http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/460.html
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この本は、西アフリカのフランス領、ブルキナ=ファソのダガラという部族出身の著者が、自ら受けた、成人儀礼の「イニシエーション」の体験を、記述するものである。研究者が、聞き込みなどを通して、内容を記述するというものはあるだろうが、本人が自らの体験を綴ったものというのは、そうないはずである。その意味で、貴重なものといえる。
本来、このような「秘儀」は公開されるものではないが、その一部を、長老との協議のうえ、公開したということである。断片的で、全体がみえにくい部分もあるが、十分詳しく、その衝撃的な内容が伝えられている。
今や、このような部族の文化の存続自体が危ぶまれているから、文明世界の者に、そのいくらかでも、「理解」してもらおうという意図もあって、公開されたのだろう。
それにしても、その内容には、私も多くの衝撃を受けた。これは、一般に「成人儀礼」とよばれるもののイメージとは違って、形式的な要素は全くなく、非常に実質的で、深い「霊的体験」をさせるものである。成人儀礼というよりも、シャーマンの「イニシエーション」に近いものがある。あるいは、それらの、中間的なものといえるかもしれない。
そこには、近代人の常識からは、とても信じ難いこと、御伽噺や昔話の世界そのままの出来事が、当たり前のように展開されている。近代社会というよりも、「文明」そのものを、改めて問い直すだけのものがあるのである。人によっては、「彼らにとって、<大人>になるとは、<幻覚>を見ることを意味するのか」などと、揶揄したくなる者もいるだろうが。
期間は一カ月にも及び、種々の苦難や、試練、精霊的な存在との交流がなされる。著者は、部族の生れだが、西洋の宣教師に連れられて、15年間西洋文明の教育を受けたものなので、初めは、なかなか儀式に入り込めず、通過できない。が、自分の選んだ木と対面して、それから、何かを「受け取る」という試練で、木との「対話」を心掛けるようになったことから、やっと儀式を通過して行けるようになる。その儀式では、木が、何と「緑色の婦人」に変身して、著者に、さまざまな言葉を授けるのである。
その他にも、泉の底の世界に入って、精霊と交わったり、地下世界で、前世を知るなどの体験をする。また、土の中に体ごと生き埋めになるという、強烈な苦痛の体験をする。それは、本当に壮絶な「苦痛」のようで、成人儀礼に身体的苦痛はつきものとは言っても、改めて、「苦痛」の意味を考えさせられる。
それは、結局、余計な「思考」を遮断させる。「死」を間近なものとして、意識させる。意識の「解離」(変容)を導き、「霊的世界」との交流を起こりやすくさせる。といったことになるだろう。
実際、著者も、苦痛の限界で、「解離」(意識が身体から離れる)が起こって、苦痛をほとんど感じなくなり、その後、意識が霊的世界へと移行していく状況を、よく記している。
地下世界の前世の体験では、面白いものが出てくる。著者は、前世でも、ダガラの部族に生まれたことがあり、何とそこで、「精霊」を奥さんにもらったということである。その精霊から、鳥や動物に「変身」する術を教わって、術を競い合ったりしたという。そして、そのときの「精霊」が、著者は、「その世界のことを多く知ってしまったので、(人間世界の)どこに行っても、なじめないのだ」などと打ち明ける。
以上は、一部であり、公開されたのも一部に過ぎないのだが、要するに、この一連の体験は、通常の成人儀礼のように、単に「死後の世界」、「先祖の世界」をかいまみるといったレベルのものではないのが明白である。「先祖の世界」以外にも、種々の「精霊的世界」があって、人間(部族の者)と、交流をしていることを知ること。また、精霊から、自己にとっての、課題や指針となる言葉を授かること。自己の前世を知り、どのような目的でこの世に生まれて来たかを知ること、などを含むのである。
著者も言っているが、我々の予想以上に、「集団」主義的ではなく、深く「個人」主義的な面が強いのである。
