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《ミッドウェー海戦から70年》 山口多聞「稀代の提督」が見抜いていた戦いの本質 / 山内昌之(歴史学者) 
http://www.asyura2.com/12/warb9/msg/381.html
投稿者 赤かぶ 日時 2012 年 6 月 02 日 16:01:07: igsppGRN/E9PQ
 

【ミッドウェー海戦から70年】山口多聞「稀代の提督」が見抜いていた戦いの本質 / 山内昌之(歴史学者)
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20120602-00000001-php_r-bus_all
PHP Biz Online 衆知(歴史街道) 6月2日(土)12時13分配信


「兵は拙速を尊ぶ」。孫子以来語り継がれている、戦いの極意の1つである。日米の機動部隊が激突したミッドウェー海戦もまさに、この極意が勝敗を分けた。
しかし頭で理解するだけの南雲司令部は、拙速に踏み切れなかった。なぜなら拙速には犠牲が伴い、指揮官の責任が問われるからだ。
その中で1人、責任を負う覚悟で即時攻撃を進言したのが、第二航空戦隊司令官・山口多聞であった。

◆見抜いていた「戦いの本質」◆

 今からちょうど70年前の昭和17年(1942)6月4日(現地時間)、太平洋戦争の分水嶺ともいうべき戦い、すなわちミッドウェー海戦が行なわれました。日本の海軍がこの「勝てる戦」を落とし、その後、雪崩の如く敗戦へ向かったことは改めて述べるまでもないでしょう。

 しかし、決定的な敗北の中にあって、強烈な輝きを放った男がいました。第二航空戦隊司令官・山口多聞です。この時、日本の機動部隊は司令部の判断ミスで、3隻の空母(赤城、加賀、蒼龍)を一瞬にして失いました。山口は一連の判断ミスに警鐘を鳴らし続け、3空母が大破して窮地に立たされると、迷わず自ら座乗する飛龍一隻で反撃に打って出て、一矢を報いたのです。

 司令部の「判断ミス」とは何でしょうか。それは第一航空艦隊司令長官・南雲忠一と参謀長・草鹿龍之介はじめ幕僚たちが、当初、ミッドウェー島近海には米空母はいないと安易に決め付けていたことでした。真珠湾攻撃以来の成功で、慢心と油断があったのです。ところが、やや遅れて「敵は空母らしきものを伴う」という報告が偵察機よりもたらされます。その時、南雲機動部隊の空母艦載機はミッドウェー島の第二次攻撃のため、陸用爆弾を装着していました。敵機動部隊発見の報を受けた司令部は、教科書通りに艦船攻撃用の魚雷への兵装転換を下命します。

 しかしこれは、「戦いの本質」を捉えていないマニュアル秀才の判断でした。空母同士の戦いでもっとも優先されるべきはスピード、すなわちいかに先制して敵を叩くかです。空母は爆弾などで飛行甲板を破壊されると、艦載機の離着艦が不可能になり、たちどころに無力化されてしまうからです。まさに、やるかやられるか、時間との勝負なのです。

 山口は、この空母戦の本質を見抜いていました。だからこそ、敵空母の存在を確認していながら、あくまで兵装転換に拘り、もたもたと攻撃に打って出ない司令部の指示に歯軋りし、「現装備(陸用爆弾)ノママ攻撃隊直チニ発進セシムルヲ至当ト認ム」と、南雲ら司令部に意見具申したのです。

 しかし、空母決戦の本質を知らない南雲司令部はこれを黙殺。結果、南雲機動部隊は、換装作業中に敵の爆撃を受けて、虎の子の空母3隻を失うという、もっとも恐れていた事態を招いてしまいました。そして山口は、残された空母飛龍一隻で、無傷の3空母を基幹とするアメリカ海軍機動部隊に挑んでいったのです。

