01. 2013年2月27日 00:44:45
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イタリアの選挙と米国の歳出削減と国が失敗する理由 2013年02月27日(Wed) Financial Times (2013年2月26日付 英フィナンシャル・タイムズ紙) 1冊の本が売れるということは、その本自体のみならず、その本が出た時代についても同じくらい何かを物語っていることがある。昨年の発行以来、数々の書評者や賞の審査員から絶賛され、アダム・スミスの『国富論』に匹敵するとの声も上がる『Why Nations Fail(なぜ国家は失敗するのか)』もそんな1冊なのかもしれない。 ダロン・アセモグル教授とジェームズ・ロビンソン教授の手による同書は、豊富な知識が詰め込まれた掛け値なしに面白い本だ。しかし、同書がこれほどの好評を博していることは、西側の多くの人々を非常に安心させるメッセージが込められているという事実とも関係があるのかもしれない。 筆者は同書をこの週末に読み終えたが、その傍らに積んであった新聞には、米国が今週にも大幅な歳出削減を実行するせいで数十万人の職が脅かされるとか、イタリアの総選挙がユーロ圏危機に再び火を付けそうだといった見通しが報じられていた。 「西側流の民主主義こそが長期の繁栄のカギ」 しかし、絶望することはない。新聞なんか放り出して、長期的な視点から見るといい。『Why Nations Fail』の著者は何世紀にも及ぶ長い歴史からかき集めてきた証拠をもとに、いろいろな難点はあるものの、西側流の民主主義こそが長期の繁栄のカギだという結論を導いている。 彼らによれば、「英国や米国のような」国々が「裕福になったのは、権力を握っていたエリート層を市民が倒し、政治的な権利が従前よりもかなり広範に配分される社会を作り出したからだ」という。同書の書評を書いたイアン・モリス教授は2人の指摘を「自由こそが世界を裕福にする」と要約している。 新聞に書かれた見通しと『Why Nations Fail』の主張とのズレは、単に時間軸が異なっているためでもある。同書が扱っているのは数世紀に及ぶ社会の発展だ。それに比べれば今週のイタリアの総選挙や米国の強制歳出削減など、歴史という大きなタペストリーの数針にすぎない。 マリオ・モンティ首相の改革は市場の支持を獲得したが・・・〔AFPBB News〕
しかし、それで一安心とはいかないだろう。イタリアと米国の政治状況からは互いによく似た、そして人々の不安をかき立てる長期的な問題の存在がうかがえる。 現代の民主主義には、支払える能力を超えた支出が有権者に約束され、政治家も後には引けなくなって債務が積み上がってしまう傾向がある、という問題だ。 選挙の洗礼を受けていない実務家のマリオ・モンティ氏が率いる政権のおかげで、イタリアに対する投資家の信頼感はこの1年間で回復した。しかし今回の選挙で、モンティ氏のグループは第4位というぱっとしない成績に終わりそうだ。 同氏の改革は市場の支持を獲得したものの、有権者の支持を得ることはできなかったのだ。 米議会は3月1日に迫った歳出の強制削減の発動回避に向けて協議を行っている〔AFPBB News〕
同様に米国では、超党派の財政責任改革委員会(シンプソン・ボウルズ委員会)が強制歳出削減よりも理にかなった政府支出の管理法を提示したが、この実務家たちの解決策はワシントンの政治という試験をパスできていない。 西側の民主主義はあまりうまく機能していないのではないかという不安感は、中国の急速な経済発展という反例のせいで強まっている。 中国の成功は、経済システムとしての民主主義の優位性について冷戦終結後に形成された定説を揺さぶっている。 