さらには、そのように、多様な世界があることを知る一方で、自己と外界(自然)の霊的本質は、本来「光」として、同一であることを知るといった、「根源的」な体験も含まれている。これは、「神秘家」などの体験する宗教体験とも近いものである。
ただし、これらの多様な体験は、長老などの指導があるにしても、その時点で一気に「消化」し得るはずのものではない。それらは、その後「大人」として生きて行くうえで、解き明かすべき「課題」、あるいは、「内的指針」のようなものとして、暖めていくべきものということになろう。
それにしても、このように、内容の濃いものが、成人儀礼として施され、それを超えた者が、初めて、一人前の「男」として認められる、というのはやはり驚きである。そして、当然ともいえるが、この儀式では、毎年何人かの犠牲者が出、今回も、4人の帰らぬ者が出たということである。(現在も、同じような形で執り行われているかは疑問である。)
このような儀式に、近いものとしては、ネイティブ・アメリカンの「ビジョン・クエスト」が浮かぶ。が、これは、むしろ、ドンファンがカスタネダに体験させようとした、多様な「非日常的」世界と、自己と外界の「霊的本質」を知る体験そのままといえるだろう。
また、そこには、これまで述べてきた、「分裂病的状況」とも、重なるものがあることも確かなのである。
著者は、祖父がメディスンマンで、子供の頃には、霊的なものとの接点も多くあったようだが、あくまで、西洋文明に学んだものとして、この儀式には、霊的には、ほとんど白紙(知らない)に近い状態で臨んでいる。(その点でも、カスタネダの場合と近い。)記述も、客観的で、我々にも分かりやすいものである。
だから、同じく、「未知」の状況に直面し、対処しなければならない、「分裂病的状況」にとっても、参考になる点が多いと思う。是非、一読を勧める。
http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2007/11/post-4fe9.html
<癒し>のダンス
よく、テレビでも、誰かが未開社会の取材に行ったときなど、歓迎の儀式として、夜通し火を囲んで踊るということが行われたりする。これは、あくまで、文字通り「儀礼的」な催しであり、真の儀式をまねた模擬的なものに過ぎない。
しかし、
リチャード・カッツ著『<癒し>のダンス―「変容した意識」のフィールドワーク』(講談社)
http://www.amazon.co.jp/%E3%80%88%E7%99%92%E3%81%97%E3%80%89%E3%81%AE%E3%83%80%E3%83%B3%E3%82%B9-%E3%80%8C%E5%A4%89%E5%AE%B9%E3%81%97%E3%81%9F%E6%84%8F%E8%AD%98%E3%80%8D%E3%81%AE%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%AF-%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%83%E3%83%84/dp/4062175533
という本は、この未開社会の「火を囲んで踊る」という一見単純な儀式の真の意味を、フィールドワークによって深く突っ込んで明らかにしてくれている。
そこには、人類またはあらゆる文明の、宗教、芸術、医術、シャーマニズムの原点といえるような、多様で密度のある内容が詰め込まれており、改めて驚かされる。また、私的には、「統合失調的状況」と通じる要素が多分にあることにも、注目される。
このフィールドワークは、1968年から、かつてホッテントットと言われた、カラハリ砂漠のクン族に対して行われたものである。ただ、当時、既に西洋文明の流入により、失われようとしていた要素も多くあるという。ブルキナファソのダガラ族のイニシエーション体験を綴った
『ぼくのイニシエーション体験』
(記事 http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2007/11/post-4fe9.html)
とともに、貴重な記録といえる。
