06. 2013年3月28日 01:28:20
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【第63回】 2013年3月28日 森 達也 [テレビディレクター、映画監督、作家] 北朝鮮当局の演出を手伝い、流布する 日韓のメディア 映像は恣意的なものだ。でも、映像は客観を装う マイケル・ムーアの『ボウリング・フォー・コロンバイン』を再見した。公開時には日本国内だけでも39万人という動員を記録したこの映画については、(カンヌでパルムドールを受賞した『華氏911』も含めて)僕は大きな評価をしていない。 ただし、一般的なムーアへの批判である「現実を恣意的に切り取っている」とか「都合良く論理を構成している」などの観点に同調するつもりはまったくない。作品は自己の表出であり、「恣意的に切り取る」ことは当たり前だ。ムーアの場合は確かに少し過剰ではあるけれど、これはすべての作品に言えることだ。恣意的ではない編集などありえない。 ところが映像は客観を装う。あるいは観る側はそう思い込もうとする。こうして虚実が融解する。これは映像の特質だ。一例をあげる。僕たちは当たり前のように「動画」という言葉を使うけれど、フィルムもビデオもすべて原理はパラパラ漫画だ。つまり実際には動いていない。フィルムなら24分の1秒、そしてビデオなら30分の1秒の静止画が連続することで、動いているように見えるだけだ。それが映像の本質だ。そもそもは錯覚から始まっている。 映像の編集はモンタージュと呼称される。その意味は(フランス語で)機械などを組み立てること。つまり映像を編集する行為は、異なる映像の組み合わせによって新たな意味を提示することでもある。 舞台はアメリカ西部。カウボーイがウイスキーの入ったグラスを手にしている。カウボーイはグラスを目の前にかざす。真赤な夕陽が地平線に沈む。次のカットでグラスが空になっていたら、誰もがカウボーイはウイスキーを飲みほしたのだと解釈する。つまり映像の編集は、観る側が欠損を想像することで成立する。グラスを目の前にかざしてからカウボーイがウイスキーを地面に捨てたとは誰も思わない。こうして異なるカットの組み合わせによってシークェンスが生まれる。つまりドラマツルギーが励起する。 現実をある視点から切り取ることで静止画を撮る。その静止画が集積することで動画としての錯覚が生まれ、さらにカットの組み合わせによって観る側の想像力が駆動して新たな意味が付与される。 これらの行為のどこに客観的な事実があるのだろう。そもそもが虚なのだ。だからこそドキュメンタリストは悩む。謙虚になる。「私の撮った映像は100%事実です」などと胸を張るドキュメンタリストがもしいるのなら、僕はその人を信じない。恣意性のない編集など存在しない。虚を撮って(自分にとっての)真実を紡ぐ。表現として再構成する。これがドキュメンタリーの作法だ。事実と表現のあいだに生じる乖離に煩悶して当たり前なのだ。 でも『ボウリング・フォー・コロンバイン』からは、そんな煩悶や葛藤がほとんど感じ取れなかった。画面に映りこむムーアは常に正義であり、彼と敵対する人や組織は悪。その二元論的構成に葛藤の気配はまったくない。要するに自信たっぷりなのだ。子どもの頃からそういう人は苦手だった。だからムーアに対する僕のコメントは、正しくは批評ではない。好き嫌いだ。 臆病な人たちこそ、銃を手元に置きたがる ただし彼の論理は正しい。アメリカがなぜ銃を手放せないかについてムーアは、黒人や先住民族を加虐してきた建国の歴史があるからこそ、アメリカの白人たち(WASP)は報復されるとの恐怖から逃れられないのだと主張する。つまり銃を手もとに置く人たちは勇敢なのではない。臆病なのだ。 この論理を展開する過程でムーアは、近年のアメリカの治安はとても向上しているのにメディアが事件報道ばかりを強調して伝えるので、アメリカ国民の危機意識は上昇して銃を手放せなくなっているとも訴えている。