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「尖閣」から見える世界情勢    行政調査新聞
http://www.asyura2.com/12/warb10/msg/591.html
投稿者 愚民党 日時 2013 年 1 月 13 日 18:33:41: ogcGl0q1DMbpk
 

http://www.gyouseinews.com/index.php?option=com_content&view=article&id=227:2012-10-06-03-49-11&catid=40:2009-07-09-03-16-55&Itemid=62


2012年 10月 06日(土曜日)

《海外展望》

「尖閣」から見える世界情勢

――正論だけで安易に尖閣問題を捉える愚行を改めよ――

9月末の国連総会の場で日中両国が尖閣をめぐって激しい舌戦を繰りひろげたことはご存じの通り。日本のメディアは揃って中国の横暴ぶりを叩いているが、東アジアの領土問題の背後に米国の隠れた意図があることは多くの専門家、情報通が発信している。8月に出されたアーミテージ&ナイ・レポートからも、日中激突の仕掛け人は米国であり、尖閣・竹島が問題となったウラに米国中枢の意志が働いていることが透けて見える。

だが東アジアを騒乱状態に陥れているのは、米中の思惑だけではない。

「竹島は古くから日本の領土だった。石油資源埋蔵という情報が出た昭和43年(1968年)までは中国政府は尖閣を日本領としていた」といった証拠を突きつけ、「正論」で押し通せば片づくなどと落ち着いているのは、平和ボケした日本人だけの論理だ。領土問題に正論などまったく無意味である。

現在の世界情勢全体を見据え、根源と向き合う意識がいま日本に求められている。

欧州経済の苦境

全世界の金融、経済は今どん底にある。欧州経済はとくに悲惨な状況だ。そうした状況下でLIBOR(ライボー・London Inter-Bank Offered Rate)不正問題が浮上した。LIBORとはロンドン銀行間取引金利のことだが、ここに不正があり莫大な資金を作った金融グループがあることが判明した。すでに英バークレイズ銀行が不正を認め、巨額罰金(4億5100万ドル=約352億円)も支払い、和解している。しかしLIBOR不正とは1銀行だけで終わるものではない。

LIBOR不正問題の奥の院はスタンダード・チャータード銀行だともいわれるが、本当はさらにその奥、英国のシティそのものにある。英シティとは巨大な化け物で、世界最大のタックスヘイブン(租税回避地)でもある。世界の金融正常化のためには、英シティを大掃除する必要がある。

「タックスヘイブンがテロ組織の資金源になっている」…。米国はこう主張し、英国を責めている。しかし現実にはLIBOR不正には米銀も関与しており、どこまで拡大するか、まだ先が見えていない。米FRBはすでに2008年にこの不正を知りながら追及してこなかった。

LIBOR問題がリーマンショックのような問題になるとは考えにくい。今後の進展は不明だが、いずれにしても英シティが厳しく責め立てられることは間違いない。

中国にすり寄る英金融界

英国の産業といえば、シティに代表される金融業だけ――などというと猛反論を喰らうだろう。英国には軍事を中心とする機械産業があり、航空エンジンや自動車で名高いロールスロイス社がある(現在は航空部門と自動車の2社は独立している)。医薬品に関しても米国に次いで世界第二位の開発比率を誇っている。しかしやはり、シティに代表される金融業こそ英国の代表といえるだろう。

ユーロ危機、欧州金融不安の煽りを喰らい、さらにLIBOR不正問題で米国の追撃を受ける英金融界は、必然の流れとして助けを中国に求めている。これを逆に分析する者もいる。英国が中国と金融接近をしたから、米国が英国を叩き始めたという見方だ。案外こちらのほうが正解なのかもしれない。

いずれにしても弱体化した欧州経済を離れ、英国金融界は中国にすり寄っている。たとえば今年(2012年)7月に英国銀行大手のHSBCホールディングスがロンドンで人民元建て債権を発行すると発表している。表面利率は3%で発行額は20億元(250億円)。中国本土と香港以外で初めて発行される人民元債権である。

他にもスタンダード・チャータード銀行が中国農業銀行と提携したり、中国のアフリカでのビジネスに積極的協力を計ったりと、英中金融界の結びつきは強まっている。なにしろ英国のかなりの数の銀行が英国中央銀行に対し「中国中央銀行と通貨スワップ協定を結ぶべきだ」と提言しているほどだから、英中金融界の相思相愛ぶりは理解できるだろう。

ちなみにスタンダード・チャータード銀行の前身は「東インド会社」、HSBCホールディングスは「香港上海銀行」。ともに古くから東アジアに関与してきた企業体だ。

第四帝国を目指すドイツ

欧州最強の国家ドイツもまた中国にすり寄っている。ここでドイツの現状を簡単に眺めてみよう。

ドイツは苦境にあるギリシアを救う見返りとして、財政主権を差し出せと要求している。ギリシアは今後も国債を発行し続けるだろうが、代わりに観光地や島嶼を売却させられ、国家解体の危機に瀕することになるだろう。

9月28日、スペイン中央銀行は不良債権処理の資金が6兆円ほど不足し、ユーロ圏に援助を要請したことを明らかにした。しかし状況はそれほど深刻ではなく、財政主権を放棄することは考えていない。スペインはまだ頑張れるだろうが、ギリシアに次いで危険な国はポルトガルで、ギリシアの二の舞になる可能性が高い。

ユーロ圏の危機に歯止めがかからない。根本的解決は先送りされたままで、一人勝ちしているドイツだけが全欧州に号令を発するようになるだろう。それはドイツが「第四帝国」時代を迎えようとしていると表現できる。

