http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/383.html
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この論は優れている。だから転載します。
http://www.snsi.jp/tops/kouhou/1715
「 明治期の慶応義塾で 最先端の学問を教えたのは
ユニテリアン(フリーメーソンリー)たちだった 」
石井 利明 (いしいとしあき)
福沢諭吉とフリーメーソンリー
福沢諭吉がフリーメイソンリー Freemasonry と深く関係していた。多くの人は両者は結びつかないと考えているだろう。私が「福澤諭吉と フリーメイソンリーの深い関係」を書く理由は、福沢が生涯をかけて目指した
“自主独立”の本当の思想の意味を皆さんに知ってもらうためだ。
フリーメイソンリー( 組織、団体としては、フリーメイソンでは足りなくて、語尾に「リー」―ry が着く。フリーメイソンだと、ここの会員のことを指す。 He is a Mason . と使う ) と言えば、日本では恐ろしい闇の組織で、世界を裏あるいは上からからあやつっている秘密結社である、と考えられている。この秘密結社の問題についてはここでは触れない。
私の小論には、「都市伝説」と化している、闇に隠れた秘密結社の世界は、一切、登場しない。それよりももっと重要な、世界基準での大きな 思想理解を皆さんに紹介する。
明治の日本の啓蒙(けいもう)思想家で、教育者の福沢諭吉は、ユニテリアン Unitarians という、キリスト教の一派である プロテスタントの大きな宗教派閥(今でも 欧米社会に存在する)の宣教師、牧師たちと、ものすごく深い関係を築いていた。 このユニテリアンという特異なプロテスタント教団は、フリーメイソンリーに非常に似通った人たちと、歴史的に強い結びつきがしている。一緒に、17、18,19世紀の全ヨーロッパの宗教、思想運動を、引っ張ってきた(牽引=けんいん=して来た)と言っていい。
明治維新と幕末の次期にに出来た慶応義塾が、やがて創立者の福澤諭吉の手で、大学になっていった時に、教壇に立って教えていた外国人たちの多くは、ハーヴァード大学から来たユニテリアンたちた。彼らユニテリアンを招聘(しょうへい)したのは、福沢諭吉、本人の意志だった。
なぜ、福沢はユニテリアンを招いたのか?
私は、福沢がユニテリアン( Unitarians 、ユニタリアンとも読める )たち を招聘する過程を調べてみた。そして分かった事は次のことだ。 日本は、当時の19世紀の世界覇権国(せかいはけんこく)であるイギリス(=大英帝国)の強い影響下にあった。遠隔操作されていたと言っていい。 その代表が、初代の内閣総理大臣である伊藤博文である。そして、私が、あれこれ調べて、解明したことは、驚くべきことに、福澤諭吉は、明治政府すなわち明治日本という国家を、このイギリスの軛(くびき)から解き放ち、自立させようとしたのだ、ということだ。
そのために、イギリス人ではない、アメリカ人のユニテリアンの宣教師でもある大学教師たちを、盛んに、ハーヴァード大学から日本に招いた福沢の姿だった。そのために福沢は、日本をイギリスの支配から脱出させようとするために、勃興しつつあった次の世界覇権国であるアメリカの、そのユニテリアン(フリーメイソンリー)たちの力を借りたのだ。これこそが福沢の目指した真の自主独立だったのだ。
この小論を読み進めていただけば、この大きな事実を納得してもらえるだろう。
ユニテリアンとフリーメイソンリー
まず、フリーメイソンリーとユニテリアンのどこが似通っているかを説明する。
重要な事は、ユニテリアンもフリーメイソンリーも、その信仰の中心に“理性(りせい)”を置いている。重要なコトバである 理性(りせい reason リーズン。ドイツ語なら、Vernunft フェアヌンフト )については、この小論では論じない。 副島隆彦のこれまでの 理性、合理への言及を参照して欲しい。
