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山本美香さん銃撃死 それでも最前線に行くワケ
東京新聞 こちら特報部2012年8月23日(書き起こし)
内戦が泥沼化するシリアを取材中に銃撃死したジャーナリストの山本美香さん(45)。
ベトナム戦争以来、紛争の最前線で真実を追って絶えない帰らぬ一人となったが、
命を危険にさらしても伝えようとしたものは何か? 今回の悲劇を乗り越えて志を継ぐ人はいるだろう。「それでも戦場に行く」のはなぜか。(荒井六貴・上田千秋デスク)
■ジャーナリスト犠牲 後を絶たず
戦場などの最前線を取材中に犠牲になった日本人ジャーナリストやカメラマンは、山本さんだけにとどまらない。
ベトナム戦争時、必死の形相で川を渡る親子を撮影した「安全への逃避」でピュリツァー賞を受賞したカメラマンの沢田教一さん=当時(三四)、以下同=は一九七〇年、カンボジア内戦取材中に狙撃され死亡。報道写真家の一ノ瀬泰造さん(26)も七三年に同国内で消息を絶ち、武装勢力に処刑されていたことが八二年になって判明した。
イラクで二〇〇四年、数多くの戦場を踏んだジャーナリストの橋田信介一さん(六一)と、おいの同、小川功太郎さん(33)が車で移動中に銃撃を受けて死亡した。映像ジャーナリストの長井健司さん(五〇)が○七年にミャンマで、ロイター通信カメラマンの村本博之さん(43)が1〇年にタイで、それぞれ反政府デモを取材中に銃弾に倒れた。
■真実暴くため危険さらされ
山本さんが殺害された。シリアでは昨年三月以降、反体制運動が激化。これまで、各国のジャーナリストやカメラマンが何人も拉致されたり殺害されたりしているが、多くのジャーナリストらが現地に残って取材を続けているのはなぜか。
イラクなどでの取材経験が豊富なジャーナリストの細井健陽さん(四一)は「原発事故の取材も同じかもしれないが、現地に行かないと見えてこない事実がある。自分の目で確認しないと、何が起きているか分からない」と話す。
もちろん、戦場では死と隣り合わせだ。細井さんは「一分、一秒で状況が変わり、常にどう動くべきかの判断を迫られれば、いったん引くこともあり得る」と説明。
その上で「殺害される直前に山本さんが撮影した映像や、一緒にいた(ジャーナリストの)佐藤和孝さんの話から推測すると、突然兵士が出てきて乱射したのは不測の事態。反体制武装組織の自由シリア軍に同行する、従軍取材のような形で入っており、絶対的な命の危険があるとまでは考えにくかっただろう」とみる。
大手メディアに所属しないジャーナリストらが果たしてきた役割は少なくない。01年のアフガイラク戦争の時には最後まで現地に残り、貴重な情報を伝えてきた。
だが、危険に見合うだけの報酬を得ているかというと、決してそうではない。契約形態などによってばらつきはあるものの、一本いくらでテレビ局や新聞社、雑誌社などに映像や写真、記事を買ってもらうのが一般的。交通費や通信費などに加えて、時には護衛を付ける費用も必要になり、赤字になることもある。
イラク戦争後はメディアの関心が薄れ、せっかく長期間現地で取材をしても、発表の機会がないままお蔵入りするケースが増えているという。
■「自分の目で確認したい」
それでも現場にこだわり続ける。フォトジャーナリスの広河隆一さん(六ハ)は「人間の権利や命が脅かされてる、その極端な場所が戦場。都合の悪いことを隠そうとする勢力があり、実際に事実が覆い隠されている。それを暴こうとするのだから、危険にさらされることもある」と指摘。
長年、パレ又チナ紛争などを取材してきた経験を踏まえ、こう訴える。
「現場に行って、カメラを回して、自分の目で確かめる。そして、そこで何か起こって多くの人々に伝えるのがジャーナリトの仕事です」
■平和をつくる担い手は子供
「子どもに戦争のことを話すと、怖かって聞きたくないだろうなと思っていたが、大人以上に関心を示してくれた」
山本さんが戦場での体験談を小中学生に講演した際、多くの手紙をもらい、反響の大きさにこう驚いていたという。
