09. 2013年2月06日 02:02:32
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. 太平洋に影を落とす1914年の記憶 第1次世界大戦を髣髴させる日米中の緊張 2013年02月06日(Wed) Financial Times (2013年2月5日付 英フィナンシャル・タイムズ紙) 第1次世界大戦で男たちが「塹壕から攻撃」に出る姿を映したチラチラする白黒映画は、あり得ないほど遠い昔のように思える。 だが、今の大国はもう2度と、1914年の大国のように戦争に巻き込まれることはないという考えは、あまりに慢心が過ぎる。中国と日本、米国の間で高まる緊張には、ほぼ1世紀前に勃発した恐ろしい衝突に似た響きがある。 火付け役になりかねない最も明白な問題は、中国では釣魚島、日本では尖閣諸島として知られる島嶼を巡る日中間の未解決の領有権争いだ。ここ数カ月、日中両国の航空機と船が島の近くでシャドーボクシングを繰り広げている。 事態を懸念した米国は10月下旬、米国の外交政策機関の大物4人から成るトップレベルの派遣団を日中に送り込んだ。ジョージ・ブッシュ前大統領の下で国家安全保障会議(NSC)を率いたスティーブン・ハドリー氏や、ヒラリー・クリントン氏の下で米国務副長官を務めたジェームズ・スタインバーグ氏らだ。 小さな事件が大戦に発展する恐れ この超党派の米国派遣団は、中国による島の攻撃は、日米安全保障条約を発動させることになると明言した。明らかなリスクは、1914年と同じように、小さな事件が同盟国の負う義務を発動させ、大きな戦争に発展する事態だ。 米国の派遣団はリスクを重々承知していた。4人の派遣団に参加したハーバード大学教授のジョセフ・ナイ氏は「我々は内々に1914年との類似点を議論した。どの国も戦争を望んでいないと思うが、誤解と事故のリスクについて双方に忠告した。合理的行為者の間では通常抑止力が働くが、1914年の重要な関係国も皆、合理的行為者だった」と言う。 ナイ氏のハーバード大学の同僚で、キューバ・ミサイル危機の古典的な研究を書いたグレアム・アリソン氏も、誤算による戦争の危険があると考えており、次のように話している。 「1914年のメカニズムは教訓に富んでいる。セルビアのテロリストらが誰も聞いたことのない大公を殺して大戦の引き金を引き、その終わりにはすべての参戦国が壊滅状態に陥っているなんて一体誰が想像できたか。私の見るところ、中国の指導部はまだ、軍事的に米国に挑戦するつもりはない。だが、中国や日本の短気な国家主義者たちはどうか?」 短気な国家主義者は高い地位にないことも多いけれど・・・(写真は2010年に尖閣諸島付近で海保の巡視船と衝突した中国のトロール漁船)〔AFPBB News〕
そうした「短気」な人々は、指揮命令系統のかなり下に位置していたりする。2010年9月に島を巡る危機を引き起こしたのは、中国のトロール漁船の船長が日本の監視船とぶつかったことだった。後に、船長は酒に酔っていたことが明らかになった。 当時、日本政府はかなり融和的な対応を取った。しかし米国は今、日本の新内閣が中国と対峙したいと考える傾向の強い強硬な国家主義者だらけなことを懸念している。 新首相の安倍晋三氏は、戦時内閣の大臣の孫で、日本が戦争の償いをしようとした「謝罪外交」を拒否している。 米国による安全保障は本来、日本を安心させるものだが、日本の政治家に不要なリスクを取る気にさせてしまう恐れもある。一部の歴史学者は、ドイツ政府は1914年に、できるだけ早く戦争する必要があると結論付けたと主張している。より強力な敵国に包囲される前に戦った方がいいと考えたわけだ。 