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http://bylines.news.yahoo.co.jp/mutsujishoji/20130119-00023139
アルジェリア政府はなぜ急速に軍事行動に踏み切ったか (1)
六辻 彰二 | 国際政治学者
2013年1月19日 21時13分
アルジェリア人質事件の顛末
1月16日、アルジェリアの南部イナメナスで、英国企業ブリティッシュ・ペトロリアム(BP)の石油関連施設で日本人はじめ41名の外国人を含む600名以上が、「イスラーム・マグレブのアル・カイダ(AQIM)」元司令官モフタール・ベルモフタール率いる「覆面旅団」("Masked Brigade")メンバーによって人質になる事件が発生しました。実行犯らはアルジェリアの隣国、マリで11日から実施されているフランス軍の軍事行動を非難し、その即時停止を求めました。
日本時間の17日深夜、アルジェリア軍は実行犯らとの交渉が決裂したとして、突入による救出作戦に踏み切りました。この現段階で確定的なことは言えませんが、この戦闘によってロイターは人質のうち日本人2名を含む30名が死亡したと伝えています。
日本政府は、やはり人質のなかに自国民をもつ英国政府などと協議し、アルジェリア政府を通じた働きかけが適切という判断に至っていました。また、安倍首相は人命尊重を優先すべきという立場を堅持し、アルジェリア政府に対しても、慎重な対応を求めていました。実際にアルジェリア軍の攻撃が開始された後は、アルジェリアのセラル首相に対して軍事行動の停止を求めましたが、「危険なテロ集団であり、これが最善の方法だ」と断られたと伝えられています。
「テロリストには問答無用で対処する」のが一般的か
一般的に、米国をはじめ、「テロリストとは交渉しない」というスタンスをとる国が多いことは確かです。無関係の市民を巻き込むなど、暴力で要求を通そうとする相手と交渉してしまえば、それだけで相手を対等の存在と位置付けることになります。それは、相手の不当性を容認することにも繋がります。まして、それによって国民の代表たる政府の決定が覆されれば、国家、民主主義、憲法の存在意義が損なわれることにもなります。ゆえに、特に当該国政府はテロリストとの交渉に否定的になりがちで、被害者が自国民だけでない場合でも、ほぼ同様です。1996年12月に発生した、ペルーの日本大使公邸占拠事件のときも、日本政府が慎重な対応を求めたこともあり、さらに同様の建築物を使った突入訓練を行うなど入念に準備したため、ペルー警察の部隊による実際の突入は1997年4月で、約4ヶ月後になりましたが、ペルー政府は早い段階から武力行使による解決を図っていました(このときも、ペルー政府から日本政府への事前通告はなかった)。
とはいえ、諸外国でも「何がなんでも突入」という選択が優先されているわけではありません。歴史に名高い、1979年11月にイランで発生した「米国大使館占拠事件」の際、米国は当初軍事解決を模索しましたが、それが不調に終わったこともあり、最終的には第三国の仲介のもとでの交渉により、444日後に人質は解放されました。この場合、大使館占拠の実行犯らが容認していた、イスラーム革命で亡命した国王の引き渡しが、1980年7月に当の国王が亡命先のエジプトで病死したことによって、現実的に不可能になったことが、交渉を促すという効果を生んだことは確かです。しかし、少なくとも、米国が軍事的解決の一本槍でなかったこともまた、確かでしょう。
また、今日ではテロ対策とはいえ、犠牲者を出さないようにすることが求められます。2002年10月にモスクワで発生した、チェチェン武装勢力による劇場占拠事件では、事件発生から3日後に特殊部隊スペツナズが神経ガスを使用したうえで実行犯らと銃撃戦を展開し、結果的に窒息により129名の人質が死亡するなど多くの犠牲者を出したことには、人命の軽視であるとして欧米諸国から強く非難されました。
つまり、多くの国では人質事件への対応として軍事力の行使が一般的であるとしても、水面下での交渉を併用することも珍しくなく、さらに人質の生命や安全を確保することが大前提と捉えられていることもまた確かです。
