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(回答先: 松岡正剛の千夜千冊 小林達雄 縄文人の文化力 投稿者 中川隆 日時 2014 年 11 月 29 日 11:23:53)
縄文文化の森・一部 (「森の日本文化)安田 喜憲著抜粋」
ナラ林文化と縄文文化
森の文化の原点はナラ林文化 (気候と人間)
日本文化は、いったい何時頃からナラ林と深い関わりを持ち始めたのであろうか。それは凡そ一万三千年前頃の晩氷期と呼ばれる氷河時代の終末期にまで遡る。それ以前の氷河時代においても、亜間氷期と呼ばれる比較的温暖な時代には、ナラ林の拡大した時代が存在したことが明らかになっているが、そうしたナラ林と岩宿文化との関わりは、今のところ明白ではない。
氷河時代の一万八千〜一万三千年前、東日本を代表する森は、エゾマツ・アオモリトドマツ・コメツガ・五葉マツなどの亜高山帯針葉樹の粗林であった。西日本では冷温帯林の分布域となっていたが、それは主としてヒメコマツなど五葉マツの粗林と、ミズナラなどの落葉広葉樹を混合した森林だった。そして岩宿時代のナイフ型石器をもつ人々の主要な居住舞台は、こうした粗林の間に展開する草原であった。
ところが、約一万三千年前、北緯40度以南の日本海側の多雪地帯を中心として、ブナの温帯の落葉広葉樹が拡大を始めた。しかし、北緯40度以北の日本海側や東日本の太平洋側は、カバノキ属やハンノキ属が優先し、北海道は依然として亜高山帯針葉樹林に覆われていた。又、西日本の太平洋側もヒメコマツなどの五葉マツ亜属やナラの優先で特色付けられた。そして、南九州や南四国には照葉樹林が北上を開始していた。
晩氷期のこの時代、ブナやナラの温帯の落葉広葉樹の拡大地域が、日本海側に中心がかたよっている原因の一つは、雪にあると考えている。凡そ、一万三千年前頃、気候の温暖化と共に海面が上昇し、対馬暖流が流入を開始した。このため現在の多雪地帯から、まず降雪量の増加が始まった。これによって、北緯40度以南の日本海側の多雪地帯では、ブナやナラを中心とする温帯の落葉広葉樹に適した海洋的気候が成立し始めた。まずナラ林が拡大し、遅れてブナ林が拡大した。
そして注目されることは、日本最古の土器が、このドングリのなる温帯の落葉広葉樹林が最も早く成立しやすかった北九州で発見されていることである。目下のところ、日本最古の土器は、長崎県泉福寺洞窟遺跡の豆粒文土器(12400年前)や福井洞窟遺跡の隆起線文土器(12700年前)である。日本最古の土器が出現する時代が、日本海に対馬暖流が流入を開始し、ブナやナラ林の成育に適した海洋的気候が成立し始める時代と対応していることも興味深い。そして、こうした最古の土器文化は、日本海側を急速に北上している。現在は豪雪地帯となっている新潟県内陸部や山形県内陸部にまで、こうした土器文化の分布が見られる。このことは、当時の積雪量が現在ほど多くは無かったことを示している。
しかし、ブナやナラの温帯の落葉広葉樹林が拡大できなかった北海道からは、こうした最古の土器はまだ発見されていない。又同じ頃、太平洋側の長野県南佐久郡野辺山村の矢出川遺跡では、土器は全く伴わない細石器文化の人々が居住していた。
このように晩氷期に誕生した最古の土器文化は、ブナやナラの温帯の落葉広葉樹林と深い関わりを持って成立した文化のようである。そして、この最古の土器文化が誕生した時代は、日本海に対馬暖流が流入を開始し、日本列島が大陸から切り離されて、日本独自の海洋的風土が確立し始める時代でもあった。それ以前の岩宿文化(旧石器文化)は、大陸と日本列島とが地続きであった時代の文化であり、それはある意味では大陸の一分派であった。日本固有の海洋的風土を代表するものの一つが、ブナやナラの温帯の落葉広葉樹林であった。日本の文化がブナやナラ林と深い関わりを持ち始めたとき、日本固有の文化が誕生したと見ることができる。その文化は縄文文化であり森の文化であった。
ナラ林の変遷と縄文文化