ちなみに「第四帝国」とは、神聖ローマ帝国を第一帝国、帝政ドイツ(第一次世界大戦で壊滅)を第二帝国とし、ヒトラーのナチス・ドイツを第三帝国とするもの。こんにちドイツでは「第四帝国」という表現がされることはない。こうした名前そのものがナチスを連想させ、欧州のみならず世界中からバッシングを受けるからだ。

ところが最近メルケル首相は「市場主義経済こそが諸悪の根源」と、まるで国家社会主義者のような発言をしている。世の中には奇妙奇天烈な怪説、奇説があるが、そうした中に「メルケルはヒトラーの娘」というものがある。まさかこの怪説にあやかろうとしているわけではないだろうが、メルケルの発言がナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)の主張に近いことは事実だ。

9月末にはドイツの『リベルテ』紙が「ドイツのトラウマを克服せよ」との社説を掲載した。ナチス・ドイツのトラウマを克服して、ドイツは再度雄々しく立ち上がるべきだという主張で、政治、軍事力で達成できなかった欧州統一を経済力によって成し遂げ、アジア進出を目指せと檄を飛ばしている。

ドイツが目指すは中央アジア

第二次大戦でナチス・ドイツが敗北した1945年4月、ベルリンにチベット兵の死体が1000体以上も転がっていたという話がある。1000体にどれほど真実味があるかは不明だが、ナチス・ドイツとチベットの関係が深いことは事実だ。

ヒトラーに多大な影響を与えた地政学者ハウスホーファーはゲルマン民族を優等民族と捉え、その根源種アーリア人をチベットに求めた。同様にトルコ民族にゲルマンとの近親性を見出し、中央アジアに広がるトルコ系民族との融和を計った。こんにちドイツがチベットや新疆ウイグルに接近を計る根源に、なおハウスホーファーの説が生きていると感じられる。

よく知られる言葉としてハウスホーファーの「ユーラシアを制する者は世界を制する」というのがあるが、その前段ではこう述べられている。「中央アジアを制する者はユーラシアを制する」と。

多少余談になるが、1970年代の初め、米国が中国に接近して世界中を驚かせた(キッシンジャー訪中は1971年。ニクソン大統領訪中は1972年2月)。米ソ冷戦の真っ最中で、米ソ代理戦争がベトナムで戦わされていた時代だ。この1970年代にCIAを中心とする米国諜報機関が中国の了解の下、新疆ウイグルやチベットにモニタリング・システムと呼ばれる傍受装置を設置した。目的は通信傍受によりソ連軍の動向を察知することだった。この設備は東西冷戦収束後、米国の管理を外れドイツ諜報機関が利用している。アフガンの麻薬取引情報をドイツがいち早く入手しているのは、このシステムのためと考えられる。

ドイツが今なおハウスホーファーの地政学を実践しているか否かは不明だが、チベット、新疆ウイグルを中心に、トルコ系民族が支配する中央アジアに根を張ろうとしていることは間違いない。

中国に接近するドイツ

今年(2012年)8月30、31日にメルケル首相は北京を訪問し、独中間の本格的経済連携体制を高らかに宣言した。

米中間が冷え込み、米国企業が中国から撤退していく穴埋めをドイツが行い、米中間の対立に乗じて中国と手を結んだ欧州連合が米国勢を世界の檜舞台から引きずり降ろそうという勢いである。

今回メルケルは閣僚7人だけでなくドイツ産業界のトップ20人を同行させたが、そこには独中間の経済規模を一気に拡大させる意図があった。事実このとき、中国はエアバスA320を50機購入する契約を結んだが、これは35億ドル(約2700億円)の商談だった。これだけではない。独フォルクスワーゲン社等は中国に新たな投資展開を発表。そこには天津や新疆ウイグル地区での自動車工場設立計画も含まれている。ちなみにウルムチの工場は2015年操業を目指し、その投資規模は2億2000万ドル(約170億円)。またドイツのIETホールディングスは中国の通信機器メーカー中興通訊(ZTE)と光ファイバー事業で13億ドル(約1000億円)の契約を交わしている。

メルケルによるとドイツ企業はすでに5000社が中国に進出し、中国人22万人を雇用しているという。

ドイツは確実に中国に勢力を拡大させている。そして双方は互いを称賛している。尖閣問題に関してもドイツでは日本に非があるとする主張がまかり通っているのだ。

中国政府系の『環球時報』はネットユーザーのアンケート結果として「ドイツは日米よりずっと頼りになる国」とする中国人の感想をまとめているが、これが中国政府の本音でもある。

米中対立のポイントは南シナ海

米中対立の構図は長期化し、消耗戦となりつつある。しかしこの対立は米ソ東西冷戦と違い、雰囲気としては「笑顔で握手しながら両足で蹴飛ばし合いをしている」状況に見える。

この米中「足の蹴飛ばし合い」が厳しい状況にあるのが南シナ海海域である。

中国としてはこの海域を、米国における「カリブ海」のように、「自分の海域」に仕立てたい。米国としては断固としてそれを拒否したいのだ。南シナ海では中国に対し、ベトナム、インドネシア、フィリピン、カンボジア等が入り乱れて領海主張を行っている。その状況は一見すると混乱混迷のように見えるが、周辺海域の真の実力者たちはすべて華僑勢力であり、中国が優位に立っているのだ。

中国の優位性に問題があるとすれば、それは海軍力である。

日清戦争以前から中国の海軍力は劣っていた。そもそも中国は大陸国家であり、敵を内陸の奥深くまで誘いこんで叩くのが基本戦略。良港に恵まれなかったこともあり、中国の海軍力は世界的に見て低レベルなのだ。