以上の観点からすれば、今回の突入の決定は、事件発生から丸2日を待たずに行われたもので、交渉にさして時間をかけたとも思えません。また、アルジェリア軍が人質の乗った車輌を攻撃したという報道もあり、その真偽は定かでないものの、実際に人質からも多くの犠牲者を出したことは確かなようです。さらに、慎重な対応を求めていた関係国に事前通告がなかったことからも、アルジェリア政府が事件解決を優先した印象は拭えません。やはり自国民から犠牲者を出した英国政府は、アルジェリア政府を強く非難しています。
アルジェリア社会の亀裂
アルジェリア政府を、ここまで性急に実力行使に向かわせた要因は、何だったのか。現段階では推測の域を出ませんし、後知恵になることは確かですが、今後発生し得る同様の事態に備えるためにも、考えておく必要があるでしょう。
第一に、アルジェリア政府とイスラーム過激派の関係があります。もともと、アルジェリアを含むマグレブ(北アフリカ)諸国では、独立後に世俗的なエリート層とイスラームの影響が強い一般市民の間の文化的亀裂が鮮明でした。アルジェリアの場合も、政治家、大企業家、官僚、軍高官などの支配層は旧宗主国の言語であるフランス語を日常的に話しますが、一般市民の間ではアラビア語が一般的です。この文化的な分裂は、1990年代により大きくなりました。1991年、アルジェリアで初めて行われた複数政党制に基づく議会選挙で、イスラーム的な価値観を打ち出したイスラーム救国戦線(ISF)が勝利しました。これに対して、伝統的に世俗主義な軍部が介入し、選挙結果を無効化したのです。その後の混乱のなかで、当時のシャドリ大統領は辞任に追い込まれ、過激化したイスラーム主義者のテロ攻撃と軍部の弾圧の応酬の悪循環に陥ることになりました。少なくともアルジェリアでは、イスラーム過激派の台頭が、世俗的な権威主義体制への反発によって促されたといえるでしょう。
その後、アルジェリアでは1995年に大統領選挙が、1997年には上下両院の選挙が実施され、文民統治の形式がととのいましたが、軍の影響力が強いことに変わりはありませんでした。1999年に就任した、現在のアブデルアズィーズ・ブーテフリカ大統領も、軍を主たる支持基盤としています。ブーテフリカ大統領は、2005年に「国民和解」を掲げ、過去の暴力的衝突に関する免責を条件に、各武装組織に武力行使の放棄を求める「平和と国民和解のための憲章」の是非を国民投票にかけ、97パーセントの支持を得ました。
ところが、多くの武装組織がこれに賛同したなか、この提案が「軍の責任を隠蔽するもの」と批判して拒絶したのが、厳格なイスラーム主義を奉じる説教と戦闘の為のサラフィー主義者集団(GSPC)でした。翌2006年、GSPCは国際テロ組織アル・カイダの傘下に入ることを発表し、イスラーム・マグレブのアル・カイダ(AQIM)と改称。以来、AQIMはアルジェリア南部のみならず、マリ北部、さらにニジェールにまたがる一帯で武装活動を展開しており、ブーテフリカ政権にとっては国内の最大の敵と言っていい存在になっており、今回の事件の首謀者モホタール・ベルモホタールは、その分派とみられています。
政権の存在理由としての反テロ
ところが、AQIMなど武装活動を続けるイスラーム過激派の存在は、ブーテフリカ大統領にとって自らの存在理由でもあります。原油・天然ガスの価格高騰を背景に、産油国アルジェリアには大規模な投資が海外から相次ぎ、これにより経済規模は急激に拡大しました。世界銀行の統計によると、2001年に6149ドルだった一人当たりGDP(購買力平価)は、2005年に7169ドルにまで急伸。これと並行して、ブーテフリカは1000以上の国営企業の民営化を進めるなど市場経済化も進めてきました。ところが、他のアフリカや中東諸国と同様、アルジェリアでも資源収入に関する透明性は低く、政府高官らによる汚職が蔓延しているだけでなく、海外からの急激な資金流入によってインフレも進行。やはり世界銀行の統計によると、リーマンショックが発生した2008年には15パーセントだったインフレ率が、2009年には−11パーセントになりました。
物価の乱高下は市民生活を直撃し、政府に対する不満は高まりました。その一方で、ブーテフリカが二期目を目指した2004年の大統領選挙で、対立候補のアリ・ベンフリ元首相を推したとみられる軍の幹部たちが、選挙後に引退や降格を余儀なくされた頃から、その独裁化が顕著になっていきました。2008年には、大統領三選を禁じた憲法条項を修正する提案を国民投票にはかり、これが成立したのです。一連の投票では、政府や軍、警察による野党陣営への嫌がらせや妨害が頻繁に行われ、民主的とはいえないものだったといわれます。
