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『三世紀・三国時代 江南出身の卑弥呼と高句麗から来た神武(著:小林惠子)』の「第一章 三世紀までの日本列島と朝鮮半島の」からお送りします。
「吉野の国樔部=尾張氏=葛城氏の一族は、遠く犬戒の槃瓠伝説を背負った氏族であった。」という。葛城氏・尾張氏は大陸の西方より列島に移り住んだ犬戎であるという。
-------------------------------5より
●尾を持つ人・国樔(くず)部は犬戎
これら伝説は紀元前1000年頃から、北方遊牧民が四方に勢力をふるい、南方にも波状的に進出したきた歴史的事実を伝説の形で記したものだから、具体的に槃瓠と娘がどこにいたかを探すのはナンセンスである。しかし、北九州の狗奴国はその国名からして明らかに犬祖伝説を背負っていたと思われる。
「魏志倭人伝」によると、倭国には国の名に奴のつく国が奴国、狗奴国以外に、弥奴国(みぬこく)、姐奴国(そぬこく)、蘇奴国(そぬこく)、華奴蘇奴国(かぬそぬこく)、鬼奴国(きぬこく)、烏奴国(うぬこく)と六か国もある。この奴は私は匈奴の奴からきていると思う。奴のつく国はお互い民族的に近く、政治的にも連合していた様子がうかがえる。邪馬臺国に敵対していた狗奴国は、近畿から瀬戸内海にかけての奴のつく国と連合して邪馬臺国の九州勢力に敵対していたと想像される。
『書紀』には、神武天皇東遷の一行が、大和に入れず、迂回して熊野から奈良県宇陀郡に行き、それから吉野を巡った時、井戸の中から尾を持った光り輝く人間が現われ、国神の井光(いひか)と名乗ったとある。また、同じように尾を持った人が岩を押し分けて現われ、磐排別(いわおしわく)の子と名乗り、彼等は吉野の国樔部の始祖になったとある。不思議なことに彼等は神武に名乗りを挙げただけで、ナガスネヒコのように討伐されたり、服従儀礼を行った様子がない。それどころか、践祚大嘗祭の時、古風を奏したというから、神武の一行は彼等を先住の国神(くにつかみ)として尊重したようにみえる。尾のある国樔部とは、前に紹介した長沙武陵(ちょうさぶりょう)の蛮(ばん)の由来を語った槃瓠(ばんこ)伝説の、尾のある衣装を連想させるではないか。
この国樔部とは、一体何者なのだろうか。尾を持つ吉野の国樔部は、その名から尾張氏と関係の深い氏族ではないかと思わせる。五代孝昭天皇の妃で六代孝安天皇の母親は、尾張氏から出たとある。尾張氏は早くから神武系の孝昭らも無視することのできない勢力をこの大和地方にはっていたようだ。大和地方には高尾張邑という場所がある。この場所は『記紀』によれば神武が東遷した時、土蜘蛛に葛の網をかぶせて一網打尽にしたところなので、葛城の邑と名付けられたという。高尾張から高をとると尾張になるし、葛城の葛は国樔部と同じクズと訓音する。このことから、神武が一網打尽にした土蜘蛛とは尾張氏であり、吉野の国樔部だったと想像される。つまり国樔部=尾張氏であり、その尾張氏の出身地を江戸時代の本居宣長(『古事記伝』巻二一之巻)は葛城地方と考えている。
しかし私は尾張氏が葛城地方の出身というだけではなく、尾張氏=葛城氏だった可能性は大きいと思う。葛城氏の葛はカツと読むが、犬の槃瓠の瓠はカクで共通点があり、葛城氏は犬戎伝説においても尾張氏と一脈つながっているように思われる。また葛城氏と瓠、つまり、ひょうたんは深いつながりがある。
結局、吉野の国樔部とは、神武系の大和勢力と婚姻関係を結んだ尾張氏であり、その尾張氏は大和に本拠を持つ葛城氏でもあったのである。そして、吉野の国樔部=尾張氏=葛城氏の一族は、遠く犬戒の槃瓠伝説を背負った氏族であった。