さる9月25日に中国初の航空母艦・遼寧が就役したが、これは旧ソ連が建造中だったものを譲り受けた旧式艦で、艦載機の離発着訓練すら行われていない。

それでも中国はアジア圏初の空母を手に入れたことになる。南シナ海のパワーバランスは大きく変わってくる。

米国は中国海軍力の増長を懸念し、戦線を拡大することによって基礎体力に劣る中国海軍の摩耗を計りたい。そこに恰好の存在がある。東シナ海上の尖閣諸島だ。また在沖米軍の存在意義、価値を高らかに謳いあげたい。強いては尖閣防禦のためにオスプレイ配備を了解させ、ゆくゆくはこれを日本の自衛隊に売りつけたい。

米国にはさらなる野望がある。

近い将来、米中軍事衝突が起きたときに、中国軍と正面から向き合う最前線に日本の自衛隊を立たせたいのだ。そのために必要なことは、日本の陸海空三軍の実権を米国が完全掌握したうえで日本の憲法改正を行い、防衛力を保持できるようにすることである。米国はその布石をずっと打ってきた。自衛隊陸海空三軍は、すでに米軍の統制下にあり、米軍のマニュアルで動くようになっている。

いっぽう拡大する中国としては、第一に、中東を凌ぐ石油埋蔵量が噂されている尖閣諸島をなんとしても手に入れたい。しかしそれ以上にこんにちの中国共産党が抱える悩みがある。内部対立がある。中国国民の目を日本に向けさせる必要がある。そのために尖閣を問題にする必要があった。

尖閣をめぐる中国の「反日デモ」の実態

今回、中国各地で起きた尖閣をめぐる反日デモは、明らかに3つのグループに分けられた。一部では3つのグループの混在が見られたが、多くの地域でのデモは、それぞれ別個に起きた3グループの反日デモだった。

その3つとは、

@ 若者中心の熱心な愛国、反日デモ
A 毛沢東主席の肖像画を掲げたり、現体制の汚職を追及するデモ
B 貧困階級の人々が起こした略奪略取暴動

最初にあげた@は、基本的には中共政府主導によるデモで、参加者は学生を中心とした若い層。共産党主張の作られた歴史を真実だと鵜呑みしている人々だ。

毛沢東の肖像を掲げたり、改革開放路線に対して修正を求めたりしているグループも、かなりの数に上っていた。一見「反政府デモに直結する現体制批判派」のようにも見えるが、じつはそうではない。もしそうであれば、政府は一気に弾圧したはずだ。これについては後に改めて分析したい。

略取略奪は、ひと言でいえば単なる窃盗グループだ。しかしこの中にも意図的な強奪グループ、意識的な日本企業破壊グループが入っていた。

デモが過激化すると、略奪が起きるのは世界のあちこちで見られる。米国や中国では、こうした略奪はいつ起きてもおかしくない。同じように極貧層を抱える国々でも略奪がここまで私利私欲に走る例は、国民大衆のモラルが著しく低い場合だ。たとえばスペインで略奪騒動が起きたとき、フランスのカルフールというスーパーが略奪対象となったが、略奪犯たちは奪い取った商品を山分けし、貧しい人々に配っていた。中国では奪った物はすべて力づくで「自分のもの」にするという、浅ましい犯罪行為だけだった。

青島の日本企業攻撃

日本企業が攻撃目標となった反日デモで、被害が大きかったのは青島市のパナソニック工場とスーパー、イオン(ジャスコ)だった。じつはここに重要な問題があった。

山東半島に位置する青島市はかつて寂れた寒村で、清王朝末期のころにやっと小さな港町になった程度のものだった。

日清戦争で日本が勝利し、当初日本は台湾と遼東半島を割譲された。しかし三国干渉(独仏露の干渉)により、日本は遼東半島を清に返してしまう。ドイツは遼東半島を取り戻したお礼として清から青島を99年間租借することになった。英国の香港、ポルトガルのマカオと同様にドイツも中国に足場を築いたわけだ。ドイツは青島をドイツ東洋艦隊の本拠地として港湾を整備。道路、下水道、美しい街並みなどを築きあげた。

ところが第一次世界大戦でドイツと戦うことになった日本は、ドイツ東洋艦隊を攻撃。青島を占領してこれを中国(中華民国)に返還する。香港やマカオが約束通り99年間租借されたのに反し、青島だけはドイツに戻されることがなかった。ここで日本はドイツの恨みを買ったのだ。

時代は下がり昭和53年(1978年)、ケ小平が日本にやってきた。このときケ小平は「改革開放経済」と「日中友好」のシンボルとして、中国に工場を建設してほしいと松下幸之助に提案。こうしてケ小平、松下幸之助の肝入りで松下電器青島工場が建設された。これが今回、破壊、略奪のターゲットとされたパナソニック青島工場である。

日本や米国の製造技術は不要。今後はドイツの製造技術と手を握る――前述のようにこれが中国政府の方針であり、その象徴としてパナソニック青島工場が狙われたのだ。

改革開放経済こそが格差社会を生む根源だと捉える人々がいる。彼らにとってケ小平こそが敵の象徴であり、目指すは毛沢東である。パナソニック青島工場襲撃は、改革開放経済を否定する者たちと、日米を捨てドイツと手を握ろうとする人々にとって、格好の攻撃目標となったのだ。毛沢東の肖像を掲げるデモ隊と、略取を行うデモ隊が見事に合体していた背後に、中国政府の意図があったことは間違いない。