定説を揺さぶる中国の成功 また、中国の興隆は『Why Nations Fail』の著者であるアセモグル教授とロビンソン教授の主張、すなわち国家の繁栄とは複数政党制に根付いた「インクルーシブ(包括的)な」経済制度によってのみ確実なものとなり得るという主張をも揺さぶっているように見える。 両教授は『Why Nations Fail』で中国の成功についても検討しており、次のように結論付けている。「中国の成長は・・・収奪的経済制度における経済成長の一形態にすぎず、持続的な経済発展には転化しそうにない」 何億人もの人々を貧困から救い出し、中国を世界第2位の経済大国に変容させた20年近い2ケタ成長の時代に対し、両教授はかなり否定的な評価を下しているように思われる。だがそれにもかかわらず、これは米国の学者の間に見られる、中国の台頭を軽んじ、米国のシステムの永続的な長所を強調する強い傾向を反映している。 こうした議論がセミナールームに限定されているのであれば、あまり問題にならないかもしれない。だが実際、『Why Nations Fail』で展開された議論の様々なバージョンが欧米の政治論争を支配している。米国では、すべての候補者が「自由」は道義的に他に勝るだけでなく、自由は米国を強くするものでもあるという考えに敬意を表しなければ、完全な大統領選挙にはなり得ない。 米国のやり方の優位性を何の疑いも抱かずに信じ込むことは、実は、米国を苦しめる問題の一部かもしれない。 筆者の見るところ、『Why Nations Fail』は、長期的には政治的な自由と経済的な成功の間に明確な相関関係があるということをしっかり論証している。だが、米国では、世間に広まる自由への愛着がどういうわけか何の疑いも抱かない憲法崇拝になり、半ば宗教と化してしまった。 その結果、米国人は自国の政治システムがうまく機能していないという事実に本気で向き合うことができないのかもしれない。欧州にも似たような問題がある。多くの政治家は欧州の理想に敬意を表したいと思う衝動から、大陸の単一通貨ユーロに関して、厳しいが必要な疑問を投げかけなかった。 手続き論や原則論に縛られる米国の行く末は・・・ 中国のシステムには、残忍性や社会などを蝕む汚職をはじめ、明らかにひどい欠陥がある。だが、「白猫であれ黒猫であれ、ネズミを捕るのが良い猫である」というケ小平の格言にも表れる徹底的な実用主義という美点もあった。 対照的に米国の政治論争は、「武器を携帯する権利」であれ、債務上限の引き上げに拒否権を行使できる議会の権利へのこだわりであれ、実用的な解決策の邪魔になる手続きや原則にとらわれることが多すぎる。 国家が失敗し得る理由はいくつもある。機能不全に陥った政治システムを安閑と崇拝することも、その1つかもしれない。 By Gideon Rachman
中国を後進国と見下し続けたしっぺ返し ロシアと中国(7)〜ケ小平の南巡講話 2013年02月27日(Wed) W.C. 1989年の中ソ和解から3年も経たぬ間に、両国の運命を大きく変える出来事が2つ起こった。1つは1991年末のソ連の崩壊、そしていま1つは、それからわずか1カ月後の1992年初めにケ小平が行った「南巡講話」である。 ソ連の崩壊は、無理に無理を重ねた社会主義経済の行き着いた結末であった。それは、体制を維持しながら漸進的な改革で治癒するには、問題の根深さでも、国民の自由を求める意識の強さでも、もはや限界を超えてしまって手遅れだった。 ソ連の失敗から学んだケ小平 1988年、ニューヨークを訪問したゴルバチョフ(右)。左はブッシュ、レーガン(ウィキペディアより)。 ある高級官僚は、ミハイル・ゴルバチョフ政権末期のソ連の経済破綻を嘆いて書いた――石鹸も店で手に入らない。あの苦しい第2次世界大戦の最中でも石鹸はあったのに。一体どうなっているのか。
