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設置された本土初空襲の史跡説明板と田村さん(左から3人目)=東京都荒川区で
2012年4月16日 朝刊
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2012041602000089.html
「『恥ずべき事実』として口止めされました」。真珠湾攻撃と米国への宣戦布告から、わずか四カ月後の一九四二年四月にあった首都東京への初空襲。国民が勝利を疑わずに突き進む中、被害は伏せられた。東京都荒川区の田村正彦さん(76)も長く、胸にしまい込んでいた。爆心地の同区東尾久で生まれ育ち、今もそこに暮らす空襲体験者はたった一人。「日本人の歴史にとって大きな意味のある事件。忘れないでほしい」と訴える。 (井上圭子)
「よく晴れた土曜日の昼だった。学校から帰り、台所で水を飲もうとした瞬間、ごう音とともに爆風で三メートル吹っ飛ばされた」
四二年四月十八日午後零時二十分、小学一年になったばかりの田村さんは自宅にいた。「空襲だ!」と叫ぶ母に頭にアルミ鍋をかぶせられ、土煙の中でうずくまるしかなかった。空襲警報が鳴ったのは爆撃から八分ほどたってからだった。
旧陸軍の記録などによると、東尾久に投下された爆弾は三発。一発目は田村さん宅北側の道路に落ちて地下の上下水道を破壊、直径十メートル、深さ五メートルの穴が開いた。二発目は田村さんの向かいの家を直撃、昼食中の一家六人が即死した。三発目は二十メートル離れたたばこ屋の近くに落ち、直径十センチ、深さ五センチの穴ができた。
民家が燃え盛る中、目と鼻の先を流れる隅田川は運悪く干潮で消火用水として使えず、水道も破壊されていた。近くの千葉製作所の貯水槽から住民がバケツリレーし、午後一時五十分に鎮火した。
「造言飛語を言う者は厳罰に処す」という当時の法律が子ども心に怖くて、初空襲の体験を六十年余り、家族以外の誰にも話せなかった。友人の中には「爆弾跡を見に行く」と言って父親に叱られたり、教員に「見たことは誰にも話すな」と脅されたりした者もいた。「首都が爆撃され、初弾がこの尾久に落ちた。忘れたふりをするのが、節度ある地元民の態度だった」と田村さん。
日本軍が攻撃した真珠湾はアメリカの離島だが、ほどなく米軍は日本の首都を空爆した。日本の劣勢は明らかだったが、「誰も冷静な判断ができず、振り上げた拳をおろせぬまま、東京大空襲、原爆投下までいってしまった」と振り返る。
体験は死ぬまで口外しないつもりだった。心境が変わるきっかけは、二〇〇〇年に爆心地で開かれた追悼集会。「よそから来た人があれほど一生懸命なのに、地元民が黙り続けてていいのか」。自問の末の決断だった。「いま自分が話さねば、事実は永遠に残らない」。その思いに突き動かされ、十年前から体験を語り続けている。
太平洋戦争開戦からわずか四カ月後にあった「日本本土初空襲」の一弾目が投下された東京都荒川区内の爆心地に今月、区教育委員会が初めて説明板を設置した。初空襲から七十年を迎えるのを機に重要な戦争の歴史を多くの人に知ってもらいたい、としている。
戦時中、初空襲の事実は公表されたが、犠牲者が出たことは伏せられ、新聞でも「敵敗戦糊塗の政略空襲」「猛爆怖るゝに足らず」(都新聞)などと報道されていた。被災者は戦後も多くを語らず、初空襲の実態は広く知られていなかった。
荒川区立荒川ふるさと文化館の野尻かおる館長は「これを機に情報が集まり、新たな事実が明らかになれば」と期待する。
<日本本土初空襲> 1942年4月18日、太平洋上の空母を出撃した米軍「ドーリットル戦隊」の16機の双発爆撃機B25が飛来し、初弾が現在の東京都荒川区西尾久8、9丁目に投下された。旧陸軍や警視庁の資料によると、午後0時20分ごろ、爆弾3発と焼夷(しょうい)弾70発以上が住宅街を直撃、10人が死亡、重軽傷者48人、全焼全壊家屋52戸、半壊半焼家屋14戸の被害を出した。本来の目標は、対岸の足立区にあった東京電力千住火力発電所と北区赤羽の陸軍造兵〓(しょう)だったとされる。
※〓は广の中が敞
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