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ヒメ・ヒコ政治
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投稿者 中川隆 日時 2014 年 1 月 09 日 00:57:10: 3bF/xW6Ehzs4I
 

(回答先: 縄文人は母系集団で妻問い婚であった  投稿者 中川隆 日時 2014 年 1 月 05 日 21:24:38)


上田篤著「縄文人に学ぶ」


(沖縄の集落を調査した結果は、縄文時代の生活習慣やものの考え方をしている人がまだ居るとの事であった。)

沖縄の古い時代の、門中あるいはマキョといわれる親族集団では、男達を兄弟(エケリ)といい、そのエケリの「守り人」を姉妹(オナリ)といった。

 沖縄の海は危険だから、エケリが海に出て漁をしているときはオナリは陸地からたえず海の天候を見張るのだ。そうして異変があるとエナリに報せた。そのオナリをエケリはオナリ神と崇め、セジつまり霊力を持つものとみたのである。女たちはうまれてからずっと里に住んでいたから、風や雲の動きを熟知していたのだろう。天候観測にも独特の感と経験をもっていたとおもわれる。

 そうしてエケリとオナリは、力と知恵とをもって共同で漁をしたのであった。
 またマキョの運営もエケリのリーダーの根人(ニーッチュ)がおこない、その祭祀はすべてのオナリのリーダーの根神(ニーガン)が取り仕切った。

 農業が盛んになる十三世紀、つまり「沖縄の弥生時代」になると、血族共同体のマキョは統合されて地縁共同体の村になる。しかし新しい村の経営にも各ニーッチュの有力者があたった。それを按司(アジ)といった。アジは大和政権から鉄器や鉄塊を輸入し、農具や武器を開発した。本土の武士に似ているが、違うのはアジには必ず祝女(ノロ)という守り人が居た事である。アジとノロとは提携して村を運営したのであった。
 さらに十六世紀以降、つまり「沖縄の歴史時代」にはいると、アジを抑える大アジが登場した。国王である。すると、女のほうでも聞得大君(きこえおおぎみ)という筆頭ノロともいうべき女性司祭者があらわれて、国王とキコエオオギミで国家を動かした。

 以上は「ヒメ・ヒコ政治」(『招請婚の研究』)といわれる男女による複式政治の沖縄版である。

 しかしそれは沖縄に限らなかった。本土の弥生時代も同様であった。と言うのは三世紀ごろの邪馬壱国(やまいこく)についてこういう記述があるからだ。
「その国、もともと男子をもって王となし、留まること七、八十年。倭国乱れ、合ひ攻伐すること暦年。すなわち共に一女子を立てて王となす。名づけて卑弥呼という。鬼道につかえへ、よく衆を惑わす」(『魏志倭人伝』)

 するとこのヒミコの「鬼道」も、沖縄のキコエオオギミのセジつまり超自然力と同じものではなかったか?タマであり、マナである。

 続いて「男弟あり。たすけて国を治む」とあるように、ヒミコは沖縄の国王にあたる男弟と一緒に国家を運営した。このように弥生時代も本土も「ヒメ・ヒコ政治」が行われていたのである。

 なお、その後は男王が増えるが、しかし男性の大王と言えども『記紀』によると、実際の政治は武内宿禰(たけうちのすくね)のような筆頭豪族が行ったようである。つまり男王もオナリ、ニーガン、ノロ、キコエオオギミ、そしてヒミコとつづく「ヒメの系譜」につらなる女司祭者の役割を演じてきたのである。

【かって天皇は女だった】

 さて歴史時代になっても、壬申の乱のあとの律令政治が進み、大王は天皇になったがその「祭祀王」としての性格は変わらなかった。

 たとえば『百人一首』にもなっている天智天皇の有名な歌、

 『秋の田の仮廬(かりほ)の庵の苫をあらみわが衣手は露に濡れつつ』

も、文学者の丸谷才一は、農民の苦労を天皇が偲んだ歌であると同時に、「あなたに飽きられてあなたが訪ねてこないので、わたしの袖は涙にぬれている」という女の恋歌だという。

 その「あなた」とは神さまつまり太陽であり「わたし」すなわち天皇はその情けを受ける女である。そしてこの歌は太陽が照らないので雨ばかり降って人民が困窮している、という訴えというのだ。そういう訴えをするのが天皇の一番大事な仕事だったのである。

 このように天皇が女に身をやつしたところに、天皇は元来が女だったことが示される。つまり天皇は、オナリやヒミコとおなじくヒメの系譜につながるものなのだ。

 そういう伝統は、その後の天皇にも引き継がれる。同じく『百人一首』にある光孝天皇も鎌倉幕府と争った後鳥羽上皇も女の歌を詠んできる。

 ずっとのちの明治天皇も女の恋歌を詠んでいる。

 ただし、それも西南戦争までで、それ以降は一切恋歌を詠まれなくなった。「大久保政治」が始まり「武断天皇」が要請されたからだろう。そしてそれまで「御門(みかど)」といわれていた天皇は、それからは「天皇」とよばれるようになったのである。じっさい、ミカドは女のように髪を長く伸ばし化粧もしていたが、明治十一年以後の天皇はカイゼル髭を生やし、軍帽を被り、軍服を着、馬にまたがって近衛師団を検閲したのである。

 ここに日本の天皇の姿は、歴史上全く変わってしまったのである。

 今日わたしたちは「天皇は男性でなければならない」とおもいこんでいるが、天皇の起源を遡ればいまのべたヒミコにいたり、さらに沖縄のヒメたちと軌を一にするようにもとは女性が原則だったのだ。そしてさらに古く縄文に遡れば縄文の土偶すなわち元母(一族の始めの母)と同じものになるではないか、とわたしは考える。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=285990  

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