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面白い/番外地とはいえ誤解を恐れずにw転載/副島孝彦  アルチュール・ランボー論。パリ・コミューン等の政治的事件を書き残
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投稿者 五月晴郎 日時 2014 年 8 月 17 日 01:01:05: ulZUCBWYQe7Lk
 

副島隆彦です。今日は2014年の8月16日です。
これから何回か連続で、文学とは何かということを、ずばり大きく話をします。大学の文学部、というのは何を勉強するところか、という話にまで、はっきり答えます。

今どき大学の文学部なんかに行くやつは、アホに決まっている。昔は女の子が、花嫁修業で嫁入り道具で、「英文学科卒」とか「フランス文学科卒」というのを持っていた。しかし、そんなものはもう消えてしまって、フランス語やドイツ語なんか勉強する人はほとんどいなくなりました。大学の英文科ですら滅んでしまったような状況です。嫁入り道具にならない。

文学部に行くということ自体が、この20年ぐらいで非常に何だかわけのわからない状況になりました。昔は、文学部に行く、というのは立派なことだった。40年ぐらい前までは。今はそんなことありません。それじゃあ、法学部や経済学部が、文科系では偉いのか、というと、そういう話でもない。とりあえず大きく、文学とは何かということを私、副島隆彦が教えます。

簡単に言うと、大学の文学部の教授というのは、「文学者」と勝手に名乗るけども、「じゃあ、小説を書けるんですか?」といったら、書けないわけです。「小説家として有名になったんですか?」というと、なってない。ほとんどは、文芸作家ではない。作家を兼ねている、という人もいるけど、大したことはありません。

小説家、文芸家、文士(ぶんし)というのは、あくまで全く別の種類の人間たちです。世の中で大きくウケて、ベストセラー作家になる、という小説家たちは今もいますが、これは大学の文学部の教授たちとは全く関係ない。

ただ、一言言えば、「歴史学研究」というのと「言語の研究」というのはある。世界中のいろんな言語の研究をする。こういうのは、やはり細かい、緻密な作業ですから。あと古い文書、古い資料をたくさん読まなきゃいけないから。そういうのが「文学部」というところで「教授」という名前で、たくさん巣くっているわけです。それだけのことだ、とまず言っておきます。そんなことは当たり前のことだけれど、誰も言わないから。

文学部の中でもフランス文学というのが、恐らく一番威張っているけれども、「じゃあ、フランス文学って何なんだよ」ということになります。あとロシア文学というのがあって、これはもう、トルストイとドストエフスキーを頂点とする、19世紀までのすばらしいロシアの小説家たちの世界のことだ。ドイツ文学や、ドイツ哲学の話は、今日はしません。

「フランス文学って何なんだよ」といったら、ランボーという詩人に顕れるんです。アルチュール・ランボー(Jean Nicolas Arthur Rimbaud、1854年〜1891年)ぐらいは、みんな名前は知ってる。しかし、何のことだか、もう今では全く忘れ去られてしまっています。

・アルチュール・ランボー(1872年。17歳のときの肖像)


ランボーという男は、37歳で死んでいる。彼がどういう男か、またそれがその当時のヨーロッパの政治状況とどうかかわったか、という話をしていく。

「政治と文学」という言葉が、日本の知識人業界、出版業界に昔からある。「政治と文学」と言うと、何か格好がつく、立派なものだった。政治評論というのも、新聞記者の政治部で、政治家たちとつき合ってる、新聞記者上がりの人たちだけが政治評論家になっていった。

いわゆる右翼でも左翼でも、政治評論家というのは、なかなか職業としては成り立たない。しかし、たくさんいた。最近はどんどん減っています。商売にならない。それは、経済評論家、金融評論家、金融の専門家、というのが商売にならなくなっていて、ほとんど本が売れなくなってるという現実。これが2014年の現実ですから、それと似てるんです。

では、フランス文学の最大の花であるところのランボーというのは何者か。これは何と15歳から詩を書き始めて、19歳でもう書くのをやめました。最後の19歳のときに書いたと言われてる小説は、何か火の中にくべてしまって、『地獄の季節』というんですけど、残っていません。1873年です。その後、ランボーは商人になって、北アフリカのあたりをあっちこっち行くようになった。15歳というのは、皆さんも考えてみればわかると思いますが、相当早熟です。

ランボーの作品の中で一番有名なのは、恐らく『酔いどれ船』(酩酊船)という詩だと思う。じゃあこれを、読んで知っているのか、というと、誰も知らない。世界一有名なフランス詩人の詩の中身を誰も知らないし、何ことだかわからない。

(引用はじめ:「ランボー詩集」金子光晴・訳)

  酔っぱらいの舟

 ひろびろとして、なんの手ごたえもない大河を僕がくだっていったとき、
船曳(ふなび)きたちにひかれていたことも、いつしかおぼえなくなった。
罵(ののし)りわめく亜米利加インディアンたちが、その船曳きをつかまえて、裸にし、
彩色した柱に釘づけて、弓矢の的にした。

 フラマンの小麦や、イギリスの木綿をはこぶ僕にとっては
乗組員のことなど、なんのかかわりもないことだった。
船曳きたちの騒動がようやく遠ざかったあとで、
河は、はじめて僕のおもい通り、くだるがままに僕をつれ去った。

 ある冬のこと、沸き立つ潮のざわめきのまっただなかに、
あかん坊の頭脳のように思慮分別もわかず、僕は、ただ酔うた。
纜(ともづな)を解いて追ってくるどの半島も、
これ以上勝ちほこった混乱をおぼえたことはなかった。

 嵐が、僕の海のうえのめざめを祝(ことほい)だ。
犠牲(いけにえ)をはてしもしらずまろばす波浪にもてあそばれ、
キルク栓よりもかるがると、僕はおどった。
十夜つづけて、船尾(とも)の檣燈(ともしび)のうるんだ眼をなつかしむひまもなく。

 子供らが丸齧(かじ)りする青林檎よりも新鮮な海水は、
船板の樅(もみ)材にしみとおり、
僕らの酒じみや、嘔吐(おうと)を洗いそそぎ、
小錨や、舵を、もぎとっていった。

 その時以来、僕は、空の星々をとかしこんだ乳のような、
海の詩に身も溺れこみ、
むさぼるように、淵(ふち)の碧瑠璃(へきるり)をながめていると、
血の気も失せて、騒ぐ吃水線近く、時には、
ものおもわしげな水死人の沈んでゆくのを見た。

 蒼茫(そうぼう)たる海上は、見ているうちに、
アルコールよりも強烈に、竪琴の事よりもおおらかに、金紅色に染め出され、
その拍節と、熱狂とが、
愛執のにがい焦色をかもし出す。

 僕は知った。引っ裂かれた稲妻の天を、竜巻を。
よせ返す波と、走る射水(いみず)を。
夕暮れを、また、青鳩の群れのように胸ふくらませる曙を。
時にはまた、あるとは信じられないものを、この眼が見た。

 菫色(すみれいろ)に凝(こ)る雲々の峰を輝かせて、
神秘な怖れを身に浴びた落日や、
ギリシア古劇の悲劇俳優たちのように、
はるかに、裾襞(すそひだ)をふるわせて、舞台をめぐる立つ波を僕は見た。

 目もくらむ光の雪と降る良夜。
ものやさしくも、海の睫(まぶた)をふさぐ接吻(くちづけ)や、
水液のわき立ちかえるありさまや、
唄いつれる夜行虫の大群が、黄に青に変わるのを夢に見た。

 それから、まる幾月も、僕は、ヒステリックな牛舎さながら、
暗礁に突っかける大波のあとを追う。
聖マリヤのまばゆい御足が、あばれまわる大洋の、
鼻づらを曲げて飼い馴らしたもうことも忘れはて。

 漂着したそこは、この世にあるとも信ぜられないフロリダ州。
知っているかい? あそここそは、
はるか水平線のした、青緑に群れなす波の背の、手づなとかかる虹の水しぶきが、
人々の肌や、豹(ひょう)の眼の花々といりまじるところ。

 怪物レビアタンの群れが燈心草のあいだ腐臭を放つ大簗(やなぐい)の
瘴癘(しょうれい)の泥海もながめて過ぎ、
大凪(おおなぎ)の中心で逆流する水が
はては、瀑布となって、深淵にきって落とされるのも見た。