同じように一部の日本ウオッチャーは、政府内の国家主義者たちが中国と今対峙した方がいいと考えるのではないかと心配している。日中両国の力の差が大きくなり過ぎる前、米国がまだ太平洋の支配的な軍事大国であるうちに、だ。 今の中国と100年前のドイツの類似点 米国人は日本の政治が国家主義に傾くことを懸念している。その懸念をさらに膨らませるのは、中国にも同じ傾向が見て取れることだ。中国は今、100年前のドイツのように、既存の大国が自国の台頭を断固阻止することを恐れる新興大国だ。 近代中国の父であるケ小平は、「能力を隠して時機を待て」という格言に基づく外交政策を追求した。しかし、ケ小平の世代に取って代わったのは、自信を深め、自己主張を強める新たな指導部だった。また、中国の軍も外交政策を形作るうえで次第に大きな影響力を振るうようになっている。 第1次世界大戦前のドイツとの類似点は顕著だ。当時はオットー・フォン・ビスマルクの巧みなリーダーシップに代わり、戦争勃発前の数年間は、はるかに不器用な政治的・軍事的指導者が権力を握った。 ドイツを支配するエリート層も同じように、下からの民主的圧力に脅かされていると感じ、国民感情の別の捌け口として国家主義を奨励した。中国の指導部もまた、共産党の正当性を強化するために国家主義を利用してきた。 少なくとも、中国の指導部が歴史上の大国の台頭について徹底的に研究したこと、そしてドイツと日本の過ちを避ける決意を固めていることは心強い。我々が核の時代に生きているという事実も、1914年の危機が再現される可能性をかなり低くしてくれるはずだ。 日米安保条約には解釈の余地も また、本当に危険な状況になったら、日米安保条約にはある程度の解釈の余裕がある。条約の第5条は一般に、軍事的手段で同盟国を守ることを米国に義務付けていると考えられているが、実際は、日本が攻撃された場合には「共通の危険に対処するように行動する」ことを両国に義務付けているだけだ。 この曖昧な文言は、それで中国が米国に「やれるものならやってみろ」と挑む気になるようなら危険だ。しかし、危機時には役立つ可能性もある。 1914年7月、すべての関係国の指導者は、大半の人が望んでいない戦争へと押し流され、無力感を覚えていた。その歴史の研究は、中国人、米国人、日本人が2014年に同じ運命を回避する助けになるかもしれない。 By Gideon Rachman
探知されずに列車から長距離ミサイルを発射、 米国が懸念する中国の核戦力強化 2013年02月06日(Wed) 古森 義久 中国が鉄道を使って長距離核ミサイルを常時、移動させる戦略を進めている。この動きについて米国が深刻な懸念を抱いていることが明らかにされた。
中国の長距離核ミサイルの配備は、この方法により米国側の探知が一層、難しくなり、東アジアから米国本土までの安全保障に大きな影を投げることになるという。 その背後には中国が核戦力をなお大幅に増強しようとする危険な構図が浮かび上がっている。 秘密裏に鉄道でICBMを運搬 米国中央情報局(CIA)の元専門官たちが組織した国際安全保障の民間調査研究機関「リグネット」は、2月はじめ、「中国が鉄道基盤のICBMで核計画を増強する」というタイトルの報告書を公表した。 その内容の主要点は以下のようだった。 ・中国は米国本土にも届きうるICBM(大陸間弾道ミサイル)50〜75基を戦略核戦力の主体として保有している。その大幅な増強計画の主眼として、ミサイルを鉄道軌道上の特殊な列車に搭載して移動させる新システムの構築を始めた。列車搭載のミサイルは、その列車から遠距離の標的に向けて発射される機能を有すると見られる。 ・中国当局はその目的のために、新たに合計2000キロ近くに及ぶ鉄道を建設しようとしている。