中国中枢の権力闘争

尖閣反日デモの嵐が一段落した9月28日、中共の政治局は「11月8日から中国共産党第18回全国代表大会を開催する」と発表した。

5年ぶりの全国代表大会が今秋開かれることは決定されていた。通常に考えれば9月末あるいは10月初旬に開かれるものだが、11月までずれ込んだことは異例中の異例。日程発表が9月末というのも前代未聞の話である。

今回の代表大会で習近平が国家主席になることは、すでに昨年のうちから決まっていた。常務委員が現在の9人から7人になることも、公表はされていないが党人事のほとんども決定済みだった。

それなのになぜ代表大会のスケジュールがなかなか発表されなかったのか。
しかも次期国家主席の習近平が9月1日から2週間も姿を消していた。いったい中国の深奥で何が起きているのか。

習近平の消息に関しては世界中の情報通が必死に調査し、怪異情報が乱れ飛んだ。その中には米CIAによる暗殺未遂説、胡錦濤派による軟禁説、心臓病説等々、小説を越える面白い話も流されていた。

本紙が掴んだ信頼性の高い情報では、習近平の背中に大きな傷があることは事実のようだ。ただしこれが事件によるものか事故なのかは不明。中共指導部が習近平情報を2週間も流さなかったことから推測して、権力闘争が実力行使段階にまで到達したと推測できる。

だが、7人の常務委員とその役職はすでに決定しているはずだ。代表大会直前に、なお揉める要素があるのだろうか。じつは、間違いなく揉め事になりそうな問題が1つ存在している。未決定の「共産党中央軍事委員会主席」のポストだ。

現在の中央軍事委主席は国家主席でもある胡錦濤。軍事委副主席には習近平と2人の軍人が就いている。かつてケ小平も江沢民も中央軍事委主席の座に君臨したからこそ、中国を掌握できた。胡錦濤も先輩を見習って、国家主席のポストは習近平に禅譲し、軍事委主席として実力を行使したいのだ。だが太子党勢力で党を掌握したい習近平は団派(共産党青年団)の胡錦濤の居残りを何としても排除するつもりだった。その折り合いがつかずに、中央軍事委主席の座だけが未定のままこんにちに至っている。

尖閣諸島問題が国家の安全保障問題に発展するレベルであったら、中央軍事委主席を替えることはあり得ない。どの国でも当然のことだが、紛争勃発直前状態で軍のトップの首のすげ替えは、しない。
領土問題が揉めている最中に中央軍事委主席のポストが新たな人物に替わる可能性は低い。「尖閣反日デモ」がその演出だった可能性はじゅうぶん考えられる。

胡錦濤10年を振り返って

胡錦濤が江沢民に代わって国家主席に就いてから10年、江沢民を中央軍事委主席の座から追い落として8年が過ぎた。この間、胡錦濤は中国をどんな方向に導いたか。

「反日」を掲げて中国をまとめ、極端な「親米」政策を採ってきた「江沢民の10年」と比べ、胡錦濤は日本に近づき、親米一辺倒からの脱却を計ってきた。その成果は徐々に出てきていたが、国民大衆に明確にわかるものではなかった。

国民が望んだ政策の柱に、貧富の格差を是正しようとする「和諧社会」と「道徳規範(社会主義栄辱観=8つの名言8つの恥)」があった。ところがこれは完全な失敗に終わった。失敗することはないと思われていた「保8」政策すらも放棄せざるを得ない状況に追い込まれてしまった。

「保8」とは経済成長率8%を維持するという方針で、8%成長率は若手雇用を保証する数字でもあった。江沢民終盤期から粉飾があったとしても、いちおう8%成長を続けてきたが、ついに今年(2012年)3月に開かれた全人代で「目標を7.5%に置く」と下方修正されたのだ。

中国経済はこのところ一気に急ブレーキをかけたかのように下り坂になっている。すでに数年前から若手雇用が落ち込み、失業率が増加している。政府の発表では2000年の失業率は3.10%で、これが年々増加して2011年は4.0%になってしまった。この数字はあくまで中国政府の公表数字であり、実際はこの2〜2.5倍といわれるが、大学新卒の失業率は10%をはるかに越えているとの声も聞かれる。

細部は一つ一つお調べいただきたいが、胡錦濤が掲げた政策はどれも頓挫してしまった。格差社会は拡大し、自己中心的な大衆は道徳規範など捨て去り、政府に対する不満が充満している。このままでは「失政の胡錦濤」という名が残るだけだ。そんなところに格好のネタが転がり込んだ。太子党の一翼でもあった薄煕来のスキャンダルである。

軍の把握に自信を深めた胡錦濤

巨額の収賄、職権乱用、妻が殺人等々の罪状で逮捕され執行猶予付きの死刑が決まり、中央政治局委員の職権停止処分となった薄煕来との権力闘争に勝利したことにより、胡錦濤は自信を取り戻したようだ。

中国の政権内部では、目を覆うほどの汚職収賄が蔓延していることは周知の事実。部下の王立軍が米国領事館に逃げ込むなどがなかったら、薄煕来はなお中央政治局員の座に就いたままだったかもしれない。薄煕来の収賄、職権乱用発覚は、権力闘争に敗れた結果だったといえる。

薄煕来が強い権力を握り続けてきた理由の一つに成都軍区の掌握がある。

中国には現在7つの軍区がある。規模は小さいが精鋭部隊が集まる首都防衛の北京軍区を筆頭に、瀋陽、済南、南京、広州、成都、蘭州といった軍区だ。こうしたなか実力軍区として一、二を争うのが、東北部(旧満洲)の瀋陽軍区、そして四川、雲南、貴州、チベットという中国大陸の四分の一を掌握する成都軍区である。