 氷河、銀の太陽、真珠色の波、燠(おき)のような、かじかんだ陽ざし。
とごった入り江の奥ふかくに、ばらばらにこわれた坐礁船。
床虫に喰いちらされた大蛇どもが、陰惨な、へんな臭気を放って、
よじれ曲がった木の股からこ墜っこちてくるところ。

 この金色の魚、歌いながら青波をくぐってあそぶ真鯛(まだい)の群れを、
ふるさとの子供たちに見せてやりたいな。
花と咲く波の泡は、僕の漂流を祝福し、
えもいわれぬ涼風に乗って僕は、飛びたくなった、羽がほしくなった。

 時にはまた、両極や、赤道地帯を、殉教者のように倦みつかれて、海は、
すすり泣きで、やさしく僕をゆすぶる。
一日の血を吸い取った吸い玉のように黄色い夕陽が、萎(しお)れ衰えてゆくとき、
僕は、小娘のようにじっとひざまずく……。

 そのとき、黄金(きん)の眼をした誹謗者、島に巣食う海鳥の群れが、
舷(ふなばた)を訪れ、喧噪(けんそう)と糞(ふん)を上からふらす。
もろい細索(ほそづな)を越えて航海に疲れたものらが、永遠のやすらいをとりに入水する時刻、
僕らは、侘(わび)しくもまた、舟旅をつづける。

 だが内湾の藻草の髪にからまれて、ゆくえもしらずなったとき、
颶風(ぐふう)の腕にさらわれて、鳥もおられぬエーテルに、この身が投げすてられたときは、
巡海船も、ハンザの帆船も、
酔いどれた水のあくどい愛撫から救い出してくれるあてがない。

 おもうがままに煙をふかしつつ、うす紫の霧靄(きりもや)に乗り、
赤ちゃけた空を、壁のようにくりぬいてすすむ僕。
よい詩人にとっては、無上の糖菓(ジャム)。
太陽のかさぶたや、空の洟汁(はなじる)を身につけてる僕。

 火花と閃(ひら)めく衛星どもを伴い、黒々とした海馬に護(まも)られて、
革命月の七月が、燃ゆる漏斗の紺碧ふかい晴天を
丸太ん棒でたたきこわした豪雨のなか、
一枚の板子のようにおろかにも、翻弄されてゆられる僕。

 五十海里のむこう、発情した海のベヘモとくらい渦潮とが
抱きあってうめき叫ぶのをきいて身の毛もよだった僕。
どこまで行っても青い海を手繰(たぐ)りながら、ゆきつくあてをもたぬ僕は、
古い胸壁めぐらしたヨーロッパをつねになつかしんだ。

 僕は見た。空にふりまかれた星の群島を!
有頂天な空が、航海者たちをまねいているその島々を。
百万の黄金(きん)の鳥よ。未来の力よ。この底ふかい夜のいずくに、
おお。どこに、おまえは眠っているか。どこにかくれているか?

 正直言えば、僕には、かなしいことがたくさんすぎた。夜明けになるごとに、この胸ははり裂ける。
月の光はいやらしく、日の光は、にがにがしい。
この身を噛みとる愛情は、ただ、喪失したような麻酔で、僕を脹(ふくら)ませるだけだ。
おお。僕の竜骨よ。めりめりと砕けよ! おお、この身よ。海にさらわれてしまえ!

 どれほどヨーロッパの海をなつかしんでみても、
匂わしい薄暮のころ、子供がひざまずいて、憂わしげな様子をして、
五月の蝶の羽のように、こわれやすい玩具の帆舟を放つ
くらい、冷たい、森の潴(たま)り水に、それはすぎないのだ。

 おお、波よ! その倦怠をこの身に浴びてからは、
木綿をはこぶ荷舟の船脚をさまたげることも興がなく、
旗や、焔(ほのお)の誇りと張りあうのも、
門橋の怖ろしい眼をくぐって泳ぎつき、巨利をむさぼることも、僕にはできなくなった。

(引用おわり:「ランボー詩集」金子光晴・訳)

副島隆彦です。
これ以外にフランス詩人で一番有名なのは誰かというと、(シャルル・)ボードレール(Charles-Pierre Baudelaire、1821年〜1867年)というのがいます。あと(ポール・)ヴェルレーヌ(Paul Marie Verlaine、1844年〜1896年)というのがいます。これぐらいが頂点です。ランボーも、これらの詩人と同時代の人です。

・シャルル・ボードレール


・ポール・ヴェルレーヌ


ランボーはパリの北のほう、ベルギーに近いアルデンヌ地方の、シャルルヴィルという町で生まれました。父親は職業軍人だった。お母さんは、真面目な人だったんでしょうけども、5人の子供を産んだけれども別居して、実家に帰った。

10歳ぐらいで、シャルルヴィル高等中学校で飛び級をするぐらい、ランボーは言葉ができたわけです。作文とか、すらすらと教師たちもびっくりするぐらいのすばらしいのを書いた。そうするともう時代が――実は彼が生まれたのは1854年です。

彼が15歳のときが1870年ですが、フランスは普仏戦争(ふふつせんそう、1870年〜1871年)という戦争をやりました。これは「普」はロシアで、プロイセン(王国)のヴィルヘルム3世(Friedrich Wilhelm III.、1770年〜1840年)という皇帝がいて、横にビスマルク(Otto Eduard Leopold Furst von Bismarck-Schonhausen、1815年〜1898年)というのがいてものすごく強かった。フランス側はこのとき、ルイ・ボナパルトと言いますが、ナポレオン3世(Napoleon III、1808年〜1873年)とも名乗って、勝手に皇帝と名乗った男です。これはナポレオン1世の甥っ子だということを看板にして、20年間、フランスの政治を握った男です。こいつがこの普仏戦争でぼろ負けに負けます、たった数カ月で。

そして、恐らくヨーロッパ一の大都会であり、最もすばらしく華やかで豪華絢爛であったパリは、包囲されるんです。132日包囲されて陥落する。パリの郊外の、ロスチャイルドが持っていたすばらしい豪華なお屋敷というか、もうお屋敷なんてものじゃない、お城級のすばらしい館で、ピース・トークスと言いますが、講和条約の話し合いが持たれます。

そこで、ルイ・ボナパルトは失脚します。そのときにパリ市内で暴動が起きる。貧しい階級や不満分子たちが暴動を起こすんです。それもただ単に略奪してお店を襲撃するだけじゃなくて、主要な街路のほとんど全てにバリケードをつくる。そこらじゅうの荷馬車とかをひっくり返したり、家具とか古い建物を壊したり、れんがをずっと積み上げてバリケードをつくって、市街戦を始めるわけです。

フランス政府はもう負けてるわけですから軍隊もぼろぼろで、パリで労働者と呼ばれるような人たちが暴れ出したのを、とめられなかった。それがパリ・コミューン(la Commune de Paris 1871)と呼ばれるものです。1871年の3月18日に始まって、2カ月後の5月28日には鎮圧されて、崩壊します。そのとき恐らく600人ぐらいの、パリ・コミューンと呼ばれる、立派そうに言えば自治政府設立要求運動ですが、保守派の体制派の人たちから見れば、ただの暴動、民衆暴動です。

これは、その前のフランス大革命(le grande revolution de la francaise)。これが1789年から92年までですが、ここから数えて79年です。つまりフランス大革命から80年もたってる。それがパリ・コミューンです。

この暴動があったさなかに、15歳だったランボーは自分で歩いていくんですけども、パリまで一生懸命出かけていく。早熟で多感で感覚がすぐれた人間というのは、大きな、大騒ぎがあると、必ずそこへ寄っていくものなんです。

私、副島隆彦もそういう人間ですから、この16歳のころというのは日本でいえば高校1年生ですが、そのころ大体、世界とはどういうふうになっているというのが、もうわかっていました。私が高校1年のころが1970年で、東京あたりで学生運動というのがあって、ベトナム反戦運動の世界的な動きと一緒で、それにつられて日本でも全国のほとんど全ての大学で活動家というのが生まれて、わあわあ大騒ぎをやっていました。

