02. 2013年2月20日 00:24:40
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JBpress>日本再生>国際激流と日本 [国際激流と日本] やはり北朝鮮核実験を許容している中国 米国の研究報告が「中国の公式声明は本音ではない」 2013年02月20日(Wed) 古森 義久 北朝鮮が核武装のための核爆発実験を2月12日に断行してから1週間が経ち、この実験の様々な側面が少しずつ真相を見せてきた。 米国の情報機関専門家たちは、中国がこの実験への公式非難を表明しながらも現実には北の核武装推進の危険な歩みを許容している、という見方を明らかにしている。ただし、北朝鮮が公式に宣伝する核弾頭の小型化は、実際にはまだ成功していないと見られるという。 北朝鮮を「制裁」したくない中国 北朝鮮は2月12日、地下での核爆発実験を断行した。その場所は北東部の豊渓里実験場だと目される。この実験が全世界に衝撃波を投げ、米国や日本の国家安全保障にも深刻な挑戦を突きつけたことはすでに明白となった。 米国の中央情報局(CIA)の元専門官たちが組織した国際安全保障の民間調査研究機関「リグネット」は、この北朝鮮の動きを総合的に分析する報告を2月19日までに公表した。その指摘は日本などで一般に報じられた解釈とは異なる点もあり、注視に値する。 その指摘のうち国際政治面で最も興味を引かれるのは、中国の態度についての分析だろう。リグネット報告はその点について以下のように述べていた。 「中国は北朝鮮の核実験断行に強く反発して、北朝鮮への従来の支援を削減するとも言明している。だがリグネットとしては、この脅しには信頼性がないと分析する。北朝鮮自体もその威嚇が空疎であることを理解している。 今回の核実験に先立って、中国は“反対”の言辞を強硬に、異例なほど表明してきた。だが実際に北朝鮮制裁のための重要な行動を取ることはまずないだろう。 中国はここ数十年、朝鮮半島に対しては安定を最大優先目標としてきた。中国にとってのその『安定』とは朝鮮半島が南北分断されたままに留まることである。北朝鮮のエネルギー源の85%は中国が供給しており、中国は北の政権を揺るがし不安定化させる能力は十分に持っている。しかし実際にそんな行動を取れば、まず北朝鮮からの大量の難民が中国領へと脱出することとなる。中国はそんな事態は望まない。 また金正恩政権が揺らいで崩壊した結果、南北統一へつながるという恐れもある。米国と同盟関係を保つ韓国が主導して南北統一がなされることは、中国がなんとしても防ぎたい事態である」 要するに、中国の公式声明は本音ではないという解釈なのだ。中国としては北朝鮮の核武装をあまりに大上段に妨げることが金政権の崩壊につながったりする事態は絶対に避けたい、というのが米国側の読みである。 小型化には成功していないが濃縮ウラン使用の可能性が 次に、今回の核実験の技術的な実態はどうなのだろうか。 今回の実験の最大焦点は核弾頭、つまり核爆弾の小型化、軽量化だった。北朝鮮が狙うのは、核弾頭を小型にして、長距離、中距離の弾道ミサイルの弾頭として装備できるようにすることである。そのために核弾頭を小さく、軽くすることを度重なる実験によって目指すわけだ。北朝鮮当局は公式発表でも今回の実験での小型化の目標を宣伝し、その目標が達成されたとも読み取れる言明を重ねている。 しかし核弾頭の小型化というのは容易な作業ではない。核爆弾を地表や地下で爆発させることから始まり、少しずつその爆弾を小さく、軽くしていって、ついに弾道ミサイルの先端に着装できるようにするというプロセスは、単に想像しただけでも極めて困難であることが分かる。今回の実験でその小型化に成功したか否かは、実験の全体像や実際に放射性物質の内容を把握しなければ、判定は不可能に近いという。 しかしそれでも状況証拠からの推察は可能だろう。リグネットの報告は、北朝鮮が今回の実験ではまだ核弾頭の小型化に成功していないとの見解を打ち出した。 「リグネットとしては、今回の核実験の限定された爆発量やこれまでの長距離弾道ミサイル計画での技術的な困難性から推測して、まだ北朝鮮は小型化された核装備を生産できる技術的能力を保有するには至っていないと判断する。