成都軍区はもともと、薄一波(副首相=山西省)の私兵といわれる山西省の軍人たちが中心となって作り上げた軍区で、息子の薄煕来がそれを継承した。薄煕来に収賄等の容疑がかけられ身柄拘束という事態に陥ったとき、成都軍区がクーデターを起こすのではないかとの説が世界を駆け巡った。中国内部でも、成都軍区による武装蜂起は当然と考える人々もいたほどで、じつは当時、軍同士の激突が起きたとの未確認情報も流されたことがあった。

薄煕来身柄拘束の直前、胡錦濤は中央軍事委副主席の軍人を成都軍区に派遣していた。おそらくそこで厳しい締め付けがあったのだろう、薄煕来が捕まっても成都軍区はまったく動かなかったのだ。

胡錦濤は軍を掌握できたことに自信を深めたに違いない。

それが秋の全国代表大会で中央軍事委主席のポストを手に入れる自信につながった。仕上げに尖閣を問題化する必要があった。

薄煕来の思想を反映したかのような毛沢東肖像画を掲げた反日デモは、薄煕来人気を利用して尖閣問題騒動を広げた体制側の官制デモと見做して間違いないだろう。

中国の誤算――身じろがない日本

英独を味方につけ、圧倒的軍事力と日中貿易を人質にとり、短期間で完勝すると読んでいた中国政府は、それが誤算だったと気づいた。中国だけではない。世界中が、日本の意識がこれほどまでに強固なものだとは思っていなかったのだ。

日本人の意識を変革させた事件が、ちょっと前に起きていた。李明博の竹島上陸と天皇陛下に対する非常識発言である。

8月10日に李明博が竹島に上陸したとき、日本人の多くは不愉快に感じたが、じつはそれほどの怒りはなかった。竹島はずっと韓国に実効支配されているし、いまさら李明博が上陸しても単なるパフォーマンスとしか思わなかったからだ。ところが李明博は14日に天皇陛下に対して信じられない暴言を吐いた。この暴言は後に何度か修正、訂正されたが、映像が残っているのだから言葉の修正をしても意味はない。いずれにしても、この発言を受けて日本全体にスイッチが入ってしまった。

世界中の人々は理解していないが、日本人の多くが心の中でわかっていることがある。日本人はおそらく、世界でも類例のない「狂気」の持ち主だということだ。あの311大震災のお陰で日本人が隠し続けていた心の奥の炎が点火待ち受け状態になってしまったのかもしれない。

尖閣に中国漁船団が向かう。上陸を狙っている――こうした情報が流れたとき、中国のメディアだけではなく、韓国、台湾あるいは東南アジア各国のメディアに掲載された「見通し」は、だいたい以下のようなものだった。

「中国の漁船や、海軍艦艇など公船が尖閣をとり囲めば、日本はすぐに白旗を掲げ、中国が周辺海域を実効支配するようになる」。

その理由として、「2010年の尖閣での衝突で、初めは強気だった菅直人政権が、中国に少し脅されると直ちに腰砕けになった経緯がある」としている。「日本にはもう、昔日の力はない。押せば、日本は後退する」という観測が東アジア全体の雰囲気だった。
もちろん中国も、そう読んでいたようだ。

ところが311大震災を乗り越えた日本は、以前とは少し違っていた。そこに李明博の天皇陛下に対する暴言事件が起きた。これで日本人全員にスイッチが入ったようだ。

誰一人として、1ミリたりとも退こうなど考えない。

中国人旅行者が来なくなって赤字になろうとも、日中貿易が途絶えて苦しくなろうとも、尖閣を渡そうなどという声はどこからも、微塵も聞こえてこない。
当然の話なのだ。

李明博の天皇陛下侮辱発言と中国による尖閣攻撃は、日本人を覚醒させた最大の功労者として、将来の日本人が感謝する事件となるかもしれない。

領土問題に正論などない

米国のキャンベル国務次官補が「尖閣は日米安保の明確な適用対象」と語った(9月20日)ことが日本で大きく報道され、安心したり、胸を張る政治家もいる。しかし中程度の事情通なら、そもそも尖閣の領土問題の火つけ人が米国であることを知っているし、何より今回の騒動そのものも、元は石原都知事が米国で発言した「尖閣購入」に端を発している。都知事が米国の意の下で発言したことは、確証はないが常識的に考えて明確な話だ。

また、案外知られていないことだが、尖閣諸島のうちの久場島、大正島の2島(所有者は魚釣島所有者・栗原氏の実妹)は米海軍の射撃訓練場であり、いまも米軍が借用料を支払っている(実際は日本政府負担)島である。射撃訓練は昭和54年以降行われていないが、いつでも射撃可能な状態になっており、中国政府もそれを知っているはずだ。米軍射撃場に中国人が上陸するなど、あり得る話ではない。

だからといって、尖閣を米軍に守ってもらおうなど言語道断の話である。自国の領土を自分で守れずに、それで国家などといえるわけがない。

そもそも領土問題に正論も正義もない。パレスチナを持ち出せば、正論が意味ないことがよくわかるだろう。あるいは第二次大戦後にドイツ人300万人が土地を追われたズデーデンの悲劇を思い起こせばいいのかもしれない。

領土問題を片づけるのは、力だけである。力といっても物理的な軍事力だけを指すのではない。経済力もあるし、すべてを駆使する外交能力もある。文化の力も、歴史の後押しも、叡智を結集した知力もすべて力である。

スイッチが入った日本人には、この危機を乗り越える叡智があるはずだ。■


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コメント
 
01. 2013年1月13日 18:57:18 : mSU5GfzzcG
工作員赤かぶくんの垂れ流す
朝鮮日報日本支社サンケイの記事より
100倍役に立ちますなw

