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(回答先: ネパールのカースト制 投稿者 中川隆 日時 2014 年 12 月 06 日 19:44:02)
他人の「施し」に頼って生きるのが恐ろしい結果を招く理由 2014-12-23
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20141223T0532010900.html
インドはバクシーシという文化があるのだが、このバクシーシというのは、金を持った人間が、金を持たない人間に「施し」を与えるものである。
インドはカーストという身分制度が薄れてきたとは言えども未だに続いている国だ。今も貧困層の多くは低カーストか、もしくはカーストにも入れない不可触民(ダリット)である。
こういった貧困層はその身分制度があるが故に、その一生を貧困の中で暮らすことが多い。だから、彼らは金持ちから「施し」を受けるのは当然の権利であると考えている。
また金持ちも、こういった貧困層に「施し」をすることによって徳を積んで来世はまた良い身分で生まれ変われるという宗教観があるので、当然のように「施し」を行う。
こうした「施し」は実は身分制度を強化する役割もある。与える人間が、与えられる人間よりも下になることは絶対にない。
与える人間は、常に自分たちは上の階層であることを意識し、与えられる人間は自分たちは這い上がれない階層であることを意識する。
物乞いの人生が板に付き、抜け出せなくなる
「施し」を受けるというのは、自分が相手よりも下であるという意識を刷り込む行為である。
何度も何度も、哀れな表情を作って物を乞ううちに、本当に「物乞い」に相応しい態度、表情になっていく。物乞いの人生が板に付き、そこから抜け出せなくなってしまう。
最初は、物乞いを「演じて」いたかもしれない。ところが、それを続けるうちに「本当の物乞い」になっていき、それがその人の人生になる。
これも一種のピグマリオン効果である。
(一度堕ちてしまったら、もう初々しかった頃には戻れない)
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20141221T0256220900.html
警官が警官らしくなるのは、そのように振る舞うからだ。軍事が軍人らしくなるのも、教師が教師らしくなるのも、社長が社長らしくなるのもそうだ。
毎日毎日そのように振る舞っているうちに、それが刷り込まれて自分の一部になっていく。最初は演じているつもりでも、それが自分そのものになる。
「施し」を受けるというのも、それを繰り返していくうちに、どんどん刷り込まれて「自分は施しを受ける側の人間だ」という意識になっていく。
物を乞う。乞うて生きる。それは、自立した生き方ではないのだが、そんな危険な状況が普通になってしまう。それが自分の人生そのものになってしまうと、どうなるのか……。
もちろん、抜け出せなくなる。それが恐ろしい。
そこには自尊心もなければ、人生の充足感もない。一生、自分らしい生き方ができなくなってしまう。
乞うて生きる。それは、自立した生き方ではないのだが、そんな危険な状況が普通になってしまう。それが自分の人生そのものになってしまうと、どうなるのか……。
生まれながらにして「物乞い」の生き方しか知らない
インドは長い身分制度の中で、貧困層の一部を「物乞いの人生」に追いやってきた。
生まれながらにして「物乞い」の生き方しか知らない人たちにとって、そこから違う生き方を模索するというのは、とても難しいことだ。
社会もそれを望んでいないし、本人たちも違う生き方を想像することができないので、いったん貧困層に生まれると、それは一生続いていく。
本人たちのせいではない。社会がそうした仕組みを作り上げて、それが文化になった。だから彼らの大部分は、金もなく、教育もなく、虐げられ、排除され、物を乞うしか生きられない境遇で一生を終える。
インドで施しを乞いながら生きている人たちを知っている。
物乞いをしている彼らが誰かにまとわりつくと、誰もが不機嫌な顔をして無視したり、「あっちに行け」と怒鳴ったり、あるいは嫌悪感を抱きながら金を払ったりする。
他人にまとわりついて「施し」を無理やりもらうというのは、言うまでもなく他人を不愉快にさせる行為なのだ。しかし、彼らは物乞いをして生きているのだから、朝から晩までそうやって他人に嫌悪され、罵倒されながら暮らしていた。
施しを受けながら生きるというのは、それほど屈辱的な体験を毎日繰り返しながら生きなければならない。
彼らは罵倒されたり、無視されたり、時には手荒く扱われたりするのになれてしまったかも知れないが、見ている私の方が居たたまれなかった。
彼らの仲間はスラムに住んでいる。そのスラムには子供たちがたくさんいる。
屈託ない子供たちも子供のうちから物乞いをして暮らしている。この子供たちはどうなってしまうのかと考えると、とても重い気持ちになる。
生まれながらにして「物乞い」の生き方しか知らない人たちにとって、そこから違う生き方を模索するというのは、とても難しいことだ。
他人の施しに頼るのが当たり前になる人もいる
その点、日本は識字率も高く、義務教育も受けられ、努力する大切さも教育の中で教えられている国だ。しかし、それでも自立をあきらめ、親や行政にすがるしか生きられない人たちが出てきている。
人生に躓き、誰かに助けてもらう状況があったとしても、それは恥ではない。
人はいつも順風の中で生きているわけではない。時には手痛い失敗をすることもあれば、事故や病気などでどうにもならなくなる不遇の時期もある。
そういった不遇の境遇を何度も乗り越えて来た人が立派な人である。不遇は恥ではない。親に助けてもらうことも、生活保護を受けることも恥ではない。
ただ、問題がある。人間はとても弱い生き物で、自立しなくても生きていけると分かったら、自立する努力をしなくなってしまう人もいることだ。
自立するというのは、次から次へと迫り来る障害や困難やトラブルを、しっかりと受け止めて自分で解決して先に進まないといけないということだ。それはとても難儀なことである。
すると、一時的に親の庇護や生活保護に頼るだけだったつもりが、そこから抜け出せなくなり、依存状態になり、それに頼るのが当たり前の人生になる人もいる。それが問題なのだ。
一時的に不遇を乗り切るためのものが、それなしには生きていけなくなるほど依存すると、施しを受けるだけが自分の人生になってしまう。
自立して生きるというのは、とても大切なことである。そして、自立できているというのは、とても素晴らしいことでもある。自分の人生とは、自立するところから始まる。
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