この「理性なるもの」をユニテリアンは自分たちの信念(信仰)の中心に置いている。 この理性が、すでに、神 God に取って代わったのだ、とまで言っていいだろう。この 理性信仰、理性崇拝のことを、これを少しだけ 難しい言葉に言い換えると、それは“理神論(deism デイズム)”である。 この 理神論(デイズム) を、あと一歩、突き詰めると、何と、「神 God の否定」である 無神論( atheism エイシイズム)になる。 この デイズム Deism 理神論(神の存在の合理的な説明)から、 Atheism エイシイズム (神の存在の否定である 無神論 )への 発展、成長のことを、ヨーロッパの、16世紀、17席、18世紀、19世紀の全努力と言っても過言ではない。
フリーメーソンリーの起源は14世紀とされる。当初は、よく知られているごとく石工組合(いしくくみあい)だった。中世のヨーロッパ中のお城や教会や都市の建物を建築して回った石工(メイソン)たちの自主的な互助会の組織であり、それがヨーロッパ全体で横の連帯を作っていて、すべての都市に存在した、同業者のネットワークである。石工たちは、仕事で呼ばれて、他所の国の城砦を建設に行くときに、このフリーメイソンリー Freemasonry の組織に頼った。
この石工組合が新たに生まれ変わったのは、18世紀のはじめ、1717年の6月24日のことだ。この時、ロンドンにそれまであった四つのフリーメイソンリーのロッジが、合同して一つの大ロッジと成った。この出来事以後のフリーメイソンリーを、近代(モダン)フリーメイソンリーと呼び、これ以前のものを旧(オールド)フリーメイソンリーと呼ぶ。そしてそのように区別する。
なぜ、区別するかといえば、この時、フリーメイソンリーは、初めて政治結社になり、公共の世俗の世界で自分たちの影響力を高めることを目指す組織となったからだ。
ロンドンの大ロッジ設立会議の名誉議長となった クリストファー・レン 卿は、この会場で、以下のように宣言した。
(『フリーメーソンリー』 湯浅慎一(ゆあさしんいち)著 P8 から引用 始め)
フリーメーソンリーは、もはや自然の石から教会堂を建てるのではなくて、理性(りせい、リーズン)である精神から神殿を建てるのである。理性なる神の知恵の導きによって、人間の粗野な理性が照らされ、研がれて神的になり、自らが神殿とならなければならない。
(引用終了)
この宣言の内容は、フリーメーソンリーが、理神論(デイズム)を武器にして、それまでの、ただの神殿から新しい神殿(権力)を獲得する意思表明をしたことが分かる。
次に、ユニテリアンと理神論(りしんろん)との結びつきについて説明する。
ユニテリアンは、他のプロテスタントの宗派よりも、もっと強く、激しく 理性(りせい、あるいは、合理性=ごうりせい=)を自分たちの信仰の中心とした。だから、理性では説明できない、キリスト教の正統派の原であるの三位一体(trinity 、 トリニティ)を、公然と否定した。 彼らユニテリアンは、神の唯一性(unity ユニティ)を信じる人々( Unitarians )である。正統派のキリスト教会が信じなさいと強制する三位一体(さんみいったい)を信じない。だから、ユニテリアン ( unity - arians ユニティアリアン) 自分たちを呼び、かつそのようにまわりからも呼ばれた。
三位一体とは、神が、一つの実体(サブスタンス)であるとともに、「父なる神」(ゼウス)、「子なる神(イエス・キリスト)」、そして、「聖霊( せいれい 聖神、ホウリー・スピリット)」の三つの姿を同時に持っていると信じることだ。 つまり、「神 God は、三つ分れているが一つであり、一つではあるが三つに分れている」ということで、、私にはこれ以上のことは理解できない。
(副島隆彦です。 今日は、2014年1月11日です。 ここに私が割り込みます。実は、冒頭から、ここまでを、今、私が、石井利明 君の、この 非常に優れた「福澤諭吉とユニテリアン(教会)、フリーメイソンリー」論に すこし手を入れて、加筆して読みやすくしました。ここからあとは、石井くんの文章で、すんなりと読み進んで、 「 なるほどなあ〜 」と腹の底から、腑に落ちるでしょう。 この石井論文には、日本人が、ヨーロッパ、アメリカ世界を本当に理解してゆく上での、重要な読み破りで、日本で初めての、偉大な解明があります。 副島隆彦 割り込み終わり)