北緯40度以北の日本海側や太平洋側がブナやナラの温帯の落葉広葉樹の生育に適した海洋的風土になったのは、凡そ8000年前のことである。それは日本海への対馬暖流の本格的な流入と対応している。この時代以降、日本列島の縄文文化は、ブナやナラ林との深い関わりの中で発展していく。
縄文文化が発展した縄文時代前期は、ヒプシサーマルと呼ばれる高温期に相当しており、気候は現在より温暖であった。この為、ブナやミズナラを中心とする冷温帯落葉広葉樹林は北方や山地の上方に後退し、東日本の東日本の大半はコナラ・クリ・クヌギ・モミ・ツガなどの暖温帯落葉広葉樹林に覆われている。南からやってきたカシやシイの照葉樹林も北上していたが、その拡大のスピードは遅かった。このため本来ならば照葉樹林が気候的に生育できるところにありながら、照葉樹林の移動速度が追いつかないところには、やはりコナラやクリの雑木林が生育しやすい環境が生まれたと見られる。又この時代、東日本の気候が現在より乾燥していたことも、コナラやクリ林の生育を助けたのである。
以上のことから明らかのように、日本の縄文文化は、ナラ林の生育に適した環境が形成され始めた晩氷期の一万三千年前頃に誕生し、ナラ・クリ林が最も旺盛な繁茂を示すことができた後氷期のヒプシサーマルの中で変遷を遂げているのである。
A クリと縄文文化
縄文文化はクリによって支えられた
最近、日本列島の各地から縄文時代の巨大な住居跡や遺構が発見され、貧しい縄文時代から豊な縄文時代へと、縄文のイメージが刷新されつつある。
中部地方の縄文文化の研究に巨大な足跡を残した藤森 栄一は、八ヶ岳山麓の縄文時代中期文化の発展を支えたのは、焼畑農耕であると指摘した。
1994年に日本の考古ファンを驚かせたのは青森県三内丸山遺跡だった。
直径80cmもあるクリの巨木柱で支えられた建物跡や高床倉庫。長軸30mにも及ぶ大型竪穴住居。縄文時代中期の円筒上層土器を大量に破棄した盛り土遺構。大量の土偶やヒスイ更には漆製品。整然と配置された墓地。発掘を担当した青森県埋蔵文化センター岡田 博氏は最盛期には500人近い人が居住していたのではないかと推定されている。
こうした巨大な遺構を構築し、高い文化水準と人口を維持することができた生業とはいったい何だったのだろうか。縄文人はいったい何を食べて、このような豊な社会を維持できたのであろうか。
私は、前中期遺物廃棄ブロックと名づけられた三内丸山遺跡の北の谷底に堆積した泥炭を採取し、花粉分析を行って見た。
その結果、縄文時代前期の人々が居住する以前は、遺跡周辺の台地上にはナラやブナ・カエデそれにシデなどの落葉広葉樹の森が生育し、谷底周辺にはヤナギやハンノキの湿地林が存在した。又ヨシなどのイネ科の湿性草原も広がっていた。クリの花粉も出現しているが、10%以下に留まっている。ところが縄文時代前期に入ると、ナラの破壊してクリやクルミなどアク抜きをすることなくそのまま食べられる堅果類を選択的に保護・育成したことを物語っている。特にクリの花粉が、樹木の花粉の90%近くに達するという異常な花粉の構成を示すようになる。それは、酒詰めが指摘したクリ畑に近い風景を連想させる。
この花粉分析の結果から、三内丸山遺跡の縄文人たちの主要な食料となったものの一つに、クリを挙げることができる。勿論クリだけでなく、海の魚貝類や山菜などをバランスよく食べていたに違いない。しかし、カロリー源としてはクリの重要性が注目されるのである。
縄文時代早期のクリ利用
福井県鳥浜貝塚は、三方湖に面して立地する縄文時代草創期から前期の遺跡である。縄文時代早期の遺物包含層では、クリの花粉が10%前後の出現率を示している。この時代の鳥浜貝塚の周辺にはブナやナラの落葉広葉樹に混在して野生のクリが存在した。縄文時代早期の人々はそうした落葉広葉樹の森に生育する野生のクリを採取していたと見なされる。
縄文時代早期には西日本にもナラやブナなどの落葉広葉樹の森が生育し、その森の中にクリも存在した。こうした野生のクリを採取していたのであろう。縄文時代早期の人々は、天然に成育している野生のクリを利用したが、集落の近辺に意識的にクリ林を作り出したり集中的に管理しているという状況ではなかったと見なしている。
縄文時代前・中期のクリの利用
