降でした。当時のローマ人にとって市民は全員自由で平等ではあるものの、それは能力や立場に応じて権力や権威を備えている状態と考えられていた、と本書は指摘します。これは、富裕市民が祭りや娯楽を主催したり、食料を市民に施したりといった、富裕者の義務という強い観念につながっていきます。相対的な関係において、有力者(パトロヌス)が弱者(クリエンス)を庇護するわけで、この関係はパトロネジと呼ばれ、通常は特定の二者間で結ばれ、世代を超えて継承されたようです。

 上述のように地中海の一都市国家だった共和政ローマは当初から周辺勢力と戦い、他の都市国家の併合などで領域を拡大していき、紀元前3世紀半ば頃までにはイタリア半島のほぼ全土を支配化に起いて、紀元前3世紀後半にはイタリア半島外にも支配領域を広げます。ただ本書は、この時点でのローマを帝国とは評価しておらず、ローマによる「支配」の実情を検証します。ローマに敗北した都市国家の市民が、それまでの市民としての権利を奪われた代わりに、ローマ市民権を与えられたり、戦後にローマ市民の一部が移住した都市もあったり(コロニア)、ローマに敗れるか従属した後でも、自立した国や共同体であり続けたりしました。ローマは支配化の各国と条約を締結し、同盟関係となりました。そうした国々がローマに逆らうことは難しく、その意味ではローマの支配下にあったものの、法的な意味では自立していた、というわけです。ローマが支配域を拡大していく過程で奴隷も増えたようで、そうした奴隷が解放されると、ローマ市民となり、解放奴隷には制約があったものの、その子供の世代以降にはそうした制約がありませんでした。こうした奴隷出自の人々は、実際にはさまざまな面で差別を受けやすく、比較的差別を受けにくい大都市に集まる傾向があったので、ローマでも一定の影響力を有するようになっていきます。

 こうして、ローマは支配域の拡大とともに、社会が膨張して複雑化していきました。こうした状況で、紀元前3世紀半ばに起きたのが第一次ポエニ戦争(紀元前264〜紀元前241年)です。第一次ポエニ戦争は長引き、ローマもカルタゴも疲弊したものの、ローマに有利な和平条件だったことから、ローマの勝利と評価されています。ローマは第一次ポエニ戦争でシチリア島を獲得し、その後の混乱の中でコルシカ島とサルデーニャ島をカルタゴから奪い、海外支配が始まります。この海外支配は、イタリア半島の支配とは明らかに異なっており、属州とされました。属州民はローマの構成員ではあるものの、国政に参与できなかったり、ローマの裁判を受けられなかったりと、ローマ市民と同じ権利を有していないにも関わらず、納税や軍役などの義務が課せられ、税負担はローマ市民より重く、軍役では危険な任務を課せられました。属州を統治した総督はローマ市から派遣され、行政権と司法権のみならず軍権も掌握し、属州法に基づいて統治したものの、実質的に総督の裁量権はほぼ無制限でした。ただ、シチリア島のローマによる統治は当初、まだ属州法がなく、執政官も法務官もシチリア島で任務に就いていたわけではなく、後の属州の在り方とは大きく異なっていたようです。また、この時点では国内の政治体制が大きく変わったわけでもなく、本書は、ローマが本格的な帝国となっていくのは、紀元前2世紀初頭にイベリア半島に二つの属州が設置されて以降と評価しています。

 ローマの帝国化が本格的になっていく重要な契機が、第二次ポエニ戦争(紀元前218〜紀元前202年)でした。紀元前216年のカンナエの戦いでローマは大敗し、当初はカルタゴの呼びかけに応じなかったローマの同盟都市の中で、カルタゴへの寝返りも見られるようになります。しかし、カルタゴ側への寝返りはイタリア半島南部以外の地域にまで広がらず、イベリア半島のカルタゴ勢力が紀元前206年に駆逐されたこともあり、カルタゴは劣勢となり、紀元前202年にザマの戦いでローマに敗れ、アフリカ外での戦争放棄およびアフリカ内でのローマの承認なしの戦争放棄や高額な賠償金など、過酷な和平条件を受け入れることになります。ただ、カルタゴは政治的にも経済的にも文化的にも自立を維持できました。第二次ポエニ戦争の結果、ローマのイベリア半島支配は確たるものになり、二つの属州が設置されますが、その直後から、先住民集団とローマとの戦いが激化します。イベリア半島の先住民は、カルタゴがイベリア半島から駆逐され、自立できると思っていたところに、ローマの強い支配下に置かれることになったので、放棄したようです。イベリア半島でのローマの属州支配は、ローマから派遣される統治官(総督)の人気がないなど、柔軟なものでしたが、それが共和政の権力構造の基盤となっていたさまざまな原則や縛りからの解放になっていたことを、本書は重視します。こうした例外的措置が常態化していくことで、共和政の骨幹が揺らいでいった、というわけです。イベリア半島での先住民とローマ側との戦いは断続的に続き、大カトのように明らかに先住民に対して優越的態度を示し、「奴隷状態に置く」ことを考えた有力者もいましたが、紀元前171年の「条約」により、「ローマ人の友」としての立場が確立します。しかし、属州総督による搾取はより体系化して強化され、こうしたイベリア半島における属州の在り様は、拡大していった帝国としてのローマの属州を先取りするものでもあったようです。

