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徳川期の日本人にとって、人間は鳥や獣と同じく生きとし生けるものの仲間だった
徳川期の日本人は、"人間は神がつくった特別な存在である"という聖書の記述を読んで、驚きのあまり「なんとしとことだ!」と叫んだ。
彼らにとって、人間は鳥や獣と同じく生きとし生けるものの仲間だったのだ。
渡辺京二『逝きし日の面影』 第十二章 生類とコスモスより引用
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(p500)
「どの村にも鶏はたくさんいるが、食用のためにはいくらお金を出しても売ろうとはしない。だが、卵を生ませるために飼うというのであれば、喜んで手放す」。彼女がこう書いたのは久保田でのことだったが、北海道の旧室蘭でも彼女はおなじ経験を重ねた。「伊藤は私の夕食用に鶏一羽を買って来た。
ところが一時間後に彼がそれを締め殺そうとしたとき、持主の女がたいへん悲しげな顔をしてお金を返しに来て、自分がその鶏を育ててきたので、殺されるのを見るに忍びない、と言うのだった。」その鶏は、卵を生むことで一家に貢献し続けてくれた彼女の家族だったのだ。
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(p503〜505)
徳川期の日本人にとっても、動物はたしかに分別のない畜生だった。
しかし同時に、彼らは自分たち人間をそれほど崇高で立派なものとは思っていなかった。人間は獣よりたしかに上の存在だろうけれど、キリスト教的秩序観の場合のように、それと質的に断絶してはいなかった。草木国土悉皆成仏という言葉があらわすように、人間は鳥や獣と同じく生きとし生けるものの仲間だったのである。
宣教師ブラウンは1863(文久三)年、彼を訪ねてきた日本人とともに漢訳の『創世記』を読んだが、その日本人は、人間は神の最高の目的たる被造物であるというくだりに来ると、「なんとしとことだ、人間が地上の木や動物、その他あるゆるものよりすぐれたものであるとは」と叫んだとのことである。
彼らは、人間を特別に崇高視したり尊重したりすることを知らなかった。つまり彼らにとって、"ヒューマニズム"はまだ発見されていなかった。
(中略)
なるほど日本人は普遍的ヒューマニズムを知らなかった。人間は神より霊魂を与えられた存在であり、だからこそ一人一人にかけがえのない価値があり、したがってひとりの悲惨も見過されてはならぬという、キリスト教的博愛を知らなかった。
だがそれは同時に、この世の万物のうち人間がひとり神から嘉されているという、まことに特殊な人間至上観を知らぬということを意味した。彼らの世界観では、なるほど人間はそれに様がつくほど尊いものではあるが、この世界における在りかたという点では、鳥や獣とかけ隔たった特権的地位をもつものではなかった。
鳥や獣には幸せもあれば不運もあった。人間もおなじことだった。世界内にあるということはよろこびとともに受苦を意味した。人間はその受苦を免れる特権を神から授けられてはいなかった。ヒューマニズムは人間を特別視する思想である。だから、種の絶滅に導くほど或る生きものを狩り立てることと矛盾しなかった。徳川期の日本人は、人間をそれほどありがたいもの、万物の上に君臨するものとは思っていなかった。
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(引用以上)
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=293836
生類を支配・利用する欧米人と、仲間として共に生きる日本人
欧米人と日本人、両者の自然に対する処し方は全く異なり、特に、動物に対する接し方にはその特徴が良く顕れている。
欧米人にとっては、動物を支配・利用するのが当たり前であるが、明治以前の日本人は、動物を自分たちと共に生きる仲間と考えていた。人間が自然の摂理を冒すことを、決して良しとしなかったのである。
渡辺京二『逝きし日の面影』 第十二章 生類とコスモスより引用
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(p488)
さて馬はといえば、日本の馬は欧米人たちの間では、癖が悪いので有名だった。パンペリーはこれは北海道の馬についてだが、「去勢されていない牡であるため、彼らの劣悪な性質は普通はっきりとあらわれる」と言う。
何が劣悪かというと、乗り手を放り出すのである。彼はこの馬たちのことを「始末に負えない獣」と呼んでいる。
オイレンブルク一行も日本の馬には悩まされた。ベルクは言う。
「馬は小さく体格が悪く、かけ足やギャロップは多くやるが、速歩はいやいやながらかろうじてする。
しかし、けわしい斜面の道や多くの階段は至る所にあるので、駆け上ることには非常に長じている。騎乗するのは牡馬のみであるが、常に注意深くしていなければならない。なぜなら、ほとんどすべての馬は咬みつく癖があり、またたがいに歯や蹄で喧嘩し合うからである」。
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(p496)
‥バードの見るところは全く違っていた。
「馬の性質が悪くなるのは、調教のときに苛めたり、乱暴に取り扱うからだと以前は考えていたが、これは日本の馬の性悪さの説明にはならない。
というのは、人びとは馬を大変こわがっていて、うやうやしく扱う。馬は打たれたり蹴られたりしないし、なだめるような声で話しかけられる。概して馬のほうが主人よりよい暮らしをしている。おそらくこれが馬の悪癖の秘密なのだ」。要するに彼女は、日本の馬はあまやかされて増長していると言いたいのだ。
「馬に荷物をのせすぎたり、虐待するのを見たことがない。……荒々しい声でおどされることもない。馬が死ぬとりっぱに葬られ、その墓の上に墓石が置かれる」。馬は家族の一員であったのだ。彼女は馬子たちがけわしい道にかかると、自分の馬に励ましの言葉をずっとかけどおしなのに気づいていた。
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(p497)
日本人は牡馬を去勢する技術を知らなかった。知らぬというより、そうしようとしなかったというべきか。
古き日本にも駅逓の制があり牧の制があって、馬を集団的に統御する必要がなかったわけではない。それなのに、去勢をはじめとする統御の技法がほとんど開発されなかったのには、なにか理由がなくてはならぬ。
それはやはり彼らが、馬を自分たちの友あるいは仲間と認め、人間の仲間に対してもそうであったように、彼らが欲しないことを己れの利便のために強制するのをきらったからであろう。
バードは馬に馬勒をつけさせようとして、人びとの強い抵抗に出会った。彼らは「どんな馬だって、食べるときと噛みつくとき以外は口を決して開けませんよ」と言って、馬勒をつけるのは不可能だと主張した。バードが「ハミを馬の歯にぴったり押しつけると、馬は自分から口を開けるものだ」と説明し、実際にそうやって見せて、彼らはやっと納得したのである。
つまり当時馬を飼っていた農村の日本人は、ハミをかませるなどというのは馬の本性に反することで、本性に反することは強制できないと考えていたことになる。
去勢などは、馬の本性すなわち自然にもっとも反することであったろう。彼らは馬に人間のため役立ってほしいと思っていたに違いないが、さりとて、そのために馬に何をしてもいいとは考えていなかった。彼らは馬にも幸せであってほしかったのだ。人間の利益と馬の幸福の調和点が、外国人から見ればいちじるしく不完全な、日本的な馬の扱いとなって表われたのである。
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(引用以上)
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=293593
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