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(回答先: 松岡正剛の千夜千冊 小林達雄 縄文人の文化力 投稿者 中川隆 日時 2014 年 11 月 29 日 11:23:53)
◆ 縄文時代の後期(定説の謎) 2014年12月15日
http://openblog.meblog.biz/article/24407503.html
縄文時代の後期は、寒冷化のせいで、人口や文化が低迷した、という定説があったが、否定されつつある。では、真相は?
──
縄文時代の後期は、寒冷化のせいで、人口や文化が低迷した、という定説があった。
縄文時代は草創期、早期、前期、中期、後期、晩期に分けられる。このうち文化的なピークは火炎土器を生んだ中期で、そのあとの後期(約4500年〜3300年前)以降は生産力が限界を迎えたため、社会が行き詰まったというのが一般的考え方だった。
きっかけと言われるのが中期末からの寒冷化だ。気候変動で日本では食糧資源の内容が急変。多くの人口が抱えられなくなり、稲作を導入する基盤となったとされてきた。
( → 朝日新聞 夕刊 2014-12-15 )
しかしこの定説は、否定されつつある。学会で新たに、否定的な報告が出たそうだ。(否定的な実証を示す報告がいくつかある。上記の朝日記事に詳しい。詳細省略。)
では、どう考えればいいか? 記事の続きを引用しよう。
自然科学の成果と定説との矛盾をどう考えればいいのか。
最近では、東京大学教授の横山祐典さん(地球化学・気候変動学)の研究で、考古学者が寒冷化の証拠としてきた海水面の低下も寒冷化以外の原因で起こっていた可能性も指摘されている。「現状では寒冷化が広い範囲で人々の生活に深刻な影響を及ぼしたとは考えにくい。それで文化が停滞したという考え方は見直すべきだ」と阿部さん。
これに対し、東京大学教授の設楽博己さん(考古学)は「意見としては面白いが、縄文中〜後期にかけて、儀礼的要素の増加に代表されるような、集落や社会の構造的変化があったことはあきらか。その理由をどう説明するのか」と疑問を呈する。
要するに、よくわかっていない。「寒冷化のせいで人口や文化が低迷した」という説は否定されたようだが、実際にはどうであったのかは判明していないことになる。謎が残ったわけだ。
ただし、ヒントとなることもある。朝日の記事には、次の話もある。
シンポを主催した明治大学先史文化研究所長の阿部芳郎さん(考古学)によると、縄文後〜晩期停滞説の根拠は、集落や竪穴式住居の数が中期を境に減ることだった=グラフ[下図]。
このグラフをじっと見つめると、重要なことがわかる。以下で私見を示そう。
──
最も重要なことは、次のことだ。
「注記をピークに、後期や晩期ではあまりにも急激に低下している」
仮に、これが人口を示すものだとすれば、このような人口を示すグループはとっくに絶滅しているはずだ。あまりも急激に低下しているし、変動の余地もなく一方的に低下しているからだ。
一方で、この時代には、文化や食生活が大幅に向上したことが知られている。たとえば、製塩専業集団、塩媒介集団というものができている。これはもはや、文明と言ってもいいほどだ。
→ 縄文時代の主なできごと( Wikipedia )
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3#.E7.B8.84.E6.96.87.E6.99.82.E4.BB.A3.E3.81.AE.E4.B8.BB.E3.81.AA.E3.81.A7.E3.81.8D.E3.81.94.E3.81.A8
このように文化的に発達した集団が、急激に人口を減らすということは、およそ考えにくい。「人口の急減はなかった」と考えていいだろう。
──
では、人口の急減がなかったのだとすれば、上記のグラフ(竪穴式住居や遺跡の数の急減)は、何を意味するか?
不思議に思えるかもしれないが、論理的には、ただ一つしかあり得ない。こうだ。
「竪穴式住居や遺跡を残さない住居が発達した」
換言すれば、こうだ。
「竪穴式住居という原始的な住居に住むのをやめて、もっとまともな文化的な住居に住むようになった。特に、床(ゆか)のある、断熱性に優れた住居に住むようになった」
これを裏付けるのは、次のことだ。
@ 竪穴式住居は、1万年ほど前の縄文早期からあるもので、あまりにも原始的すぎる。( → Wikipedia )
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3#.E7.B8.84.E6.96.87.E6.99.82.E4.BB.A3.E3.81.AE.E4.B8.BB.E3.81.AA.E3.81.A7.E3.81.8D.E3.81.94.E3.81.A8
A 竪穴式住居は、床がない。
(下図。出典:Wikipedia )
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%AA%E7%A9%B4%E5%BC%8F%E4%BD%8F%E5%B1%85
※ わかりやすい参考図もある。 → イラスト
http://www.cwk.zaq.ne.jp/rekishi/kodomo-rekis/02-sro.htm
ここで、「床がない」というのは、非常にまずい。というのは、土間で寝起きするのは、体温の維持に不都合だからだ。おそらくは、藁みたいなものでも敷いて寝たのだろうが、それでも土間の上に寝るのよりは、床の上に寝る方がいい。そして、床の上に寝るとしたら、床のある建物が必要だ。それはつまり、木造建築だ。
では、縄文時代に、木造建築があったという証拠はあるか?
