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古谷経衡
元旦は、名古屋の熱田神宮に参拝に行って参りました。熱田神宮は伊勢神宮と並び、中京圏のみならず全国から篤い信仰が寄せられている神社でありますが、特に1560年、尾張に侵入した今川義元の軍勢を迎え撃った織田信長が、その戦勝を祈願して見事成就したので、その御礼に塀(信長塀)を寄進したという、戦国史マニアであれば誰しもが知っている逸話があります。
この塀は勿論現存しますが、余り人気が無いようで(笑)、元旦も本殿への参拝者は黒山の人だかりでしたが、信長塀の方は(きちんと解説板があるにも関わらず)警備員がぽつねんと立っているばかりで、皆素通り。私はそこで悠々記念撮影に及ぶという事態と相成りました。
この1560年の故事は、言うまでもなく「桶狭間の戦い」でありますが、この時信長27歳。「海道一の弓取り」と呼ばれ権勢を振るった三河・遠江(とおとうみ)・駿河を治めていた大大名の今川義元を打ち取り、戦国時代に鮮烈なデビューを飾ります。
現在でも、よく戦国モノの時代劇などで今川義元はでっぷりと太り、京の貴族のような白化粧をして、「まろは〜」「〜おじゃる」などという言葉遣いで「上洛(京都に攻め上る)」に及ぶ途中に桶狭間という谷間の渓谷に休憩している途中に信長の奇襲を受けた、とされていますが、これは江戸時代の創作であり、現在の学説では、今川義元は上洛を意図していたのではなく、単に織田信長を正面から叩き潰すための動員作戦であり、陣地も谷間ではなく桶狭間「山」に置いていて、信長が行ったのは単なる奇襲攻撃ではない、というのが定説です。
忠臣蔵の「吉良上野介」と同じく、この手の人物はとかく悪人で、暗愚であったことが強調されがちですが、実際の今川義元も京の貴族趣味に耽った愚昧な人物ではなく、相当の切れ者で、強面の大大名の風格があったことでしょう。ではなぜ、通説とは違う「聡明な強敵」であった今川義元を信長は奇襲攻撃ではなく、ある程度の軍勢を用意して打ち破ることができたのでしょうか。話は信長の父、信秀の時代にさかのぼります。
信長は、1534年に織田信秀の嫡男として生まれますが、その父・信秀は、尾張国の守護・斯波(しば)氏に使える守護代の傍流の一族に過ぎないものでした。
室町幕府の時代、守護というのは現在で云うところの県知事を指し、守護代とは読んで字のごとくその代理で、今風にいえば副知事というところでしょうか。
しかし、応仁の乱(1467年)以降、中央(京)の統制が地方に行き渡らなくなると、守護代が上司である守護を駆逐して、その領国を勝手に支配するようになります。これを典型的に下克上(げこくじょう)と呼び、織田信秀もそうして斯波氏を圧迫して尾張で勢力を伸長させた「下克上」型の戦国大名の筆頭格です。
現在、愛知県には名古屋の西に津島市という少都市が存在しますが、戦国時代から江戸時代にかけて、津島は河川を通じ海に面し、西は大坂〜鎮西(九州)、東は関東、東北を結ぶ物流の大拠点で、ここを抑えたのがほかならぬ信長の父・織田信秀だったのです。
当時の物流は陸路より海路が主でした。トラックや鉄道が無い時代、野盗が出没し遺失リスクがある陸路よりも、天候さえよければ一気に遠方まで大量輸送ができる海路は、江戸時代に至るまで我が国の物流の最大のものでありました。
津島は江戸時代に入っても人口数万人を数える東海地方の大都市として栄えました。この時代、港湾都市を制するものが国を制したのです。
信長は1560年の「桶狭間の戦い」で突然歴史の表舞台に登場したように思いますが、その下準備は、父・信秀の時代からの津島からもたらされる潤沢な資金力と経済基盤によって確立されたもので、それ無しでは織田信長は世に出なかったことでしょう。実際、信秀は豊富な資金力で京の朝廷に幾度も寄進(寄付)し、見返りに官位を授かって権威を宣伝しているのです。
さて話しを「桶狭間の戦い」に戻します。
どうも大軍勢を用意して尾張を大規模侵略しようと試みた今川義元に対し、織田信長は兵力では劣勢に立たされたので、あの手この手で情報戦を駆使したらしいことが判明しつつあります。
現在の桶狭間は田園と宅地が混在する丘陵地帯ですが、当時の地形はもっと複雑で、今川義元の大規模な軍勢の本陣が、部分的に手薄に成る「死角」のような場所があったとされ、信長はそこに兵力を集中させ、義元が布陣する山に手勢を駆け登らせ義元を打ちとった、というのが真実のようです。
その位置情報を知らせたのが信長の家臣・簗田政綱(やなだまさつな)であり、直接的に義元の首を取った毛利新介よりも功績が上として、第一級の褒美を与えています。
この時代、普通「◯◯討ち取ったり〜」と勝鬨をあげる兵士に一番多くの褒美が与えられるのですが、「有益な情報」を提供した簗田政綱にそれが与えられたことは「近代人」的センスを持った信長ならではのエピソードと言えます。
本能寺の変や、武田騎馬隊を打ち破った「三段撃ち」(これも創作です)という、華々しいエピソードで語られがちな織田信長は、基本的には父・信秀の経済的基盤と遺産を受け継いで、「天下布武」を目指した、というのが正しい認識です。
物流都市・津島の支配がなければ、織田信長は日本史の中に登場しなかったことでしょう。
物流や運送の分野に秀でた織田家が、その地の利を生かして情報戦で今川義元を圧倒した、というのは私の勝手な想像ですが、あながち当たらずも遠からずといったところでしょうか。
このような津島に代表される経済活動の基盤整備は、続く秀吉、そして徳川家康に受け継がれ、徐々に「流通列島」の誕生を見るに至ります。
戦国大名といえば「卓越した知恵と奇抜な戦法」に依拠したエピソードが語られがちですが、彼らを支えたのは全て経済基盤であるのは当たり前の話です。代表的な所では毛利元就は石見銀山、武田信玄は黒川金山、そして徳川家は佐渡金山といった鉱山を支配しました。鉄砲を揃えるのも金、軍馬を用意するのも金、兵士を動員するのも金がかかります。工夫と小手先の戦術だけではどうしようもならないのは、現代でも戦国時代でも全く変わらないのです。
1999年、JMM(ジャパンメールメディア)という金融系の話題を扱うメールマガジンを立ち上げた作家の村上龍は、「自分たちが何万文字もかかって表現してきた物語構造が、経済学的にはたったの数文字で説明できると知った時、自分は経済に如何に無知で、そしていかに経済が重要であるかが分かった」と述べています。
2014年、私は三橋経済塾三期生として、三橋塾長のもとで経済を勉強したいと思います。経済が如何に重要で、その理解が如何に死活に関わるのかはこのように歴史が証明しています。「経済」という概念が加わった歴史観は、より重層的で豊かになることだと確信しております。
http://www.mitsuhashitakaaki.net/2014/01/03/furuya-12/
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