葛城氏が神武東遷前の大和地方を本拠とする近畿地方を代表する豪族だったとするなら、1〜3世期にかけて西日本を中心に出土する銅鐸と何らかの関連があるはずである。それを証明する記述が『扶桑略記』(巻五)にみえる。
天智7年(668)正月、近江の崇福寺を建立中、五尺五寸もの銅鐸が夜光を放つ白石と共に掘り出されたという。天智7年といえば天智が即位した年である。この記述は漢の武帝の時に、土中から銅の鼎(かなえ)が発見されるという奇瑞があったので元鼎と改元したという故事に習ったものだろう。天智は葛城皇子ともいった。このことは天智即位当時の人々が、葛城氏が大和地方最古の豪族であり、しかも銅鐸文化の主であることを知っていたことを物語っていよう。即位の時に銅鐸が発見されたというのは、葛城皇子とも称した天智天皇が、葛城氏の正統な後継者であることを内外に印象づけるためのセレモニーだったと思われる。つまり、わざわざ銅鐸を土中に埋めて、即位の時に掘り出して瑞祥として天下に公表したのだ。
しかし、この事実は『書紀』にはみえない。天智と天武は非兄弟という私見(拙著『倭王たちの七世紀』)によれば、天智が正統な日本国王の血統なら天武天皇はそうではないことになる。だからこそ『書紀』の編纂者である天武の息子の舎人親王たちはこの事実を故意に記録しなかったのだろう。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=289817
『三世紀・三国時代 江南出身の卑弥呼と高句麗から来た神武(著:小林惠子)』の「第一章 三世紀までの日本列島と朝鮮半島の」からお送りします。
紀元前から大和地方を支配していたのは葛城氏のようだという。また、銅鐸は葛城氏のレガリアであったという。葛城氏=賀茂氏=尾張氏=海部氏=三輪氏=大神氏などは、同族か派生氏族であった可能性がある。
-------------------------------6より
●葛城氏とナガスネヒコは大物主(大国主)系、タケミカズチは神武系
奈良県の葛城山の東麓に鴨都波(かもつは)神社があり、その周辺にある鴨都波遺跡が葛城氏の中心地だったと考えられている。ここでは紀元前から後にかけての高床式の建物跡や石器類が出土している。少し後になると鴨都波遺跡のほぼ南、一言主神社に近い場所に、今はほとんど太古からの大木を残すのみの下照姫を祭る名柄(ながら)神社があり、その側に名柄遺跡がある。ここから小型の銅鐸と多鈕細文鏡(たちゆうさいもんきょう)が出土している。この鏡と同じ鏡が大阪府柏原市大県遺跡、下関市梶粟浜遺跡、佐賀県唐津市宇木汲田遺跡、福岡市吉武木遺跡の各遺跡から出土している。鏡は当時は権威の象徴でもあったから、これらの地方が葛城氏となんらかの連合関係にあったことを想定させる。問題なのは同じ多鈕細文鏡が、韓国慶州市の朝陽洞(ちょうようどう)の初期の遺跡から発見されたことだ。葛城氏は半島とも連合していたのだ。
このように紀元前から大和地方を支配していたのは考古学上からみても葛城氏のようにみえる。一方『記紀』では、スサノオが新羅に去ってから後の葦原中国は、オオモノヌシ(オオナムチ・大国主)とスクナヒコナが共同統治したことになっている。このオオモノヌシこそ東南アジアから北上した月氏族であり、私が第二次東遷のモデルと考える人物である。葛城には鴨都波八重事代主命(かもつはやえことしろぬしのみこと)神社(葛上郡)があり、葛城氏の子孫鴨(かも)君が奉斎氏族と考えられている。一方、『書紀』(神代上)には、大三輪神(おおみわしん)(大物主)の子に甘茂(かも)君がいるとあり、『古事記』崇神天皇条には、大物主の子、オオタタネコは鴨君の祖とある。また、オオモノヌシのもう一人の子アジスタカヒコネは、『延喜式』にみえる大和国葛上郡の高鴨アジスタカヒコネ神社の祭神である。このように鴨(カモ)は、オオモノヌシと葛城氏に共通してみえる。さらに、藤森栄一は、全国36か所の銅鐸出土地がことごとくカモ (加茂・鴨等)、ミワ(三和も含まれる)を奉斎する古氏族の居住地であることを指摘している。銅鐸は大三輪神(大物主)と葛城氏のレガリアでもあったようだ。
