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私がう〜んと幼い頃のこと、母が私にしてくれた話。
竹槍訓練をしていたときに母は「こんな竹槍でアメリカ兵を本当に刺し殺せるのだろうか」と思わず言ってしまったらしい。すると国防婦人会の怖いおばさんが「いまはわざと負けた振りして空襲にやられているが、アメリカを油断させるためにやっていることだ。油断して上陸してきたアメリカ兵をうんと引きつけてから竹槍で突くから刺し殺せるのだ。」とすごい剣幕で叱られたそうだ。
8月15日が来るごとに思うことがもう一つある。
戦陣訓に「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」の一節がある。この戦陣訓のために死ななくてもよい兵士がたくさん命を失った。そのくせ戦陣訓をつくった張本人の東条英機は自決し損なったあげく虜囚の辱を受けたのだから何をか言わんや、だ。
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戦争終結67年/アジアと日本国民に大惨害
「しんぶん赤旗」 2012.08.15 日刊紙 3面
15日は、2000万人以上のアジア諸国民と310万人以上の日本国民を犠牲にした天皇制国家による侵略戦争が終結して67年となります。戦後の日本はこの侵略戦争の反省と教訓から再出発しました。戦争が日本とアジアに何をもたらしたのか、改めて振り返ります。
領土の拡張を目的に
天皇制国家は、1931年、中国東北部への侵略戦争(「満州事変」)を、37年には中国への全面侵略戦争を開始。41年にはアメリカ、イギリスと戦端を開きました(アジア・太平洋戦争)。これら足かけ15年にわたる侵略戦争はアジア諸国民に大惨害をもたらしました。
日本政府は中国への全面侵略にあたって宣戦布告せず、「支那事変」と称しました。これによって日本軍は、捕虜や一般市民に対する人道的な対応を定めた戦時国際法を投げ捨て、中国各地で捕虜の殺害や住民の虐待を行いました。37年には南京虐殺事件を引き起こし、十数万人から20万人と推定される捕虜や非戦闘員を殺害しました。
対米実戦の目的は「大東亜の新秩序を建設」(41年11月の御前会議)とされましたが、前年9月に大本営政府連絡会譲で決められた「日独伊枢軸強化に関する件」は、日本、ドイツ、イタリアの間で世界を再分割し、中国、太平洋島しょ、インド、オーストラリア、ニュージーランドまでを日本の「生存圏」とする構想を明記しています。まさに領土拡張のための戦争でした。
占領地に対する方針(「南方占領地行政実施要領」、41年11月)も、「差し当り軍政を実施し治安の恢復、重要国防資源の急速獲得及作戦軍の自活確保に資す」「独立運動は過早に誘発せしむることを避くるものとす」と決定したように、「アジアの解放」とはまったく無縁でした。
この方針に沿って日本軍はアジア各地で資源を収奪。、住民の生活は急速に悪化し、ベトナム北部では45年、大飢饉によって200万人とも舌われる餓死者を出しました。
日本軍の戦争犯罪をアジアの人々は今も記憶しています。
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戦死者の6割が餓死
他国民の生命、人権を無法・残虐にじゅうりんする日本軍は、自らの将兵に対しても非情でした。
日本軍の指導部は、補給を無視した無謀な作戦計画で、食糧補給の手だても講じないまま、何万、何十万の軍隊を前線に送り込みました。
このため、ガダルカナル、ニューギニア、インパール、フィリピン、中国など全戦場にわたって、補給の不足・途絶による戦地栄養失調症が常態化し、マラリア、赤痢などによる病死=広い意味での餓死を大量に発生させました。日中戦争以降の全戦死者約230万人のうち約60%が広義の餓死者であったと推定されています。(藤原彰『餓死した英霊たち』)
艦船や輸送船などの沈没による溺死者も、陸海軍の軍人・軍属・船員ら合わせて約40万人に達しました。海上護衛の軽視や徴用した貨物船に多数の兵士を詰め込んだことなどが招いた犠牲です。
さらに日本軍は戦争末期、爆弾を積んだ航空機などで敵艦船に体当たりする特攻作戦を実施しました。特攻死は航空特攻だけで約4千人に上ります。
日本軍の将兵は「生きて虜囚の辱めを受けず」と徹底的に教育され、降伏して捕虜となることを許されませんでした。そのため、圧倒的な火力差と弾薬の欠乏、飢餓の絶望的な状況下にあっても兵士は死ぬまでたたかうことを強いられました。
自国の軍隊の人命をこれほどまでに軽視し、無残に扱った戦争は、世界史にもほかに前例がありません。
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天皇制の護持を優先
日本軍は当初、アメリカ軍やイギリス軍を圧倒し、開戦後約半年で東南アジア、太平洋の広大な地域を占領しました。しかし、ミッドゥェー海戦、ガダルカナル島攻防戦の敗北で戦局は転換。連合軍は本格的攻勢を開始し、44年6月にはマリアナ諸島を攻略、マリアナ沖海戦で日本海軍の機動部隊は事実上壊滅し、日本の敗北は決定的となりました。
アジア・太平洋戦争期の戦死者約175万人の過半数はこれ以後の「絶望的抗戦期」に戦死していると推定されています。
さらにフィリピンで日本軍が完全に敗北して迎えた45年の2月、元首相の近衛文麿は昭和天皇に「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候」「国体護持の立場よりすれば、一日も速に戦争終結の方途を講ずべきものなりと確信仕り候」と、天皇制護持の立場から終戦論を上奏しました。
しかし、昭和天皇は「もう一度戦果を挙げてからでないと中々話は難しいと思ふ」と近衛の上奏に消極的態度を取りました。昭和天皇は、日本が和を請えばアメリカが天皇制の廃止を要求してくるのではないかと不安を抱いていたのでした。
天皇制国家を残す保証がないとして和平交渉を拒否した指導者たちは、戦局打開の見通しもないまま、国民に向かって「本土決戦」「一億玉砕」を叫び続けました。終戦をいたずらに引き延ばした間に、B29による本土大空襲、沖縄戦、広島と長崎への原爆投下、ソ連の参戦による「満州」、樺太の悲劇が起こりました。
天皇制護持を国民の命よりも優先させた指導者たちこそが、45年の国民的な大惨害を引き起こしたのでした。
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