大学闘争とも学園紛争とも言いますが、過激派の学生たち、一部の学生たちが暴れていたというだけのことですが、そういう運動があった。そのときに私は、大体もう世界というのはどういうふうになってるというのがわかりました。だから、私はランボーの脳の中というのがよくわかる。大体16歳のときにずば抜けてすぐれた人間たちというのは、もう世界を理解してしまうんです。

それでランボーは、パリに1回行って、浮浪者取り締まりで捕まって、浮浪者をためておくような施設、拘置所みたいなところにいて、釈放されて連れ返されるんです。それが1870年の9月27日でした。

それからまた10月には、今度は反対方向のベルギーのブリュッセルのほうに行っています。そのときに、もう詩を三つ書いてるんです。それが、まだ16歳になっていません。詩を三つ書いて、その詩はあんまり知られてないんですけども、タイトルを言うと。これは『ランボー詩集』の中の「拾遺」という、後で拾い集められた詩の中にある「太陽と肉体」と「オフェリヤ」という詩です。もう一つは一番最初に書いた「Sensation」、フランス語ならサンサシオン、神の啓示という意味で、そういう三つです。これを当時、既に有名だった詩人の文学者に手紙で送る。そして認められた。

これが『パルナシアン』という、詩集のような文学月刊誌みたいな雑誌に載った。それでちょっと注目された。ところが実際その当時のパリは、もう暴動を起こして大騒ぎしてるような状況ですから、何でそんな詩集や文学集が出せるのかとも思うけれども、そういうものなんです。

そして、次の年の2月に、つまり1871年の2月にまたパリに出てきてます。この大暴動のさなかで3月18日から労働者権力というのが成り立って、これがパリ・コミューンと呼ばれる自治政府です。たった2カ月で潰されましたが。

このころちょうどパリでうろうろしてたはずです。飲まず食わずでさまよっていたはずです。で、へとへとになって、また田舎のシャルルヴィルに帰ります。そのパリで反乱軍の形で無職の人間や労働者たちが大暴れしてたころの様子を描いたのが、それがランボーの詩集なんです。それは「ジャンヌ・マリの掌(てのひら)」という有名な詩です。

(引用はじめ:「ランボー詩集」金子光晴・訳)

  ジャンヌ・マリの掌(てのひら)

 ジャンヌ・マリの掌は、いかつい掌。
くすぶった日焦(ひや)けの掌、
死人のようにつやのない、その掌は、
魔女(ジュアナ)の掌にそっくりだよ。

 みだらな沼のおもてに浮く
くろいぬるぬるが甲に染みついたか。
また手のひらは、清朗な池水に
さし入る月光にでもひたしていたか。

 やさしい膝のうえで、その掌に、
夜天のしずけさを受けて飲んだのか?
葉巻を巻いていたか。その掌は
ダイヤモンドの取引きをしていたか。

 聖母をしたい、御足のもとに
金色に、花と萎(しお)れて置いた掌か。
掌の窪(くぼ)にたぎり、まどろむのは、
はしりどころの毒の黒地(くろち)か。

 まだほのぐらい暁がた、
花蜜をさがしに飛び立ってゆく、
昆虫どもを追う女猟人ディアナの手か。
毒薬の調剤になれた掌か。

 にぎったり、ひらいたりするごとに、
つかんだ夢は、どんな夢だ?
荒唐無稽なアジアの夢、
ケンガバルの夢か。シオンの夢か?

 その手は蜜柑(みかん)を売ってた手でもないし、
神々の恩寵で焦げた掌でもない。
目のあかぬ肥(ふと)ったあかん坊たちの
おむつを洗った掌では、なおさらない。

 背骨をへしまげる手力はあっても、
わるいことは決してしない。
機械のように逃げ路なく、
一頭の馬よりつよい力だ!

 るつぼのように燃えさかり、
興奮でわななき、わなないて
掌の肉はマルセイエーズをうたう。
夢々、怨訴(えんそ)嘆願ではない。

 賤民のよごれで、その掌は、
くろずんで、しなびた乳房のようだ。
その掌の甲こそ、血迷う反乱の徒が、
みんな来て唇をつける場所だ!

 戦乱の巴里をくぐりぬけて
機銃の銃身を焼く
灼熱の炎天下に
たぐいない、この掌が蒼ざめた!

 ああ神聖な掌よ。時として、
さめることのない熱狂で僕らの唇をふるわせるその掌よ。
その掌がつくる拳に煽動されて、
溌剌(はつらつ)とした僕らのからだでできた鎖の環(わ)が、絶叫をあげる!

 天使の掌よ。君が血の気うせるまで、
指の血をながしたとき、
そのときこそ、僕らの一生のうちの
すばらしい飛躍の時なのである。

(引用おわり:「ランボー詩集」金子光晴・訳)

私は角川文庫の『ランボー詩集』というのを、金子光晴(かねこみつはる)訳なんですが、これは1951年に日本で出てるんです。戦争が終わって6年目。その古い版、私がこれを買ったのは昭和45年、1970年です。そのとき私は16歳です。そのころに買って読んでいる。これをほこりだらけの古い書棚から、引っ張り出してきて昨日読んでいまして、ふっと非常に気になった。

この中に、「巴里の軍歌」というのと「巴里蕃息」(ぱりばんそく)という詩と、それに「ジャンヌ・マリの掌(てのひら)」という有名な詩があります。あとは「教会にあつまる貧しい人々」。この詩の情景自身も、パリの暴動が起きている様子そのものがちらちらと文章の中に出てくる。

「巴里の軍歌」はランボーが15歳から16歳のに作った詩です。

(引用はじめ:「ランボー詩集」金子光晴・訳)

  巴里の軍歌

 すてきな春だ。それというのも、
緑かがやく巴里をまんなかに、
チエールやピカールの業績が
光栄、かくれもないからだ!

 おお、五月。臀(しり)まであらわな大うかれ!
セーブル、ムードン、バニュー、アスニエールの森々よ。
(※副島注:これは実際の公園で、パリにあるんです。)
到来の春の景物が
まきちらされる騒ぎをきくんだ!

 蝋燭(ろうそく)入れの古箱こそないが、
軍帽も、サーベルもある。太鼓(タムタム)もある。
なんにも、なんにも乗らない小舟が
緋(ひ)染めの池水を截(き)って、進む。

 類のないこの朝ぼらけ、
僕らの住んでる陋屋(ろうおく)まで、
黄玉を砕いた光がさし入るとき、
浮かれ回らずにいられようか。

 チエールとピカールは、いわばエロスの神様だ。
ヘリオトロープの略奪者だ。
石油で、コロー筆を作り出す
あの連中の寓話のねたはあがってる。

 つまり、大きな詐欺の一味さ。
花菖蒲のなかにねころがってるファブルは
眼鏡越しに目ばたき、
胡椒に鼻をむずつかせる。

 どれほど石油を浴びせても、
都大路の敷石の火照(ほてり)はさめないよ。
そこで、僕は、なんとしても、
諸君を正気に返さねばなるまい。

 いつまでもしゃがんだまま、
のほほんとしている田舎者は、
夢中になった押しあいうちに、
小枝のべしべし折れるのをきくだろう。

(引用おわり:「ランボー詩集」金子光晴・訳)

副島隆彦です。
このチエールやピカールというのは、第三共和制の大統領や政治家として復活して、外国から逃げて帰ってきて、報われた、第三共和制の偉い文学者や政治家たちです。しかし、彼らだって、ある意味では裏側のある人間です。

次の「巴里蕃息(ばんそく)」は、これはもうパリ・コミューンが崩壊した後の詩ですが。

(引用はじめ:「ランボー詩集」金子光晴・訳)

  巴里蕃息(ばんそく)

 臆病者よ。さぁ。ここだ。停車場に吐き出されろ!
太陽が火照の息で、吐き浄める並木道(ブルバール)には、暮れがたから、
蛮人どもがひしめきあう、
西方世界(オクシダン)に君臨する聖なる街とは、ここのこと(※副島注:パリのこと)だ!