もっとも、このように感じるのは皆も同じようで、三位一体は人間の理解を超えているため「理解する」対象ではなく「信じる」対象としての神秘であることがカトリック教会では強調されてきました。この三位一体の原理を使って、自らの権力を最大限に拡げたのがキリスト教会であり。ここに、キリスト教の最大の秘密、騙しがある。
この大きな騙しを否定したのがユニテリアンたちであった。三位一体を否定した事で、全キリスト教徒の敵となった。
ユニテリアンもフリイメーソンリーも、どこまで神(ゴッド)の存在を信じていたかについて私は疑っている。なぜなら、当時のキリスト教世界では、神を信じていななどと言う事は不可能だった。だから、人間の、自らの理性を神とするという事になったのだ。 理性を中心に、ユニテリアンとフリーメイソンリーの両者は合わせ鏡のように似通っているのです。
福沢諭吉の目指したこと
福沢諭吉は、生涯、一個人にも、国家にも、独立自尊を説き、自らもその通り生きた。
明治政府が誕生すると、少しでも学問を修(おさ)めた誰もが役人官僚になりたがった。なれない者は、政府に近づいておこぼれにあずかろうとした。この風潮を福沢は蔑(さげす)んだ。
個人同様、日本国も当時の世界覇権国(はけんこく)、イギリスの属国であった。明治維新がイギリスの世界戦略の一コマであったことを、その渦中(かちゅう)にあった福沢が知らないはずは無い。英国を後ろ盾にした西南雄藩が勝つ事を知っていたから、明治元年、上野で戦闘があっても福沢は義塾で経済書の講義を続けていたのです。
だから、福沢は覇権国に武力で立ち向かう愚かさも知っていた。私は、独立自尊のために彼は啓蒙思想家、教育者になったのだと思う。その過程でイギリスから独立を果たしたアメリカを研究し、アメリカの独立宣言の中にある啓蒙思想家のジョン・ロックの自然権の思想を学んだ。啓蒙思想は独立自尊に欠かす事が出来ない。だから、自然権を「天賦(てんぷ)人権論」という言葉で日本に広めた。それが有名な『学問のすゝめ』の中の、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと言えり」である。『学問のすゝめ』の初編が出版されたのは、明治5(1872)年です。
実は、福沢諭吉も、ユニテリアンもフリーメイソンリーも、大きくは啓蒙思想という共通点がある。
福沢はキリスト教の排斥(はいせき)者として知られている。彼が攻撃の対象としたのはカソリックであった。カソリックが持つ権威主義的で押し付けがましく、上から目線の威圧的な態度に対してであった。啓蒙思想は反カソリックである。カソリックの敵はユニテリアンであり、フリーメーソンリーであった。敵の敵は見方ということだ。
福沢諭吉と宣教師たち
宗教には関心が無いと一般に考えられている福沢諭吉だが、生涯で19人もの宣教師たちとかかわっている。その内訳は英国人12人(内9人がSGP/聖公会)、米国人7人。これは、福沢ほどのレベルの人物でも、宣教師以外に西洋人たちから、知識、思想、情報を学ぶ事が難しかったことの表れだろう。それ以外の選択は無かったのだ。
福沢が初めて親交を日本で結んだ西洋人も、A・C・ショーというイギリス国教会(聖公会)の中のSPGの牧師で、二人が会ったのは『学問のすゝめ』が出版された翌年の明治6(1873)年9月25日だった。
19世紀における英国国教会の海外布教は、主として2つの宣教団体、SPG(The Society for the Propagation of the Gospel in foreign parts 英国海外福音宣教会)とCMS(The Church Missionary Society 英国国教会宣教会)によって行われていた。
国教会(聖公会)は、大きくは高教会派(ハイ・チャーチ)と低教会派(ロー・チャーチ)の二つに分かれている。高教会派はカソリックとそっくりで教会の権威、奇跡(きせき)を重視し、低教会派は、個人の救済に力を入れる、という特徴がある。大事なのは、ハイとローの区別で、この区別は英国における身分や階級の上下とも一致することである。だから、伝道組織も高教会派の SPG と低教会派の CMS に分かれている。