そんな逸話を紹介するのは、山本さんの著書「戦争を取材する」を昨年七月出版した講談社児童図書第一出版部の副部長松岡智美さん(四二)だ。
山本さんから子ども向けの本の出版の打診があったのは二〇〇九年。
「学校で、戦争を教える現場の声を聞いた山本さんが、教科書の副読本としても使えるよう、教師と相談しながら構成した。
松岡さんは「子どもに語りかけるような易しい言葉で書かれている。大人が読んでも『そうなのか』と思うことが多い。普段は優しいお姉さんという感じだが、戦争の話になると、雰囲気が変わる」と振り返る。
■無知、無関心戦争起こす
二対一で話し合えば理解できるのに、分かり合えないことで憎み合い戦争になる。戦争を起こす無知や無関心を補うた一めに、報道するという信念があった。いじめなどにも興味があったようで、人の気持ちや異文化を知ってもらうことが大事だと考えていた」
出版について、山本さんは本紙の取材に「残念ながら、世界には戦争がいっぱいある。この力の均衡を崩し、平和をつくっていくのが、次の若い人たち。『自分たちが平和をつくるんだ』という思いを持つ子どもが、できるだけ多く増えるといい。その願いを込めている」と、将来を担う世代への期待を話していた。
01年の米中枢同時テロ後の対テロ戦争で攻撃を受けたアフガニスタンや、○三年のイラク戦争を精力的に取材し、「こちら特報部」に現地からの報告を寄せた。
アフガニスタンでは、反政府武装勢力タリバンが掃討された後の街の様子を伝え、「『ズンダバー(長生きしろよ)』という歓声に集まってきた子どもたちの笑顔が脳裏に焼きついている。何年かがたち、あれが『幻』であったとは思いたくない」と締めた。
山本さんはまた「若い世代に奮起してほしい。日本は経済が傾いて、萎縮している。メディアも社会もいっぱい、いっぱいで世界に目が向けられない。東日本大震災の時に、世界中がたくさん声をかけてくれた。アフガンやイラクを支援した恩返しのように、応援してくれた。戦争が、違い国のことだと思わないでほしい」と力を込めた。
子どもや女性、市井の人々に寄り添う視点で戦争の愚かさ、悲惨さを訴えてきた。元朝日新聞記者の父親、孝治さん(七七)=山梨県都留市=は殉職の報に接し、「戦争ジャーナリストじゃなくて、ヒューマンジャーナリストだった」と悼んだ。
■デスクメモ
1年5カ月前、戦場はは福島だった。第一原発建屋は爆発し、制御不能の状態。過酷事故や放射能汚にメディアは、まだ多くの住民がいるなか安全上、記者を撤退さた。批判は甘んじたい。その間、自己責任で現場近くに入ったのがフリーだ。
危険のなか事実に迫ろうとした記事は貴重な歴史の証言だ。(呂デスク)
(全録)山本美香さん最後の取材映像(ジャパンプレス提供)(12/08/22)
FNNnewsCHさんが 2012/08/21 に公開
シリア北部アレッポで、自由シリア軍の同行取材中、銃撃され死亡した日本人ジャーナリスト・山本美香さん(45)の最後の取材映像。
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00229998.html
山本 美香 (やまもと みか)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E7%BE%8E%E9%A6%99
出生
1967年5月26日[1]
日本 山梨県都留市
死没
2012年8月20日(満45歳没)シリア アレッポ
出身校
都留文科大学文学部英文学科卒業
職業
ジャパンプレス所属ジャーナリスト
活動期間
1991年 – 2012年
山本 美香(やまもと みか、1967年(昭和42年)5月26日[1] - 2012年(平成24年)8月20日[2])は、日本のジャーナリストである。ジャパンプレス所属のジャーナリストとしてイラク戦争など世界の紛争地を中心に取材し、ボーン・上田記念国際記者賞特別賞などを受賞した。2012年のシリアでの取材中、政府軍の砲撃により殺害された。
目次
[非表示] 1 経歴 1.1 ジャーナリスト以外の活動
2 最後の取材 2.1 死を巡る各国・メディアの反応
3 著書
4 脚註
5 外部リンク
経歴 [編集]