北朝鮮当局が今回の実験でその能力保有に成功したと宣言することは、不正確、あるいは誇張であると見る」 リグネット報告が提起するもう1つの重要ポイントは、北朝鮮が今回、爆発させた核物質がプルトニウムかウランか、という点である。周知のように核爆弾にはプルトニウムとウランの2種類があるが、北朝鮮の今回の実験爆弾が濃縮ウランだった場合の方が国際社会にとっての脅威は大きくなる。この点のリグネットの分析を見よう。 「西側諸国の最大の懸念は、北朝鮮が今回の実験で高濃縮ウランを使ったかどうか、である。もしそうであれば、北朝鮮が核兵器開発計画の規模や内容を拡充する能力がこれまでより大きくなると見られるからだ。 北朝鮮の軍事用プルトニウムの推定保有量はすでに低くなった。国際機関の推定では北のプルトニウムは最大限、核爆弾4個から12個分だとされる。しかしウランは濃縮作業がすべて地下で可能であり、プルトニウムよりも所在の探知が難しく、密輸もより容易となる。北朝鮮の寧辺に、プルトニウム抽出の施設だけでなく、実は秘密のウラン濃縮地下施設が存在したことは、北朝鮮当局が2010年後半にそれを公開するまで、米国を含めて西側諸国の情報機関はどこも察知していなかった。濃縮ウランの探知はそれほど難しいのだ」 「金正恩政権は柔軟路線」は間違いだった リグネット報告は今回の核実験から金正恩政権の本質についても診断を下していた。 「今回の核実験が行われるまでは、金正恩氏がスイスで教育を受けたことなどを重視して、『改革者』だとか、『柔軟路線』だという観測も多かった。しかし今回の核実験はそうした観測が間違いだったことを十二分に立証した。 北朝鮮は金正恩体制の下、中国も含まれる世界各国からの反対や警告を無視して核兵器実験を断行した。この事実は、金正恩第一書記が父の金正日総書記の路線を忠実に継承し、『先軍政治』のスローガンの下、軍事最優先の挑発的な政策を続ける見通しを裏づけた。若い金氏は軍事強化によって自分自身の権力の基盤を固めるという道を歩むわけである」 だから他の諸国はその北朝鮮の軍事最優先の強硬路線にそのつもりで対応しなければならない、ということだろう。北朝鮮情勢はまだまだ厳しい冬の時代が続くということである。このリグネット報告はそんな展望を示していた。 革命以前の国として見下すロシアに中国が激しく反発 ロシアと中国の付き合い(6)〜共産主義の時代 2013年02月20日(Wed) W.C. 中国の辛亥革命に続いて、1917年にはウラジーミル・レーニンの主導した共産主義革命がロシア帝国を倒し、ソビエト政権を誕生させた。いずれも王朝が消え去って、新たな政権への交代となる。 「ボリシェヴィキの成功の唯一の理由は、人民の底辺層の広大かつ単純な欲求を成就させ、・・・・彼らと協力して新しいものの骨組みをうち立てた点にあった・・・」 たまたま最初にロシアで起きたに過ぎない共産主義革命 ウラジーミル・レーニン(1920年、ウィキペディアより) レーニンの革命を目の当たりにした米国人の社会主義者・J・リードは、1919年にその著『世界を震撼させた10日間』でこのように書いている。物事が始まった時には、まだ夢と希望に溢れていた。
ロシアでの内戦が片づいてもおらず、ソ連(ソビエト社会州共和国連邦)も出来上がっていないその年に、レーニンは世界革命を目指すためのコミンテルン(第3インターナショナル)を結成した。 当時の共産主義運動は国際的な色彩が強く、それだけ世界革命への夢も大きく膨らんでいた。それが、たまたまロシアで最初に起こったに過ぎない。そう考えたうえで、各国の共産党をモスクワで束ねて、次の世界革命のステージに進もうというわけだ。 ヨーロッパの急進左派は、それまで大して重視していなかったレーニンがことを成し遂げるのを見るや、掌(てのひら)を返したようにロシアに続けとばかりに彼の下に集まった。こうして、西側の多くの穏健左派政党を置いてきぼりにしたまま、世界の急進派を集めたコミンテルンは発進する。 各国の共産党はこのコミンテルンの指令と決定に従う、というシステムが認められて、世界革命を目指す共産主義運動の総本山たるモスクワと、その地域支部の各国共産党という位置づけが出来上がった。 そこまでは頭で考えればよかった。