将来はICBMを載せた列車が一般の客車や貨車を装って走り、地下のトンネルにも停車できるようになるため、外部からの核ミサイル所在の探知が極めて困難になる。 ・中国当局がこうした鉄道利用の戦略核ミサイル秘匿態勢を作ろうとするのは、自国の核攻撃能力をいつも保っておくという意図からであり、中国がこれまで宣言してきた「核先制不使用」の方針の事実上の放棄をも連想させる。 すでに周知の事実ではあるが、中国は核拡散防止条約(NPT)で公認された核兵器保有国5カ国のうち、唯一の完全秘密体制の国家である。核ミサイルや核弾頭の数をすべて秘密にしたままなのだ。米国やロシアはその種の情報の大部分を公開している。中国はしかも5カ国のうちでただ一国、核戦力をいまも増強しているのだ。そんな中国の実態も、中国の核戦力全体が米国やロシアに比べれば小さいということで不問に付されるという状況が続いてきた。 ところがこの数年、中国は核戦力の増強に増強を重ね、米国に脅威を与えるところまで進みそうな構えを見せてきたのだ。そうした流れの中でのICBM列車搭載という、外部の目をあざむく野心的な作戦を本格的に始めるというのだから、米国としても警戒をさらに強めざるを得ないのだろう。 中国はこれまでも核ミサイルや核弾頭を継続的に列車に載せて、秘匿や防御を図る手法を一部で取ってきた。米国もその動きをよく知って、ときおり報告や警告を発してきた。中国のそのへんの特殊な核戦略については、私もこの連載コラムで取り上げたほか、自著の『「中国の正体」を暴く』(小学館101新書)でも詳述してきた。しかし今回のリグネットの報告は、中国軍が長距離核ミサイルの列車搭載プログラムをさらに体系的かつ大規模に始めるという趣旨なのである。 核ミサイルを隠蔽するのは先制攻撃のため? リグネットの指摘でさらに懸念されるのは、中国の「核先制不使用」という方針の空洞化の可能性である。中国は長年、戦争が起きても自国が核兵器を先に使うことはないと宣言してきた。自国が通常兵器で攻撃を受け、苦戦になっても、相手が非核である限り、自国が率先して核兵器を使用することはない、というのが「核先制不使用」宣言である。敵が実際に核攻撃をかけてきたときにしか、核兵器は使わないというのだ。 しかしリグネットの報告によれば、中国は今回、伝えられた列車利用の核ミサイル隠蔽により、核攻撃能力を秘密にして、実際にいつでも核ミサイルが発射できる能力を温存しておくという戦略意図を明らかにした。 報復のためだけの核戦力ならば、その存在を誇示することで抑止効果が高まるという側面が大きい。だから逆に核戦力を最大限、秘密にしようというのは、先制の攻撃をも考えているからではないか、という疑惑を強めることになるわけである。 リグネットの報告は、中国がさらに核戦力を大幅に増強させながらも、核軍縮や軍備管理の国際的な取り決めにはまったく関わっていない事実を強調していた。 米国、ロシアという核兵器の超大国は相互の核軍縮の取り決めをまだ生かしており、その結果の制限や誓約が厳存する。無制限の核戦力を増強することはできないのだ。しかし中国にはその種の規制はまったくないのである。 政治状況を見ても、いまの中国が米国やロシアを相手に核兵器の削減の交渉に臨むはずがない。宿敵だったインドが最近、核戦力を強めている事実からも、中国の核軍縮はないと見てよいだろう。だからこそ、中国の核軍拡は米国にとっても、日本にとっても危険なのである。 日本にとって決して別世界の出来事ではない リグネットの報告は結論として以下のように総括していた。 ・中国が着手した大規模な鉄道利用の核ミサイル移動・発射の計画が実際に機能するまでには数年を要するだろうが、この動き自体が中国の核戦略全体の重要な新事態である。