02. 2013年1月14日 14:57:31 : xXIEQekO2c
昨年11月にJ15遼寧艦上において新型艦載機J15離着艦訓練公開されているのに、
2012年 10月 06日(土曜日)  
の記事が今頃投稿されるお花畑ぶり(爆笑)
いやー「釣り堀」戦争版
本日も大盛況だわwwww

03. 2013年1月14日 19:47:45 : NSzep7bcJc
尖閣を中国に力ずくで取らせてみたら。
どうなるか。
どうしてもとるというならば。
後は何も言わない。
バカなマスのアホどもは、事実だけを、報道すればいい。

04. 2013年1月30日 10:04:07 : xEBOc6ttRg
JBpress>海外>ロシア [ロシア]
中国を見下すようになった歴史と理由
ロシアと中国(3)〜「中国=後進国」観の誕生
2013年01月30日(Wed) W.C.
前回の記事はこちら

 ロシアと清の関係は、1700年代から1800年代の前半までは平穏無事だったから今回は暫時一服。しかし、そんな平和をよそに、ヨーロッパの経済や政治思想は大きく変貌していく。そして、それは今に続く世界の「先進国」と「後進国」の差別意識の誕生でもあった。

中国観が好意から侮蔑へと一転

 長らくアジアから見れば僻地で後進地域だったヨーロッパに、軍事・科学・産業での革命が起こった。この過程でヨーロッパ内の(ではなく、ヨーロッパに偶々隣接した、と言う人もいるかもしれない)後発組・ロシアは落ちこぼれになりかけ、かたや中国と見れば、それ以前の好意的だったヨーロッパの観方が侮蔑に一転していく。

 ヨーロッパが変わる前の1600年代には、宣教師を主な執筆者とするまともで、好意的とも受け取れる中国の政治体制の解説やその歴史書が、フランスなどで世に出ていた。

 宣教師は今で言えば海外駐在員、ならばその赴任地がいかに素晴らしく見込みのある地域かを本山(ほんざん)=本社に喧伝するのが人情というもの。

 まあ、そうした面も否定はできまいが、概して彼らの書いたものは真面目で公平な分析だったようだ。その真面目さが少々行き過ぎたか、歴史家たちが余計なことまでしでかしてくれる。

 中国を研究すればするほどその起源が昔に遡って、それが紀元前3000年にまで達した。そうなると、当時の聖書史観の解釈に従ったノアの洪水よりも昔になってしまう。

 ノア一族以外が全部洪水で一度は滅んだはずが、実は中国人だけは別だった、ではどうにも恰好がつかない。ヨーロッパは慌てて洪水の起こった時期を紀元前3000年よりも昔へと修正する羽目に陥った(G・ヘーゲルによれば、紀元前2400年から紀元前3473年へ)。

 ついでながら、これは旧教・新教の話であって、それより500年も昔の1100年代に正教に従って書かれたロシアの『原初年代記』(ロシア版「古事記」)では、洪水をすでにキリスト生誕前3212年としている。正教は辛うじてセーフだった。

 しかし、1700年代初めに清で典礼問題(キリスト教の立場として、儒教の孔子や祖先の祭祀を認めるか否か)が発生すると、清=中国を見る客観的な視線が後退して、ヨーロッパからの風当たりが変わり始める。

 清の外国人への要求は、中国内で活動するなら中国の流儀と宗教に従え、である。今なら国家主権の陰でそれほど過激な話にも聞こえないが、不幸にして宗教が絡んだものだから話が拗れてしまう。

 宣教師は反発するし、その雰囲気の中で清に赴く旅行者たちも、清の否定的な側面をさまざまな表現で広めだしていく。

 「こうした旅行者は宣教師とは違って、中国語を解さないうえに清の内陸部には行けず、その報告らしきもしょせんは他人からの又聞きであり、観察者としては宣教師に比べてかなり劣る」とある日本の研究者は述べている。

 宣教師が皇帝以下の中国の上流知識階級を見ていたとすれば、旅行者が目にするのはその社会の大衆(それもごく一部)でしかない。

 その通りだろう。だが、「1週間その国に行った者は、その国のすべてが分かったように話したがる」とは、昔も今も変わらない。その声が大きくなれば、聞かされる方もその影響からはなかなか逃れられなくなる。

中国を強く批判したモンテスキュー

 情報の質には疑問符が付いても、その量が増えていけば対象への想像や憧憬は消えゆく運命にある。そして、清の否定的な面が、啓蒙思想家それぞれの主張に利用されていった。


モンテスキュー(1689〜1755年、ウィキペディアより)
 1748年に『法の精神』を著したモンテスキューは、その中で専制国家・中国を非民主的性格の例として強く批判した。

 広大で大陸性気候のアジアが専制の根付く条件を取り揃えている、といった決定論にも及び、さらに中国人は、その生活が礼により律されているにもかかわらず、地上で最も狡猾な人民だ、とまでこき下ろす。

 1700年代のフランスの専制政治と経済を見れば、およそ人のことなど言えた義理ではなかったはずだ。

 その無茶苦茶への怒りが1789年の革命で爆発するのだが、むしろフランス国民がなぜそれまでの100年近くも我慢し続けたのか、の方がよほど不思議だ。ひょっとしたら中国人より忍耐強いのかもしれない。

 だからモンテスキューも、フランスの王政への批判を中国批判に託したために否定的に書いたのだろう、という推測もある。

 同じようにフランス王政を批判しても、ヴォルテールはモンテスキューとは逆に、清の雍正帝の下で理想的な専制国家が実現されている(それに引き換え、フランスときたら・・・)、という形で表現した。