 見ろ! 退潮(ひきしお)のように陽は沈んでゆき、
残照のなかの並木、掘割、さては、
いつぞやの夜、砲火のまっ赤な炸裂でわなないていた家々は、
輝きまさるかろやかな夕空にそびえ立つ。

 廃(すた)れた宮殿は、板小屋で蔽(おお)いかくせ!
大革命の震撼の日が、人々の眼を一新した。
そして、今は、赤豚のような女どもが、腰をひねって横行するにまかせた
恥しらずになれ。馬鹿になるんだ。野獣であれ!

 さかりのついたその牝犬(めすいぬ)どもは、膏薬までもがつがつ喰う
灯のついた家々から、君らを呼ぶ。盗むがいい。たらふくつめこむんだ!
夜が更けゆけば、ふかい麻痺の快楽が街じゅうにひろがる、
おお、心すさんだ飲んだくれども。

 飲め! くらくらとまぶしい燈火がともるころ、
汲(く)めども汲めども溢れる豪勢(リュックス)をさがしもとめて、
手足しびれ、言葉もつれ、かすんで見えなくなったた眼を
酒盃(さかずき)に溺れこませに、君らは出かけてゆかないのか。

 でっかいお尻の女王のために、一息にぐっと乾(ほ)せ!
胸もはり裂ける、おろかな業(わざ)、しゃっくりに似たまぐわいごとや、、
息はずませる馬鹿者ども、年寄り、からくり人形、鉄面皮などが、
業楽(ぎょうらく)の夜、夜、とび跳ねるさまをごろうじろ。

 けがれはてた心と、恐気(おぞけ)のはしる、悪臭芬々(ふんぷん)とした口と、
それくらいにはへこたれまいぞ。
麻痺して、それもわからなくなるため、机にもう一本置いてあるよ。
君らの腹は、恥辱で溶けてしまったね。おお。勝利者よ!

 君らの鼻腔をおっぴらいて、誰はばからず嘔(は)いてしまえ。
君らの首の綱を、劇毒でびしょびしょに濡らすんだ。
襟首のあたりへ、そろそろ絞める手をおろしながら、
詩人は、君らに言う。「臆病者よ。もっと馬鹿になれ!」

 女の腹を君らが求めるなら、
息もできぬほど、その胸のうえにのしかかり、
君らのけがされた雛鳥(ひなどり)を窒息させて、呻(うめ)きながら痙攣(けいれん)することを
いまさら、どうしてためらうのだ?

 黴毒菌(ばいどくきん)、狂人、王様、あやつり人形、腹話術者など、
君らの魂や、からだ、毒や、ぼろくずが、
この夜鷹の「巴里」を、どうすることができるというのだ?
彼女は、君らのほうへつんとして、卑猥なそぶりでからだをゆするだけだ。

 君らがへたばったとき、ぐったりしたからだのうえにのりかかって、苦情を並ならべ立て、
夢中になって君らの金を催促し、
争論でまっ赤になった、もりもりとした娼婦は、
君らの仰天などおかまいなく、険呑(けんのん)な拳固をひねくりまわすだろう。

 巴里よ。おまえが腹立ちのあまり、じたんだをふんだとき、
その身に幾多の瘡痕(そうこん)を受けたとき、
おまえのあかるい瞳のなかに、ふたたびめぐりくる春のよろこびの、
かすかな兆(きざし)でも感じたとき、

 おお。苦悩の都よ。おおかた死にかけていた街よ。
『未来』にむかって立ち直った頭と、両の乳房とは、
まだ明けきらぬうすあかりに、千万の扉を押しひらいた。
くらい『過去』をぬけてきたればこそ祝福されようとするこの大邑(たいゆう)よ。

 大きな苦しみの数々ゆえに人をひきつける肉体よ。
お前はもう一度波瀾の人生をのみ、
その血管に、青ざめた詩をあふれさせ、
お前のまごころも萎(しお)れるほどな、凍った指にふれられるおもいを味わうことだろう。

 だがそれもわるくはない。詩は、蒼ざめた詩は、
お前の進歩の息吹(いぶき)を妨げるようなことがあるまい。
青い階段に、星なす金の涙をふるいおとす人像柱の不死の眼は、
三途の河水さえ溺らせることができなかったのだ。

 たとえ、ふたをとってなかを見るのが恐ろしいにせよ、
あるいは、清新な、みどりしたたる大自然にとって、都会が、
くさい《おでき》にすぎないにせよ。
詩人は、あえて言うだろう。「まったく、おまえはすばらしいぜ!」

 嵐が崇高な詩でおまえを祝い、
凄まじい動乱の力がおまえをゆすぶった。
おまえのいっさいは湧き返り、死がうなる。おお、選ばれた都よ!
鳴らない喇叭(ラッパ)のまんなかに、甲高い叫びをかきあつめろ。

 詩人は、賤業婦(せんぎょうふ)のしのび泣きや、
徒刑囚の怨(うら)み、無頼漢の絶叫を身近にききとり、
愛の光速で、女たちを笞(むち)打ち、
詩句はまた、おどりあがって叫ぶだろう。「ほら、ほら、そこに悪漢どもがいるぞ!」

 ――社会よ。すべては立ち直った。
どんちゃん騒ぎは昔の狼祭りのように息を喘(あえ)いで泣いているようだ。
赤い壁に添うて、うなされているような瓦斯(ガス)燈が、
あけがた、空がうすあかるむまで、不吉に燃えつづけている。

(引用おわり:「ランボー詩集」金子光晴・訳)

副島隆彦です。
こういう感じで、日本語訳ではこの金子光晴(かねこみつはる)以上に良い訳はありません。小林秀雄(こばやしひでお)の訳なんて、大したことはない。

これが文学です。文学というのは革命の嵐、激情、情熱のさなかで、その現場を目撃した人間たちが書くものです。それをリテラチャー(literature)と言うんです。このことがわかってない。

だから、私は映画評論本も出しますけれども、これからどんどんオペラ、歌劇という、ヨーロッパの、モーツァルトのころからもうあるんだけれども、あと19世紀に貴族や大金持ちたちが死ぬほど大好きだった、王侯貴族が大好きだった歌劇というものの有名な作品が100ぐらいあるけども、それらほとんど全て政治問題なんです。

政治の動乱や革命や戦争の中にあらわれた男と女の三角関係やら、引き裂かれる運命とか、殺される話とか、そういうのばっかりなんです。「ドン・カルロ」とか「清教徒」とか、モーツァルトの「セビリアの理髪師」から、何だかんだ全て、革命の話なんです。「カルメン」にしても何しても実はそうなんだ。そういうことで、今から私はオペラ論というのも、人生の終わりにかけて書いていきます。

ランボーはパリ・コミューンの中で相手にされない、もう浮浪者の餓鬼みたいにしてパリの中をさまよっている。そして、人の描写を正確にやってるんです。ランボーは写実主義というか、正確なリアリズムで書いています。しかし文学者たちの分類では、ロマン派の芸術運動、ということになっています。

そして、「象徴主義」という言葉で語られます。サンボリズム、シンボリズム(symbolisme)ですけども、そういうふうに文学部では教えることになっている。象徴主義というのは、言葉の意味をずらしながら使うんです。パリの民衆たちの暴動の様子を、新聞記者が書くようにはっきりと書くのではなく、韻文です。韻を踏む。ライム(rhyme)というのを踏んだ、言葉の散らばりの中に、ぱっぱっぱっときれいに埋め込んでいって、シラブル(syllable)というか、詩の流れ、あるいはソネットという14行詩の形の中に閉じ込めていくわけです。それが文学です。

文学部教授たちというのは、大体、政治問題がわからないアホがそろってます。特に一番ひどいのが英文学者になった人間たちです。非政治的人間で、日本には保守派、再生派の文学者は、まず英文科から起こった。その前はドイツ思想やフランス思想を勉強している連中は、どうしても政治的にならざるを得なかった。まあ、それはいいですが。

ですからランボーはパリ・コミューンを目撃しているんです。それが大事なことなんです。そのことを誰も言おうとしないから、私が「文学とは何か」ということで、今、説明をしている。

そのパリ・コミューンが2カ月で鎮圧されて、600人ぐらい、指導者だったような連中が縛り首に、銃殺刑になるわけです。その銃殺刑もパリのど真ん中でやってるわけですが、何と面白いことに、そのころパリのシャンゼリゼ通りの――パリの立派な建物は当時から4階建てと決まってるんです――その高級住宅街の上のほうから銃殺刑の音に対して、「やかましい」「うるさい」という声があったんだそうです。