この「踊り」は、火を囲んで、共同体の者たちがそのまわりを取り巻き、女は主に歌い、拍手をして盛り上げ、男が踊る、ということを夜通し続ける単純なものである。しかし、それは、「ヒーリングダンス」とも言われるように、多様な「癒し」をもたらす。それは、個々の者の「病気」を治療するというだけでなく、共同体全体の「癒し」でもある。それは、共同体に生まれた、さまざまな軋轢や溝を解消するということも含むのである。
この踊りのもつさまざまな側面は、それぞれに興味深いのだが、ここでは、個々の病気の癒しということと、「統合失調的状況」に通じる要素のみに着目して述べてみたい。
個々の者の病気を治療するのは、特定の「シャーマン」ではなく、踊りの中で「キア」と呼ばれる「変性意識状態」に入って、神々または精霊と交流する「踊り手」である。
「キア」に入ると、普段「見えない」ものが見え、「病者」の悪い部分が見えるようになる。「キア」の状態では、「ヌム」と呼ばれる「霊的エネルギー」が強力に活性化し、これを「病者」に「入れる」ことによって、病気に治癒がもたらされれる。また、そもそも「病気」とは、神々または精霊によってもたらされるものなので、「踊り手」は「キア」の状態で、神々や精霊と交渉して、病気を治療することを促すのである。
しかし、その「踊り手」は、儀式が終われば共同体の単なる一員であり、「シャーマン」のような特別な地位につくこともない。共同体全体が一体となって行う、この「ダンス」という儀式の「場」において、そのような「癒し手」が生みだされるだけなのである。(ただし、資本主義的な交換の原理の導入により、当時既に、報酬をとって治療する治療師も現れてはいた。)
「ヌム」という「霊的エネルギー」は、いわゆる「気」そのものだが、むしろ「クンダリニー」に近いといえる。普段みぞおちと背骨の基底部に宿っているが、儀式の「踊り」の沸騰により熱をもち、上昇して、頭蓋骨の底に達すると「キア」が始まるという。
この「キア」という特別の意識状態、一種の超越的な状態が、「癒し」の重要な鍵となっているわけだが、これには誰もが入れるわけではない。(ただし、クン族では、女の3割、男の7割が入れるようになるという。)そこには、克服しなければならない「壁」がある。「キア」に入る前の段階では、さまざまに強烈な身体的苦痛を伴う。また、「キア」という未知の状態に入ることは、強度の恐怖をもたらす。それは、まさに「死」そのものを意味し、それを超えるには、実際に「死ぬこと」しかないのだという。
このような、「キア」に入るときの状況については、クンの「踊り手」たちの話を交えながら、次のようにうまくまとめられている。少し長いが、引用しよう。
キアの体験は、解放と自由の感覚だけでなく、存在を根底から揺るがすような痛みと恐怖をもたらす。キアが始まるとき、「ガビシ」(横隔膜と腰の間の特に脇腹の部分)とみぞおちが、焼けるように痛むと、クンたちは繰り返し語る。ある癒し手は、自分がはじめてヌムを体験したときのことを、こう語る。
「ヌムが胃に入った。ガビシに入ったヌムは熱く、痛く、まるで火のようだ。私は驚き、泣き叫んだ。」
キアの体験は、肉体的な変化にとどまらない。別の苦痛と恐怖に満ちている。カウ・ドゥワは、とても明瞭に表現している。
「キアに入るとき、怖ろしいのは死ぬことだ。死んでしまうのではないか、死んで帰って来られないのではないか、が恐ろしいのだ。」
再生のない「死」のイメージは、ほかのどのような文化に生きる者にとっても、クンにとっても、同じようにひどく恐ろしいものである。「癒し」を学ぶ者が、自分の「死」に直面し、「喜んで」死ぬことかできるようになると、ヌムへの恐怖は克服され、キアを体験するための突破口になる。このとき「再生し、戻って来られる」という確信は、不可欠ではないにしても、大きな助けになる。
カイカイの老練な癒し手であるトゥウィは、キアにおける死と再生を、こう語る。
「心臓が止まる。死ぬ。思考は無になる。呼吸はむつかしい。いろいろなものが見える。ヌムにかかわりのあるものを見る。精霊が人間を殺すのを見る。燃えるにおい、腐った肉のにおいがする。それから、癒しをはじめる。病気を取り出す。治して、治して。治す。それから生き返る。目の玉ははっきり、人間を見る。」