 彼が述べる「ヨーロッパ人は、自国の風習に従って中国の風習を判断するから誤解が生じる」という下りは、何が彼の意図であったかはさておいて、現代でも他国を見る際にはそのまま通用する台詞である。

 それでも、始まってしまった批判は、次の帝国主義時代に向けて走りだしたヨーロッパの意気軒昂の中でもう止まらない。

 1800年代に入るとドイツのG・ヘーゲルはその歴史学の講義で「平等はあっても自由のない中国・・・・では精神に属するすべてのものが欠けている」と言い放ち、英国のJ・S・ミルは、中国は「数千年も停滞した国」とコケにする。

中国経済の後進性を指摘したアダム・スミス


アダム・スミス(1723〜1790年、ウィキペディアより)
 清への否定的な見方は政治思想の分野だけではない。フランス革命直前の1776年に『国富論』(『諸国民の富』)を著した英国のA・スミスにも、清の人々の貧しさにスポットライトを当てた形で、経済の観点からそれが受け継がれていく。

 富裕であっても停滞している国の賃金は高くはならないとして、スミスは中国を引き合いに出す。

 彼の理解での中国とは、「長い間成長が止まり、500年前のマルコ・ポーロ訪問の時と状況が変わらず」「一家を養うことが難しいほど労賃が安く、貧困階級の酷さはヨーロッパ最貧国の水準をさらに下回り」「広東では陸地に住めない人が水上生活を余儀なくされ」「多くの嬰児が遺棄される」という、貧困のみが目立つ国になってしまっていた。

 もっともスミスは、中国は労働の原資(労働力)が減っていないからまだマシで、これすら減少しているベンガル・東インドはもっとひどい状態だ、とも述べている。中国よりまだ下があったことになる。

 英国の東インド会社が始めたこのベンガル経営への批判がもともとスミスの『国富論』執筆の動機だったから、そう書くのは当然ではあった。自由主義経済論者の嚆矢としてだけではなく、彼は意図せずとも現在の途上国経済論の始祖でもあったのかもしれない。


トーマス・マルサス(1766〜1834年、ウィキペディアより)
 スミスに続いて1700年代末のマルサスの『人口論』は、もし中国の人口が増加しているとするなら、それは飢餓と捨て子の慣習で抑制されていくはずだ、と述べる。

 そして中国の下層階級は、「ヨーロッパの労働者が死んでも食べたくないと思うような腐った肉でも平気で食べる」とまで彼は書く。いやはや、そこまで言うか、である。

 啓蒙思想が描く理性的な近代民主主義国家、スミスに始まる自由主義市場経済、それに軍事力(技術とも読み替えられる)が、時代が下るにつれて先進国の3点セットとして融合されていく。

 そして、これに依拠するヨーロッパの思想は、それらを備える国とそうではない国との差を明確にしていき、中国を筆頭とする非ヨーロッパ世界をその最下等に置くに到った。20世紀の初めに書かれたM・ウェーバーの著作は、こうした見方を様々な社会分析から補強している。

 中国についての彼の『儒教と道教』(1916年)によれば、中国の近代資本主義化を阻害したのは、「現世の諸条件への適応を求める儒教に基づく人々の行動」、ということになる。ここからは近代資本主義に不可欠な、「倫理的資質」(現世で生活はするが、現世を糧としては暮らさない)と労働者の「勤労意欲」のいずれもが生まれてくることはなかった。

 そして、「君子の典雅な身振りでは面子だけが重んじられ、その裏腹で他人に対する不信が醸成される。この不信が合理的・方法的な営業観念や信用取引行為を妨げ、自覚した市民層も全く存在しなかったためにヨーロッパで見るような資本主義の勃興は生じなかった」と結論付けている。

世界のGDPの3分の1を占めていた中国だが・・・

 何ともヨーロッパの言いたい放題が続く。そして後世の経済学者もそれを裏付けるような数値を割り出した。すでに本稿の1回目に登場しているA・マディソンである。

 彼の推計値に従えば、1820年での中国=清の国内総生産(GDP)は2286億ドルになり、その年の世界全体のGDPの33%を占めていた。この数値は、今でも世界の50番目くらいには入る規模である。

 歴史を遡ると、唐の頃の中国のGDPは167億ドル程度がマディソンの見立て。今日では世界の100番以内にも入れない。こんな数値を目にすると、あの音に聞こえた大唐帝国も何やら貧相に見えてくる・・・。

 唐はともかく、1820年の西ヨーロッパ全体の推定GDPは1637億ドルだったから、この年の数値で比べてみれば、清一国の経済規模は西ヨーロッパ全体を上回っていたことになる。当時の清は、その規模で押しも押されもせぬ世界の経済超大国だった。

 さらに比較すれば、1820年の米国のGDPは120億〜130億ドルほどで中国の20分の1以下の経済規模だから、まだ幕下以下の存在。興隆する大英帝国本土のGDPでも350億〜400億ドル、江戸の人口が100万人を超えて世界最大の都市になっていた文化・文政時代の日本では、そのGDPは207億ドルに過ぎなかった。

 マディソンのこうした数値は、現在の中国の論者に好んで使われている。今の中国経済の破竹の勢いは何も奇跡でも不思議でもない、ただ単に本来のあるべき姿に戻っているだけの話だ、と。だから華夷が今もあって当然、とまでニュアンスが拡大してしまうから、周りは難渋する。