すなわち、世の中というのは大きくて、パリの労働者の自治政府ができましたとかいったって、そんなものはただの暴動で、そんなの関係ないよ、という形で、金持ちや豊かな人たちはそれなりの生活をずっと続けている。

それは今のウクライナ戦争、内戦の様子を見ていても、爆弾や鉄砲の弾が直接飛んでこないところでは、人はふらふらと平気で歩いてます。つまり戦場になっているところ以外では、普通の人は、何のこともなく、10キロ先で戦争があっても普通の生活をしている。ただ、普通の生活といったって、お店とかはもうほとんど閉まってて、逃げる人はもうみんな逃げちゃってるわけですけれども。

直接、爆弾や鉄砲の弾が当たらないところでは、人間というのは当たり前のように生きている。だからパリも大きな都市、ヨーロッパ最大の華やかな都市ですから、政治運動があろうがなかろうが、多くの人はそのまま当たり前に生きている。人間が生きている事実は、政治問題とあまり関係ありません。

おもしろいことに、このパリ・コミューンで非常に政情不安でありながらも、フランス人というのは非常に政治的な国民で、文化、芸術、教養を大事にする国民でもあるから、何だか知りませんけど、ランボーの詩をみんなでもてはやすということになってしまった。

だから、不思議なことに1871年、17歳になったころ、8月の終わりに『酩酊船』、酔っぱらい船を書き上げています。そして、それは雑誌に載った。そして何とテオドール・ド・バンヴィル(Etienne Jean Baptiste Claude Theodore Faullain de Banville,、1823年〜1891年)という、当時有名だった詩人の作家が連れて回るんです。有名な人たちのところを。

それがまさにヴィクトル・ユゴー(Victor-Marie Hugo、1802年〜1885年)や、あとボードレールにも会ってるんじゃないか。ランボーは14〜15歳でボードレールの詩を一生懸命読んでいました。ボードレールの『悪の華』の話は今日はしませんが、フランスの詩人で最高の作品と言われています。

このバンヴィルの紹介で、ヴェルレーヌの家に呼ばれます。呼ばれてずっと暮らしています、1871年に。そしてヴェルレーヌとランボーは同性愛、ホモセクシュアル関係なんです。それはまだ社会的には許されないことで、カトリックの坊主たちから見たら、目くじら立てて叱られるどころか、犯罪者扱いされて牢屋に入れられそうな時代なんですが、それでも感覚が最もすぐれていたやつらですから。あとデカダンスというのをやりますから、お酒を飲んだくれてわあわあ大騒ぎして、どんちゃん騒ぎをやるんです。

ヴェルレーヌとランボーはそれからすぐ放浪の旅か何かに出るんです。それはもう1872年です。1回けんかするんだけど、もう1回パリに呼ばれていって、2人でベルギー旅行に行ってます。それから10月に、みすぼらしい浮浪者の格好をしてロンドンにたどり着いています。

ロンドンでも暮らして、何で暮らしているかわかりませんが、やっぱり文学者仲間みたいなネットワークがあったんでしょう。それは日本の江戸時代だって、連歌とか俳句とかを読んだら、文学好きの金持ちの豪商、豪農たちがいますから、その家を渡り歩くわけです。松尾芭蕉(まつおばしょう)やその子分たちは。それと同じような感じで、そういうネットワークがあったんでしょう。そこで詩か何かをみんなの前で朗読したりするわけです。サロンですけど、そこで生活が何とか成り立つんですよ。

それで、ヴェルレーヌとの愛情関係が嫌になって、もう大げんかして縁を切ろうとする。そして、ここからがおもしろいんですけど、ランボーという人は畑仕事をしに、出稼ぎ労働者のような、畑で働く農業労働者をやりに行きます。季節労働者です。それからすぐまた、今度は田舎に帰ると、それからまたロンドンに渡って、それからブリュッセルに戻ったら、またヴェルレーヌたちがランボーのところに追いかけてきたようです。

そこでヴェルレーヌがピストルを発射して、ランボーの左の手首に当たってけがをした。で、ヴェルレーヌは2年間の懲役になるんです。ヴェルレーヌは2年後、刑務所から出てきて、何でしょうかね、また喧嘩なんです。会って喧嘩している。それから、またシャルルヴィルに戻っています。

それから1876年には、今度は石切場(いしきりば)の現場で肉体労働者をやっています。イタリアのミラノでも暮らしています。要するに旅行者というか放浪者というか、ふらふらして生きている人間なんです。その前に、19歳で詩を書くのをきっぱりとやめてしまってますから、もうヴェルレーヌとも縁が切れてるわけですが。

その後、オランダの植民地、今のインドネシアですが、ジャワ島やスマトラ島ですね、ここをずっと500年間、植民地にしてますから、志願兵で行きたい人を募集していたわけです。その募集に応じてジャワまで行っています。ここも1年もいないで帰ってきて、またフランスの南のほうのマルセイユに行きます。このマルセイユというところはフランスの地中海の最大の港で、ここから100キロぐらいのところがツーロンというところで、こっちが軍港です。軍人の港。そのマルセイユで波止場(はとば)人足(にんそく)をやってます。それでまた病気して、田舎に帰る。それでまた、今度はキプロスに行っています。

何か、東方のほうに行きたい、という気持ちがあって。それで決定的に26歳でアデン・アラビアというところに行ってしまいました。キプロス経由で。地図を見たらわかるけれど、アラビア半島の南の端っこですね。ここにもフランス人たちがいて、フランスの植民地みたいになってるんです。今で言えば、香港とか上海みたいな感じだったんでしょう。そこのコーヒー仲買人の会社で、帳簿つけの事務員をやっています。

そしてこのとき何と戦争がありました。エジプトと、アビシニアというのは今のエチオピアですけど、戦争をしているので、そこに抜け目なく、経営者から命令されて鉄砲を何百丁か積んで、恐らく船じゃ行けないので内陸部に向かってラクダか馬に鉄砲や銃弾を載せて売りに行ったんです。恐らくこのとき、儲かったんですよ、きっと。それで、ヨーロッパ人としては初めてエチオピアの内陸部に行ったというんです。ハラルというところからブバサというところまで旅行している。それで4万フランぐらいのお金を現金で、金貨で持っていたそうです。

次の年、1885年には、恐らくアデン・アラビアだと思いますが、アラビアのところで自分でお店を持つぐらいに金儲けしてます。ところが、ここから6年間は、恐らく豊かな暮らしをアデン・アラビアでしてたんだと私は思います。武器商人もやったわけです。

1891年に右の膝の関節に腫瘍ができて。恐らく伝染病にかかったのでしょう。5月にマルセイユに自力で何とか帰ってきて、そこで入院して、もう動けなくなりました。そして11月には死にました。お母さんも1回、看病に来たみたいだけど、妹のイザベルという人が最期まで看取ったようです。

文学的生き方というのは、ハチャメチャ、滅茶苦茶の精神病者みたいなおかしな生き方をしていい、というふうに、世の中では何となく思われています。でもランボーの場合、本当は最後の6年間は、商人になり切って真面目に暮らしてたんじゃないか、と私は思います。

最後までめちゃくちゃな人生をやって、飲んだくれて死んだのではなく、ランボーという男は天才ですから、世界の果てみたいなところに行ってしまって、もうヨーロッパを嫌いになっていたんです。しかし、やっぱり死ぬ間際には自分の国、フランスで死んでいる、ということです。

このランボーに顕れる生き方というのは、特殊といったら特殊だけど、私はそんなに悲劇的な人生とは思わない。なぜなら、詩などというものは、50本ぐらい書けばもう十分なのであって、それ以上の、詩人が何十巻も詩集を出しました、なんてばかな話はないわけです。

皆、何か勘違いしてる。優れた詩を15歳から18歳まで書いたらもう十分じゃないか。あとはやることがなければ、商売人をやるか、肉体労働者をやれば、それでいいんです。

私も今から石切場というところに働きに行こうかな、と思う。伊豆半島の南のほうに伊豆石という緑の色をしている軽石がありまして、石切場があるようですから、そこへ行こうかなと思ってます。