まさしくオウム以降のこの国の状況と相似形だ。 1月に警察庁が発表した2012年の刑法犯の認知件数は138万2154件で、前年に比べ9万8611件(6.7%)減少した。これで10年連続の減少だ。殺人事件(未遂、予備容疑も含む)は1030件で、これもまた例年のように前年度を更新して、戦後最少を記録した。 でも大手メディアではほとんど記事にならない。この件についてはこれまでも、いろいろな媒体や書籍で、事あるごとに言ったり書いたりしている。さすがに自分でも辟易している。もうこれ以上は書きたくない。だから宮崎哲弥の『時々砲弾』(『週刊文春』2月7日号)から引用する。 「もともと日本の治安の良さは世界的に高く評価されてきたが、このデータを見る限り、わが国の治安状況はますます向上していると判断せざるを得ない。 然るに、各新聞はこの発表を報じる記事を新聞の隅に追いやった。本来なら一面トップで扱い、国民に広く告げ知らせるべきニュースではないのか。 そのくせ、検挙率が低下したり、青少年の犯罪がわずかに増加傾向をみせたりすれば、大仰な見出しを掲げ危機感を煽る。こうした報道の結果、世間の治安感が根拠なく悪化してしまうのだ。」 宮崎のこの論旨に、僕が付け加えるべき要素は何もない。メディアによって悪化するばかりの体感治安。それはアメリカも同様だ。ただしアメリカの場合は、多くの人が銃を持っている。だから内なる自衛の意識が形になる。大型スーパーマーケットで半自動小銃が当たり前のように売られている。アメリカ全土で銃を保有している家庭は約47%。まさしく銃社会だ。その結果として近年のアメリカにおける銃使用の殺人事件の発生件数は、年間でおよそ1万件に達している。 なぜ国家は武装するのか、なぜ軍隊を持たねばならないのか ムーアが『ボウリング・フォー・コロンバイン』のモチーフにしたコロンバイン高校の銃乱射事件が起きた1999年、銃規制をめぐる論議がアメリカで高まった。でも一時的な現象だった。結局は誰も口にしなくなった。今年1月にコネティカット州で小学1年の児童ら26人が犠牲になった銃乱射事件が起きたときも、アメリカの世論は銃規制の是非で二分されたと伝えられ、オバマ大統領も規制に前向きであることを示す声明を発表した。でも長続きしない。結局は銃を手放せない。むしろ事件後に銃の売り上げは伸びたという。 多くのアメリカ人は、いま自分が銃を手放したら、銃を持つ悪い奴から身を守れなくなると主張する。全米ライフル協会(NRA)のウェイン・ラピエール副会長は、「銃を持った悪人を止められるのは、銃を持った善人だけだ」と発言し、「すべての学校に武装警察官を常駐させればいい」と主張した。 つまり抑止力理論だ。 なぜ国家は武装するのか。軍隊を持たなくてはならないのか。他の国が武装しているからだ。軍隊を所持しているからだ。自分たちは侵略などしない。つまり悪い国ではない。でも武装した悪い国が侵略してくるかもしれない。だから武装しなくてはならない。武器や軍隊で自衛しなくてはならない。 銃を手放せないアメリカ市民の気持ちの代弁でもあるラピエールの発言は、現在の国家防衛の観点からは紛れもなく正論だ。この延長に核抑止論もある。 「核を持った悪い国から身を守るには核を持つしかない」 北朝鮮がそう思っても不思議はない 現状の北朝鮮は、核兵器を持つ米軍と安全保障条約を結ぶ日本と韓国、そして核兵器を保持することを(なぜか当然のように)許された中国とロシアに包囲されている。国境線のすぐ近くでは、毎年のように米韓共同軍事訓練が行われる。さらに昨年12月に実施されたロケット(日本での呼称は「事実上のミサイル」)打ち上げに対しては、国連安保決議2087が決議された。 「核兵器を持った悪い国から身を守るためには核兵器を持つしかない」 抑止論の見地からは、北朝鮮がそう思ったとしても、何ら不思議はない。いや、この理屈は、実のところ世界的なスタンダードだ。 補足するが、北朝鮮の現状を肯定するつもりなどまったくない。