01. 2013年2月17日 12:00:44
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『from 911/USAレポート』第612回 「観客に挑戦する新次元の映画表現、『ゼロ・ダーク・サーティ』」 ■ 冷泉彰彦:作家(米国ニュージャージー州在住) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ■ 『from 911/USAレポート』 第612回 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
政治的な映画というのは昔からありますが、そこには一つの限界がありました。と いうのは、わざわざ政治的な映画を作ろうという人間は、政治的な動機を持っている わけです。政治的な動機というのは、ある事件や事象について「こういう見方をして いる」あるいは「こういう考え方で理解している」という「立場性」と言い換えるこ とができます。 この「立場性」というのは、例えば「公害問題の告発」であったり「戦争反対」で あったり、場合によっては「戦争賛美」であったりするわけです。映画を作る人は、 そうしたメッセージを訴えたいから、あるいは訴える手段として有効だから映画を作 るわけで、そのメッセージは当然のことながら映画には埋め込まれて出来上がるわけ です。 一つの限界というのは、その「メッセージ」が浮かび上がってしまうということで す。どうしてそれが限界になるのかというと、そのように「メッセージ」が浮かび上 がることで、映画の製作者と立場を同じくする人は「素晴らしい」とか「意義のある 告発をしている」と賛成してくれるわけですが、反対の立場の人に対して「映画を見 たら考えが変わった。なるほどその通りだ」というような説得力を持つことは少ない からです。 どうしてかというと、どんなに説得力のある「真実の告発」であっても、そこに 「立場性」が透けて見えるようですと、反対の立場に立つ人からは「まず主張が先に あって、その主張に説得力を持たせるために表現がある」という風に見えてしまうか らです。そうした印象を与えてしまうと、その反対者の人の心理に深く食い込んで説 得するというのは難しくなります。 例えば、公害問題の告発映画を「労組主催の自主上映会」などで上映して、その場 に「公害企業の役員」を引っ張りだすことに成功しても、その「役員」が考え方を変 えて「済まなかった。私財を投げ打って後半生は贖罪のために捧げる」などというこ とはほぼ100%あり得ないわけです。それはその役員が「生存のためには経済成長 が大事であり、そのコストはゼロにはできない」と考えているからかもしれませんが、 それ以前に「公害反対のために作られた表現」という「立場性」を感じ取った瞬間に 映画に説得力を感じなくなるからでしょう。 アメリカでも、政治的な告発を行う監督としてマイケル・ムーアなどは有名ですが、 ブッシュの支持者が『華氏911』を見て反省したり、全米ライフル協会の人間が 『ボウリング・フォー・コロンバイン』を見て銃規制に真剣になったりということは 基本的には「ない」のです。それも「立場性からの表現」には限界があるということ の例と言っていいと思います。 では、この限界をどう突破するのか? キャサリン・ビグロー監督の最新作『ゼロ・ダーク・サーティ』というのは、正に この問題を意識して、この問題に正面から切り込んだという点で画期的と言えるでし ょう。 この作品ですが、監督本人が言っているようにエンターティンメント作品というよ りは、映画という形態を借りた「政治的ジャーナリズム」だと言えます。つまり、現 実に発生した事件を例にとって、その事件に関して観客が考えるように仕向ける、そ のための「情報提供」だということです。 監督の言うように、もしも本作が「映像によるジャーナリズム」であるならば、や はりキチンとした論評が必要と思います。以降は、通常の娯楽作品であれば「ネタバ レ」になるので日本での公開直前の現時点では控えるべき内容も含みますが、本作へ の一つの評価のためには必要と考えますので、一部については踏み込んで記述してい ることをお許し下さい。 物語は、911の同時多発テロから始まります。二つの「ワールド・トレード・セ ンター」に航空機が衝突するという映像は余りに出回っているために、ここでは真っ 黒の画面に当時の警察無線と思われる音声だけで、テロ事件のインパクトが表現され ます。その後は、CIAがオサマ・ビンラディンを追跡して居所を突き止め、最後に は海軍特殊部隊を使ってビンラディンの秘密要塞を攻撃して殺害に成功するまでをド キュメンタリー的な手法を使って描いています。 