さて、では大きく、当時のフランスの政治問題に関していうと、ヴィクトル・ユゴーという男がいます。恐らく当時、フランス最大の国民文学者と呼ばれていた。

・ヴィクトル・ユゴー


ランボーはヴィクトル・ユゴーに会っています。恐らく1872〜1873年に。ユゴーはもう、そのころ70歳ぐらいです。爺さんで大家で国民的大作家なんですが。このヴィクトル・ユゴーとカール・マルクス(Karl Heinrich Marx、1818年〜1883年)の関係が、実はヨーロッパ政治、文学を語るときに非常に大事なんです。

・カール・マルクス


日本で左翼と呼ばれた人たちが、もう今はほとんど消えていなくなりましたが、まだ70、80で生きてます。60代は山ほどいると思うけど、もう何もしゃべらなくなった。本も書けるような人たちじゃないから、ぼさっと生きてます。

私が61歳です。私は日本の左翼文学とか左翼政治思想運動の一番下の年齢の人間なんです。坂本龍一(さかもとりゅういち)が、私より二つ上ですからね。糸井重里(いといしげさと)も三つか四つ上でしょう。この辺が実は、新左翼過激派活動家なんです。こいつらの一覧表を全部、今から出してやろうかと私は思ってるんだけど。私は彼らより若いんです。

まあ600人か800人のリストをつくって、「こいつは学生運動のころ、どこの派閥にいて、どのセクトにいて何をしていた」ということまで全部、今から絶対、書いて本にしてやろうと思ってます。

ヴィクトル・ユゴーというのは非常に大事な作家だけど、あまり皆さん読んでないと思う。一番有名なのはやはり『レ・ミゼラブル』です。『噫(ああ)無情』と、日本では黒岩涙香(くろいわるいこう)が訳した。涙香は、他に『巌窟王』(がんくつおう)という、アレクサンドル・デュマ、大デュマの小説も翻訳しています。

黒岩涙香、マムシの周六の話は今日はしませんが、『萬朝報』(よろずちょうほう)という新聞を出して、えらく受けました。スキャンダル新聞の始まりなんですが。その黒岩涙香の『萬朝報』で新聞記者をやってた連中が黒岩涙香に逆らって、「自分たちは日露戦争は反対だ」ということで暴れ出して出ていって、今の大塚というところで平民社(へいみんしゃ)というのをつくって、印刷機を新しく買ってつくったのが『平民新聞』という新しい新聞です。

ここに堺利彦(さかいとしひこ)とか荒畑寒村(あらはたかんそん)もいた。それが日本の社会主義運動の最初の人たちです。堺利彦は日本共産党の創立メンバーでもある。それから他にも、もっと有名な人がたくさんそこにいます。

その話も今はできませんが、ヴィクトル・ユゴーは『ノートルダム・ド・パリ』というのを1831年に書いた。これで文壇での地位は確立したと言われてます。ユゴーという人は、エミール・ゾラ(Emile Francois Zola、1840年〜1902年)やギ・ド・モーパッサン(Henri Rene Albert Guy de Maupassant、1850年〜1893年)らと同じ扱いで、フランス文学の中の作家、と言えばそれだけのことですが。しかし実はシャトーブリアン(Francois-Rene de Chateaubriand、1768年〜1848年)という、保守派の大御所の貴族上がりの文学者に認められた人なのです。

ユゴーは1802年生まれで、お父さんはナポレオン1世のときの軍隊の将軍だった。いいところのお坊ちゃまです。15歳でアカデミー・フランセーズの懸賞論文に入選している。

だからユゴーも早熟型です。20歳でもうどんどん作品を発表するようになって、ロマン派の文芸運動、ロマン主義と言われます。

『セナークル』という雑誌を出して、文学運動の中の代表になるわけです。それで、もうフランス革命が終わった形になって。ナポレオン1世がヨーロッパ中に軍隊を出して勝ち続けるんだけど、もう1815年にはぼろ負けです。ワーテルローの戦い(The Battle of Waterloo、1815年6月18日)でイギリスの海軍に負けてしまって、セントヘレナ島に閉じ込められて死んでいった。

大事なことは、フランス人というのは、とにかく威張ってるんです。今でも。このことを、皆がよくわかってない。

フランス料理というのは、無いんです。フランス料理というのは、フランスの地元料理のことじゃない。イギリス料理、ドイツ料理、スペイン料理は、その国の人がつくってる地元の料理ですが。フランス料理は「王侯貴族が食べる料理」のことなんです。大金持ちまで含めて。だから、そのことを知らなきゃいけない。

今のアメリカのニューヨークやワシントンの大金持ちや高学歴のインテリたちでもフランス語の勉強をする。フランス語がしゃべれないとかっこ悪い、みたいな感じもあります。特に女たちは。それでアメリカ人というのはフランスに対する劣等感があるんです。フランス人のほうもアメリカ人を莫迦にしてまして、大嫌いなんです。

私が『属国・日本論』(五月書房刊)ではっきりさせたように、1960年代までは、フランス文学やフランスの映画などが素晴らしかった。私の少年時代の映画では「白い恋人たち」(原題:13 Jours en France、1968年製作)とか。これはフランスのグルノーブル大会の冬のオリンピックの映画ですが。他にも俳優のアラン・ドロンとか、日本にも何回も来てる、少し威張ってるカトリーヌ・ドヌーヴとか。あんな女優たちは、アメリカが嫌いなんです。

フランス人というのは、もうとにかくお高くとまっていて、逆に言うと、黒人のこととかアジア人種のことなんか人間だと思ってないと思います。それがフランス人。ほかのヨーロッパ諸国の人々のことをばかにしてるんだから、アジア人や黒人に対してはほとんどもう無視みたいな世界です。

アメリカ合衆国は世界帝国なのに、フランス人はアメリカ人やアメリカユダヤ人のことをばかにしてるわけです。なのに力がないですから、やっぱりフランスも、アメリカの言うことを聞かないと、なかなかやっていけない。

フランス文学というのは、「文人で知識人で高級な知能を持った優れた人間が、社会の上に立って指導者になる」という思想で動いています。だから、ユゴーというのもそういう男です。もうこれは、1845年に上院議員になっている。「上院議員」と訳すけど、本当は「貴族院議員」です。ユゴーはそんな大したことはない、下級貴族、一番下っ端のほうだから、普通、貴族院議員なんかになれないのになっています。小説家としての名前が非常に有名だったわけで、それで尊敬されているわけです。

この後、1848年に「パリ二月革命」(Revolution francaise de 1848)というのが起きるんです。これは非常に大事で、1848年というのは、日本ではまだ幕末のころです。ペリーの黒船が現れるのが1853年、54年ですから、それよりちょっと前です。パリの二月革命、それからウィーンの三月革命(Revolutions of 1848 in the Austrian Empire)というのは非常に重要な時期で、ヨーロッパじゅうが動乱状況になったというか、革命の時代です。

ところがもう社会主義革命の雰囲気があって、労働者たちが騒ぎ出して、地位改善要求運動をやるんですね。それで、王様や貴族階級、坊主たちの階級が、非常に動揺するわけです。それでもまあ、2、3カ月ですぐに鎮圧されてしまう。

しかし、もうこのとき既に、フランス大革命から30年ぐらいたっています。でもそのときでも既に、例えばプロシアのフリードリヒ大王と呼ばれたフリードリヒ2世(Friedrich II., 1712年〜1786年)なんていう男は、「自分たち国王というのは、民衆のしもべである」とか、「民衆の召使である」とか、本当はそんなこと思ってもいないくせに、そういうパブリックサーバント理論というのをつくって、何だか非常に民衆にこびへつらうような理論が当たり前のように、ヨーロッパではもうできていたんです。

ですから、時代としては「デモクラシー」(democracy)なんていう言葉は誰も言わないんだけども、共和政、リパブリカン(Republican)の時代ではあったわけです。王様、国王というのは首をちょん切ってしまえ、と。要らないんだ、と。共和政の政治体制でいい、という意見です。