中国の核戦略は多弾頭化された弾道ミサイル、潜水艦発射ミサイル、固形燃料ICBM、地上移動ICBMなどを主体に、さらにこの鉄道利用ICBMが加わって、米国やアジア地域の安定を脅かす形で拡大している。特に鉄道利用ミサイルは中国側の発射準備の体制の証拠を得ることが非常に難しい点に注視すべきだ。 中国の核戦力や核戦略、そして米国側の対応となると、「核」に関わる安全保障の一切をただ忌避するというわが日本にとっては、最も理解の困難な領域だと言えよう。まして、そうした事態の展開への日本としての対応となると、もう別世界の出来事としか受け止められないという向きも多いだろう。しかし、日本への影響が避けられない米中関係の軍事面では、こうした事象もまた現実の出来事なのである。 弱った相手は必ず叩く、中国から領土を大きく奪取 ロシアと中国(4)〜ロシア帝国の攻勢 2013年02月06日(Wed) W.C. 清は1700年代に、中華帝国始まって以来最大とも言える規模にその支配領域を広げた。現代の中国人が「偉大中華民族復興」を唱えるとき、そこにイメージされているのは、あるいはこの大清帝国の威勢なのかもしれない。
内乱が続発し始めた中国を欧州列強が食い物に (黄=直轄部、肌色=藩部、ピンク=属国、薄緑=朝貢国、出典はこちら) 拡大画像表示 しかし、60年に及ぶ乾隆帝の治世が終わる頃の1800年代初めには、その統治力には制度疲労が顕著に表れ始めていた。
領域内では、人口急増がもたらした大量の国内貧窮民が社会の不安定要因を醸し出し、あちらこちらで内乱が続発するようになる。 そして、1840年から2年間続いた英国とのアヘン戦争で、初めてヨーロッパの国家に腕力で敗北を喫する。戦闘に使われた武器(火器と艦船)の性能の差が決定的にものをいった。産業革命の威力である。 この敗北の結果、清はそれまでの原則だった海禁政策の撤廃を余儀なくされた。5つの港を対外交易のために新たに開き、香港の割譲も約束させられる(南京条約)。そして、同じような条約をフランスや米国とも締結させられた。 英国や他の国が清とこうした条約をものにするのを見て、ロシアも「この際、我々にも他の列強と同じように海上経由での通商権を寄こせ」と乗り出した。だが、これはあっさりと断られてしまい、バスに乗り遅れることになる。裏で清に英国が断るように仕向けたのかもしれない。 そのままでは、他の列強が好き放題に動くのを、ただ指を咥えて見ているしかなくなる。しかし、そんな選択肢はもうロシアにあり得ない。出遅れたら、やがてグレート・ゲームの相手となる英国が、先に中国の北東部まで占領してしまうかもしれない。 クリミア戦争に敗れたロシアの矛先が中国に (出典はこちら) 拡大画像表示 1856年に英国が敵に回ったクリミヤ戦争で敗れると、その懸念は一気に拡大して、ロシアは清領の強引な奪取に向かう。
何せクリミヤ戦争での戦場は、黒海周辺のみならず遠く太平洋にまで及び、カムチャツカ半島ですら英仏の艦隊から砲撃を加えられたのだから。 その頃までには、ロシア人の南下は徐々にだがすでに始まっていた。アムール河周辺の調査が1840年代からたびたび彼らによって行われていたのだ。ハバロフを撃退した昔と異なり、国境を侵犯する北方人たちに対して、清は有効な処置を取るだけの武力も気力も失っていた。 ロシアは自分が当事者として加わらなかったにもかかわらず、1858年の天津条約(第2次アヘン戦争の後始末)のどさくさに乗じてアムール河左岸を自国領とし、現在の沿海地域(プリモーリエ)は両国の共同管理地とする愛琿(黒竜江省黒河市)条約を別に結ぶ。 この愛琿条約は、もう武力行使をちらつかせたロシアの恫喝外交だったようだ。そして2年後の北京条約(アヘン貿易と外国公使の北京常駐を列強に認める)では、共同管理地だったはずの沿海地域もロシアに割譲された。