A・C・ショーが属していたのは高教会派の SPG の方である。権力者側とも言っていい。そのため、彼は着任すると同時に、英国の外務大臣グランヴィル伯爵から日本駐在イギリス公使館付チャプレンの外交官の身分を保障される。チャプレン (chaplain) とは、教会に属さない施設や組織で働くキリスト教聖職者(牧師、神父、司祭など)のことだ。
英国国教会の牧師たちは、同時に、当時の世界覇権国であった大英帝国の情報将校でもあった。国教会のトップは、国王や王女であり。国家権力に直結する大きなエスタブリッシュメント(支配階級)であったためだ。だから、彼は、英国公使館、在京の英国人から尊敬される特別な立場に居た。
こうした背景から、福沢はショーを色々な面で支援することになる。
まず、福沢は、来日の直後にショーを自分の子女のための住み込み家庭教師として雇い。併せて、慶應義塾の倫理学教授の職を与えて、教壇にも立たせた。その上、福沢はショーのために、自宅の隣に、わざわざ西洋館まで建てて住まわせるほどの熱心さを示した。両家の間の小川には、お互いに行き来できるように“友の橋”と呼ばれた立派な橋までが架けられた。そして、ショーは福沢から慶応義塾で聖書を教える事も許され、信仰を持った学生たちに洗礼まで行っていた。
福沢自身はキリスト教徒ではないが、彼の家族にはショーから受洗を受けたものが多い。三女の俊(とし)、四女の滝(たき)や、福沢の孫の清岡暎一(えいいち)(慶応義塾大学法学部教授)などで。いずれも英国国教会、つまりは聖公会信徒としてショーが建てた聖アンデレ教会で受洗されたクリスチャンである。
宣教師たちとの本当の関係
このように福沢が支援し、家族ぐるみの付き合いがあるのだから、福沢とショーの関係は、非常に良好なものだと考えられてきた。その証拠に、二人の関係は、福沢が死ぬ、明治34(1901)年まで27年間も続いた。
しかし、それはどこまで深い結びつきだったかを、私は疑っている。
二人の交友関係は、互いの損得抜きには考えられない。
ショーは、キリスト教の排斥者、福沢との交友の理由を「ミスター・フクザワは、教育の問題に関する限り、この国ではもっとも著名な一人だからです」と本国に報告し、了解を取っている。エスタブリッシュメントの彼は、福沢を利用して、英国の利権、教会の利権(信者の獲得)の拡大を図りたいということだ。
では、ショーは福沢個人をどう思っていたか?
ショーによる福沢の人物、能力評価は、『福沢諭吉と宣教師たち』(白井堯子(たかこ) 著)という本の中に載っている、ショーが明治7(1874)年2月21日に本国宛に書いたの報告書から知る事ができる。
(『福沢諭吉と宣教師たち』p123から引用開始)
英国で考えられている日本像は誤りが多い。長い間、鎖国をしていた国には神秘のヴェイルが掛けられてきたが、日本は半開(half-civilized)の国である。(中略)日本はこれまで箱の中に閉じ込められてきたが、今やその蓋(ふた)は取り外されたのである。しかし、文明とは、宗教心と切り離された時には、人間の知性を真に進化させえないのだ。にもかかわらず、ここでは、ハンブル(筆者注:粗末な、卑しいという意味)な唇から、バックル、J・S・ミルなどの言葉が発せられる。
(引用終了)
彼らは女王直結の情報部員だから、内容は厳しい。
まず、日本は半開の国だと定義される。未開の野蛮国ではないが文明国ではない。文面から彼は、日本が文明国になれない原因を、道徳や信仰心の欠如と考えていたことも分かる。その例として、ショーは、日本人の労働に対するモラルに触れている。一言でいって、明治の一般的な日本人は働かなかった。銭はあれば使ってしまうし、無くても何とかなった。「宵越しの銭は持たない」という、江戸の気質が残っていたのだ。
この報告書の中で、ハンブル(卑しい)な唇と揶揄(やゆ)されているのは、福沢諭吉にちがいない。
なぜなら、福沢の学問や教育の中心は、当時の英国の最先端学問、功利主義や自由主義を説いた、J・Sミル、ハーバート・スペンサー、ヘンリー・バックルであったからだ。彼らの学問は、キリスト教が抑圧した金儲けや贅沢(ぜいたく)といった人間の快楽の追及を積極的に認めたため、宣教師たちから嫌われた。