父親も朝日新聞の元記者[3]。山梨県都留市出身[3]。山梨県立桂高等学校[4]、1990年(平成2年)に都留文科大学文学部英文学科卒業後[5][6]、朝日ニュースターに入社し、記者、ディレクター、ビデオジャーナリストとして活躍する[7]。
1995年(平成7年)、朝日ニュースターを退職、フリーランスを経て、アジアプレス・インターナショナルに所属[8]。1996年(平成8年)からは独立系通信社のジャパンプレスの記者[9][10]。ジャパンプレスの上司である佐藤和孝と15年間、コンビを組んで取材した[1]。タリバン支配下のアフガニスタン取材など、新聞、テレビ、雑誌で発表[11]。2003年、イラク戦争の際のバグダードからレポートを送り続けた[10]。
2003年(平成15年度)のボーン・上田記念国際記者賞特別賞を受賞している[12][13]。
最後の地を共に取材していた佐藤和孝とは、15年近く前からの事実婚関係にあり、公私にわたるパートナーだったと、佐藤は時事通信の取材で語っている[14][15]。
ジャーナリスト以外の活動
2003年(平成15年)10月から2004年(平成16年)にかけて日本テレビ「NNNきょうの出来事」のフィールドキャスターを務めた[5][16]。
2008年(平成20年)には早稲田大学大学院政治学研究科の非常勤講師に就任すると共に[17]、母校である都留文科大学でも臨時講師として教壇に立ち、後輩たちに自らが世界各地を取材して見聞してきたことを伝えて来ていた[6]。
出身地の都留市での活動が評価され、2011年(平成23年)には日本国政府の外交分野の「仕分け人」に選ばれ、在外公館や査証に対し、意見した[18]。
最後の取材
2012年(平成24年)8月20日、シリア内戦の取材中、シリア北部のアレッポにてシリア政府軍(シャッビーハ)の砲撃を受けて、搬送先の病院で死亡したことを反アサド政権「自由シリア軍」のスポークスマンが発表[19][20]。日本の外務省もこの事実を確認した[21]。病院に運ばれ、パートナーの佐藤が確認したところ、右腕および首に銃創痕が、防弾チョッキで保護された腹部にも、銃撃の跡があり、大量の出血があった[1]。45歳没。
最後の取材は、2012年(平成24年)8月14日に現地入りし、日本テレビ系の報道番組などで放送。銃撃時も取材中で、カメラを回していた[1]。
山本の遺体はトルコ・イスタンブールを経由して、8月25日に家族や佐藤和孝と共にトルコ航空機で日本の成田国際空港に到着した。日本の警視庁は刑法の「国外犯規定」に基いてこの事件を殺人容疑で捜査しており、同日杉並警察署で山本の遺体を検視した。その後遺体は自宅に運ばれ、26日に司法解剖される予定である。[22]
死を巡る各国・メディアの反応
アメリカ合衆国国務省の報道官ビクトリア・ヌーランドは、8月21日の記者会見で山本とその家族に哀悼の意を示した[23]。
フランス外務省は8月21日の記者会見で山本の遺族と関係者に弔意を示した[24]。
日本の内閣官房長官・藤村修は8月21日の記者会見で「極めて遺憾」「かかる行為を強く非難する」と語り遺族に哀悼の意を示した[25]。
イギリスの放送局BBCでは、自国以外の記者で例外的に2分以上、放送内で取り上げた[26]。
著書
『中継されなかったバグダッド 唯一の日本人女性記者現地ルポ イラク戦争の真実』小学館、2003年 ISBN 978-4093874588
『ぼくの村は戦場だった』マガジンハウス、2006年 ISBN 978-4838716852
『戦争を取材する〜子どもたちは何を体験したのか』講談社、2011年 ISBN 978-4062170499
ウィキニュースに関連記事があります。
女性ジャーナリスト・山本美香さんがシリア内紛の巻き添えで死ぬ
山本美香‐THE JAPAN PRESS
プロフェッショナルの唯言・山本美香
(全録)山本美香さん最後の取材映像(ジャパンプレス提供)(12/08/22) - FNN
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