(74ページ)
著者は、このように、よくクンの話を聞き出しているが、単なる聞き取り的な取材だけでなく、自分自身でも、この踊りを体験し、「キア」に入るということの意味を実体験しようと試みている。たが、残念ながらそれは適わなかったようである。しかし、この「キア」ということ、あるいは、それに入るプロセスの、重要な意味を見抜き、そこへ深い突っ込みをもって迫ろうとしている。それで、その過程は、「統合失調的状況」とも通じる面が多くあることが、明らかになってもいるのである。。
「キア」と呼ばれる状態は、「変性識状態」を意味しているが、それは、単に意識が変容した状態(幻覚的な知覚を得る状態)にあるというだけではない。その状態の中で、錯乱することなく、病人の治癒や、神々、精霊との交渉のできる、明瞭に「意識」的な振舞いのできる状態にあることを意味している。そして、そのような状態に至るために、超えなければならない「壁」が、「死ぬこと」というのである。(※)
このような、変性意識状態、またはそれに入る前の、苦痛を伴う混沌とした状況というのは、「統合失調的状況」と非常に似ている。クンの癒し手の言葉を聞いても、その共通性は明らかのはずである。しかし、統合失調的状況では、ある程度「変性意識状態」に入るとは言え、「キア」にみられるような、明瞭な「意識的」な振舞いを可能にする要素に欠けている。つまり、それは、「キア」のように、「死ぬこと」という「壁」を超えられずにいるわけである。そのために、混沌とした、混乱状態に留まって、抜け出し難く足掻いているのが、「統合失調的状態」ということになる。それに対して、「死ぬこと」の壁を超えて「キア」に入った癒し手は、癒しの儀式を終えると、そこから抜け出して、「人間」として「生き返る」のである。
この「死ぬこと」と「生き返る」ことについては、「死と再生」という言い方がよくされる。このブログでも、ときにこの言い方を使っている。ところが、この言い方は、特に「死」ということの、実質的な意味を見失わしめ、単なる「概念」に堕すおそれがある、人類学や臨床心理学などでも、この「死」のことを、よく「象徴的な死」などと表現する。それは、文字通り、肉体的に帰って来ない「死」と区別する意味で、模擬的、象徴的な「死」ということが強調されるのだろう。しかし、その「死」は、決して単なる「象徴」などではない。実質的には、肉体的な「死」と同じ。あるいは、むしろ、その「死」のより深みに降りていくことであり、だからこそ、「肉体的な死」に留まらないというのが、本当のところである。
著者も、多少この「象徴的死」という概念にとらわれていたためか、クンのいう「死」の意味をはっきりと捉え難かったようで、クンの癒し手に対して、さかんに質問を繰り返す。それに対する、クンの癒し手の答えは次のようである。
「キアで死ななければならない、と言ったことがありましたね。それは本当に死ぬ、ということですか。」
「そうだ」
「本当に死ぬということですか。」
「そうだ」
「地面の下に埋葬される時の死、ということでしょうか」。
私はもう言葉に詰まっている。
「そうだ」カウ・ドゥワは熱く答える。「まさにそれだ」。
「同じなのですか」
「そうだ、同じだ。それがおれの言っている死だ」。彼は言い切る。
「何の違いもないのでしょうか」私はもはや懇願している。
「それが死だ」彼はきっぱりと、しかし優しく答えてくれる。
「もう二度と戻って来られない死ですか」。私は自分の論理の網の端を、何とか握ったままでいようとしている。
「そうだ」彼は単純にそう答える。
「同じくらいひどいことだ。われらすべてを殺す死だ」
「しかし、癒し手はまた立ち上がり、亡くなった人は立ち上がりません」。
私の言葉は新たな疑問に吸い込まれていく。
「そのとおり」カウ・ドゥワは微笑み、静かに答える。
「癒し手はまた生き返るのだ」。
(170ページ)