この共和主義者、リパブリカン(Republican)と王侯貴族、国王たちとの戦いの時代なんです。でも国王たちでも啓蒙専制君主と言われている連中は、民衆や国民の主張を受け入れなきゃいかんと思っていたわけですね。そのときも暴動がやっぱり起きている。

このときカール・マルクスは30歳ぐらいです。やっぱりパリに出てきている。ただ、これは暴動ですから。革命、と偉そうなことを言うけど、軍隊が出てくると負けてしまうんです。ここが、これまでの左翼思想家や知識人たちがわかっていないことで、副島隆彦が初めて大きく思想家として明らかにしなければならないことなんですが、革命というのはただの暴動でして、負けてしまうんだ、ということが非常に大事なことなんです。多くの人がその辺でわあわあ大騒ぎしながら、うろうろしているだけなんです。

人間はご飯を食べなきゃいけないから、やっぱり商売をやるんです。職人は自分の、洋服つくり業なら洋服つくり業、パン屋ならパンつくり業、道路舗装業者は舗装するし、荷物運び屋は荷物を運ぶし、百姓は百姓をやるわけです。やはり地主がいて、貴族様みたいな地主たちが、年貢を取り立てるわけです。この体制そのものは絶対に変わらない。ここが大事なところです。「政治と文学」とは、その辺を人間がどう描いたか、ということが大事です。

カール・マルクスを中心に政治を語ろうとするから、「社会主義という運動がありまして、それが敗れていきました」という話になる。しかし敗れていったという、その理由を誰も説明しない。

さっきのアルチュール・ランボーの話に戻ると、ランボーが16歳でパリをうろうろ浮浪者みたいにうろついていたときが、1848年の、パリ二月革命から22〜23年後の話です。そのとき歌った歌が本当の革命の歌であり、それが『ランボー詩集』なんです。

マルクスという人は、一応みんな社会主義を大成した大変な思想家です。しかし右翼の人たちから見たら大きく嫌われてる。しかし、あまりにも偉大過ぎて立派過ぎるから、誰も相手にしない、とも言えます。今、マルクスと言われても、名前を知ってるだけで、リベラル派自体がマルクスの本を読みませんの。もう何と言っていいやら、私もあきれ返りますが。私は15〜16歳からずっとマルクスとかレーニンの本を読んでる人間ですから、不思議な感じがする。

マルクスもまた早熟型です。もう20歳少々で大論文を書いた政治活動家です。しかし政治活動家といっても、1844年に『神聖家族』という評論文を書いているんだけど、それ以外は『独仏年誌』といって新聞を自分で勝手に出してます。しかし、すぐに潰れてしまう。新聞といっても、皆に毎日配って歩くようなやつじゃなくて、雑誌です。雑誌を1万部ぐらい刷って、売って回るし、買ってくれる人が当時たくさんいたんです。

それから、『フォールヴェルツ(前進)』という雑誌も出して、また潰れてます。さらにはパリで『新ライン新聞』という雑誌を出してます。すぐ潰れるんです。これが22〜23、24〜30歳。パリに出て、パリでフリードリヒ・エンゲルス(Friedrich Engels、1820年〜1895年)と出会っています。生涯の友人同士なんですが、それが1844年です。

・フリードリヒ・エンゲルス


そういう政治雑誌を出すものだから、フランス政府の官憲から目をつけられて追放処分になります。それでブリュッセルに行く。そのとき27歳です。その辺で『ドイツ・イデオロギー』というのを書いて、『哲学の貧困』というのも書いてます。

それから共産主義者同盟、コミュニストリーグ(Communist League)というのが生まれまして、それに参加しています。第2回のロンドン大会というのがあって、そこに主要なメンバーとして参加している。それが1847年です。で、いわゆる『共産党宣言』というのが1848年に出ます。これがまさしく、ヨーロッパ中の大都市を動乱状況に巻き込んだ政治闘争の、パリ二月革命のことなんです。

ウィーンでは三月革命です。ウィーンというのは、オーストリア=ハンガリー帝国ですが、その前は神聖ローマ帝国の都ですからね。ヨーロッパ最大の、ヨーロッパ全体の都はウィーンだと称していた。しかしそれよりもパリのほうが華やかになってしまっていたわけです。ロンドンなんてまだ、石炭だらけで、すすだらけの田舎の都市だったと思います。しかし、やがてロンドンが、大英帝国の首都ですから、一番お金持ちになっていくのだけれども。

しかし、マルクスもピストルぐらいは買った、というけど、暴動には参加していない。言論人、知識人ですから。それでも政府の側から見れば扇動家、デマゴーグです。言論活動で人々を扇動はするわけですから、ドイツから追放された。自分の国で裁判にかけられ、しかし無罪になった。

1849年にはパリを経由してロンドンに渡った。それで、1883年に死ぬまでずっとロンドンにいます。ロンドンで何をやったかというと、The International Workingmen's Associationというのをつくって、これが国際労働者協会というやつです。別名、第一インターナショナルというんですよ。それが設立したのが1864年ですから、46歳のときです。カール・マルクスは64歳で死んでますから。ヴィクトル・ユゴーが1885年に死んで、カール・マルクスが83年、2年先にマルクスは死んでます。ヴィクトル・ユゴーは83歳まで生きてます。

実はマルクスの晩年というのはもう、食い詰め者なんです。『経済学批判』という経済学の勉強ばかりして、それが1859年です。それから『資本論(Das Kapital)』というのを書いて、ロンドン博物館というか、その一部が図書館なんですけど、私も行ったことがあるけど、そのロンドン図書館(大英博物館図書館)でずっと日がな一日、失業者の男が資料を一生懸命ひっくり返しながら、引っ張り出しちゃ、本を書いてたんです。

それが1867年に第1巻目が出された『資本論』なんです。後のほうは、もう死んだ後、そこらに書き散らかしてたのをいっぱい集めて、フリードリヒ・エンゲルスが残りは出したんです。『剰余価値学説史』をね。『資本論』の2巻目も3巻目も。それはもう1894年ですよ。1900年代になるんです。

1900年になると、物理学者のアインシュタインみたいなのも出てくるし、それからレーニンが出てきて、ロシア革命か何かわあわあ騒ぎ出すわけです。カール・マルクス自身は、ヴェーラ・ザスーリチだったかロシア人の女が来て、ロシアでも革命やりますみたいなことを言ったら、やらないほうがいいと言ってるんです。遅れた国で民衆暴動を組織して権力なんか握ると、食わせることができないから、やめたほうがいい、というようなことを言っています。最も豊かなところからしか、次の時代の新しい政治体制は生まれないんだ、というのが、マルクスの本当に大人の考えなんです。

ですから、ソーシャリスト(社会主義者)といって、日本でも日本社会党とか日本共産党とかいろいろあるけど、あんなものは、世界の流れの中の一部にすぎない。ヨーロッパの本来の、インテリの知識人の頭のいい連中が、ソーシャリストを名乗った、ということなんですが、まあ、彼らはご飯が食べられない。このご飯が食べられない問題をどう考えるか。つまり、「革命家」という職業なんか、無いんです、そんなもの。

革命家なんていうのは、暴動扇動家とか、私は、「陰謀」という言葉は嫌いだけど、陰謀家とか破壊活動家とかテロリストとか、もうそういう言葉に置きかわるわけです。だから、戦争活動がないと食べていけない。ただ、彼らは知識人ですから、本が売れると食べられる。知識人といっても、本が売れるといっても、文学しか売れないのが基本だと私は思っています。

私は30歳ぐらいから、英語の勉強の仕方みたいな本を書いて、知識人というか、プロの物書き、言論人になっていった。40歳ぐらいからは政治評論とか文芸批評みたいなこともやって、もう今60です。この20年間は「評論家です」と言っても恥ずかしくないぐらいの立場になりました。この20年間、かれこれもう30年間、物書きで私は食べているんです。その間、結局13年間、予備校で教えて、12年間、大学教授をやっていましたから、合計25年。それを入れて30年間、言論人の知識人です、と言っているわけで。

ですからマルクスが65で死んだということは、私も61ですから、何か同じ人間としての構え、生き方というふうに考えざるを得ません。

ヴィクトル・ユゴーは、晩年は立派な、国民的大文学者です。しかも彼だって1848年の二月革命には、共和主義者として議会の中で、わいわい活動してる。貴族院議員のくせに憲法制定議会議員か何かになってしまって、受けがいいわけです。