 真珠湾攻撃の際、南雲機動部隊の旗艦・空母赤城の飛行隊長であった淵田美津雄は、このミッドウェー海戦における司令部の判断ミスを、後に次のように振り返っています。

 「ああ、兵は拙速を尊ぶ。巧遅に堕して時機を失うよりは、最善でなくとも、次善の策で間に合わせなければならない」

 淵田の言葉は、実に的を射た教訓として胸に響きます。

 司令部の最大の問題点は「空母には艦船用の兵装で攻撃をする」という「模範解答」に執着したことです。これは実戦の極めてシビアな局面にいながらも、あたかも兵棋演習を行なっているかのようにのどかな思考であり、現実の敵を顧みていない証でした。その点、瞬時に「次善の策」を導き出した山口が、いかに稀有な存在であったかが窺えるのです。

 山口の慧眼 <けいがん> は、ミッドウェー海戦に限りません。昭和16年(1941)12月8日の真珠湾攻撃においても、「徹底的に真珠湾の敵基地を叩くべき」と、司令部に第二次攻撃の必要性を幾度も訴えています。これは艦船だけでなく、真珠湾の燃料タンクや修理にあたる海軍工廠などを破壊し、大国・アメリカが太平洋上で当面立ち上がれなくなるようにすべき、との考えでした。腰の引けた南雲司令部はこれを容れませんでしたが、もしも山口の考えが実行されていれば、ハワイの太平洋艦隊はまず半年は行動不能に陥り、歴史は大きく異なっていたと思うのです。

(『歴史街道』2012年6月号より)


 

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コメント
 
01. 2012年6月02日 21:01:56 : u9nMDap5io
>昭和16年(1941)12月8日の真珠湾攻撃においても、「徹底的に真珠湾の敵基地を叩くべき」と、
>司令部に第二次攻撃の必要性を幾度も訴えています。

これは実は決して取り上げられることのない提案だった。というのも、太平洋戦争開戦時の本当に重
要な作戦はインドネシア・マレーシア方面の資源地帯確保であって、真珠湾攻撃は妨害にやってくる
米艦隊の足止めを行う支援作戦程度の位置づけだったのだそうな。外交的トリックまで動員するよう
な政略的な作戦であったはずなのに、足止めという単なる戦闘技術の一環として行われてしまったと
ころに根本的な問題があったようです


02. 2012年6月03日 01:12:13 : sUpHQ8Q75g
> 昭和16年(1941)12月8日の真珠湾攻撃においても、「徹底的に真珠湾の敵基地を叩くべき」と、司令部に第二次攻撃の必要性を幾度も訴えています。

これは第三次攻撃隊のことであろう

真珠湾攻撃において燃料タンクなどの地上軍事施設への攻撃は
奇襲の成功を確信した場合にのみ実施することになっており
淵田中佐が打電した有名な「トラトラトラ」は奇襲の成功を告げる暗号文である

これを受電した南雲は直ちに第三次攻撃隊を発信させるべきだったが
南雲は敢えて作戦途中で退却し完全勝利を手放した
それは南雲やその上官である山本五十六や米内光政が油堕菌のエージェントだったからだが
山口多聞らはそのことを全く知らなかったのだろうか

南雲が真珠湾攻撃以来繰り返し不可思議な行動をとるのも
わざと勝利しないように戦っていたからだ


3. 2016年8月23日 17:09:13 : a7YV9DSQOk : PxJ3jrfhBM4[4]
カオスちゃんねる

2015年11月29日00:00

子供の頃の不思議な体験
http://chaos2ch.com/archives/4531366.html
(抜粋)


75: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2015/01/04(日) 20:08:24.18 ID:UKk524010.net


 10年ぐらい前にあった話。

 当時、俺は高校生でフルタの食玩で世界の軍艦シリーズを集めていた。
 それで余ってしまったおまけを小学生だった弟にあげていた。弟は俺に似て船好きなのか気に入ってくれていくつかはお風呂に浮かべて遊んだりしていた。

 そんな俺と家族は旅行でサイパンに行ってきた。
 特に昼間は変な体験もせず夜のこと。

 レストランで俺たち家族は食事をしていたんだが、弟がその時から様子がおかしい。
 なぜかしきりにニコニコしてうんうん頷いている。そのうちに植え込みのあたりで中を見てボーッとしたり相づちをうちだした。
 さすがに心配になって親が弟にどうしたのか聞いてみたんだが、帰ってきた返事は「おっちゃんとテレビの話しとる」。

