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世紀の大天才政治家だった田沼意次
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投稿者 中川隆 日時 2013 年 12 月 20 日 22:05:31: 3bF/xW6Ehzs4I
 


田沼意次(たぬまおきつぐ)は江戸時代中期に老中として幕府の実権を握り、田沼時代(18世紀後半)と呼ばれる権勢を築き上げた人物として広く知られ、学校教科書にも登場する人物です。

この田沼は、一方で賄賂政治家として、どことなく悪いイメージがもたれがちであります。田沼失脚の後、松平定信(まつだいらさだのぶ)が実権を握りますが、その時代の有名な狂歌に、

「白河の、清き流れに耐えかねて 元の濁りの田沼恋しき」

というものがあります。白河は、松平定信の出身藩である白河藩の暗喩です。これも田沼と定信の対比として頻出するものです。実際松平定信は「寛政の改革」と称して徹底的な緊縮政策を行い、倹約と瀟洒禁止を厳命、景気は一気に失速します。この狂歌は、逆説的に田沼時代が如何に猥雑で混沌としていたかを示すものとして例に挙げられがちですが、こういった「賄賂政治家」「ダークなイメージ」がまとわりつく田沼意次について、今回は少しスポットを当ててみたいと思います。

田沼意次は1719年に貧乏旗本の息子として生まれ、家柄は全く良く有りませんでしたが、その後、9代将軍家重(いえしげ)、10代将軍家治(いえはる)の元でトントン拍子に出世し、しだいに権勢を振るうようになりました。若い頃は、町娘に追っかけが出るほど、アイドル級の絶世の美男子だったとされ、将軍の側近に取り立てられ、内政面で鋭い才能を発揮します。

9代将軍家重は、現在で云うところの脳性麻痺(小児麻痺)の後遺症があり、言語が不明瞭な障碍者であったというのが定説になっていますが、その家重時代に田沼意次は確固とした地位を築き、家重の遺言の元で、その子、家治時代に田沼は全盛を迎えます。

当時の江戸幕府は、上手いことできているもので、幕府の中枢である老中(現在で云うところの内閣に当たる)は、独裁を防ぐために複数人で構成され、老中の中でも一番年長の老中首座と呼ばれる年寄りが、各々の意見をまとめ、合議制で政治を運営していました。

田沼意次が活躍した時代には、老中首座に松平武元(まつだいらたけちか)という穏健派がトップに立っていました。田沼意次は独裁を敷いていたわけではなく、途中まで、あくまでナンバー2に過ぎません。松平武元と田沼意次は仲がよく、武元の死後、いよいよ田沼意次の独壇場となりますが、田沼時代の政治は彼一人が権勢を握っていたわけではないのです。各人が協力して、合議制で政治を運営していたのです。

さて、田沼意次が行った政策にはどの様なものがあるのでしょうか。
まず第一には、徹底した重商主義政策があげられます。幕府は積極財政政策を元に、各種の公共事業を拡大し、政府需要を呼び水にして、民間活力を向上する政策が取られました。

顕著なのが印旛沼・手賀沼の開墾事業です。現在、千葉県北西部にある両沼は、広大な農地と宅地に変貌しておりますが、江戸時代、この周辺は利根川が氾濫して手が付けられない荒地であり、そこを整備して運河化することによって、大消費地である江戸への物流拠点にしようという意図がありました。現在の千葉県北西部の姿は、田沼意次の政策と深く関係しています。

第二に、商人の保護です。江戸時代、全国の商人は自由放任的な商慣習に基づいて、おのおのが勝手に競争する状態にありました。今風で言うと、「アダム・スミス的古典派経済学」の世界観を継承するものでしたが、田沼意次は「株仲間」と呼ばれる同業者団体の設立と統合を強化し、そこに特権的な地位を与え、見返りに「運上・冥賀」と呼ばれる税金(今風で言うところの法人税)を幕府に収めさせ、安定的で規律的な商慣行を推奨しました。