ついでに海上貿易権も清に承諾させて、今度はバスの乗客に加わる。 愛琿・北京の2つの条約で、清は北東部で100万平方キロ(日本全土の2倍半)を超える領土を失った。その後、現在の極東での中ロ国境線は2つの条約で最終的に決められ、もとは清の沿海地域の一寒村に過ぎなかった土地に、ロシアはヴラジヴォストークの町と港を建設していく。 ロシアの攻勢は北東からだけではない。中央アジア制圧の過程に連動して、北西からも進められた。 ロシアの中央アジア侵攻は、アヘン戦争から100年以上も前の1735年に、オレンブルクの町を進出拠点として建設することで始まった。だが、遊牧民のカザフを征服するのに大いにてこずる。そして、それが漸く片づいたアヘン戦争の頃になって、ステップ地帯を越えて南へと進んでいく。 インドの支配を夢見たロシア その南下した先(現在のウズベキスタンや、カザフスタンの一部)には、いくつかの汗国があった。ロシアは、1867年に中央アジア総督を置くとそれらの国を次々に制覇していく。そして、1881年に現在のトルクメニスタンを占領することで、今に到る旧ソ連の中央アジアの領域を最終的に支配下に置いた。 このトルクメニスタンは、同じ時期に英国の保護領となったアフガニスタンと国境を接している。それまでにカスピ海の西側のコーカサス方面からも南下していたロシアは、すでにペルシャとアフガニスタンで英国とのグレートゲームを演じていた。 だから、新たにロシアがトルクメニスタンを支配し始めたとなれば、インド(当時はパキスタンも含む)での権益防衛が何よりも重要な英国は、その神経を益々尖らせることになる。 1886年に書かれたトルストイの『イワンの馬鹿』に、悪魔に唆(そそのか)された長兄のセミョーンがインド征服に乗り出して、惨めな敗北を喫するくだりが出てくる。中央アジアを支配下に収めた後に、さらにインド制覇まで果たすんだという夢を語る人々が、当時のロシアに結構いたことを示すものだろう。 中央アジアの征服と並行して、西域で露清国境の画定交渉が行われる。清の交渉相手はそれまでの朝貢国ではもはやないから、まるで勝手が違う。1880年頃にはこの交渉が完全にロシアのペースで進められてしまい、清はその交渉担当者の懈怠も重なって、何度か条約を結んだ挙句に50万平方キロ強の版図を失った。 さすがに清も、内外からのこれ以上の浸食は何とか防がねばならないと悟り、1884年に中央直轄の新疆省を設置する。清が新疆(今のウイグル)を自国の領土だと西欧流に強く認識したのはこの時からとも言えるだろう。 こうして清は、ロシアに対して北東と北西の双方で一方的な譲歩を続けた結果、1858年の愛琿条約から1881年のイリ条約までで数えれば、わずか24年間で総計150万平方キロを超える領土を失った。並いる列強に毟(むし)り取られた結果としては最悪である。 なぜこのような結果を招いてしまったのか。清側の事情が最も大きな要因なのだが、それは次回で触れるとして、今回は攻めた側の当時のロシアの状況を見ておきたい。 ロシアにとって、東に向かっての侵攻作戦を大きく促進させたのは、すでに述べたように1856年まで3年間も続いたクリミヤ戦争での敗北だった。この敗北が与えた衝撃は、ロシアに国内の大改革を強いることになったという点で、ヨーロッパを相手にしたロシアの「アヘン戦争」とでも言うべき出来事だった。 ピョートル大帝の時代の文明開化から1世紀以上も後になって「アヘン戦争」とは、随分とのんびりした話だが、それだけ1700〜1800年代のヨーロッパの動きにロシアが遅れてしまっていたことを物語っている。 産業革命の時期で見れば、トップバッターだった英国で1783〜1802年、遅れてこれに続いたフランスで1830〜1860年、ドイツ1850〜1873年、米国1843〜1860年、日本1878〜1900年とされている。 