ビグロー監督は様々な手法を使っています。まず、物語の主人公はCIAの女性分 析官という設定にして、彼女の視点から総てを語って行きます。役名では「マヤ」と いうその女性を、ジェシカ・チャステインが非常に抑制された演技で造形しています。 ストーリーの組立にあたっては、ビグロー監督と、脚本家のマーク・ポールは「関係 者」への徹底したインタビューを行なって、そこから「真実」を類推して行ったのだ そうです。正に「映像によるジャーナリズム」というわけです。 さて、この作品ですが様々な非難に晒されています。興味深いことに、非難という のは一つの政治的立場からではなく、三方向からのまるで十字砲火のような攻撃を受 けたのでした。まず噛み付いたのはCIAなど政府当局でした。ビグロー監督は、公 開されていない機密情報に接したばかりか、それを映画として表現しているというの です。 その反対に、共和党側からも大きな非難が上がりました。「この映画はオバマ政権 によるビンラディン殺害成功の凱歌」であるとした上で、「2012年の大統領選の 投票日前に公開するのは、オバマに有利になるので反対」だというキャンペーンが張 られたのです。この点に関しては、オバマ陣営は「映画とは一切無関係」だと主張し たのですが、配給側は余計なトラブルに巻き込まれるのを恐れて公開時期を延期して います。 ではリベラルの側からは好意的に受け止められたのかというと、決してそうではあ りませんでした。映画の重要な要素として「拷問」のシーンがあるのですが、その拷 問を「肯定的に描いている」ということから、民主党の重鎮ダイアン・ファイスタイ ン上院議員(民主、カリフォルニア州選出)を中心に抗議の声が上がっているのです。 たぶん、この「拷問シーン」というのが本作の大きなカギなのだと思います。まず 見る者を不快にするような拷問のシーンが冒頭部分にあり、まだ「初心者で純真なも のを残している」主人公のマヤも不快そうに立ち会う、そんな始まり方をする中で、 やがてマヤは「拷問の結果として得られた情報(諜報、インテリジェンス)」にどん どん頼るようになって行くのです。 これをフィクションとして見れば、マヤという若い女性が「理想を捨てて現実主義 者への成熟」を遂げる「キャラクターの進化(もしくは転落)」という物語として受 け止めることができるでしょう。ですが、これを「ジャーナリズム」だとして見るな らば、観客はこの「拷問シーン」に対してどんな立場に立つのかを「自分で決めなく てはならない」ということになります。 ここが大きなポイントです。拷問というエピソードだけではありません。マヤとい う人物の「苦労話」というフィクションとして見れば、その後に出てくる、あるとあ らゆる超法規的なCIAの行動も、パキスタンやアフガンの「地元」への偏った視線 も「ドラマチックでリアルな映像」のための「小道具」として許せてしまうのですが、 「映像ジャーナリズム」となると、そうは行きません。 世界の各地に、CIAが超法規的な「地下(ブラック)拠点」を持っていること、 諜報活動として「拷問」が日常茶飯となっていること、CIAの分析官には特殊な素 質を持った人間を10代のうちからスカウトして養成していること、オサマ・ビンラ ディンの殺害作戦に関してはパキスタン領内に米海軍特殊部隊が侵攻するという正に 超法規的な行動であったこと・・・こうした「事実」に対して、我々は選択を迫られ るのです。「面白いドラマ」の「お膳立て」として見過ごすのか、あるいは「現実」 として受け入れて批判の対象にするのかという選択です。 冒頭に延々と続く「拷問シーン」は、観客に対して前者ではなく後者、つまり「批 判対象としての現実」を突きつけるために置かれていると言っていいでしょう。実際 問題として、「ウォーター・ボード(水責め)」と言われる拷問手法に関しては、こ れまで10年近く、その是非が政治的な論争になってきましたが、本作で初めてその 実態がリアルに描かれたと言っても過言ではないと思います。 この点に関しては諸説があるのですが、私は本作の主人公のような「ビンラディン 追跡のキー・パーソン」が実在したとして、それは「マヤ」のような若い女性ではな かったのではないかと考えています。映画として、主人公が若い女性であれば「社会 問題に関心の薄い平均的な観客」でも感情移入して最後まで見てくれそうだというこ ともありますが、一旦は「マヤ」に感情移入しても、どこかで「このストーリーには 本当に正義があるのか」という重苦しい自問自答との「ズレ」というか「ねじれ」の 不快感を観客に味あわせるというのが、ビグロー監督の意図であったのではないか、 どうもそのような「手つき」が感じられるからです。 