彼ら宣教師は、道徳の無い日本人は、功利主義や自由主義の、金儲けや快楽を学ぶレベルに達していないと考えたのだろう。日本人が、J.S.ミルのような当時のイギリスの最先端の思想である、リベラル派の啓蒙思想家の本を読んで、それを理解しようとすることは傲慢(ごうまん)なことだ、と考えた。 また、ダーウィンの進化論 ( 進化論は、神が人間を創ったのだ、を否定する ) を日本人が知ることを嫌った。その進化論を、聞きかじった半開の日本人から、逆に自分たち、イギリス国教会(こっきょうかい)= 聖公会 (せいこうかい)、ハイ・チャーチの宣教師たちが、キリスト教の人類創造の神話を、笑われるのも我慢ができなかった。日本人から笑われるのは、自分たちイギリス人のエリート意識が許さなかった。
だから、日本にとって、融和的であるとされる国教会(イングリッシュ・チャーチ)の宣教師であるショーですら福澤諭吉を理解できなかった。福沢たちが、日本は最先端の学問を導入しなれば西洋列強に対して日本の自立が危ういのだ、という福澤たちの危機感を彼らショーには理解できなかったし、理解したくもなかった。独立自尊を唱える福沢が、自分たちの大英帝国を仮想敵国としていたことを彼は知らないはずがない。
福沢とショーの本格的な交流が始まったのは明治7(1874)年の2月。この頃の福沢が、日本の独立を脅(おびや)かすかもしれない国の一番手として考えていたのが日本の近隣諸国に侵略していた大英帝国であることは間違いない。翌年の明治8(1875)年に出版した『文明論の概略』の中には、「我日本の殷艦(いんかん)(筆者注:戒(いまし)めとしての例え)として印度の一例を示さん。英人が東印度の地方を支配するに其処置の無情残刻(ざんこく)なる実に云(い)うに忍びざるものあり」とある通りである。
福沢の苦悩は、ショーと論争することで解決したりはしない。知識、情報、それに道徳律となると日本人の福沢はショーに太刀打(たちうち)ちできない。覇権国イギリスのエージェント(代理人)であるショーから、学ぶべき事は、まだまだ多い。一方、ショーは福沢の豊富な人脈は利用したかった。ここに均衡点(きんこうてん)があった。
当時の福沢の正直な気持ちを、実際に会って、見聞きして、日記に残した人物がいる。それは、明治8(1875)年に15歳で日本にやって来たクララ・ホイットニーという少女です。クララは、父が商法講習所(現在の一橋大学)の教師として招かれたため日本にやって来た。クララは、後に、勝海舟の三男、梅太郎と結婚する(と言っても、所謂(いわゆる)、“できちゃった婚”)。勝の家には青い目の嫁がいた事は、余り知られていない。
(『勝海舟の嫁 クララの明治日記〈上〉』p430 から引用開始 )
1877(明治10)年11月28日
以前は、ショー氏一家も、ミス・ホア(筆者注:英国国教会の女性宣教師A・ホアのこと)も、福沢氏と一緒に住んでいたが、福沢氏は、この人たちの「高教会派」的思想が気に入らなかった。
(引用終了)
高教会派(ハイ・チャーチ)というのは、少し前で説明したように、プロテスタントとされる国教会でありながら、教義的・組織的にはかなりカトリック的である。そして、本当の実体はカソリック以上に保守的であって、英国では上流階級が所属する宗派である。要は権力志向の組織であって、権力や利権のためなら、言っていることとやっている事が矛盾しようが知った事ではないという組織、というのが私の理解である。
だから、覇権国イギリスの力の源泉である彼らの資本主義のやり方は功利主義そのものであるのに、それを日本人が学ぶ事を認めないという偽善性を持つことになる。属国群を管理するためには何でもやる。福沢は、彼ら英国の偽善的な残酷な本性に気づいて怒り、警戒している。私にも、その気持ちは実感できる。
彼らの偽善に対する福沢の反発が書かれている日記が翌年に書かれている。
(『勝海舟の嫁 クララの明治日記〈上〉』p592より引用開始)
1878(明治11)年7月12日
福沢氏の所に行った。ご在宅だったのは幸いだった。私は彼とゆっくり話したくなる。私が男の子だったら、彼を教師として誇らしく思ったろうであろうが、それは不可能だ。彼には哲学的な閃(ひらめ)きがあって、下手な百科辞典 よりも役に立つ。福沢氏は、私のアルバムに「私は文明の中に光を見出す事ができない」、「文明国の中に文明を見出す事ができない」と書かれた。
(引用終了)