後進国・ロシアがソ連に生まれ変わることで、ヨーロッパも米国も追い抜いた。皆がそう信じていたかった。しかし、ソ連が70年以上も続いた後ですら、それは見果てぬ夢でしかない。そして、そのことをもう皆が知っていた。 だが、無理な体制の当然の結果であったなら、むしろレオニード・ブレジネフ時代の停滞から30年近くもよくそれが持ち堪えたものだと思う。 体制を何とか支えて、ソ連が強大であると外部の観察者やソ連の指導者自身の目を眩ませたのは、結局はロシアに賦与された本源的な豊かさだったのだろう。 社会主義計画経済との離別、それに15のソ連を構成する各共和国の独立という大きな体制と地政学上の変化は、恐らくどの予想をも下回る最小限の摩擦と人的犠牲で終わった。ロシア人がもっと誇ってよいこの点を可能にしたのも、やはりロシアの豊かさであったのかもしれない。 ソ連邦解体の事実上の決断は、1991年12月にベラルーシのベロヴェーシに集まった当時のロシア、ウクライナ、ベラルーシの首脳3人によって行われた。それから間もなくして、最初で最後のソ連邦大統領であったゴルバチョフは辞任する。 遠く離れた北京でケ小平はその知らせを聞いた。そして、公職をすべて退いた身でありながら、人生最後の勝負に出る決心をする――中国の国家体制を維持するには、改革開放経済をさらに進めるしかない。それしかない。 米寿になんなんとするその時から遡ること14年前の1978年、彼は国家の舵取りの任に就く。2度失脚を経た後の3度目の政権への復帰だった。 文化大革命や四人組追放で政治や経済が混乱の極みに達し、海図や羅針盤を失った船にも等しい国家だった。その立て直しに、すでに74歳だった彼は、当時の中国が出せる最後の切り札だった。 彼には、中国が抱える限界や、そのために何をすればよいのかが分かっていたのだろう。それまでのイデオロギーを180度変えんばかりの、思い切った経済の対外開放政策が打ち出される。陸続きの南北にソ連とベトナムという敵を抱え込んだ中で、国の門戸を開くという決断でもあった。 南北から挟み撃ちの中での決断 ケ小平(1979年、ウィキペディア) この開放政策元年での中国の推計国内総生産(GDP)は2170億ドル(当時の公定レート換算)、1人当たりで見れば226ドルだった。
同じ1978年のソ連の国民総生産(GNP)は、西側推計で6000億ドルを超えていたから、そろそろボロが表に出始めていたソ連経済に比べても3分の1、あるいはそれ以下の規模でしかない。 それだけではない。A・マディソンが推計する1820年の数値(2286億ドル、1人当たり600ドル)よりも少ないのだ。 統計値をそのまま鵜呑みにするのは危険、と言えばその通りだが、経済の停滞が支配してきた1820年からの過去160年間、という見方も否定できまい。そして、それが「屈辱」が続いたとされる時代に重なる。 将来性もない貧乏国に誰が投資なんか、と世界の多くが思った。だから、開放政策はすぐに世界に受け入れられたわけではない。それに、社会主義経済の開放という形もなかなか理解されなかった。 途上国の経済発展はどうすれば実現できるのか。第2次世界大戦後の世界の国や機関、それに学者がこの解答を求めて悪戦苦闘していた。東西冷戦下で途上国は陣取り合戦の場となり、何に使われたのかもよく分からない援助だけが両陣営から乱れ飛んだものの、その成果は思わしくない。 その反省もあって1970年代の後半から、新古典派経済学=新自由主義に拠って立つ国際通貨基金(IMF)と世銀の政策が、次第に前面に出てくるようになる。彼らの考え方は、後の1989年にワシントン・コンセンサスとして集大成される。その骨子は、小さな政府、規制緩和、市場原理、民営化、の4点だった。 端折(はしょ)って言えば、当該国の特性・文化には注意を向けずに、自由化・国際化の中で政府の介入を排した市場経済を成り立たせようとした。そして、そのための処方箋となる構造改革を数値目標化して設定する。 