 気味が悪いのでさっさと食事を終えてホテルに帰ることにした。ホテルに帰った後、弟は特に見えない誰かと話すそぶりはなかった。
 日本に帰ったあと、荷物を片付けているときに例の食玩が見あたらない。弟になくしたのかと聞いてみると「おっちゃんにあげた」という。

 その「おっちゃん」とやらの特徴を聞いてみると緑の服を着てて、しかめ面で、物凄く大声で、かなり笑い上戸だったそうだ。
 なんであげてしまったのか聞いてみたところ、「おっちゃん」に食玩を見せたら辛そうな顔をしてジッと弟の顔を見て「おっちゃんにくれないか?」と二回も言われたらしい。
 それで可哀想だし、格好悪くてあんまり好きじゃない船だからあげてしまったそうだ。

 あげてしまった船は航空母艦加賀だった。
 そんな俺たち二人は今でも軍艦の模型つくったりしながら、口には出さないけどおっちゃんの正体についてたぶん共通の見解を持っている。

76: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2015/01/04(日) 20:15:23.45 ID:kYdBkrjbO.net


>>75
切ない話だな…
おもちゃの戦艦に乗って、靖国に帰ってこれたかな

77: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2015/01/04(日) 20:22:07.71 ID:/hdDDLos0.net

>>75
うぅ(´;ω;`)


**********************

warbirds
http://www.warbirds.jp/ansq/9/I2000646.html(Q&A抜粋)

第二次大戦中の帝国海軍の士官服(詰襟)白と黒が有りますが、
どちらが本当なのでしょうか、というのは、写真などでは黒い服が多、
映画やアニメでは、白い服です、両方あるのでしたら白と黒は、
どういうときに変えていたのでしょうか(こういうときには白、また
別のこういうときには黒)教えてください
キリコ

・・(略)尚、余談ですが、第1種はウール、第2種は綿布で作られています。
また、上記の他に第3種と言われた緑色の被服も存在しますが、詰襟ではありません。
ウエストモーランド

**********************

知っていましたか? 日本近代のこんな歴史

ミッドウェー海戦 〜命運をかけた戦い〜
http://www.jacar.go.jp/modernjapan/p15.html(抜粋)

ミッドウェー海戦とは

ミッドウェー海戦の名をご存じでしょうか。その名を聞いたことはあっても、詳しく知らない方も多いのではないでしょうか。ミッドウェー海戦とは、太平洋戦争中の昭和17年(1942年)の6月5日〜7日にかけて、日米の海軍が繰り広げた大規模な戦いのことです。この戦いで日本海軍は空母4隻、航空機約300機等を失うという大きな損害を受け、以後の作戦の主導権をアメリカ軍に譲り渡すことになります。まさに太平洋戦争のターニングポイントとも言える戦いでした。

アジ歴では、ミッドウェーの戦いに参加した艦隊や艦艇の戦闘詳報を見ることができます。戦闘詳報とは、後の作戦指導を適切に行うために、一つの戦闘終了後その戦闘の状況を詳しく上級指揮官に報告する文書のことです。その報告内容には、戦闘前の彼我の状況・戦闘の経過・将来参考となる所見などが記されています。戦闘に参加した人々が記した資料には、この戦闘はどのように描かれていたのでしょうか。アジ歴で見てみましょう。

(以下略)

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Yahoo!知恵袋

山本五十六スパイ説について 彼がアメリカのスパイでミッドウェーの大敗北...

zhong_dazaiさん

2015/2/1514:30:53
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10141992785
(質問文抜粋)


山本五十六スパイ説について

彼がアメリカのスパイでミッドウェーの大敗北は彼の陰謀による結果だったというユニークな説をQ&Aで見かけたがその説を唱え、あるいは支持する方に質問する。

山本五十六がアメリカのスパイなら、なぜアメリカは16機ものP−38を放って山本の乗る一式陸上攻撃機を撃墜して殺したのだ? 君らの言うように本当に彼がアメリカのスパイなら「ミッドウェーにおけるアメリカの大勝利を導いた」戦功で、アメリカはこっそり山本を日本の勢力圏内から脱出させて戦中戦後を通じて地球のどこかで生き長らえさせてやるのが本来ではないのか?