その中でロシアは1890〜1904年(軽工業で1870年代、重工業で1890年代)と最も遅かった。時期としては当時の新興国・日本と大差なく、ヨーロッパ諸国には半世紀以上も劣後している。 ナポレオンに勝利した栄光から40年目の挫折 ピョートル・ストルイピン(ウィキペディアより) クリミヤ戦争では、結局のところ産業革命を経験済みの英仏に敗れた。あのナポレオン戦争(ロシアでは「祖国戦争」と呼ばれる)で、侵入してきたフランス軍を壊滅させて追い払った栄光からわずか40年後でしかない。かつてのその栄光もプライドも、この敗戦ですべてチャラパーである。
敗因は兵器の質や性能の差でもあり、この点でロシアは、アヘン戦争で英国に敗れた清と変わらない。その清でも1890年には国産紡績業が始まっており、中国との比較においてすら、ロシアが経済の面で圧倒的に優位だったとはどう贔屓目に見ても言えないのだ。 敗北の衝撃が大きかっただけに、先進国へのキャッチアップはかなりの速度で行われた。後の19世紀末から20世紀初めにかけての国家主導型産業振興策と外資受け入れの結果、1914年には他の列強と生産力のいくつかの部分では伍していける水準に何とか達している。 経済の改革者としてこれを推進した人物の中に、当時の首相・ストルイピン(在任1906〜1911年)がいる。その彼を、今のロシアの大統領ウラジーミル・プーチンは深く尊敬しているという。ストルイピンは道半ばの49歳で凶弾に倒れたが、プーチン大統領はそのことも強く認識しているだろう。改革とは命懸けの仕事なのだ。 クリミヤ戦争の後は、軍事と産業の一部ではその近代化で何とかヨーロッパに追いついていく。しかし、産業革命に伴う政治と社会の近代化の波には、絶望的に乗り遅れていた。 農奴解放が1861年、国会が初めて開かれたのが20世紀に入って後の1906年(日本は1890年)となれば、ヨーロッパ各国に比べてロシアの民主化の度合いがどれだけ制度面で劣っていたか一目瞭然である。 そしてこうした後進性の中で、開国=西欧派と攘夷=スラブ民族主義の争いが1700〜1800年代から続いていた。どの途上国でも見られる、先進国追随派と偏狭な愛国主義者との対立である。 その両者が複雑に絡み合いながら、外に向かっての汎スラブ主義を醸成して対外侵攻を加速させ、やがて最後にはロシア帝国を自ら破滅に追い込んでしまう。 そうなってしまったのは本人の責任である――確かにそうとしか言えまい。だが、ロシアの汎スラブ主義を高揚させてしまったのは、この国を劣った存在として長らく邪険に扱ったヨーロッパにも責任の一端があると言えばあるのではないか。 ナポレオンからヨーロッパを解放したにもかかわらず、ヨーロッパはロシアを対等とは見ずに正当な評価を与えていないという不満は、1800年代のスラブ民族主義者や軍人の中に募る一方だった。 この気分は、現在のロシアも想起させる。第2次世界大戦(ロシアでは「大祖国戦争」とも呼ぶ)で大きな犠牲を払いながらナチス・ドイツを降伏に追いやったソ連の功績が西側で軽んじられ、どう頑張ってもヨーロッパ社会に入れないという焦燥・不満・落胆が沈澱する気分――これは、200年前とどうやら変わっていない。 西欧派と民族主義の対立概念は、後の共産主義革命にも結びつけて論じられた。共産主義思想がもともとヨーロッパで生まれたものであることを理由に、革命を起こしたレーニンの思想を西欧派、これを継いだスターリンのそれはスラブ民族主義だとか。 ロシアの劣等感を払拭させた共産主義革命 グルジア人のスターリンがどうしてスラブ民族主義になるのか、などと疑問を呈せばきりがない。どうにもこじつけの感もある。 