だが、置かれた状況が皆それぞれ異なる世界中の共産主義運動を、1つの教義や解釈で束ねようというのだから、どうしたって個別の運動方針ではさまざまな矛盾や無理が出てくる。本社と現場の見解の対立は避けられない。 本社の意向なり方針なりと、国情に応じたその実践との妥協をどう求めるかという、現在のグローバル企業が日々悩まされるこの問題を、共産主義は100年近くも前から経験していたことになる。 発展途上国(当時の理解では、帝国主義者により植民地化・半植民地化された国々)の共産党の中からは、今すぐにでもロシアと同じような革命が可能だ、あるいはそれを起こすべきだ、といった主張が始まった。 これにはロシアを筆頭とするヨーロッパの共産主義者も、はたと回答に詰まってしまう。K・マルクスの聖典には、途上国が一挙に共産主義社会へ跳躍するようなシナリオなど描かれていなかったからだ。 進歩史観が最終的に求めるのは、現在(資本主義社会)がこれからさらにどう発展するのか、すべきなのか、への解である。まだ過去の段階にとどまっている社会は、まずは現在にまで追い着いてきてもらわねばならない。 一緒にこれから先に行こう? そりゃ無理だ、物事には進歩の過程に従う順番というものがあるのだから。 これが理由で、戦前の日本の共産主義者も日本の状況をどう規定するのかについて、講座派と労農派に分かれて激しい理論闘争を繰り広げた。日本は資本主義体制なのか、それともまだそれ以前の段階なのか。 後進国として欧州人の意識外だった中国とインド 毛沢東(1939年、ウィキペディアより) 後年の中ソ対立が進む中でも、国情によっての社会主義・共産主義のあり方について世界中の左翼理論家が悩むことになる。
聖典の著者であるマルクスの途上国に対する見方は、概して冷ややかなものだった。それは彼に限った話でもなく、当時としてはヨーロッパでのごく普通の常識でもあった。 彼がその流れを汲むヘーゲルをはじめとして、19世紀のヨーロッパ全体にとっては、中国やインドは意識する以前の問題外の存在だったのだ。そうした見方の起源を遡れば、世界を「先進国」と「後進国」とに色分けする結果を生んだ啓蒙主義の思想にまでたどり着く。 というわけで、教科書に載っていないことはできない、がソ連主導のコミンテルンの立場だった。だから、レーニンですら、当面は左翼民族主義を植民地解放運動として応援はするが、それに直接は加わらない、という認識を示して、インドなどの途上国の代表を大いに失望させている。 コミンテルンの指導の下で1921年に立ち上げられた中国共産党に対しても、コミンテルンを牛耳るソ連の立場は同じだった。レーニン以下、中国の実情について細かい知識を持ち合わせた指導者は皆無に等しい。 だから、当面は民族解放闘争を目指して、英国や日本などの帝国主義に抵抗する勢力に全面的に協力すべし、である。そのためなら、中国共産党にとって本来なら倒すべき敵である国民党とも協力しなければならない。 中国から見れば、ロシアも後進国だったのだから、その革命そのものもすでに教科書から逸脱していた。実際に1900年代の初めにロシアの共産主義者・プレハノフも、ロシアの後進性を理由に革命は時期尚早だ、とまで論じている。ならば、社会主義・共産主義の道にもいろいろあって然るべし、と一言言いたくなるではないか。 にもかかわらず、コミンテルン(=ソ連)の意向に唯々諾々と従う当時の中国共産党指導部だった。若き共産党員・毛沢東は、これに我慢ならない。後に彼が党のトップにのし上がると、この本社と現場との見解の齟齬が底流になって、やがては中ソ対立を引き起こして核戦争の一歩手前まで突き進んでしまう。 レーニンが世を去りヨシフ・スターリンの時代が来ると、どうもそんな雰囲気でもなくなってきた全世界の共産主義革命などより、ソ連は自分の身を守ることに血道を上げるようになる。隙あらばソ連を何とか崩壊させようと虎視眈々の帝国主義者の群れに、周りを囲まれてしまっているのだから。 そして、自らの安全保障と利害を考えたうえで、中国の内部で争っていた国民党政府、共産党、それに地方軍閥への対応も変化させていく。 日本もそうだったが、中国内部の分裂した勢力のどれに賭けたら正解なのかで、当時のソ連も自信を持っていたわけではなかった。だから、いつでも乗り換えられるようにその場に応じてそれぞれと付き合うやり方しか思いつかない。 中国共産党に対する武器援助は拒絶し続けた ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン(ウィキペディアより) 国境を接する満州を支配した中国の軍閥と、ソ連はよしみを通じようとしていた。しかし、満州に残った帝政ロシアの遺産である鉄道権益を巡ってその軍閥との争いが始まると、ソ連軍が中国領内に押しかけて権益を守り抜き、黒竜江のウスリー島も占拠する。