以上述べたように、葛城氏=大物主と考えられる。ともに南方から来たのだが、私は本来、葛城氏は犬戎、オオモノヌシは胡人系の月氏と、両者は民族的違いがあると考える。後発のオオモノヌシが奈良盆地に定着してから、婚姻によって結ばれたのだろう。『記紀』神代によると、その大物主はタケミカヅチノミコトに国譲りをしている。
神武が東遷した時に迎え撃ったのはナガスネヒコとニギハヤヒだった。大物主の国譲りの話は神代におかれているが、そこに人代の神武東遷の事実が投影されていることは十分に考えられる。人代に係る歴史的事実を神代のこととして記すのは『記紀』の特徴の一つであることはすでに多くの人が指摘している。この『記紀』の手法からみて、神武=タケミカズチ、ナガスネヒコ=大物主と考えて差し支えないと思われる。
ナガスネヒコ(長脛彦)とは珍しい名だが、『山海経』(大荒西経)には、西北海の外、赤水の東に「長脛」の国があると記している。西北海がどの海をいうのか分らないが、「大荒西経」とは中国よりはるかに西方という意味なので、西北海をカスピ海、赤水をヴォルガ河と仮定すると、その東はまさにスキタイの発祥の地である。「魏志」東夷伝の東沃狙(よくそ)の条に、高句麗を征討した毋丘倹(かんきゅうけん)が聞いた伝聞が載っている。それには東方の海中にある国は女だけで男がいないこと、また、その海中から着物が浮び上ったが、袖の長さが三丈もあったことなどを、土地の古老が毋丘倹に話したという。沃狙は中国東北部から半島の東海岸にかけての地帯をいうから、この海中とは、日本海のどこかだろう。列島には大和盆地だけではなく、ナガスネヒコと呼ばれるにふさわしい巨人型の民族が移り住んでいたのかも知れない。大物主という名も大きい人を連想させ、そのコンビの相手を小彦名命(スクナヒコナ)として、大小を対比させているというのは、誰がみても明らかである。
スクナヒコナは『書紀』(神代上)に、淡島に行き、粟莖に登って弾かれて常世の国に行ったとみえるので、事実、小さいと思われていたことは間違いない。同じ、『書紀』(神代上)に、スクナヒコナが海の彼方からやって来た時、オオナムチ(大物主)が掌の中で弄んだところ、怒ったスクナヒコナが飛び上がってオオナムチの頬に食いついたという話が載っており、オオナムチの大きさと、スクナヒコナの小ささを対比させている。このようにオオナムチもナガスネヒコも大男であることからみて、オオナムチの異名がナガスネヒコということは十分考えられる。
大和盆地のほぼ中央にある唐古(からこ)・鍵遺跡は3世紀始め(2世紀末という意見もある)に衰微し、同じ大和川流域だが、5キロ上流の纏向遺跡(桜井市)に主体が移る。推測すれば、唐古・鍵遺跡がナガスネヒコの居住地だった場所であり、纏向遺跡の主は、やはり海外より大和地方にやってきてナガスネヒコに入婿して入り込んだ物部氏の祖先ニギハヤヒだったかも知れない。ニギハヤヒは神武東遷の時にナガスネヒコを裏切って神武に下り、神武を迎え入れたことによって、3世紀中葉以降の纏向の繁栄をもたらしたのではなかったか。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=290447
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