いかにも米国の経営指南書にでも出てきそうな考え方だ。だが、共産主義体制を維持しようとする中国で、こうした構造改革路線が適用されるはずもない。だから、中国がどのような経済成長の道をたどれるのか、少なくとも先進国では誰にも予想がつかなかった。 ケ小平の政策は計画経済を補う副次的手段に過ぎない、が当時は大方の見方だったし、彼の政治的な地位ですら、いつまでもつのかといった議論がまだ盛んだった。どうせ、あんなのすぐ駄目になるさ・・・・。 日本も同様で、当時の中国関係の情報・書籍と言えば圧倒的に政治関係を扱ったものが多く、経済については精々が「途上国の1つである中国」の状況モニター程度で終わっていた。日本の中国への工場進出第1号は、ケ小平に請われたパナソニック(当時は松下電器産業)の1987年だった。それは開放政策の開始から10年近くも経た後である。 さしものケ小平も、中国単独で外資の千客万来を実現することは、あるいは不可能だったかもしれない。その成功への環境を整えたのは、西側が見る目を変えつつあった他のアジアの途上国だった。 倦怠期の欧米と対照的に成長を謳歌し始めた「四小龍」 中国が走り始めた1979年に経済協力開発機構(OECD)は報告書を出し、その中で輸出を伸ばしている10の途上国を「新興工業国(NICs)」と名付けた。その中には、後にアジアの「四小龍」と呼ばれる韓国、台湾、香港、シンガポールが含まれている。韓国以外は皆中国人の国家社会だ。 最初は、マアそれなりに頑張ってくれたまえ、という余裕で眺める先進国だった。だが、1980年代に入ると「四小龍」は日本をはじめとするそうした先進国からの投資を受け入れて、輸出主導型経済を成長モデルとして確立していく。 石油危機以来の経済の倦怠感に浸かってしまった欧米諸国とは対照的に、彼らは急速な経済成長を実現した。そして同じ途上国でも輸入代替策に向かって失敗した中南米諸国とも、その成果で大きな違いを見せるようになる。 日本を別とすれば、それまで途上国から先進国に這い上がれた例はない。世の中すべての勢力配置(経済力の序列)は決まっている、と皆が長らく思い込んでいた。 そこへ、ひょっとしたらそれが変わるのではないか、と思わせるようなアジアの急成長が出現してきたのだ。マジかよ、と先進国は目を擦りつつも、1988年には「四小龍」にNIEs(Newly Industrializing Economies)という呼称を与える。 そして、これらの国の経済発展は「奇跡」とも呼ばれた。褒めているには違いない。だが、「奇跡」とは本来起こるはずのないことが起こったという意味だから、こうした国々を「永遠に後進的」と見下してきた欧米の感覚を暴露するようなものでもあった。 「四小龍」の輸出志向型経済は1960年代から始まった。その本をたどれば、1950年代の日本に行き着く。中南米とは違って、輸出できる農産品も鉱産資源も戦後の日本や「四小龍」にはない。だから、製造加工品の輸出に依存するしかなくなる。 1950年代後半に、城山三郎が「メイド・イン・ジャパン」という小説を書いている。その内容は、どうやって輸出品に“Made in Japan”と刻印せずに米国へ輸出するかの苦労話である。日本製と表示しただけで売れなくなる。日本品は粗悪品や低品質の代名詞だったからだ。 それを解消して品質に対する顧客の信用を獲得し、先進国の市場で買ってもらえるようになるためには、皆が必死になるしかなかった。そして、その苦労だけが日本や「四小龍」を粗悪品の汚名から脱却させていくことを可能にした。 しかし、そうした苦労は、いずれも政府主導の政策とその市場介入の下で実現していた。そうなると、政府の経済への介入は最小限にすべしという新古典派=新自由主義のドグマには馴染まない。 それを日本だけが示していた時代には、日本が「異質」だと片づけて叩くことで何とか話を丸めることができた(日本は従順だった!)