クララの日記を読むと、当時、43歳の福沢が18歳のクララに、自分の悔しい気持ちを素直に吐露(とろ)していたことが分かる。また、クララにとっても、福沢は、決して仰ぎ見るような存在ではないことも伝わってくる。ある意味、対等に近い。これが、文明国から見た半開の国日本での、外国人と日本人との知的レベルにおける厳しい現実だった。
福沢諭吉とユニテリアン
聖公会の宣教師を教師としている限り、『福翁自伝』で慶応義塾を「西洋文明の案内者、西洋流の一手販売、特別エゼント(ママ)」にするという福沢の願望を実現する事は出来ない。本当の目的である英国からの自立など、もってのほかだ。福沢は、この現実をどのように打開しようとしたのだろうか。
その答えが、ユニテリアンとの接近だった。
福沢とユニテリアンとの出会いは明治3(1870)年まで遡(さかのぼ)る。
この年、福沢は腸チフスに罹(かか)り、生死をさまよった。この時、彼を救ったのがドクトル・シモンズだった。シモンズの妻がユニテリアンであったことが、彼と同様の宣教医であったヘボン(江戸時代に来日。ヘボン式ローマ字の考案者。明治学院初代総理)の『ヘボン書簡集』の中に書かれている。そして、どうやら、シモンズ医師もユニテリアンに改宗していたらしい。
腸チフスの治療以来、福沢とシモンズは親交を結ぶ。その関係は、福沢が明治16(1883)年に息子の一太郎と捨次郎を米国留学させるに当たり、シモンズに滞米中の二人の息子の保証人兼後見人を頼むまでに発展した。両者の信頼関係は強く、夫妻は自分たちがアメリカに居る間の一時期、長男の一太郎を呼び寄せ、自宅に下宿させていたほどだった。福沢はシモンズを“外国人中の最親友”とまで明言している(『福沢諭吉全集 第18巻 』 p170)。福沢にとって、ユニテリアンのシモンズは、言っている事とやっている事が違わない、信頼できる人物であったのだろう。
アメリカでは、福沢の二人の息子たちはシモンズ夫妻のユニテリアンのサークルに自然と溶け込んでいき、彼らのことを父親に報告していた。長男の一太郎は、父に宛てた明治20(1887)年11月29日付けの手紙に、ユニテリアン教を慶応義塾に広めた方が良いという大胆な提案までしていたこと(『ユニテリアンと福沢諭吉』p82「一太郎の大胆な提案」)が書かれている。
そして、諭吉も、一太郎の提案を否定していない。それどころか、この手紙を塾員にまで見せている。福沢はユニテリアンを受け入れた、ということだ。
ユニテリアン・ネットワーク
アメリカには、ジョン万次郎の時から築かれた ユニテリアン・ネットワークがすでにあった。
福沢諭吉が安政6年(1859年)に、日米修好通商条約の批准交換のための使節団として渡米した時の通訳も、ジョン万次郎だった。
遭難した万次郎は、助けてくれた船長のアメリカ人に引き取られ、船長夫妻が住むアメリカ東海岸のニュー・ヘッドフォードで暮らし始めた。夫妻は万次郎を学校へ通わせようとした。しかし、彼の入学を許可する学校は無かった。東洋人の万次郎を受け入れてくれた学校は、ユニテリアン系の学校しかなかった。ユニテリアンの信条には人類皆兄弟というあるから、日本人の入学を認めてくれたのだ。渡米した福沢の息子たちも、ユニテリアンのシモンズを頼って、このネットワークに加わったと考えるのが自然だ。
平野貞夫は『ジョン万次郎に学ぶ』の中で、「ジョン万次郎は、日本人で初めてのユニテリアン信者であった。その生涯をふり返ると、自分の言動に責任を持ち、救いは自分で勝ち取るものであり、人類全体が救済されるべきものであるとの教えどおり生きたといえる。」と書いている。
ジョン万次郎がフリーメーソンであったという説は、ユニテリアンとフリーメーソンリーの同質性から来たにちがいない。海外に出て行った日本人の多くは、差別されることが少なく、親切に接してくれるユニテリアンのネットワークに入る事が、万次郎と同じく自然な事だった。友人の居ない、頼れる人の居ない弱い立場の外国で生活する日本人にとっては、生きる術(すべ)といってもよい。誰のお世話になったか、ということが一番重要なのだ。この人脈は、日本人にとってキリスト教の宗派を超えて共有された、というのが私の考えだ。
ユニテリアン擁護(ようご)の動きは、国民の強い道徳律を求める明治政府からも出てくる。伊藤博文とその関係者である金子堅太郎、森(もり)有礼(ありのり)らがユニテリアン宣教師の招聘(しょうへい)に動いた。
なぜなのか?