そんななか、2010年12月に隣国チュニジアで発生した抗議活動を皮切りに、中東・北アフリカ一帯に広がった政変「アラブの春」が発生します。アルジェリアでも、市民の抗議活動が首都アルジェなどで拡大しました。これに対して、ブーテフリカ政権は食糧などの税率を軽減して市民の不満の緩和を図り、2011年2月には19年間続いてきた、当局の承認なしのデモなどを禁じた「非常事態法」も撤廃するなど、一定の配慮を示しました。ただし、その後「反テロ法」が改定され、これに基づいて抗議活動を行う若者たちと警察の間の衝突は絶えず、政権批判は実質的に力ずくで押さえ込まれてきたのです。
以上に鑑みれば、経済成長を実現しながらも貧富の格差は大きく、さらに独裁化傾向を強めたブーテフリカ政権にとって、「テロリストに厳しく対処して公共の治安を守る」ことは、自らの支配の正当性にとっての生命線だったといえるでしょう。その観点からすれば、今回の実行犯が宿敵AQIMに繋がる人間と妥協することは、ブーテフリカ政権にとってほぼ不可能でした。人質の生命や安全を後回しにしてでも掃討作戦に踏み切ったことには、政権自身の延命という側面があったといえるでしょう。
六辻 彰二
国際政治学者
http://bylines.news.yahoo.co.jp/mutsujishoji/20130119-00023140/
アルジェリア政府はなぜ急速に軍事行動に踏み切ったか (2)
六辻 彰二 | 国際政治学者
2013年1月19日 21時32分
アルジェリアと欧米諸国の微妙な関係
第二に、アルジェリア政府と西側先進国、なかでも欧米諸国との関係です。独立以来、歴代の世俗的なアルジェリア政府は、旧宗主国フランスをはじめ、欧米諸国と友好関係を保ってきました。多くのアフリカ諸国に対して、援助を盾に民主化や人権保護を強要してきた欧米諸国が、先述したアルジェリアにおける1990年の軍部による選挙介入に対しては批判らしい批判をせず、援助額もほとんど減らなかったことは示唆的です。つまり、アフリカ大陸第3位の産油国であることに加えて、その世俗的な権威主義体制がイスラーム主義の拡大を防ぐ防波堤であることから、欧米諸国はアルジェリア政府をほぼ一貫して支持したのです。特に米国主導の「テロとの戦い」は、ブーテフリカ政権にとって、自らの強権的支配を国際的に認知させる追い風になったといえるでしょう。
ただし、2000年代半ば以降、その関係には微妙なすきま風が吹き始めました。特に、特別な関係にあるフランスとの摩擦が顕在化したのは、2004年にフランス議会が歴史教科書の改訂を命じる法律を制定したことが、大きなきっかけでした。この法律では、フランスの過去の、特に北アフリカに対する植民地支配の「肯定的な側面」を歴史の授業で教えることが定められたのです。これをきっかけにフランスとの緊張が高まるなか、アルジェリア政府はロシアからの兵器輸入を増やしたり、中国向けの天然ガス輸出を増やすなど、欧米諸国と距離を置く姿勢をみせるようになります。
これに拍車をかけたのが、先述の「アラブの春」でした。「アラブの春」の到来は、資源と「テロとの戦い」を理由に、ほぼ無条件に中東・北アフリカの権威主義体制を支持してきた欧米諸国に、軌道修正を求める効果をもちました。エジプトを30年間に渡って支配したムバラク大統領が、市民の抗議活動で失脚したことで、友好関係を築いてきたワシントンの(少なくとも自称するところでは)「民主主義の守護者」としてのイメージは地に落ちたばかりか、米国は中東における忠実な友好国を失うことにもなったのです。
ソーシャルネットワークの普及で市民の発言力が飛躍的に向上するなか、米国をはじめ欧米諸国は(その実態はさておき)これまで以上に人権保護と民主主義を尊重する姿勢を強調するようになっています。そのため、市民の抗議活動を取り締まるブーテフリカ政権は2010年以降、少なからず欧米諸国からの批判に晒されてきたのです。これに対して、ブーテフリカ政権は2011年のリビアにおける軍事介入に関して、NATOの軍用機がアルジェリア領空を通過することを拒絶するなど、両者の確執はより鮮明になっていきました。欧米諸国が産油国アルジェリアにとって大口の顧客であることには変わりないため、その関係が抜き差しならない緊張状態に陥ることはありませんでしたが、それでも現在において両者が、必ずしも友好的でないことは確かです。