そうした「重苦しい告発」として、本作を改めて振り返ってみると、拷問の問題ど ころではない、極めて重要な二つの問題に関しても気になる表現がされていることに 気づきます。一つは、「911というのは、本当にオサマ・ビンラディン率いるアル カイダというグループの犯行なのか?」という問題と、「2011年5月1日(2日) にパキスタンのアボッターバードで米海軍特殊部隊によって殺害された男性はオサマ ・ビンラディンなのか?」という問いです。映画は、この二つの問いに関しては決定 的な答えを出してはいません。こちらも拷問の是非という問題と同様に、判断は観客 に委ねられたままなのです。 そうなのです。本作は政治的な「メッセージ」を強く打ち出しながらも、その「立 場性」については映画の側からの「押し付け」はしていないのです。この映画を見る ことで、「CIAの超法規的な反テロ作戦」の是非に関して、「一体あなたはどう考 えるのか?」という「立場性」の選択を観客は突きつけられることになるのです。 ある人は「邪悪なテロリストに対する一人の女性の正義の戦い」だという「立場」 を確認するかもしれません。またある人は「ここまで非人道的、超法規的な手段を使 うというのはアメリカはダークサイドに堕ちた」という「立場」に至るかもしれませ ん。またある人は、「テロリストもスパイもゴメンだ」という「立場」かもしれませ ん。いずれにしても、観客は思考停止が不可能な場所に追い詰められて自問自答する ように作られているのです。 一方で、本作には一貫したメッセージがあると思います。それは、拷問にしても、 秘密収容所にしても、盗聴活動にしても、あるいは外国領内での軍事作戦にしても、 こうした「超法規的な活動」について、秘密のベールをはがして「批判の対象として ビジュアル化したものを社会に問う」ことは重要だということです。その強靭な意志 と、見事な表現力に対しては高い評価が与えられて良いのだと思います。 但し、作品賞にしても監督賞にしても、あるいは脚本賞にしても、本作はアカデミ ー賞にはふさわしくないと私は思います。いくら映画が「中立的な事実の告発」であ っても、そのような「表現の自由」を許す社会を自画自賛したくなるにしても、また 「多様な立場性」が許容される社会を本作が象徴しているにしても、ダメだと思いま す。 それは、一連のCIAによる拷問などの超法規的な活動については、直接その対象 とされた「ムスリム圏の反米的な層とその背後にある反米世論」には「傲慢な敵意」 としか受け止められないと思うからです。その意味で、大きな栄誉を与えるのは控え るのが、アメリカ社会としては大人の判断だと思うのですが、果たしてどうなるでし ょうか? (お知らせ)今回の内容とは全く違うジャンルですが、2月14日(木)発売の『東 洋経済臨時増刊 鉄道完全解明2013』に寄稿しています。「フリーゲージ車実用 化は可能か」というタイトルで、新幹線と在来線を自在に乗り入れる新技術「フリー ゲージ・トレイン」の開発の現在を追った内容です。 ---------------------------------------------------------------------------- 冷泉彰彦(れいぜい・あきひこ) 作家(米国ニュージャージー州在住) 1959年東京生まれ。東京大学文学部、コロンビア大学大学院(修士)卒。 著書に『911 セプテンバーイレブンス』『メジャーリーグの愛され方』『「関係の空 気」「場の空気」』『アメリカは本当に「貧困大国」なのか?』。訳書に『チャター』 がある。 最新作は『チェンジはどこへ消えたか〜オーラをなくしたオバマの試練』 (ニューズウィーク日本版ぺーパーバックス)またNHKBS『クールジャパン』の準レ ギュラーを務める。 ◆"from 911/USAレポート"『10周年メモリアル特別編集版』◆ 「FROM911、USAレポート 10年の記録」 App Storeにて配信中 詳しくはこちら ≫ http://itunes.apple.com/jp/app/id460233679?mt=8 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ●編集部より 引用する場合は出典の明記をお願いします。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ JMM [Japan Mail Media] No.727 Saturday Edition ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 【発行】 有限会社 村上龍事務所 【編集】 村上龍 【発行部数】101,417部 【WEB】 ( http://ryumurakami.jmm.co.jp/ ) |