この鉄道権益(中東鉄道)は、ソ連誕生の頃には中国に返すと言っていたのに、後になってその台詞を撤回したといういわく付きのもの。だが、そうまでして維持した鉄道権益を、ソ連はほどなく中国に相談なく勝手に日本へ売却してしまった。 そして、占拠したウスリー島の中国への部分返還が実施され、問題が最終的に処理されたのは、ウラジーミル・プーチンの時代となった2008年(合意は2004年)である。80年後の領土問題決着だった。 中国共産党への指示はスターリンの情勢判断次第で、国民党と戦え、いや協力しろ、と変わる。日本が日中戦争を始めた1937年に、ソ連は国民党を相手に中ソ不可侵条約を結んで武器援助を行った。しかし、共産党からの同じ依頼は蹴り続ける。 1945年8月の日本の無条件降伏のわずか数時間前に、中ソ友好同盟条約が国民党政府とソ連との間で締結された。これはヤルタ協定で米英に認めさせたソ連の権益を蒋介石に認めさせることが目的だった。そのためには、中国共産党を支援しないとまでスターリンは約束している。 そして、1949年にソ連の予想に反して中国共産党が内戦を勝ち抜いて中華人民共和国の成立が宣言されると、今度はすぐにこれを承認して、そのわずか9日後に手回しよく初代駐中国大使を赴任させた。 H・キッシンジャーは、戦争を起こさずに短期間で多大な利益(領土)をものにした19世紀のロシアの対清外交を「芸術的」とすら呼んだが、スターリンの外交も技巧ではそれに劣らない。 『悪魔の辞典』(1911年)の「外交」の項で、これを「祖国のために偽りを言う愛国的な技術」と皮肉った(喝破した?)A・ビアスが、もしスターリンと同世代であったならこの項を1行で済ませてはいなかっただろう。 だが、これだけやられれば、その相手を信じろと言う方が無理に決まっている。 共産主義・中国の建国後からしばらくの間は、帝国主義・資本主義という共通の敵に対抗するために、その無理をしてでも何とか仲好くせねばならなかった。しかし、しょせん無理は無理でしかなく長続きはしない。わずか10年足らずの中ソ蜜月の後には、夫婦別居で30年間の中ソ対立が続く。 両国の衝突の原因は、すでに述べたように本社と現場の方針の食い違いだった。それが社会主義国家建設のあり方を巡る考え方での差や、スターリン死後のソ連の対西側平和共存路線と、これに猛反対する毛沢東との対立という形で表れる。 毛沢東は叫ぶ――レーニンは「帝国主義が存在し、その矛盾が続く限り戦争は起こり続ける」と述べていたではないか! ソ連の態度が何よりも気に入らなかった毛沢東 もっとも、中国の学者は、毛沢東が初めからソ連とうまくやっていけるなどとは思っていなかった、とも述べている。1943年にコミンテルンが廃止されても、本社風を吹かせ続けるソ連の態度が、彼にとって何よりも気に入らなかったのかもしれない。 1960年には中ソ相互の批判の応酬が誰の目にも明らかになり、その年にニキータ・フルシチョフ第1書記長は彼一流の蛮勇即決で、中国に派遣されていた1000人以上のソ連の技術者を一斉に引き上げてしまう。 大躍進政策が躓いて経済が疲弊していた当時の中国にとって、ソ連のこの「後は野となれ」は大打撃だった。恨みは増すばかりで、もう対立は後戻りできない。 フルシチョフが失脚した年にソ連の外交官養成学校・MGIMO(モスクワ国際関係大学)に入学したロシア外交アカデミーのバジャノフ学長は、当時の中国への雰囲気をこう語る。 「MGIMOに入学して自分は中国語を選んだ。当時日本語を選んだ学生の名前が皆の前で読み上げられると拍手が起こったが、中国語を選んだ自分の名前が呼ばれた時には、周りからは失笑が起こっただけだった。物好きな奴がいる、ということで中国語選択者は嘲笑の対象でしかなかったのだ。