満足な働きをしたスパイに対しては国家は十分な待遇で報いるのが普通と聞いているが、山本が「自軍」のミッドウェーの大敗北を実現させたというのなら、それは大変素晴らしい「実績」ではないか。

はじめにお断りしておくが、宇宙人がどうのこうのという答えはやめていただきたい。私はカルトに興味はないので。

(回答は省略)

************************

山本五十六
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E4%BA%94%E5%8D%81%E5%85%AD

山本 五十六(やまもと いそろく、1884年(明治17年)4月4日 - 1943年(昭和18年)4月18日)は、日本の海軍軍人。第26、27代連合艦隊司令長官。海軍兵学校32期生。最終階級は元帥海軍大将。栄典は正三位大勲位功一級。1943年に前線視察の際、ブーゲンビル島上空で戦死(海軍甲事件)。旧姓は高野。

(略)

(以下、エピソード抜粋)

>子供の頃から負けず嫌いで、小学生時代「何でも食べるが鉛筆は無理だろう」とからかわれると、その場で鉛筆を食べだした。


>キリスト教に対する理解が深く、海軍兵学校時代は座右に聖書を置いていた。


>佐官時代は愛煙家だったが、空母「赤城」艦長時代、航空機搭乗員が禁煙を宣告されたが無視していると、山本は「私も煙草は好きだが、日本の為だ。君ばかりに止めてはおかぬ」として禁煙を宣言した[54]。それ以来、山本は煙草を吸わなかった


>博打が好きで腕もよく、特にポーカーやブリッジに強かった。(略)」「私欲を挟まない。科学的数学的でなければならない。冷静に観察し、計測すれば必ず勝つ機会が判る」という[350]。山本は「予備役になったらモナコに住み、ルーレットで世界の閑人の金を巻き上げてやる」と語ったという。 しかしモナコではカジノ協会からあまりに勝ちすぎるため出入り禁止令を受けたという。


>乃木希典を尊敬していた[354]。山本も友人の歌人から「乃木将軍を 稍々口悪く 素気無く描けば そこに山本がいる」と冗談めかして評されている。


>東郷平八郎に対しては、自身の同志や友人を海軍から追放した経緯から否定的な感情を抱いていた。東郷神社が建立された際、「面倒臭いこと(軍縮条約締結)をやって貰って神様になったのだから、拝めば何か御利益があるだろうよ」と周囲に皮肉交じりに語った。その為か、真珠湾攻撃の成功により海軍内で自らが軍神の如く神聖化されて扱われることに対し、「俺は神様でも何でもないんだ」と不満そうに言った。


>米国駐在武官時代、部下の伊藤整一に「エイブラハム・リンカーンが好きだ。米国人といわず人間として偉い男と思う」と語った。


>将棋を趣味にしており、アメリカ留学時代、留学生・小熊信一郎と互いに意地を張った結果26時間連続で将棋を指した[357]。100番予定だったが双方疲労の末、75番で切り上げた[358]。連合艦隊司令長官になっても将棋をやめることはなく・・(略)ミッドウェー海戦でも空母「赤城」、「加賀」、「蒼龍」の被弾炎上という急報を「大和」作戦室で渡辺と将棋を指している時に受け取った。


>酒を飲まなかったが甘いものが好物で・・・(略)あめ最中も好物としており、新潟市白山駅の「渡辺あめや」には礼状が飾ってある。


>非常にお洒落な人物であり、大切にしていた特製のサージの軍服は、逆光で青色に光ったという[368]。毎日5足以上の靴を磨かせて並べて履き替えていたが、靴の中が熱くなるのを嫌っていたからであった。


逆立ちが得意で・・・・(略)河合千代子不在の折に妾宅を訪れ、山本とは面識のない千代子の兄が留守番をしている前で、逆立ちをし、屁をひとつひって、「これでも海軍大佐だ」と自己紹介した事がある。


************************


米処、それでも麺麭@渡辺あめや

2010年 06月 18日
http://awotani.exblog.jp/14613730/


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