 一旦は安定したかに見えたローマのイベリア半島支配は、紀元前150年代以降、再び動揺し、先住民とローマとの間で激しい戦いが続きます。ローマは先住民側に度々敗れながらも、最終的にはイベリア半島の属州統治を確立しますが、イベリア半島には多様な先住民集団が存在し、その一部はすでにローマとの間に安定した関係を築いて、属州民としての立場を受け入れており、ローマとイベリア半島先住民との間の関係は多様だったようです。イタリア半島を境に地中海は東西に区分でき、いわゆるヘレニズム時代以降の東側はギリシア語世界圏になっていった、と言えそうですが、帝国化していくローマは、地中海東部でも勢力を拡大し、ヘレニズム諸国の君主の中にも、ローマの権威により自分たちの立場を守ろう、との動きが見られるようになります。ただ、ローマがヘレニズム世界に属州を設置したのは起源2世紀中頃以降で、イベリア半島よりかなり遅れました。本書はローマ史における転機として紀元前2世紀中頃を重視しますが、その背景として属州での経験を挙げます。属州とされたイベリア半島がローマに莫大な富をもたらしたことなどにより、ローマの対外姿勢は変化し、「国益」のため他者と戦うことを躊躇わなくなった、と本書は推測します。本書はこうした観点から、ローマ帝国の形成を紀元前2世紀中頃と評価します。

 ローマにとって明確な被支配者である属州の拡大は、ローマ社会の変容とも関わっています。ローマの社会は肥大化し、その構造は複雑化して、さまざまな立場の人々が関わるようになります。帝国となったローマを牽引する元老院は、ローマ市民だけではなく、属州の有力者などさまざまな立場の人々の利害に配慮せねばならなくなり、さらには中小農民の没落もあり、ローマ市民のさまざまな要請にも対処する必要が出てきました。さらに、戦争とその結果として設置される属州の富が膨大なものとなったため、元老院内でも権力闘争が激化していきます。これが、「内乱の一世紀」と呼ばれるローマの危機的状況の出現の前提となりました。中小農民の没落などローマ社会の変容に対して、復古を訴えるだけではなく、現実的な改革を求める政治が登場し、グラックス兄弟はとくに有名です。ただ本書は、困窮したローマ市民の救済という点では共通しつつも、兄のティベリウスとは異なり、弟のガイウスは元老院統治体制の弱体化を意図していた、と指摘します。この「内乱の一世紀」の中で、同盟市戦争の結果としてイタリア半島の全自由人がローマ市民権を獲得し、これによりローマの都市国家としての性格は焼失した、と本書は評価します。

 ローマ共和政の根幹だった元老院統治体制はこの「内乱の一世紀」の中で紀元前1世紀中頃までに揺らいでいき、単独で権力を掌握した有力者による統治へとつながり、ついには皇帝と呼ばれる単独の権力者が出現します。この過程での重要人物は、当然カエサルとオクタウィアヌスで、まずカエサルは任期が半年の独裁官をいったん辞任した後で再任し、その後はずっと在職しました。さらに、カエサルは紀元前48年以降、紀元前47年を除いて執政官にも就任し、民会と護民官の権限を縮小しました。帝国に変質したローマではもはや共和政は機能せず、ローマ市民のみならず属州と帝国周辺の広大な地域の人々の支持が帝国の統治に必要となる、とカエサルは理解していたようです。そのカエサルが殺害されたのは、それでも共和政の存続を求める人々がローマ社会の上層に少なからずいたことを示唆しているようです。

 カエサルの没後の権力闘争を勝ち抜き、「内乱の一世紀」を終結に導いたのは、カエサルから後継者に指名されたオクタウィアヌスでした。ただ、紀元前31年にオクタウィアヌスがアントニウスを破り、実質的に単独政権を樹立しても、帝政の開始はもう少し先だった、と本書は指摘します。この時点でオクタウィアヌスの権力は、公式に帝国を統治できると認められる性格のものではなかったからです。本書は、紀元前27年に、オクタウィアヌスが内戦以降に保持していた全権と軍を元老院と市民団に返上する、と宣言し、元老院と民会によりオクタウィアヌスにアウグストゥスの添え名が贈られたことを、本書は重視します。アウグストゥスは紀元前27年に全権と軍を返上すると宣言したさいに、元老院から属州統治を要請され、とくに情勢が不安定な属州の統治を引き受け、10年間の執政官格命令権を得て、後には繰り返し延長され、最終的に無期限とされました。この過程で、不安定な属州の統治との名目でローマ軍の大半を掌握し、その後、護民官職権や上級執政官格権限や大神官職を得るなどして、紀元前2年には元老院と市民団から「国父」の称号が贈られました。この結果、政治と軍事と宗教も含めてローマ帝国全域での全権をアウグストゥスは掌握することになりました。これらの権限には、新たに創設されたものはなく、全て共和政期から存在しました。オクタウィアヌスはローマ市民と最も権威ある者として「第一人者(プリンケプス)」と呼ばれ、オクタウィアヌスを「元首(プリンケプス)」、オクタウィアヌスにより始まった政治体制を元首政と言う人もいます。本書は、こうしてオクタウィアヌスにより始まった政治体制を共和政の再建とは評価していません。それは、これらの官職の条件だった任期などの制約がもはや失われていたからです。こうした帝政もしくは元首政の成立は、ローマ帝国の誕生の結果であり、その逆ではない、と本書は指摘します。
https://sicambre.seesaa.net/article/202405article_18.html

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