困った国だと思っている。1日も早く体制転換すべきだと思っている。そもそも国民の多くが今も飢餓状態にあるのに、人工衛星だの核実験だのとバカじゃないかと思っている。 でもだからこそ、唯一の被爆国であると同時に、世界のスタンダードである抑止論に対して憲法9条で異を唱えてきた(自衛のための武装も否定した)はずのこの国は、隣国である北朝鮮のこの暴挙に対して、もっと違う対処の仕方があるのではと思うのだ。 『週刊金曜日』2月22日号でアジアプレスの石丸次郎は、取材協力者である北朝鮮両江道に暮らす女性と核実験が行われた日に電話で話したとき、「あら。やったんですか。市場はいつもどおりで、核実験について話している人は誰もいませんでしたね」と言われたことを記述している。 「核実験や「ロケット」発射がある度に、朝鮮中央テレビや『労働新聞』などの官営メディアは、間髪いれずに「喜びに沸く人民」というニュースを流す。今回も、当日の晩から、「核実験成功の報せに万歳する平壌市民の姿」が放送された。昨年12月の「ロケット」発射の際にも、踊って喜ぶ市民の姿が放送されている。そして、それらの映像は、すぐに日韓のメディアが引用して流すのが常になっている。北朝鮮当局による「人民は望み、喜んでいる」という演出を日韓のメディアが手伝い流布させている構図である。」 こうして「何をするかわからない異常な国だ」との意識が醸成される。つまり仮想敵国だ。体感治安が悪化する。どちらも相手が悪いと思っている。危険な存在だと思っている。だから武器を手放せない。防衛のために悪を撃つ。愛する人と国土を守るため。 こうして戦争が起きる。ポーランド侵攻について「東方への生存圏」という言葉を掲げたナチスドイツも、その目的は侵略ではなくて自衛だった。 安倍政権が開始する憲法改正へのロードマップ 参院選後、安倍政権は憲法改正へのロードマップを開始する。その最大の目的が9条2項の破棄であることは説明するまでもない。周囲が武器を持っているのだから武器を持ちたい。実際には(自衛隊として)持ってはいるけれど、武器を持つことを否定するかのような条文は消してしまいたい。その思いを国民も共有しつつある。繰り返されるメディアの危機報道によって。国内的には多発する犯罪。そして国外的には道理が通らない危険な国ばかりが周辺に位置している。ならばやられる前にやるしかない。 最後にもう一度書くけれど、アメリカが銃を手放せない理由についてのムーアの主張には賛同する。彼らは怖いのだ。だからこそアメリカは、世界の警察を自称しながら他国に戦争をしかけ続ける。自分たちは常に正しい。自分たちに危害を加える可能性がある国や組織は絶対的な悪なのだ。 いずれこの国もそうなる。いや現段階ですでに国民の意識レベルでは、まさしく危機意識の日米同盟だ。
世界の人々の心と身体を蝕み続ける米国の戦争 イラク開戦から10年 2013年03月28日(Thu) 竹野 敏貴 米軍主導によるイラク侵攻が開始されてから10年の歳月が流れた。サダム・フセインの隠し持つ大量破壊兵器が世界の脅威であるということから、多くの反対を押し切って始められたこの戦いを、開戦時、米国民の7割が支持していた。
9.11同時多発テロという初の本土攻撃の経験は米国人の視野を狭め、当時の米国社会は一種独特の空気に包まれていた。『ランド・オブ・プレンティ』(2004)の主人公は、まさにそんな社会状況をデフォルメした存在。 ちょうど40年前、米軍は南ベトナムから撤退を完了 ランボーはベトナム戦争での過酷な経験に悩む 仕事でもないのに監視装置を完備した車で治安維持のため動き回り、不審者扱いするアラブ人を見つめる姿には、米国人のイスラム文化への無知、偏見、そして恐怖症(Islamophobia)といったものが見て取れる。