※ クンによれば、癒し手になるには、「はじまりのキア」ではなく、「完全なキア」に入ることが、必要という。この言い方が、この辺のことをよく指し示していると思う。つまり、日常の状態から、ダンスを通して、「キア」という意識状態に入っていくわけだが、「完全なキア」とは、さらに日常の意識から離れて、深く「キア」そのものの意識状態へと入っていくことである。その過程では、当然、日常の意識を構成している「日常的な自我」が「死ななければならない」わけである。そのような、日常的な自我意識こそが、深く「キア」に入ることを恐れ、混乱をもたらし、足を引っ張るものだからである。
コメント
私が統合失調症と診断されてから霊的なものに関心をしめすようになったのも、幻覚や幻聴をシャーマンと呼ばれる人たちも体験していると知ったからでした。沖縄のユタでも変性識状態をカミダーリィと呼ぶそうですが、ユタとしての特殊な能力を身に着ける前に必ず起きるとされています。統合失調症とカミダーリィを異なるものとして扱う専門家もいますが、共通する点はあると思っています。異なる点は今回の記事の通りだと思います。
世界にはこうした事例がたくさんあるはずで、限定された現象ではないということが注目すべき点だと思います。そして問題はこうしたシャーマニズムを受け取る側にあるように思います。シャーマニズムを扱う社会によって、変性意識を体験した者の立場が変わってきます。唯物主義の社会ではやはり病人として扱われてしまいますが。
未開社会で行われる火を囲む儀式は人間の本能とか感覚を蘇らせる効果もあるのかなと思っています。今の社会で問題なのは、こうした人間の持つ感覚を無視ししすぎることがひずみとなって現れているような気がします。霊的なことを口にすれば、証拠はあるのかと言う人もいますが、こればかりは感じない人には伝えようがありません。ブルース・リーの「考えるな、感じろ」ほど的を得た言葉は無いなと思っています。
なんでも便利な世の中になっていますが、便利なことを追い求めることが目的になっているような気がします。一人一人が本当の幸福とは何なのかもう一度問いただす時期に来ていると感じます。
今から先進国が未開社会のような暮らしはできないし、文明を捨ててそうすることも何か違う気もするので、新しく調和の取れた社会になればと思う今日この頃です。
投稿: トシ | 2013年9月 4日 (水) 00時44分
トシさんありがとうございます。
沖縄や、その他あらゆる文化にみられるシャーマニズムは、本当に普遍的なもので、それに対して、西洋文明とか西洋医学などというものは、特殊もいいところのものですね。一神教やら何やらの影響を受けながら、何を勘違いしたか、自分では「普遍」の価値のつもりで、周りに自分を押しつけることに成功したため、広まったものに過ぎません。
そのような普遍的なシャーマニズムに比しても、クン族の「ヒーリング・ダンス」は、さらにその原点というか、その純粋な部分を素朴な形で取り出してみせてくれるので、驚きでした。それを、うまく仕えている著者もたいしたものですが。
しかし、これが、あるいは一般のシャーマニズムにしても、文明人の多くの者にちゃんと受け止められるかというと、やはり現状では無理と言わざるを得ないでしょうね。「感じろ」と言っても、感じる人は限られますし、初めから見向きもしない人がほとんどです。文明とこのような霊的な要素との調和ということには、私はもはや懐疑的で、一旦はこのような未開の状態に戻って、全てを経験しなおさなければ、何も分からないというところに来ているという気がします。
投稿: ティエム | 2013年9月 4日 (水) 20時58分
ティエムさん返信ありがとうございます。
今、文明社会は行き詰っているなと強く感じます。結局、社会主義だろうが資本主義だろうが、そこに生きる一人一人の人間の意識が問題なのだろうと思います。確かに第六感のような感覚は、一部の人しか感じることはできないと思います。
私としては人間の道理、道徳的なレベルでもう一度見つめ直すことはできないかと思うのです。やはり感覚的におかしいと思うことや、まずいかなと思うことは良くない結果を招くんだと思います。教育ですら、道徳や倫理などより知識や技術を圧倒的に優先しています。私の目には今の教育は経済的に優位に立てるように人材を育てているようにしか見えません。文明社会に生きる人は未開社会を低くみる傾向がありますが、未開社会から学ぶべきことは数多いと思います。日本では年間約3万人の人達が自殺しているらしいですが、震災の犠牲者より遥かに多い人が自ら命を落とす社会に疑問を抱かざるおえません。
