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(回答先: ゴラン高原PKO撤収開始/自衛隊17年の活動に幕(中日新聞) 投稿者 戦争とはこういう物 日時 2013 年 1 月 01 日 19:07:40)
読売にゴラン高原の解説があった。戦争遺構を否定するかのような部分は気になったが、概ね実態を伝えていそうなので貼ることにする。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜(引用ここから)
http://www.yomiuri.co.jp/job/biz/qaworld/20121226-
OYT8T00627.htm
自衛隊が撤収するゴラン高原とは、どんなところ?
敵対関係にあるシリアとイスラエルの最前線。
*PKOの自衛隊員に業務終結命令
*国連PKOを象徴するブルーの帽子を着用し、物資輸送用車両の点検作業に当たる自衛隊員(4月23日、ゴラン高原のジウアニ宿営地で)=貞広貴志撮影
森本防衛相が今月21日、ゴラン高原で17年間にわたって国連平和維持活動(PKO)を続けてきた自衛隊員に、業務終結命令を出した。
シリアのアサド政権に忠実な軍・秘密警察と、反政府勢力との戦闘が激化し、その影響が活動地域にも及び始めたからだという。
・占領と併合と戦争
中東のフォッサマグナ(大地溝帯)の北端に位置する海抜下の湖で、イエスの使徒ペテロが漁師をしていたという現イスラエルのガリラヤ湖。その北東に広がるゴラン高原は、もともとシリア領だったが、イスラエルが1967年の第3次中東戦争で占領し、81年には、イスラエル領への「併合」を宣言した。水資源が豊富で、尾根部分からはシリアの首都ダマスカスが見下ろせる戦略的要衝だからである。
占領と併合の間には、第4次中東戦争(73年)が起き、シリア軍が緒戦で部分的奪還に成功したが、最終的にはイスラエル軍の反撃を受けて大きく後退。米国の仲介で停戦協定が結ばれ、両軍の兵力を引き離して、南北に細長く延びる緩衝地帯が設定された。国連は74年以来、この緩衝地帯に国連兵力引き離し監視軍(UNDOF)を派遣、自衛隊の部隊も96年から、輸送や道路の補修など後方支援を続けてきた。
・緩衝地帯の西側は開発、東側は廃墟
緩衝地帯の西側、つまり、イスラエルが「併合」した地域では、ユダヤ人入植地が次々に建設され、ぶどう栽培やワイン醸造のほか、中東では貴重な水と緑、そして古代遺跡を利用した観光開発が進んでいる。国際社会は「併合」を認めておらず、シリアへの返還を求めているにもかかわらず、である。
一方、緩衝地帯とその東側のシリア領では、戦争で廃虚となった街が今も、そのまま残されている。それは、停戦協定に基づいてイスラエル軍が撤退する際、建物を破壊し尽くした事実を、シリアを訪問した外国の要人や記者団に宣伝するために過ぎない。
時計の針を早く進めようとするイスラエルと、巻き戻そうとするシリア。私は98年に緩衝地帯の西側、2008年に東側を訪れたが、その奇妙な対照に驚かされたものだ。
・二度と戻れない嫁入り
さて、ゴラン高原といえば、思い出す映画がある。「シリアの花嫁」(2004年、仏・独・イスラエル合作)である。
ゴラン高原には、少数派イスラム教徒のドルーズ派が多く住んでいる。ドルーズ派のコミュニティーは第3次中東戦争以降、イスラエル占領地とシリア領に分断された。イスラエルは占領地の「併合」後、ドルーズ派にイスラエル国籍の取得を勧告したが、応じる住民は少ない。今も「シリア人」としての意識が強いからだ。
映画は、そんな親シリア意識の強い父親のもとで育った娘が、占領地から緩衝地帯を越えて、シリア側の花婿のもとへ嫁ぐまでを描いている。それが二度と戻れない旅立ちであるということが、この地域の複雑さと悲劇を教えてくれる。
(調査研究本部主任研究員 宮明 敬)
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