大国との駆け引き
この文脈に照らせば、早期に武力突入する決定をすることは、ブーテフリカ政権にとって二重の意味があったといえるでしょう。一つには、米国の動きがありました。事件発生から間もない16日、米国政府のパネッタ報道官は「必要な措置をとる」と述べ、マリに派遣予定だった米国の特殊部隊が、命令から4時間以内に即応できる態勢を整えましたが、アルジェリア政府はこれを拒絶したと伝えられています。
2001年以降の米国は、「テロとの戦い」を錦旗として、他国に軍事介入する傾向があることは、言うまでもありません。もちろん、アフガニスタンやイラクが泥沼化したことから、かつてほど一方的に介入することは考えにくいとしても、人質のなかに米国人がいることから、米軍が軍事活動を起こす可能性は否定できない状況にあったのです。必ずしも友好的でないという背景のもと、ブーテフリカが米軍の行動に警戒感を抱いたであろうことは、想像に難くありません。また、米軍がアルジェリア情勢に関与すれば、「内政干渉を許した」として、反米的な国民からだけでなく、頼みの綱の軍からも批判を受けることになりかねず、ブーテフリカ政権にとっては早期に突入することでこれを回避するインセンティブが働いたと考えられます。
もう一つは、フランスに対する「貸し」です。人質事件の実行犯らは、今月12日に始まった、隣国マリのトゥアレグ民族解放戦線とイスラーム組織アンサル・ディーンに対するフランス軍の攻撃を停止することを要求しています。アンサル・ディーンはAQIMと繋がっているため、アルジェリア政府にとっても、フランス軍によるマリでの軍事行動には利益があります。その一方で、人質のなかにはフランス人もいますが、オランド大統領は攻撃を継続する姿勢を崩していません。しかし、事件が長期化すれば、フランス国内の世論がどのように変化するかは不透明です。いわばアルジェリア政府が短期決戦で事態の収拾を図ることは、マリでのフランス軍の軍事活動を支援するとともに、オランド大統領の政治的立場の悪化を回避するアシストになったといえるでしょう。
「テロとの戦い」を完遂するには
2013年1月19日現在、実行犯はいまだ人質の一部を盾に、石油施設の一角に立てこもっていると伝えられています。
民間人を人質にする行為が非難されるべきことは言うまでもなく、人質にされた方々の無事を願わずにはいられません。同時に、結果的に日本人を含む多くの人質の生命が失われた突入作戦には、いかに「テロリストと交渉しない」ことが政権の存立基盤であるとしても、あるいはその最終決定権がアルジェリア政府にあるとしても、疑問を呈さざるを得ません。
その一方で、海外に出て行く機会が増える一方で、イスラーム過激派の活動はより活発化しており、人質をとるという行為が容易になくなるとは思えないことから、今後ますます日本人が同様の事件に直面する可能性は否定できません。特に、アルジェリアとマリを含む、北アフリカから西アフリカ、さらにソマリアなど東アフリカにかけての一帯は、アル・カイダをはじめとする国際テロ組織の流入が顕著で、過激なイスラーム主義組織に吸収される貧困層にはこと欠かない地域です。この地域で雨後の筍のように出現するイスラーム主義組織の多くは、アルジェリアと同様に、当該国の政府に対する不満が、その培養層になっています。
軍事的な活動に制約のある日本としては、これらの地域の経済成長に協力し、貧困をなくすことが、長期的な「テロとの戦い」に勝利する道になるでしょう。しかし、それだけでなく、自らの権益に関わるために、当該国政府が気乗りしない、公正な分配や政府の透明性の向上に資する国際協力を実施することが、迂遠ではあっても、テロをなくすことに繋がります。経済・財政状況が厳しいなかで、そのような国際協力を惜しまないことは大変かもしれません。しかし、天然資源を確保するために当該国政府との関係のみを顧慮することより、海外で日本人が安心して活動できる環境を整備することの方が、真の国益であるとするならば、そのための投資は惜しむべきではありません。今回の凄惨な事件は、日本の開発途上国への関わり方を考える一助とすべきなのです。
六辻 彰二
国際政治学者
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