しかし、主人公がそうした行動に出るのには、もう1つ別の理由があった。ベトナム戦争で受けた傷に心身とも蝕まれていたのである。 ベトナム戦争退役軍人の抱える心の傷は、シルベスター・スタローンの当たり役ジョン・ランボーの例を挙げるまでもなく、1970年代から80年代にかけ、たびたび映画が扱ってきたテーマである。 いまからちょうど40年前の1973年3月29日、そんな泥沼の戦争に明け暮れていた南ベトナムから米軍は撤退を完了した(サイゴン陥落はその2年後)。 しかし、それは、米国の帰還兵ばかりでなく、南ベトナムの人々にとっても、平穏な生活を取り戻すことを意味することにはならなかった。 南北統一が成されると、北ベトナム政権に従順でない者は、処刑されたり、「再教育キャンプ」に送られるという憂き目に遭ったのだ。なかには10年以上収容所生活を送った者もいる。 都市部に暮らす商人たち(多くは華人、華僑)が中心となり難民化した人々は「ボートピープル」として海外へと向かったが、その中には、そうした人々も少なからず含まれていた。 貧相なボートで大海へと乗り出していった人々の半数は途中で力尽き、いずれの地にかたどり着いた者は80万人。その過半数は米国に移住したと言われている。 しかし、そんな人々に同情し、初めは受け入れていた国際社会も、次第に無関心となっていった。そんな状況を象徴するような事件を扱ったドキュメンタリーが「Bolinao 52(「ボートピープル 漂流の37日」の題名でNHKBSドキュメンタリー枠で短縮版が放映済)」。 1988年、イラン・イラク戦争中のペルシャ湾での任務に向かう揚陸艦ダビュークが、途中、ボートピープルを見つけたものの、食料を与えただけで大海に置き去りにしたというものである。 タンカー護衛に向かう米軍艦船に見捨てられたボートピープル 湾岸戦争ではこのクウェートタワーも大きな損害を受けた のちに艦長は軍法会議にかけられ解任されることになるのだが、このとき、艦長が人命救助に優先して向かった任務は「アーネスト・ウィル作戦」と呼ばれるものだった。
それは、ペルシャ湾でクウェートのタンカーを攻撃から守るというもの。人命より石油なのか、と言いたくなってしまう話である。 そんなイラン・イラク戦争で、米国はイラクを支援していた。憎きイランの敵イラクは味方というわけである。 しかし、イライラ戦争も終わり、冷戦後の世界が大きく変化していくさなかの1990年8月、石油を巡るトラブルなどが引き金となって、イラク軍がクウェートへと侵攻すると、翌年勃発した湾岸戦争ではイラクは米国の敵となり、兵器レベルの差そのままに米軍中心の多国籍軍の圧勝で戦いはあっけなく終了する。 その際、サウジアラビアに数千人規模の米軍が駐留したことが、のちに西欧社会に大きな変化をもたらすことになるとは思いもしなかったことだろう。 サウジ国民オサマ・ビンラディンは、駐留を許した王室を痛烈に批判、反欧米姿勢を強固なものとし、紆余曲折の末、アフガニスタンへと向かった。 そんな原理主義者でなくとも、メッカ、メディナといったイスラム教の聖地を持ち、厳格な教義のワッハーブ派のサウジ人たちのなかに、キリスト教徒たる米軍の駐留に抵抗感を持つ者は少なくなかった。 そして2001年、米国の地で19人のテロリストが4機の民間航空機を乗っ取り引き起こした同時多発テロの実行犯の多くはサウジ人だった。 すぐさま、ビンラディンの隠れ住む地アフガニスタンをジョージ・W・ブッシュ政権は攻撃した。 事実が明らかにされることなく処刑されたフセイン 「華氏911」は反ブッシュ政権色に染まった作品 しかし、ブッシュ政権批判の急先鋒マイケル・ムーア監督作『華氏911』(2004)には、その際、ブッシュ政権はあまり気乗りせず、初めからイラク攻撃をしたかったのだ、とテロ対策担当だったリチャード・クラークが語る姿がある。