それは、国家の中枢に居る彼らには西洋列強との交渉ごと、例えば、不平等条約の改正に対しては道徳が不可欠なのを分かっていたからだ。道徳を持たない野蛮人とは平等に付き合えないというのが西洋人の持ち出す理屈だ。また、伊藤たちは道徳律を持った国の軍隊が強いことも知っていた(彼らが、その道徳律をユニテリアンに求める動きは、日清・日露戦争に勝ち、天皇が宗教的役割を確立し、教育(きょういく)勅語(ちょくご)、軍人(ぐんじん)勅諭(ちょくゆ)が行き渡るまでは続いた)。
このような政治的な背景があって、福沢の二人の息子は、アメリカでユニテリアン協会と接触した。勿論(もちろん)、父、諭吉の承認のもとだ。アメリカでの招聘(しょうへい)には、ハーヴァードを卒業した金子堅太郎が伊藤博文の命を受けて日本国の代理人と動き、大きな役割を果たした。
こうして、最終的に、ハーヴァード大学神学部を卒業したユニテリアン宣教師、アーサー・メイ・ナップ(Arthur May Knapp 1841-1921)が慶応義塾に招かれる事となった。
明治20(1887)年に来日したA・M・ナップを伊藤博文は、すぐに小田原の自宅に招いた。ユニテリアンの道徳律を国家運営に生かすことを伊藤は考えていたのだろう。
国内にもユニテリアンを支援する人々のネットワークが出来ていた。
そのネットワークには、東洋美術の西洋への紹介者であるアーネスト・フェノロサや大森貝塚の発見者で日本に進化論を紹介したエドワード・モースといったお雇い外国人、旧尾張徳川当主の徳川義礼(よしあきら)、日本赤十字の創始者で枢密顧問官、大蔵卿を歴任し老院議長まで務めた佐野常民(つねたみ)といった、知識人や指導者層の人々がいた。彼らは、正統派キリスト教がダーウィンやスペンサー、ハックスリーといった進化論的考えを認めようとしないことに不満を持っていたのだ。
アメリカ建国と福沢とユニテリアン、フリーメイソンリー
ここで少し戻って、アメリカ建国とユニテリアン、フリーメイソンリーの関係について説明します。なぜなら、私は、ハーヴァードとユニテリアンの関係を調べていて、大きな事実を知ったからです。ハーヴァードというアメリカ最古の大学には、アメリカの縮図があった。そして、ピューリタン的な建国の神話でアメリカを見ると、その実体が見えなくなってしまうことも分かった。
アメリカは、清廉(せいれん)・潔白(けっぱく)を旨とするピューリタン(清教徒)が建国したのではない。この建国神話はウソだ。アメリカでは多くの人々が独立の前から急速に世俗化していた。世俗化とは、金儲け主義、合利主義(副島隆彦によるrationalの本当の訳)のことだ。現実には、建国の前には、ボストンなど大きな町の上層階級は聖公会(どこにも顔を出すワル)やユニテリアンにどんどん転向してしまっていたのです。この上流階級の金持ちたちがリベラル派を形成し、独立運動の中心となった。彼ら世俗化した金持ちたちが、イギリス本国の課税強化に怒ったのが、建国の本当の原因だった。全てはお金の問題なのです。
ゲイリー・ノース(Gary Kilgore North、1942年 −)という、アメリカ合衆国の経済学者、神学者、歴史学者は、『Political Polytheism(政治的多神教) 』という本で、大変興味深い事を紹介しています。訳本が無いので、以下、筆者の試訳です。
(Gary North, Political Polytheism, ICE, TX, p.676より引用開始)
18世紀初頭、北部ヨーロッパにおいて、反三位一体論ヒューマニストたちは、非国教徒の教会員や理神論者たちと結託して、市民権の基準を変えようとした。
市民権は、それまで明確に、キリスト教に基づくものであった。
しかし、啓蒙主義の左右両翼の人々、すなわち、スコットランド経験主義者とフランスの自明的な合理主義者たちは、どちらも新しい市民の概念を提唱していた。
すなわち、「聖書の神への信仰を告白しなくても得ることができる市民の地位」を築こうとしていた。
1788年に合衆国の法律に採用されたのは、この市民に関する新しい概念であった。
(原文)
in the eighteenth century in Northern Europe, anti-Trinitarian humanists combined with dissenting (non-State-established) churchmen and Deists to restructure the existing basis of citizen-ship, which had previously been explicitly Christian.
The two wings of the Enlightenment, Scottish empiricism and French a priori rationalism, both proclaimed a new concept of citizenship: citizenship without a required profession of faith in the God of the Bible.
It was this new concept of citizenship which was ratified into law in the United States in 1788.