青臭くても、あいだみつをの「うばい合えば足らぬ、わけ合えばあまる」という言葉が最近身に染みるのです。
投稿: トシ | 2013年9月 4日 (水) 22時41分
「考えるな、感じろ!」とは。魂を揺さぶります。ブルース・リーの武道も、祭りの乱舞も、身体を以て祈り捧げる人の真姿と、この言葉は教えてくれました。
ーその過程では当然、「日常的な意識」を構成している「日常的な自我」が死ななければならないわけであるー
不動と確信の「人」と相対し、さらなる解説を懇願する筆者の立ち位置は唯物西洋文明の格子を越える訳に行かないまま時は往き……後に筆者は失意と目眩を胸にペンを執られたのではありますまいか。
(そのお陰で今こうして、文章の理性による学びをさせて頂けるのも事実です)
このような社会では祭りを中心に歳月が巡ります。人々は「祭りのために在る己の存在」を普通に生きていて、何の疑問もないと私は感じます。
もう一歩踏み込んで、「日常的な自我」は単に受動的に死ななければならないのではなく、実は彼らは「その時」が訪れた時には、いつでも死ぬ肚が出来ているのではと発想しています。
そういう共通の意識が何代にも連綿と連なる社会であり、私達が起き伏しする現代社会とは比較しえない深い深い精神世界を有しているとは言えないでしょうか。
幻覚、恐怖、それらも凡て溶けこみ内包する精神世界を。
踊り歌い、やがて誰かが激しい痛みに泣き叫ぶ。「死ぬ」者と、それを目の当たりにする者。そして長い時ののち共有する「再生」。人知人力を越えた深い体験の共有です。
その(目的でなく)結果として喜ばしいことに、人々の日常にたまった諸々の対人的感情や軋轢も、あたかも台風一過のあの空のように清々しい「再生」を果たさせて頂けるのだと思います。(きっと神からのご褒美です)
脈絡なく長くなりましたが、このような「人のために神が在る」のではなく、「神のために人が在る」との共通意識がかの方々の幸せの源泉であることに、私達の未来への帰り道が隠されていると私は感じます。
投稿: みるくゆがふ | 2013年9月 8日 (日) 02時04分
みるくゆがふさん。ありがとうございます。
「考えるな、感じろ!」は、武術や芸術、スポーツ、修行などで、自分の限界状況を突破するような体験をした人には、疑いなく通じる言葉だと思います。それは、統合失調その他の精神的に異常な状況にも通じることだと思います。ただ、事実上「安売り」され、実際上の力をもてなくなってしまった言葉でもあるかと思います。
「未開社会」と一般には呼ばれてしまう文化について、深く理解、共感されていることに驚きました。
「もう一歩踏み込んで、「日常的な自我」は単に受動的に死ななければならないのではなく、実は彼らは「その時」が訪れた時には、いつでも死ぬ肚が出来ているのではと発想しています。」
そのとおりと思います。特に、クンの「癒し手」と呼ばれる人々は、もはやそのように「死」と関わっていると思われます。
「そういう共通の意識が何代にも連綿と連なる社会であり、私達が起き伏しする現代社会とは比較しえない深い深い精神世界を有しているとは言えないでしょうか。
幻覚、恐怖、それらも凡て溶けこみ内包する精神世界を。」
これも、全くそのとおりで、それは、単純に、「高度」であるとか、「進んで」いるなどというものではなく、ある意味「混沌」とした、表現不能、比較不能の世界ですが、西洋文明などは、及びもつかないような、深みのある世界とは言えると思います。西洋文明が、「切り捨て」てきたものを、しっかりと内包する文化ですね。1960年代当時、「ヒーリング・ダンス」という外から見る限り、一見単純で何でもないような「踊り」に、そのようなもの垣間見、深く追求しようとした著者もたいした炯眼の持ち主ですね。
クンの癒しについては、次回にももう少しとりあげるつもりです。
http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-ee9f.html
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