。だが、日本だけではなく他のアジアの国々も、となると、異質論ではもう問題が片づかなくなる。 崩れ出した先進国と後進国の境界線 そこで、改めて「四小龍」の経済成長の理由は何か、という議論が始まる。E・ヴォーゲルは1991年にその内在的な発展の理由として、儒教主義(能力主義)の下での官僚の働きや、入試試験制度、集団への忠誠の社会意識、国民の自己研鑽、を挙げた。 わずか100年足らずの昔が思い起こされる。ヴォーゲルが挙げる理由は、どれもこれもM・ウェーバーの膨大な分析で、近代資本主義を生めなかった儒教文化の産物、と断じられたものではなかったか。それが今度はアジア新興国の経済発展の原動力へと、まるで正反対の評価を得ている。かつての碩学は地下で何を想うだろうか。 それまでほぼ絶対的と思われていた「先進国」と「後進国」の区分や概念が、徐々に崩れ始める。『文明の衝突』といったタイトルの書がこの頃出てきたのも、それまでの先進・後進の固定観念から一歩下がって、対等な文明同士の間の諸問題という感覚がようやく先進国側に生まれてきたからなのだろう。 後の1997〜1998年のアジア金融危機では、これに巻き込まれた国々の経済体制は儒教文化が生んだ「クローニーキャピタリズム(縁故資本主義)」である、と西側の俄か社会学者たちから叩かれた。 だが、アジア諸国はそこから急速に立ち直る。そして、何とも皮肉なことにIMFの処方箋を受け入れなかった国の回復の方が早かったから、逆に経済復興での応急処置で新古典派のIMFが根本的なミスを犯した、というIMF叩きになってしまった。 定着し始めた投資家の「四小龍」への信頼感が、さらにその先で膨大な労働人口を抱える中国への見方も変えていく。少しでも労賃の安い地域で生産を、で企業が動き出す。いよいよ中国の出番だ。 この資本の受け入れで、中国はそれまでの西側の教科書にないやり方を実践する。経済発展を都市部の工業からではなく、農村地帯での農商工業拡大から始めたのだ。 これは、どの途上国の成長過程にも見られない中国独自のものだった。その本質は、「地方」と「中小企業」を核として、それに「外資」を組み合わせた点にある。なぜ、それでうまくいくのか。西側のエコノミストは、経済の「農村からの離陸」(「都市化なき工業化」)という前例なきモデルで、何とも厄介な解析に迫られて四苦八苦。 これは乱暴に言ってしまえば、有史以来で人間が経験してきた経済の発展段階をそのままたどるのに近いものだ。経済史の上では、それは100年あるいはそれ以上の単位の話である。 素面(しらふ)で途上国の離陸政策にこの手法を推奨などしようものなら、「ザケルな」で相手に張り倒されるのが落ちだろう。それを中国は信じ難いような短期間で実現してしまったのだ。毛沢東もかつて援用した、『列子』の「愚公、山を移す」そのものである。 この政策が成功したのも、ケ小平の力量に依るところが大きかった。だが、最初の10年間での副作用も大きかった。経済規模がまだ小さいところで急速な生産拡大を進めようとしたことから、それはやがて2桁インフレに結びつく。 わずか1カ月、たった1人で行った南巡講話 そのインフレとそれに続く天安門事件は、ケ小平にとっても開放政策にとっても最大の危機だった。保守派は、開放政策が政治の自由化を求める声を助長して政権を不安定なものにし、且つ共産主義への道からも外れているとして、政策変更を強く主張しだす。 しかし、元に戻ったなら、ソ連と同じような末路をたどることは避けられない。それがケ小平の結論であり、自国の将来に対するグランドヴィジョンだった。そして冒頭で紹介したように、彼は1992年初めに開放政策を訴える国内行脚を始めた。 世に「南巡講話」と呼ばれる。驚くべきことに、わずか1カ月余のこの「南巡講話」で開放に反対する保守派はすべて粉砕されてしまい、あっという間に政権内部の力学は改革開放路線に引き戻された。