だが、その起源が西欧派であろうと民族主義であろうと、後の共産主義革命の勃発がロシアの後進性意識や劣等感を一挙に覆えしてくれたものであったことも確かだろう。共産主義をヨーロッパに先駆けて実現したのはロシアだ、だからロシアの方が先進国になった・・・。 もっとも、それが起こるまでは、レーニンの革命思想(帝国主義は資本主義の最終段階、だから今すぐプロレタリア革命を!)はヨーロッパの左翼陣営から、その後進性ゆえの過激派として評価されていなかった。そう、左翼運動においてすらロシアは後進性の問題に苛まれていたのだ。 話を19世紀に戻すと、自らも後進国という屈折したロシアのメンタリティーは、当時のその対外拡張の中にも表れているように思える。 司馬遼太郎はロシアの侵略の性格について、相手の弱みにつけ込むことを旨とし、従って統治が完備している国は侵さない、つまり国力を傾けてまで侵略しようという気はない、といった趣旨のことを述べている。 裏返せば、相手が弱体化しているならいくらでも侵攻を繰り返すということになり、アムール河左岸や沿海地域のみならず、満州や、清が宗主国となっている朝鮮半島に次の照準を定めていくのも、清の衰退が誰に目にも顕著であったからだろう。敵が止まればこちらも止まり、敵が退いたらこちらは進む、とはどこかで聞いた策である。 この司馬の指摘をもう少し突っ込んで考えてみると、自分にとって必要だからどう犠牲を払ってでも対象を手に入れよう、という切迫感がロシアには欠けているように見える。 それよりも、人がやるから負けてはいられない、という他動的な行動パターンが目についてしまう。要は、他人に置いていかれるという焦りや恐怖にも似た気持ちに駆られての真似ごとである。 その焦りや恐怖とは、ロシアがヨーロッパの対中蔑視観に便乗しても、ロシア自らはヨーロッパの中で異質な国と見られ、あるいはその数にも入れられず、これまで述べたようなヨーロッパの中の後進国として扱われることへの苦痛や屈辱と裏腹だろう。 そうであれば、明治維新以来の日本にもよく似ている。一度として自分が世界の中心だ、という気持ちを疑いなく持てたことがなかった。これを歴史の(負の?)遺産と呼ぶなら、たぶんそれが現在でもロシアと(あるいは日本と)中国の、それぞれの根底に流れるものでの大きな差異につながっていく。 S・ハンチントンに言わせれば、西欧文明に征服されなかったのはロシアと日本、それにエチオピアだけだったから、コンプレックスは独立維持の代償なのかもしれない。 征服地から経済的利益を捻り出そうとして独走 ロシアの行動パターンについて司馬はもう1つ、皇帝の意図とは関係なく、その側近や出先の軍人が征服地からの経済的利益を捻り出そうとして独走する傾向も指摘している。 この傾向は国家のような大組織になればどこでも、であり、ロシアに限ったものではない。日本にも関東軍の所業があった。だが、連絡網が常に延び切ってしまうロシアでは、それは特に顕著だったはずだ。 西から極東へ勢力を伸ばす中で、出先が中央の意向とは半ば無関係に動けるような習慣らしきが、それこそエルマークの時代からロシアには出来上がっていた。 サンクトペテルブルクからヴラジヴォストークまで電信が開通したのは1860年代の末だったから、それまでは中央からの出先に対する遠隔操作は困難を極めたに違いない。 そして、電信が開通しても現場は現場の判断で動くというスタイルは、実際にそう簡単には変わらなかったのではなかろうか。これは今日のロシアでも往々にして見受けられる行動パターンである。 人に遅れまいとして、パイの分け前を求めて上が金切り声で叫べば、下は下でその声を勝手に解釈して自分で動き出す。清は不幸にして、そうしたロシアに版図を侵されていったのだった。 |