今から思えば隔世の感があるがね」 当時のソ連の受け止め方といえば――最も進歩している社会主義とそれを体現するソ連、時代遅れの体制として衰亡を待つばかりの西側資本主義国、そしてその資本主義にも行き着いていない途上国、という序列で世界は成り立っている。 中国はまだ途上国に過ぎない。その劣った分際にありながら、立場もわきまえずに社会主義の祖国に楯突くとは不埒千万、であった。何のことはない、ソ連版の華夷思想である。 以後は傍で聞いている方が疲れてくるような、双方の批判(罵詈雑言と言った方が正確か)の投げ合いになる。 中国は言う――ソ連は米国の手先になり果てて堕落した修正主義、共産主義への裏切り、軍事力に物を言わせて他国を脅かす覇権主義国家。 ソ連も負けずに言い返す――中国はプチ・ブル、民族主義、ネオ・トロツキスト、極左日和見主義、精神主義、個人崇拝に毒された軍事・官僚独裁国家・・・。 1969年の国境での軍事衝突は、両国を核戦争の危機に晒した。これだけ危ない状態になった「東部戦線」に60万を超える軍を張りつけなければならなかったソ連は、一時的にでも「西部戦線」での対立緩和を迫られる。ちょうどその頃、西ドイツが始めたデ・タント(緊張緩和路線)は、まさに渡りに船だった。 ソ連を軍縮に向かわせた影の功労者 ちなみに、このデ・タントがソ連から西ヨーロッパに向けた天然ガス輸出の実現を大きく促進した。今日、ロシア第一の企業・ガスプロムの収益は、その対欧輸出に支えられている。そうなるうえでの最大の功労者は、実はソ連をデ・タントに向かわせた毛沢東であった・・・。 その毛沢東は、ソ連以上に自国の対外政策を激変させた。米ソ平和共存志向にあれだけ反撥を剥き出しにしていた彼が、ソ連を主要敵国と見なしたうえで、米国や日本との国交正常化へ向けて動き出したのだ。 1971年に米国のリチャード・ニクソン大統領、続いて翌1972年には日本の田中角栄首相がそれぞれ北京を訪問し、両国は中国との国交正常化に踏み切る。 その後の日中平和条約の交渉で、ソ連を意識した覇権反対条項の挿入(条約に反ソ連を明示)に中国は異常なほどに強くこだわった。このことは、自国のソ連に対する安全保障のために、日米を巻き込むことがどれだけ必要だったかを物語っている。 そして、ここで日米と和解しておいたことが、のちにケ小平が開放政策を進める際に大きく役立ちもする。 中国のプラグマティズムの真骨頂である。だが、豹変する際に、中国人にとって重要極まりない「面子」はどう保たれたのだろうか。それまで叫んでいた「米帝、日帝」とは何であったのか・・・。 中国外交の急旋回はソ連に強い孤立感を与えた。それが高じてデ・タントはもう店仕舞いで、旧東欧諸国への締め付け強化や、アフリカや中東の途上国への肩入れ、そしてアフガニスタンへの侵攻、といった具合に、「悪の帝国」への深みにはまっていく。 ホー・チ・ミン(1946年、ウィキペディアより) 影響を受けたのはソ連だけではない。当時、米軍部隊との果敢な戦闘を行っていたホー・チ・ミン率いるベトナムにとって、米中関係正常化の動きは共産主義陣営の味方からいきなり背中を刺されたのも同然だった。
ならば、で遠交近攻の定石に従ってベトナムは急速にソ連に接近する。そうなると、1975年にベトナムが米軍を撃退し社会主義国家として統一を果たしても、中国は祝う気にはなれない。 ベトナムがインドシナ半島全域に勢力を伸ばし、それがソ連と連携しだしたら、中国は南北から挟み撃ちにされてしまう。台湾もまだ本土奪還の旗を降ろしてはいない頃だから、その恐怖は余計に募る。 そこから、ベトナムが介入したカンボジア紛争やケ小平によるベトナムへの侵攻(1979年の中越戦争)に発展してしまうのに、大して時間はかからなかった。 こうしてさまざまな余波や結果を生んだ中ソ対立は、両国が瀬戸際までいってから20年後のソ連共産党書記長ミハイル・ゴルバチョフによる訪中で、ようやくその幕を下ろすことになる。 しかし、この間に蓄積された相互のネガティブな記憶は、恐らくそう簡単に消し去ることはできまい。元は共産主義建設や帝国主義の捉え方での差から始まっていても、最後には侮蔑や恐怖が入り混じった両国民間の感情のレベルにまで対立感が行き着いてしまったからだ。 |