ところがその3年後、何かおかしくなってしまう。要するに理想主義の共和主義の立派な国民思いの政治体制なんていうのは、国民を食わせることができない。

日本の民主党政権ができても、食わせられないものだから、結局、自民党に戻る、というのと同じような感じで、そこでルイ・ボナパルト(ナポレオン3世)が出現して、クーデターをかけてきてるわけです。そうするとヴィクトル・ユゴーも、命を狙われるというか危ない状況に陥る。牢屋に入れられるか殺されるかどっちかですから、ブリュッセルに逃げるんです。

その後で、ジャージー島とかガーンジー島という、今、タックスヘイブンで有名なところですけど、フランスに近いところにあるイギリス領の島にいる。ユゴーは18年間、亡命生活を送っています。その後普仏戦争でルイ・ボナパルト(ナポレオン3世)が負けて、第三共和政が成立した1870年にようやく帰ってこれるんです。

その年の3月から5月までが、パリ・コミューンという労働者自治政府というのがあった、というだけのことで、そのときに15歳だった、16歳になりかかってたランボーがうろうろしてたわけです。

第三共和政というのはアドルフ・ティエール(Louis Adolphe Thiers、1797年4月16日〜1877年)というのが、これも文人墨客(ぼっかく)というか、文人、知識人上がりの人間が大統領になって、穏やかな共和主義の体制になります。その政治の実情は、大金持ちや工場経営者や貴族――つまりフランス人の場合、新しい貴族ですが――大農場経営者の田舎貴族たちの時代です。やはり金持ちを中心にした政治体制です。

これが何と1940年まで続く。ナチス・ドイツがフランスに攻め込むまで、ずっと第三共和政です。その後はもう第二次世界大戦ですから、私たちの現在につながっている。戦後、第四共和政というのをフランスは作って、今は第五共和政です。

ということで、ヴィクトル・ユゴーは18年も亡命生活をしている。帰ってきて、やれやれということで評判が高くなって、もう一回、貴族院議員と言わず上院議員になって、立派な扱いを受けて、静かな晩年を送って、1885年に死んだ。国葬です。パンテオンに葬られています。だから、一番立派な生き方をしたわけです。カール・マルクスは貧乏して、貧乏のまんまロンドンで死んでます。亡命者として。

最近、『レ・ミゼラブル』が映画になっています。2年前の2012年に。ものすごく評判が良かった。マルセイユかどこか、あちらのほうで、船か何かをずっと引かされる、船引き奴隷たちの中にジャン・バルジャンがいましてね、非常に悲しい感じで船引きの奴隷をやっていたようです。という様子が描かれているいい映画だそうです。もとはこれはミュージカルのはずです。歌劇から映画化された。ですから『噫無情』の話までつながる。

何となくわかってもらえましたでしょうか。文学というのはそういうものなんです。非常に政治と密着している。当たり前のことなんだけど。そこの観点がわからないと、文学というのがわからなくなってしまう。

もう少しマルクスの話に戻すと、マルクスは社会主義経済学理論をつくった人と言われているけど、ロンドンに亡命してからの残りの34年間というのはもうただの貧乏なんです。冷や飯食いのまま終わって死んでいった。ただ、ロンドンから一生懸命、論文を書き送って。

だから1852年に第二共和政がたたき壊される。ナポレオン3世という変な男が出てきて、そいつはナポレオン1世の甥っ子だというけど、本当は血はつながってない私生児の男だということが真実らしい。その悪い男が20年間、フランスを支配したわけです。

そのときの様子は『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』という政治評論本があって、私もそれを読みました。それは1852年です。マルクスが34歳ぐらいのときの本で、それから20年後にまた今度は1871年のパリ・コミューンというのがあって、そのことについても『フランスの内乱』という評論文を書いている。

これらは歴史評論本なんです。社会主義者の何か宣言文とか、そういうものではないんです。つまりヨーロッパ史というものを勉強する上で重要な歴史を描いた、歴史事件を描いたすぐれた作品なんです。ある意味では文学ではない。文学とも言ってはいけない、評論文なんです。そういうふうに見なきゃいけない。政治活動家であるカール・マルクスが、何か自分の勝手な意見をわあわあ書いてる、と捉えてはいけない。

ずば抜けてすぐれた人間が書いている歴史物の、歴史事件を叙述したものは、それは人類にとっての、その事件そのものの取り扱いになっていくんです。わかりますか。大きな意味ではリテラチャー、文学なんです。ルポルタージュと言ってもいいですね。だから、ルポルタージュ作品として、その記録文学として残された作品が素晴らしいわけです。

ジョン・リード(John "Jack" Silas Reed、1887年〜1920年)というアメリカ人の新聞記者が1917年、18年にモスクワに行って、レーニンたちが暴れている十月革命のさなかに目撃して、人がいっぱい集まってわあわあ演説してるところを、その様子を書いています。そういうルポルタージュ、要するに記録文学なんです。そこをわからなきゃいけない。

そうやって初めて総合的に、「文学とは何ものか」というのがわかったことになるんです。この考え方を抜きに、文学というのはわかったことにならない。

だから、文学部の大学教授なんかがランボーやボードレール研究か何かやってる、今も化石みたいなのがいると思いますが。そんなのは、一生懸命、フランス語で読んで、フランス語で学生たちに授業をやって、よかったねというだけのことで何の意味もない。やっぱり金子光晴(かねこみつはる)という早稲田の仏文出の文学者が詩集翻訳本として出した『ランボー詩集』という本が優れているんです。今でも。

『酔いどれ船』に関しては、私はもう『日本のタブー』(KKベストセラーズ社刊)でも書いた。ふらふらと酩酊船、船そのものが酔っぱらったようにパリのセーヌ川をうろうろしている、というような詩なんだけど、本当はこれは気違い船です。パリのセーヌ川にとめてあった船のことで、古い船なのでその中に精神病患者たちをたくさん収容していた。檻みたいなところにね。それをローマン・カトリックの坊主たちが、この人々は神様に一番愛されている、神に最も愛された人々だ、と言いながら面倒を見ていたんです。

しかし、精神障害者を収容しているわけで、その船がある日、忽然と消えるんです。ずっと海のほうまで持っていかれて、どこかで焼いて燃やして沈めたと思います。そのことを私は書いた。

そしてそれは、1985年ぐらいにフランス最大の知識人としてもてはやされたミシェル・フーコー(Michel Foucault、1926年〜1984年)という、歴史学的手法の人文知識人がいます。哲学者(philosopher)ではない。歴史思想家です。

このフーコーが『狂気の歴史』『監獄の誕生』という本を書いて、狂人、要するに気違いたちがどのように近代ヨーロッパ社会で扱われたか、ということをずっと書いている。これらの本の中に書かれたことをヒントにして、私は読み破った。

だから、この『酔いどれ船』というものの本当の意味は、精神障害者たちの収容病院のことです。そして、それをどこかに持っていって捨てた、という真実を、副島隆彦がはっきりと、日本では唯一、暴きました。それをサンボリズム、シンボリズム(symbolisme)、象徴主義の詩であるとか、ロマン派の詩人の詩であるとか、わけのわからないことを言えばいい、というものではない。文学というのは、そういうものをそれらしく、直接的な事実文章ではない形で表明する、ということです。

(了)  

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コメント
 
01. 五月晴郎 2014年8月17日 01:03:04 : ulZUCBWYQe7Lk : r2hkpE6I9E
転載元:http://www.snsi.jp/tops/kouhou  「1470」

02. 2014年8月17日 01:06:35 : r2hkpE6I9E
最初のほうの「普」はロシアでなくプロシアの何らかの単純なミスだと思います。

03. 2014年8月17日 03:53:23 : 92WALQjOvE
 
深夜に目を覚まし読みました。
海の真ん中で船の燃えるのを巡らせ
『酔いどれ船』を読み直すと
眼が冴えてきました。
 
 

04. 陣中見舞い 2014年8月17日 21:51:51 : 3pEdi1PI5rkGQ : ef3dMmfWIs
うーむ、ランボーの一節をファドか何かに乗せた音楽て無いんかね。

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