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戦艦大和の最期 上官は切腹して果てた
http://gekkan.bunshun.jp/articles/-/424
「文藝春秋」2012年9月特別号 八杉 康夫 (上等水兵・昭和二年生)
昭和二十年四月六日、戦艦大和は沖縄に向けて出撃し、翌日、鹿児島・坊ノ岬沖で海の底へ沈んだ。艦橋から奇跡的に生還した十七歳の兵隊は、四ヶ月後、広島で再び壮絶な経験をする。
「お前の行先は戦艦大和じゃ。よかったのぉ。あの船が沈む時は日本が沈む時じゃ」
上官に赴任先を告げられ、嬉しさのあまり泣きました。広島県福山市に生まれた私は十五歳で海軍に志願入隊。昭和二十年一月に戦艦「大和」へ乗りこんだときは、まだ十七歳でした。持ち場は海面から三十四メートルにもなる艦橋の一番上です。長さ十五メートルという世界一の測距儀を使って、敵との距離や角度を計算する測距員の一人でした。
赴任から三ヶ月後、大和は沖縄への「海上特攻」に出撃しました。
四月六日の夕方、別府湾沖を航行中に「当直を残して手空き総員前甲板」と命令がありました。整列している私たちを前に、有賀幸作艦長が連合艦隊司令部からの命令書を読みあげ、続いて能村次郎副長から訓示がありました。その後、左舷の皇居方向に向かって最敬礼して「天皇陛下万歳」を三唱。その後に君が代と「海ゆかば」を歌いました。最後に、
「各自、故郷の方向へお別れしろ」
と言われたので、隊列を崩してそれぞれの故郷へ向かい、ある者は合掌し、ある者は黙礼をしていました。あちこちから「さようならー」という声が聞こえます。能村副長の「遠慮はいらんぞ、大いに泣け」という言葉に涙を流している人もいました。私自身は上官のはからいで、最後の上陸日に母と会うことができたため、涙は出ませんでした。
■上官の自決を目の前で
運命の四月七日は一面の曇り空でした。十一時過ぎに「目標捕捉、敵の大編隊接近す」という見張り員の叫び声を聞き、測距儀を覗いて驚きました。レンズの中が真っ黒になるほどの大編隊が迫ってくるのが見えるのです。主砲の射程四万メートルに敵が入るのを興奮しながら待っていましたが、敵機は雲の上に消えていきました。こうなるとお手上げで、測距儀で見えなければ大砲は撃てません。
敵の爆撃機や戦闘機は雲を抜けて、ほぼ真上から襲ってきました。近すぎて主砲も副砲も使えません。機銃で応戦しましたが、後部艦橋に爆弾二発が命中して副砲が破壊されました。低空で襲ってきた雷撃機の放った魚雷が一発、左舷前部に命中しました。
この第一波が去った後に上から甲板をみると地獄のようでした。あちこちに穴が空き、首がないもの、腹から内臓が飛び出しているもの、手足が吹き飛んで人間の形をしていない肉片が散乱していました。甲板の血を応急員がホースで洗い流している横を、衛生兵が走り回って負傷者や死体を運んでいましたが、ちぎれた手や足はポンポンと海へ投げ込まれていました。
そうした光景を見て動転しているところに第二波、第三波が来ました。魚雷が命中するたびに震度五ぐらいの強い揺れがあり、次第に艦は左へ傾いていきました。後日、魚雷は左舷に九発、右舷に一発当たったと聞きました。艦を水平に復元するためには、艦内右舷側の部屋をいくつも閉鎖して海水を注水しますが、傾きが大きくなったので、ついには兵隊が残っている部屋にまで海水が注がれたそうです。こうした犠牲を払っても大和の傾きは戻らず、十四時過ぎには壁に手足をついて体を支えるのがやっとの状態になりました。総員退去の命令が出たらしく、気が付くと周囲には誰もいません。が、筒状の測距儀の向こうに、直属の上司である保本政一少尉がいるのに気が付きました。
声をかけようとした瞬間、保本少尉は戦闘服を肌着ごと引き裂き、戦闘帽を刃に巻いて握った日本刀を左の脇腹に突き立てたのです。すごい勢いで血が吹き出し、保本少尉は一瞬、目を見開いた後に崩れ落ちました。血で染まった肌着は、従兵だった私が前の晩にアイロンをかけて届けたものです。そのとき「お前には世話になったなあ」と言葉をかけてくれました。その優しい上官が目の前で切腹したのです。私は声も出せずに、その場で硬直してしまいました。