あるわけがない。木造建築は、ただの木造物だから、証拠が残るはずがない。(何ら跡を残さずに消滅する。)
逆に言えば、「竪穴式の住居の証拠がなくなった」(急減した)ということは、「木造建築が普及しつつあった」ということの間接的な証拠なのである。
──
縄文時代には、たしかに、竪穴式の住居が急減していった。それを見て、考古学者は「そいつは人口が急減したことの証拠だ」と思った。
しかし、そうではないのだ。1万年前からずっと続いていた旧式の住居が消滅していったということは、住む人がいなくなったということを意味するのではなく、新式の住居が普及していった、ということを意味するのだ。
ただし、旧式の住居は、その旧式さゆえに証拠を残した。「縦穴」という証拠を。一方、新式の住居は、その新式さゆえに証拠を残さなかった。
そして、後世の考古学者は、「証拠がないということは、人間そのものが減った」と考えて、「証拠を残さないものが増えた」とは考えなかったのだ。……ここに、謎が生じた理由がある。
──
比喩的に言おう。
二つの殺人事件があった。
第1の殺人事件では、犯人は証拠を残した。指紋や凶器などの証拠を。それを見て、「証拠があるから、犯人がいたのだ」と人々は思った。
第2の殺人事件では、犯人は証拠を残さなかった。指紋も凶器も残さなかった。それを見て、「犯人は証拠を残さずに殺人をしたのだ」と人々は思った。
これでいいはずだった。
ところが、考古学者だけは意見が違った。考古学者は、こう主張した。
「犯人が証拠を残さなかったということは、犯人は存在しなかったのだ。指紋も凶器も残っていないのだから、犯人という人間そのものが存在しなかったのだ」
そこに、ヒゲもじゃの名探偵が登場した。
「犯人が存在しなかったとしたら、誰が被害者を殺したんです?
自殺は不可能だということが判明しています。
だとしたら犯人は存在したんですよ。
証拠が残っていないということは、犯人が存在しないということを意味するわけじゃないんです。犯人が存在して、証拠を残さなかった。それだけのことなんです。……
ちょうど、縄文時代の木造住居と同じでね。何ら証拠は残っていませんが、それはたしかに存在したんですよ。そうと考えなければ、合理的に説明がつかないですから。
論理的に言って、それ以外にあり得ないんですよ」
すると考古学者が反論した。
「証拠がないのであれば、認められない!
それが科学というものだ!」
しかし、ヒゲもじゃの名探偵はこう説明した。
「『証拠がないという証拠』があるんですよ。いいですか? ここでは何一つデータがないわけじゃない。竪穴式住居が急減したというデータがある。
これこそが最も重要な証拠なんです。竪穴式住居が急減したが、人間そのものが急減したわけではない。とすれば、竪穴式住居ではない住居が取って代わったということになります。しかも、それは、証拠を残さないものです。……
ここまで考えれば、それがどんなものであったか、わかるでしょう?」
ヒゲもじゃの名探偵は、最後に付け加えた。
「目に見えるものばかりを見ていてはダメです。目に見える何かが減ったのならば、その分、目に見えない何かが増えたのです。そこでは、目に見えない何かとはどんなものか……と想像する力が大切なんですよ。
(後期の)縄文人は決して、未来の考古学者のために生活していたわけじゃない。彼らは未来人がわかるような証拠を残すために生活していたわけじゃない。彼らは彼ら自身のために生活していた。それがどんなものであるかを想像するべきなんです。
そのためには、どうするべきか?
彼らを『愚かな原始人』というふうには考えず、『現代の我々と同様に、日本語を話す文化的な集団』と考えるべきなんです。とすれば、竪穴式住居なんていう原始的な住居に住んでいるはずがない、と理解するべきでしょう」
[ 付記 ]
「縄文人は原始的な非文化的な人々だったが、弥生人は発達した文化をもつ先進的な人々だった」
という対比がなされたことがあったが、近年では否定されている。縄文人(特に後期)は、稲作こそしなかったものの、文化的にはかなり発達した生活をしていたことが、すでに判明している。
【 追記 】
「木造建築とはどんなものか?」
という疑問があるだろう。それに答えよう。
はっきりしたことは言えないが、おおざっぱにヤマカンふうに推測を付けると……
当時は鉄器がなかったので、工具もなく、木材を加工することはできなかった。とすれば、木造といっても、かなり原始的な建築であったことになる。「ほぞと穴」のような構造もできなかっただろう。
そこで最も容易に想像できるのは、こうだ。
「すでにある森の中の樹木を利用して、それを柱のかわりに使う」
これならば、竪穴式住居の柱のかわりに、天然の柱が存在するのと同じことになる。しかも、あとには遺跡などは残らない。
縄文後期では、複数の柱の間に結びつける「枝の壁」のようなものを作る方法が発達したのだろう。それはたぶん「縄」のようなものだ。丈夫な植物の繊維としては、麻がある。これで縄を作っていたことは、「縄文時代」という名称からもわかる。
→ 麻の歴史(前篇)
http://www.asabo.jp/museum/museum_sub08_01.html
なお、床があったかどうかというと、この方法では床は作れそうにない。かわりに、ベッドまたは大型台のようなものは作れただろう。それを床のかわりにすることはできたと思える。(なお、その構造材は、たぶん、竹だろう。竹で籠のような家具を作ることができる。)
→ 竹の家具(画像)
https://www.google.co.jp/search?newwindow=1&client=firefox-a&hs=LyO&rls=org.mozilla:ja:official&hl=ja&biw=903&bih=834&tbm=isch&sa=1&q=%E7%AB%B9%E3%80%80%E5%AE%B6%E5%85%B7&oq=%E7%AB%B9%E3%80%80%E5%AE%B6%E5%85%B7&gs_l=img.3..0l2j0i24l3.2416.4969.0.5644.6.6.0.0.0.0.124.561.0j5.5.0.msedr...0...1c.1.60.img..1.5.556.5Xb4S3spGFA
http://openblog.meblog.biz/article/24407503.html
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