 これだけで話が終わるなら中国人は満足だろう。だが、マディソンの数値は別の要素も語っている。

 彼の推計では、1300〜1800年の500年間にわたって中国の1人当たりのGDPは600ドルで変化していない、と仮定されている。つまり、長期停滞というアダム・スミスの視点そのもので、この間は資本や生産効率の寄与など全くありませんでした、と言うに等しい。

 その結果、1300年に1人当たりのGDPで中国を追い抜いた西ヨーロッパは、1800年でその数値が中国の2倍(1232ドル)に達する。これに比べれば、1820年で中国が世界最大の経済大国であったにせよ、それは頭数の多さでそうなった、つまり質ではなく量で、と結論付けられていることになる。

 1700年から1820年の120年間で清の人口増加は激しかった。1.38億人から3.81億人へとほぼ3倍に増加した、と推計されている。そうであれば、生産が追い付かないから主食の米の価格は上がってしまい、国内の社会不安は拡大する。

 そして、そのために発生した貧困問題が、さまざまな旅行者の見聞としてスミスやマルサスの耳にも入ってきたのだろう。中国のマルサスと言われる洪亮吉が、奇しくも本家マルサスと同じ頃の1700年代の末に人口の増大と諸物資の不足への危機感を述べていたが、時すでに遅し、であった。

中国の弱点を明確に認識していたケ小平

 現在の中国の一人っ子政策は、ケ小平の改革開放路線と同時に1979年に始められている。恐らく彼は中国の貧困の根源的な理由を理解していた。無制限に人口を増やしてはならない――経済の開放と同時に屈辱の歴史から脱するためには、清の轍を踏んではならない、と彼は考えたに違いない。

 1700年代のその後の産業革命は、世界の商品の流れを激変させた。1750年の世界の生産高で清を含む第三世界は73%(清のみで33%)を占めていたが、150年後の1900年にはわずか11%(清は6%)に縮小し、ヨーロッパは逆に23%から62%へとそのシェアを大きく拡大している。

 なぜヨーロッパで産業革命が起こったのか。川勝平太氏の説に従えば、それは高品質の木綿製品を生産するインドを相手として、後進国・英国が保護貿易(!)の下で放った起死回生の一打だった。

 個人の製造・生産技量ではとても英国は先進国・インドに敵わない。ならば、それを諦めて、誰にでも大量かつ安価に生産できる形(機械の考案・生産とその操作の習得)を生み出すことだけが生き残る道だった。文化の後進地域たるヨーロッパが、文明でアジアに追い付き追い越すために必死になった結果が産業革命、ということになる。

 さて、ヨーロッパの中国への見方が180度変わる中で、ロシアの対中観はどうであったのだろうか。

 1600年代の末からピョートル大帝が始めたロシアの欧化政策は、ロシア社会に大きな変化を生み始めていた。髯は剃れ、衣類もヨーロッパ風に改めよ、そして、街の風貌も名前もヨーロッパ化された新たな都市のサンクトペテルブルクが建設され、そこへモスクワから首都が移される。


エカテリーナ2世 (1729〜1796年、ウィキペディアより)
 後進国・ロシアを何とかヨーロッパの一流国の仲間入りへ、である。このロシア版文明開化で、軍事も文化も欧化一辺倒になった。

 なかでもあらゆる点で手本となったフランスから、最初は中国風文化(工芸品、調度品、建築)の流行が、次にはヨーロッパの清に対する見方の変化もロシアの宮廷に流入してくる。

 フランスの啓蒙思想家との文通でも知られるエカテリーナ2世(在位1762〜1796年)は、その強大な権限を振るい捲くる以前からモンテスキューの著作も熟読していた。

 中国への批判点を取り込んだ彼女はこう述べたという――「トルコ人をヨーロッパから追い出し、中国の傲慢な態度を変えさせ、インドと貿易を始める――これらが成し遂げられない間は自分は死ねない」

 のちの時代までには、英仏の中国観やその分析がロシアへもかなり移植された。その中で、ヨーロッパの一員としてのロシア、という立場からの中国観が為政者の中に形成される。ロシアの目指すべき目標であるヨーロッパに対置される遅れた東洋社会、という見方である。

ロシア人の鋭い観察眼

 だが自分も後進国だったロシアは、ヨーロッパへの憧憬一辺倒にはなり切れないという側面も持ち合わせていた。西側に後進国と見下げられていることへの反発である。

 中国に送られた使節団が、現場を見た立場からの客観的な報告を作成し、清の良い面も公平に取り上げると(ロシア人の他人を見る観察眼は、昔からかなり鋭い)、これが反西欧の感情にも助けられて、親中国の風潮すら生み出した。

 国民的詩人のプーシキンはこの親中熱に浮かされ、清への使節団に何とか自分も加えてほしいと嘆願書まで出している。19世紀後半でも、L・トルストイは中国への憧れを抱いて中国語の学習を意図していた。

 だが、こうした一部の中国シンパの思いも、他の列強諸国の清への攻勢を見ているうちにどこかに消え去り、ヨーロッパに遅れるな、とばかりにロシアも走りだす。アジア人種への恐怖感が残っていたとしても、みんなで渡れば、である。

 ヨーロッパ国家としての東への対峙姿勢にスラブ国家拡張への夢とが重なって、対中攻勢の流れに吸い込まれていく。その中で、ヨーロッパ諸国が持つことのなかった、モンゴルの支配以来のアジアへの理解や感覚をロシアは失ってしまった。

 そして、20世紀の共産主義信奉の時代に、その理解度はヨーロッパのそれすら下回る水準へと落ちていく。

(つづく)

これまでの連載:
第1回「アジアへの恐怖がもたらしたロシアの膨張政策」
第2回「日本の鎖国を支えた中国の対ロシア政策」


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