その間も大和は傾きつづけ、ついには横倒しになってしまいました。海面から三十メートル以上の高さにあった測距室の二、三メートル下まで海面が迫っています。我に返った私は海に飛び込んで泳ぎ始めましたが、二メートルも進まないうちに、沈む大和が作りだした巨大な渦に巻き込まれてしまいました。二十メートルほど沈んだでしょうか。海中でオレンジ色の閃光が走りました。大和が爆発したのです。その直後に私は意識を失い、気が付くと海に浮かんでいました。爆発の圧力で海面へ押し出されたようです。あたり一面には重油が浮き、波間に数百人の生存者が漂っています。
上空に敵機はいませんでしたが、赤やオレンジ色にキラキラと光ったり、鉛色になったりする物体が、満天を覆っているのが見えました。爆発で吹き上げられた大和の破片です。爆発の熱で真っ赤になっていたんですね。それが次々と降ってくるのです。五メートルほど前に浮いていた兵隊の頭が突然、二つに割れて膨れ上がり、声もなく海中に消えていきました。手足を切断された人もいました。
私の右足にも厚み一センチ、一辺の長さが二十センチほどの三角形の鉄片が刺さりました。水泳には自信がありましたが、右足がマヒしてしまい、溺れてしまいました。
「助けてくれぇ」
重油とコルクの浮いている海水を飲みながら、とっさに声が出ました。すると近くにいた士官が、抱えていた丸太を私の方へ押し流してくれました。川崎勝己高射長でした。高射長とは対空砲火の責任者です。
「落ち着け。もう大丈夫だぞ。お前は若いのだから頑張って生きろ」
高射長はそう励ますと、波に揺られて離れていきました。最後に高射長を見たのは、四時間後に駆逐艦「雪風」が救助に来たときです。みんなが怒号をあげながら、下ろされた縄梯子を奪い合っている中、高射長は大和が沈んだ方向へ一人、泳いでいきました。
「コーシャチョー、コーシャチョー」
と私が声を限りに叫んでも、振り返ることはありませんでした。
■原爆投下の翌日、広島へ
呉に戻った私は陸戦隊へ配属されました。本土決戦に備えて、呉市の山奥で新兵を鍛えることになったのです。
昭和二十年八月六日の朝、小隊長の訓示を聞いていると、上空を一機のB-29が飛んでいきました。それから三分ほど経ったとき突然、周囲が青白く光り、直後に猛烈な風が吹きました。広島市からは二十三キロも離れているのですが。午後には特殊爆弾が落ちたという情報が届いていました。
翌日、広島駅の復旧作業を命じられ、百六十名を率いて広島市内へ向かいました。当時、西日本一と言われていた鉄筋三階建ての駅舎は外壁だけが残り、天井は地面まで落ちていました。その下に手や足、つぶれた頭があるのが見えました。駅の周辺にも何千、何百という死体がありました。死体置き場になった駅裏の東練兵場には異様な臭いが漂っていました。暑さのため腐敗が進んだ死体の腹がパンパンに張り、そこかしこで死体がポン、ポンと放屁しているのです。その臭いは言葉に出来ません。
翌朝、偵察を命じられた私は部下を連れて、被害状況をスケッチで記録していきました。市内南部にある御幸橋周辺の記録を終えて立ち去ろうとした瞬間に右足をつかまれました。とっさに軍刀へ手をかけながら足元をみると十歳ぐらいの少年が手を伸ばしていました。顔がドロドロに焼けただれていたので、てっきり死体だと思っていたのですが、まだ息があったのです。
「兵隊サン、ミ、ズ、水ヲ下サイ……」
少年が弱々しく呟きました。このとき私の水筒には水が入っていましたが、「重体者に水を与えると死ぬ」と言われていましたし、「負傷者の救助はするな」という命令も出ていました。私は「待っておれよ、また戻ってくるからな」と言って、その場を立ち去りました。
ごめんなさい。あのとき、私が水をあげて死なせてやればよかったのです。ごめんなさい。思い出すたびに涙が出てきます。いまでも御幸橋を通るときは必ず両手を合わせます。
この続きは「文藝春秋」2012年9月特別号でご覧ください。
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