これによって、例えば「勝手なルールで勝手に競争する」という商人の世界が、政府のお墨付きが与えられ、かつ、安定的で明確化したルールのもとで、商売ができるようになリました。勿論、消費者にとっても、商慣行の明確化とルール作りは、安定的な商品の供給と価格設定という意味で、大変なメリットをもたらします。田沼時代は、この様に、幕府の採った重商主義政策によって、規律ある商人文化が花開いた時代でした。

最後に、最も重要なのは国防政策です。田沼意次は、おそらく日本で初めて、蝦夷地(現在の北海道)の開発計画をもくろんだ政治家です。当時、蝦夷地は南蝦夷(北海道南部)、北蝦夷(現在の樺太)、東蝦夷(道東・千島列島)などと分かれていたのは、このメールマガジンでも過去に書かせていただいたとおりですが、明治時代になって初めて開拓使を北海道に置き、本格的な開発を行う、はるか100年弱前に、田沼意次が北海道開発計画を明確に意識していたことは見逃せない事実です。

当時の北海道は、道南に松前藩がある程度で、ほぼ全域がアイヌ民族の居留地でしたが、そのアイヌと交易する和人(日本人)商人などからの情報から、北海道に多数のロシア人が接近していることが、幕府中枢に伝わっていました。このままでは、蝦夷地がロシアの領土になるのではないか、という危機感を抱いた田沼は、蝦夷地に測量など、開墾計画をおこなう下調べを命じています。

興味深いことに、このときの田沼の蝦夷地開墾計画は、穢多・非人とされる被差別階級を使役して、武装化と共に蝦夷に定着させるという内容であることが判明しています。穢多・非人が「解放令」で四民平等となるのは明治時代で、更に屯田兵制度が始まるのもその頃ですから、田沼意次は100年弱前に、明治政府の屯田兵制度の原案を実行しようとしていたことになります。正しく、未来を的確に予測した天才政治家としか言いようがないと私は思います。

しかしこの蝦夷地開墾計画は、田沼意次の失脚によって幻に終るのです。田沼意次の長男である田沼意知(たぬまおきとも)は、意次の後継者として将来を嘱望されておりましたが、1784年に暗殺されてしまいます。この事件が切っ掛けに、田沼意次の権勢は揺らぎ始めます。加えて、浅間山の大噴火など大災害が重なり、民衆の怨嗟がしだいに田沼の元に集まってくるようになります(当時、天変地異は為政者の徳の無さが原因だと見る風潮があった)。

現在では、田沼意知を殺害したのは、田沼意次をよく思わない、緊縮財政派の松平定信の系列であることが知られていますが、その田沼の権勢が激しい嫉妬を買ったのでしょう。自らの後継者として育ててきた意知が死に、失意の中、田沼意次に対する包囲網も徐々に構築され、彼の後見人であった家治の死去の直後、老中を解任され、ほどなく1788年に死去します。

現在では、反田沼派の松平定信が、将軍の遺言を捏造した一種のクーデターが起こったとする見方もありますが、真相は闇の中です。家治に変わって11代将軍となった徳川家斉(いえなり)の庇護のもと、松平定信が権勢を振るう「寛政の改革」の時代が到来。松平定信は、今風で言うところの「公共事業悪玉論者」であったので、徹底した緊縮財政と倹約を行ったのは冒頭のとおりです。
現在の北朝鮮や韓国、中国と同じく、新しい権力者は以前の権力者を徹底的に否定します。松平定信によって、こてんぱんに「悪人」「賄賂政治家」のレッテル工作が成された田沼意次は、その悪評が現在までも定着するに至ったのです。

このように、後世の悪意ある創作で「悪徳政治家」のレッテルを貼られがちな田沼意次。積極財政、重商主義、卓越した国防意識など、まさに天才政治家としか言いようの無い田沼意次を、再評価する時期が今、来ているのではありませんか?私は、歴史を振り返ると、強くそう思うのです。
http://www.mitsuhashitakaaki.net/2013/12/20/furuya-11/


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