本意?に従ったのか、続いてイラク侵攻が始まると、わずか1カ月半後の2003年5月、ブッシュ大統領は「戦闘終結宣言」することになる。 それから間もない頃のイラクが舞台の『バビロンの陽光』(2010)は、ようやくフセインの圧政を脱し、訪れた解放の時を描くロードムービー。 しかし、そこに見えるのは、1991年以来行方不明の父親を探しにバビロンまでやって来たクルド人の幼い子供と祖母、そしてかつてクルド人殺戮に加わっていたことのあるアラブ人男性の姿。 イラク映画「バビロンの陽光」 フセイン政権は、クルド人を迫害し、1987〜88年には、「アンファル」と呼ばれる化学兵器による虐殺を行っていたとされているのである。
幾層にも重なったイラクの悲劇が見えるこの映画が描き出すのは、誰もがフセイン政権時代の圧政の被害者であるということ。クルド人への加害者たる元軍人でさえ、命令で仕方なくやったことでその古傷に悩む被害者なのである。 そして12月、穴に隠れていたところをフセインは捕まった。しかし、翌年10月、米調査団の発表した最終報告書には、イラクに大量破壊兵器はなく、アルカイダとのつながりの証拠も見当たらないと記されていたのである。 3年後、国際司法システムにかけられることなく、フセインは死刑となった。そして、多くの事実が解明されることなく闇へと消えた。 その主たる罪状はシーア派住民の虐殺ということだったが、刑執行をスンナ派の祝日に行ったことが、スンナ派の怒りを招くことになった、とも言われている。 シーア派、スンナ派、クルド人で権力を分割する方式が取られた新生イラク政府。しかし、シーア派のヌーリ・マリキ首相と対立していたスンナ派の重鎮タリク・ハシミ副大統領(当時)は、テロなどに関与したとして、欠席裁判で死刑判決まで出されてしまう事態となっている(現在ハシミ元副大統領はトルコに亡命中)。 フセインの圧制からの解放と引き換えに失ったもの グラウンド・ゼロにはためく星条旗(2005年) こうして、フセイン排除後のイラクは、宗派間対立が深みにはまり抜け出せない状態が続いている。
隣国イランとの関係を深めるシーア派勢力、内戦やまぬシリアの反アサド勢力と連携するスンナ派勢力もいる。先だってのPKKアブドゥラ・オジャラン議長の武装闘争放棄発言もあり、クルド人の動きも気になるところだ。 米国などの力で、フセイン一族の圧政から解放されたことはイラク国民にとって有り難いことだった。 しかし、「戦闘終結宣言」後のプロセスはお粗末なもので、戦火、テロ行為はやむことがなく、イラク人12万人以上が死亡したとされる。 その一方で、2011年末、全面撤退した米軍の犠牲者数は4500人余り。イラク人犠牲者に比べればずっと少ないが、多くの帰還兵が、社会復帰がままならずPTSDに苦しむ現実もあることは、近年、多くの映画が描くようになっている。 「メッセンジャー」の主人公は軍人の「戦死通告」が職務 そんな1本が現在日本で劇場公開中の『メッセンジャー』(2009)。
主人公はイラクで負傷し帰還した若者。心にも傷を負っており、爆発する怒りをヘビーメタル音楽などで発散している。そんな若者が新たに就いた任務は、戦死者の遺族に訃報を伝えるというもの。いわば「死の天使」の役回りである。 愛する者の死の報に接し、動揺を隠さず、怒りをぶちまける人々に直面し、もがき苦しむ主人公の姿には、戦争が戦地だけでなく、銃後の家族にまでもたらす影響を改めて認識させてくれる。 そんな経験も珍しくない状況もあってか、10年の時を経て、各メディアが行った世論調査では、米国民の過半数がイラク侵攻は間違いだったと回答している。 2度の世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、等々、戦いに明け暮れてきた米国の歴史により刻まれた古傷が、9.11で疼きだした米国人は決して少なくなかったはずである。 無為なる戦いを減らす第一歩は、米国民自身もいつまでも懲りずに戦争を繰り返している政治の被害者であることを、目を見開き認識することから始まる。 (本文おわり、次ページ以降は本文で紹介した映画についての紹介。映画の番号は第1回からの通し番号) (706)ランド・オブ・プレンティ (396)(再)バビロンの陽光 (707)メッセンジャー (158)(再)華氏911 706.ランド・オブ・プレンティ Land of plenty 2004年米国・ドイツ映画 ランド・オブ・プレンティ (監督)ヴィム・ヴェンダース (出演)ジョン・ディール、ミシェル・ウィリアムス