(引用終了)
例えば、ヨーロッパではキリスト教に改宗しないユダヤ人たちは、市民権を与えられず、ゲットーに閉じ込められる状態が長く続いていた。ここに書かれた、新しい概念の市民たちが、アメリカの金持ちたちで、彼らが権力を握り、銃を持って戦って建国したのがアメリカの本当の姿なのだ。建国には、ピューリタンはどこにも登場しない。
ゲイリー・ノースは、この本の中で、「植民地のアメリカは、ピューリタンの、三位一体神を信じていたのだが、アメリカの建国時に、ワシントンやフランクリンらのメイソンたちによって、「ユニテリアンの神(理神論の神)」にすげかえられた」と、この事を説明している(私には、このすげかえと、明治維新の完成と共に尊皇(そんのう)攘夷(じょうい)が葬(ほうむ)り去られてしまった事が重なって見えます)。
ここに、ユニテリアンとフリーメイソンリーの“理神論の神”が再登場しました。
ユニテリアンとフリーメイソンリーは、アメリカの建国に大きな役割を果たしたのです。
アメリカ建国の精神は合衆国憲法に反映されており、それは啓蒙思想家ジョン・ロックの自然権を明文化したものでした。そのロックの思想を日本の紹介したのが、福沢諭吉です。
私は、福沢が、このアメリカ建国の事実、啓蒙(けいもう)の本当の姿である合利(rational)によって、アメリカがイギリスから独立した、この事実を知っていたのだと思います。
やっと、ここで福沢が目指した日本の姿と、ユニテリアン、フリーメイソンリーが結びつきました。つまり、大きな枠組みで考えれば、福沢は英国と対抗するためにアメリカ建国と同じくユニテリアンの力を借りたのだ、と私は考えます。例えるなら、大英帝国に対する属国群の共同解放戦線です。
慶応義塾とハーヴァード・ユニテリアン
こうしたアメリカの建国の実体とハーヴァードは直結しています。
建国後、アメリカでは、しばらく、保守派とリベラル派の共存が続いたが、19世紀に入ると両者の関係は悪化します。その舞台となったのがハーヴァード大学でした。1805年ハーヴァード大学の神学職を巡る選挙でリベラル派が勝つと、“ ユニテリアン論争 ”が起こり、両派は決裂しました。カルヴァン主義の保守派はリベラル派を偽装のユニテリアンと決め付け、リベラル派を異端者のように扱った(リベラル派はユニテリアンなのだから、保守派の言う事は事実だ)。しかし、正統派カルヴァン主義は論争でリベラル派に敗れ、ハーヴァードを去らなければなくなる。ユニテリアン、フリーメイソンリーの理神論がハーヴァードで勝利したのです。アメリカの権力者はユニテリアン(フリーメイソンリー)なのだから、それが当然です。一般の人たちはハーヴァード大学の神学部をユニテリアンのものと見ていたし、実際もそうだったわけです。
ここまで来ると、福沢が、啓蒙思想に基づいた、功利主義や自由主義を教えてくれる人材をユニテリアンのハーヴァードに求めた、つながりが見えてきます。まるで、そうなるのが当たり前のようだ、とさえ私は思います。
ナップは翌明治22(1889)年10月にハーヴァードから三人の教授を連れて戻ってきました。
慶応義塾の大学校化は、福沢親子のユニテリアン人脈と知識人の要望、ユニテリアン教会の布教活動、そして政府のキリスト教による国家の道徳律の輸入というそれぞれの思惑が密接に関係して誕生したのです。
しかし、この招聘(しょうへい)が、普段から宗教性を非難していた福沢の言動の不一致として新聞紙上で叩かれます。
ユニテリアンのナップを通じて慶応義塾に三人の教授が招聘された事は、慶応義塾と米国ユニテリアン協会の同盟が結ばれた事を意味し、慶応が宗教性を持ったのではないか、ということが疑われたのです。私は、この時、慶応義塾は宗教性を持ったのだと考えます。経緯からして当然です。
しかし、ユニテリアンと宗教同盟を結んだ、などと認めることは、日本の宗主国(そうしゅこく)英国に対して危なくて出来ません。この時、ナップは、招聘された三人がユニテリアンの教会の信者ではないことから、ユニテリアン主義を教派でなく、リベラリズムの“運動”として捉(とら)える事で宗教性の問題から福沢を救ったのでした。
しかし、三人の教授は宗派にこだわらず、進化論や聖書の批判を受け入れるリベラリストで、ユニテリアンと殆ど変わらない宗教思想を持っていた。つまり実質的にはユニテリアンでした。また、そのような人たちだからこそ、日本人に最先端の思想や科学を教える事が出来たのです。
これが、福沢諭吉が慶応義塾にユニテリアンの教師たちを立たせるまでの過程です。
彼の行動は、独立自尊の信念と一致している。彼は、無謀な負け戦に引き込まれず、福沢は思想家、教育者として、日本を属国として扱う英国に対して、部分的にでも自立するために一貫して戦っていたことが分ってもらえたでしょうか。
(了)
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