鳥浜貝塚などでは、縄文時代前期の6500年前に入ると、クリの花粉の出現率は減少する。それはこの時代以降、気候の温暖化によって西日本の低地にカシやシイの照葉樹林が拡大してきているためである。ナラやクリの落葉広葉樹の生育地は、カシやシイの常緑広葉樹の生育に置き換えられてしまった。西日本の低地からは天然のクリ林は縄文時代前期以降、急速に姿を消していった。
ところが、東日本では縄文時代前期以降、クリの花粉が異常に高い出現率を示す遺跡が現れている。富山県大門町小泉遺跡の縄文時代前期の遺物包含層では、クリの花粉が60%以上の高い出現率を示す層準が発見された。しかも、クリの花粉と共にウルシやアカメガシワそれにブドウ科など、人間のインパクトを強く示唆する陽樹の花粉も高い出現率を示した。クリは虫媒花であり天然の状態では10%前後の出現率を示す程度である。60%を越える異常に高い出現率は、やはり人間の管理を考えざるを得ない。
縄文時代前・中期の人々のクリの集約的利用を決定的に証拠付けたのが、三内丸山遺跡の分析結果である。北の盛り土から幅15m前後、深さ3〜5mの谷が発見された。この谷底に堆積した泥炭層の中からは、木製品や漆塗製品や編み籠など、大量の人工遺物が発見されている。
4100年前頃、クリの花粉は一時的に減少する。炭片も減少する。代わってナラの花粉が再び高い出現率を示す。4100年前頃、一時的に人間のインパクトが弱まり、ナラの森が回復してきた。
4000年前頃、再び人間のインパクトが活発化する。まず、ナラの花粉が減少した後、クルミの花粉が急増する。クルミの花粉が急増するのは、縄文人がナラの森を破壊してクルミを意識的に残し、管理したことを示している。しかい、クルミの花粉が増加しても、炭片は増加しない。
炭片が再び増加するのはクルミの花粉が40%以上の最大値に達した直後である。炭片の急増と共に、クルミは減少し、代わってクリの花粉が急増してくる。これは明らかに縄文人が火入れによってこれまで保護してきたクルミ林まで焼き払い、クリ林を作り出したことを意味する。
三内丸山遺跡におけるクリの花粉の出現率は、これまで私が見てきた縄文時代の花粉分析結果の何れよりも高い出現率を示している。異常なまでにクリに偏った集約的利用があったのではないかとさえ思わせる。特に縄文時代前・中期の遺物廃棄ブロックの谷の上流側では、クリの花粉は90%以上に達し、クリ以外は殆ど他の樹木が周辺にはなかったのではないかとさえ思わせる状況である。
縄文時代前期以降、縄文人たちは人工的にクリ林を作り出し、集約的に維持・管理していたと見なすことができる。
三内丸山遺跡から直径80cm以上のクリの木柱痕が発見された。こおクリの巨木柱は、遠方から運んできたものではなく、集落の近辺のクリ畑に生育していた老木を伐採し、柱としたものであろう。クリの巨木柱痕の年輪の幅が意外に広いのも、この巨木柱は天然のものではなく、栽培・管理されたものであることを物語っているのではなかろうか。
縄文時代後・晩期のクリの利用
縄文時代前・中期に始まったクリの集約的利用の技術は、縄文時代後・晩期にも受け継がれている。亀ヶ岡遺跡の花粉分析の結果でも、やはりクリの花粉が部分的に80%を越える高い出現率を示すところもある。亀ヶ岡遺跡では、クリと共にトチノキの花粉も高い出現率を示す層準があり、縄文時代後・晩期にはチチノキの実の集約的な利用が始まったことを示している。
何故、東日本の落葉広葉樹林帯において、特異的に縄文時代前期以降の文化が発展を遂げることができたかの理由の一つに、東日本の落葉広葉樹林帯がクリの集約的利用に適していた点が挙げられる。勿論、サケやマスなどの魚貝類、クリ以外の山菜や堅果類更にはヒエの栽培が可能など様々な要素が関わっているのであるが、その中の一つの重要な要素がクリであったことは事実として認めてよいだろう。
http://bunarinn.lolipop.jp/bunarinn.lolipop/buna-1/bunaAA/bunka1/bunka1.html#mori
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