監視装置を配備したバンに乗り込み、ロサンゼルスの治安を監視しているポールは、ベトナム戦争退役軍人。 イスラエルから飛行機に乗ってロサンゼルスへと到着した少女ラナは、亡き母から預かった手紙を渡すため、おじのポールを探している。 怪しげなアラブ人を見つけたポールは、監視を続けるうち殺人の現場を目撃。その犠牲者の最後の言葉にまつわる旅をふたりは始めることになり・・・。 9.11同時多発テロ後の不信感に満ちた米国社会の様子が伝わってくるロードムービーである。 396.(再)バビロンの陽光 Son of Babylon 2010年イラク・英国・フランス・オランダ・パレスチナ・UAE・エジプト映画 バビロンの陽光 (監督)モハメド・アルダラジー (出演)ヤッセル・タリーブ、シャーザード・フセイン、バシール・アルマジド
2003年、フセイン政権が倒れ、「自由」を得たクルド人。「以前、ナシリアの刑務所に収監されていた」という情報を頼りに、1991年以来行方不明になっている父親を、アラビア語のしゃべれぬ祖母とともに探しに出かける少年が主人公。 途中、バスで知り合ったアラブ人男性が親切に面倒を見てくれるが、クルド語がしゃべれることに疑問を感じた祖母に詰問され、以前クルド人攻撃の場にいたことを告白、2人の間には大きな溝ができてしまう。 結局父親は刑務所におらず、あちこち集団墓地を探し歩くことになるが見つからない。そして、遺跡を見ることが夢だったバビロンの地に着いた時、悲劇が訪れることになるのだった・・・。 バグダッド、バスラ、ナシリア、バビロンなど、今のイラクでロケされた映像が最大の魅力。 ラストシーン近く、バビロンのイシュタル門が映し出されるが、イラク侵攻時、バビロン遺跡近くには米軍が駐留していた。ヘリコプターの着陸などで遺跡には相当ダメージを与えたらしい。 707.メッセンジャー The messenger 2009年米国映画 メッセンジャー (監督)オーレン・ムーヴァーマン (出演)ベン・フォスター、ウディ・ハレルソン、サマンサ・モートン
イラクで負傷し帰国したウィルの新たなる任務は「メッセンジャー」。 戦死した軍人の遺族にその第一報を伝える「死の天使」とも呼ばれる存在である。 メディアより先にその報を伝えることが大切な任務ゆえ、24時間体制の仕事を、経験豊富な上官と組みこなしていくウィルだったが、訃報に接した家族はその感情を自分にぶつけてきても、黙っているしかない。ストレスに苦しむウィル。 そんなある日、訃報を伝えに行った未亡人に惹かれるようになり・・・。 「戦死通告」という役割を担う側のドラマという視点のユニークさが際立つ佳品。 上官役を演じたハレルソンはアカデミー助演男優賞にノミネートされた。 158.(再) 華氏911 Fahrenheit 9/11 2004年米国映画 華氏911 (監督・出演)マイケル・ムーア
マイケル・ムーアは、コロンバイン高校銃乱射事件を中心に米国を蝕む銃問題を扱った『ボウリング・フォー・コロンバイン』(2002)でアカデミー長編ドキュメンタリー映画賞を獲得し、全世界に放映されているその授賞式でのスピーチで、ジョージ・W・ブッシュ大統領批判を延々とやってのけ、会場から大ブーイングを食らったことがあるが、その時の批判内容をそのまま映像化したのが本作である。 その後も米国の暗部を扱い続け、いびつな医療保険システムを『シッコ』(2007)で、ウォール街を中心とした行き過ぎたネオリベラリズムを『キャピタリズム〜マネーは踊る〜』(2009)で、そのユーモアたっぷりの巨体と話術で糾弾している。
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