そこには空挺部隊も戦車の砲身も出てこない。88歳の老人1人が自分の説を説いて回っただけだ。 ソ連崩壊に比べれば、全く目立たない出来事のように見える。だが、これこそ「奇跡」としか言いようのない芸当だった。ケ小平は人生最後の賭けに勝ち、それが開放政策の再出発点となって今日に到っている。 中国はもうブレない、と見て、1993年から香港を中心とする海外諸企業の本格的な対中投資ブームが始まり、「四小龍」の成長パターンがより大きな規模で実現されていく。 1988年の名目GDPは、開放政策を始めた年の2倍弱(4042億ドル)だった。それから、「南巡講話」の年の1992年までは4年間で20%程度の経済拡大で終わった。しかし、それからの10年で経済規模は一挙に3倍以上へ(2003年=1兆6410億ドル)、さらにその後の10年間は世界貿易機関(WTO)への加盟が大きく寄与して5倍以上に拡大している。 ケ小平なかりせば、そして「南巡講話」なかりせば、間違いなく今の中国の経済発展もなかった。 振り返ると、1970〜80年代のアジア諸国や中国の経済勃興に戸惑ったのは、西側先進国だけではない。応用の利く途上国の経済発展理論をマルクス主義が持っていなかったために、ソ連は西側以上に世の中で起こっていることへの理解で遅れてしまった。 ゴルバチョフがペレストロイカに踏み切らざるを得なかったのも、1980年代に入って世界で最も進んだ国(であるはず)の社会主義・ソ連の工業製品が、世界で最も遅れた層である途上国のそれにすら、市場で太刀打ちできなくなってきたからだろう。 だが、ゴルバチョフ改革での問題意識は、ソ連をどうするかであって「四小龍」がなぜ発展できたのかに向けられたものではなかった。途上国の例を参考にしようなどという発想はまだ全くなかった。だから、あの中国が同じように発展するなんて誰も考えはしない。そんなことを説明できる理屈が一体どこにあるというのか? マルクス主義の呪縛から解き放たれた新生ロシアが登場しても、その1990年代は市場化への滑り出しに失敗して経済がガタガタになってしまう。自分の足元の火を消すのに精一杯で、他国の経済やその将来にまで注意を払う余裕など全くない。 強い中国と向き合わなければならなくなったロシア それに、ロシアが目指すべき目標は欧米であったから、今となっては唾棄すべき共産党独裁国家の中国がその目標値に割り込むことなど、これまた全くあり得ない。 であれば、2世紀近くもの間でロシアにも培われたアジア=劣等国家の感覚も、そう簡単には消えない。中国人の根底にある文化を深くは捉えようとしなかった(必要もなかった)2世紀という時間の後で、それをすぐに理解し直すことはソ連や新生ロシアにとってほとんど不可能でもあった。中国は相変わらず弟分であり、「後進国」に過ぎない。 しかし、2000年代に入って、自分の経済がようやく落ち着いて成長し始めたなと思える頃に、気がつけばロシアの目の前にとんでもない経済の巨人が立っていた。相手は弟どころか、こっちが妹(ロシア語で「ロシア」は女性名詞、「中国」は男性名詞)になってしまう。さあ、どうする? 過去数百年も遅れていた国が、本当に先進国を追い落としてしまうのか? 18世紀以来、ロシアは初めて「強い中国」と向き合わねばならなくなった。だが、アジアや中国がなぜ経済で勃興できたのかの理由も、だから中国がどこまで膨張していくのかにも、まだ納得のいく説明をまとめ切れていない。 それが分からなければ、中国への政策は防御一方になる。中国との戦争をどう避けるか、そして経済成長にふさわしいとは思われない地域である極東から、どれだけ中国の影響と経済支配を排除できるか、というものになるしかない。
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