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平和作戦における軍事力の機能に関する一考察
―シエラレオネへの介入を事例として―
大西 健
はじめに
今日の平和作戦 1
においては、軍事力が物理的強制力というその本来的な機能を発揮す
ることが求められるようになってきている。その背景としては、実質的に戦闘が継続中の状
況に直面する平和作戦部隊が増えてきていることが指摘できる。紛争当事者からの協力が
得られない環境下で活動するためには、平和作戦部隊も自身の身を守り、また任務を遂行
するために軍事力を行使する必要に迫られることがある。しかし軍事力の物理的強制力と
しての機能は様々な形で発揮可能であり、平和作戦を成功裏に実施していくためには、軍
事力をどのように用いることが効果的であるのかについて、知見を積み重ねることが重要で
ある。
そこで本稿はそうした知見蓄積の一助とするため、シエラレオネにおける平和作戦を
事例として取り上げ、本平和作戦においては具体的にどのような形で、軍事力の物理的
強制力としての機能が発揮されていたのかについて考察する。シエラレオネでは長期間
にわたり深刻な内戦が続き、その過程では、ナイジェリアを中心とする西アフリカ諸国
経済共同体(Economic Community of West African States: ECOWAS) の停戦 監
視団(ECOWAS Ceasefire Monitoring Group: ECOMOG)、 国連、 そしてイギリス
が介入した。シエラレオネでは幾度も和平合意が結ばれながらそれが崩壊しており、国
連平和維持活動(peacekeeping operation: PKO)である国連シエラレオネ・ミッション
(United Nations Mission in Sierra Leone: UNAMSIL)が展開する根拠となったロメ
和平合意もまた崩壊の危機に瀕していた。停戦合意を遵守しない反乱軍・革命統一戦線
(Revolutionary United Front: RUF)というスポイラー2
が存在する中、UNAMSILや英
軍は、任務を遂行する中で武力を行使することとなった。本稿ではこれを跡付けると共に、
軍事力の物理的強制力としての機能を4つに分類する視点から分析を加える。
1 平和作戦とは、冷戦中に麻痺した集団安全保障の補完として考案された活動であるPKO に加え、冷戦終結後
に内戦への介入を念頭に構想された平和強制や平和構築といった、紛争の解決と復興を目的として要員を展開する
国際社会による活動の総称である。
2 スポイラーとは、「和平合意が自らの権力や利益を脅かすと考えており、それゆえに和平合意を妨害しよう
とする個 人または集 団 」 を指 す。United Nations Department of Peacekeeping Operations (UNDPKO)
and Department of Field Support, United Nations Peacekeeping Operations: Principles and Guidelines,
UNDPKO, 2008, p. 43n21.38
防衛研究所紀要第 15 巻第 1号(2012 年10月)
まず第 1節では、平和作戦において軍事力に期待される機能について整理する。ここで
は伝統的 PKOと近年の平和作戦との違いを確認した後、近年の平和作戦で発揮されるよ
うになっている軍事力の物理的強制力としての機能を4 類型に整理する。続く第 2 節では、
シエラレオネにおける平和作戦の推移を概観すると共に、UNAMSILや英軍による武力行
使を跡付ける。最後に第 3節では、第 2 節で概観したUNAMSILと英軍それぞれの軍事
力の用い方を第 1節における考察を踏まえながら整理し、RUFに対して停戦と武装解除を
受け入れさせる上でどのような役割を果たしていたかについて評価する。
1 平和作戦における軍事力の機能
平和作戦には当初から軍が用いられてきたが、軍に期待される機能は伝統的 PKOと近
年のより複雑な平和作戦では大きく異なっている。伝統的 PKO は、紛争当事者の活動
への同意、中立の維持、必要最小限の武力行使という3原則に基づき活動する。伝統的
PKOはその展開に対する紛争当事者の同意と活動への協力を前提としており、強制力を伴
う活動ではない。そのため、軍を展開する活動でありながら、自衛の場合を除いて軍事力
の行使は基本的に想定されていない。しかし、PKO 部隊であっても自衛のために武力を行
使することは可能である。したがって、基本的には武力を用いない活動でありながら軽武
装の軍部隊が活用されるのは、そこにある程度の抑止力の働きが期待されているものと考
えることができる3
。
伝統的 PKO の主要な軍事目的は、紛争当事者間に設けられた緩衝地帯の占領と監視で
ある。PKO 部隊には停戦違反を力ずくで阻止するだけの力はないため、その展開によって
期待される効果は主にその道義的地位による抑止効果である。緩衝地帯の占領に期待され
る効果は、偶発的な衝突の発生防止と、大規模停戦ライン侵犯を感知することにある。また、
中立的な部隊が存在することで、紛争当事者間の緊張を緩和し、本格的な和平交渉のた
めの時間を確保することも企図されている。こうした伝統的 PKO の機能は、より小規模で
個人レベルにおいて活動する停戦監視団のそれと本質的には変わらないといえる 4
。
一方、近年の複雑な平和作戦においては、介入する国際部隊が対応すべき問題は多岐に
わたる。例としては、治安の維持と回復、紛争当事者の武装解除、紛争によって引き起こ
される人道危機の回避と対応、そして国家建設などを挙げることができる。伝統的 PKO
3 Trevor Findlay, The Use of Force in UN Peace Operations, Oxford University Press, 2002, pp. 18-19.
4 John Hillen, Blue Helmets: The Strategy of UN Military Operations, 2nd ed., Brassey's, 2000, pp. 22, 51,
102-104, 107.平和作戦における軍事力の機能に関する一考察
39
の停戦監視が現状維持を目的とした任務であったのに対し、近年の平和作戦に与えられる
治安の回復や紛争当事者の武装解除、国家建設といった任務は、現状を積極的に変化さ
せる性質を持っており、平和作戦部隊の側が能動的に行動する必要がある。
さらに、平和作戦部隊はこうした任務を、紛争当事者からの同意が脆弱か、あるいは存
在しない環境で実施せざるをえなくなることが多くなっている。すべての紛争当事者が和平
や平和作戦部隊の活動を望ましく思っているわけではなく、暴力を用いてでも和平を妨害し
ようとするスポイラーが存在する環境で、時には現状を維持するだけでなく、現状を変更す
る任務を遂行するためには、平和作戦部隊の軍事力には伝統的 PKOとは異なる機能が期
待される。すなわち、軍事力をより本来的な機能である物理的強制力として使用することが
必要になると考えられる。さしあたり和平が維持されている状況に平和作戦部隊が展開す
るのであれば、平和作戦部隊は和平を守るためにスポイラーの攻撃に対抗する必要がある。
また、スポイラーの活動によって実質的に和平が崩壊したり、紛争が再開したりした場合に
は、平和作戦部隊が能動的に行動し、紛争の継続という現状を変更して再度停戦・和平
が実現するよう、積極的にスポイラーに働きかける必要がある。
軍事力の物理的強制力としての機能は、大きく4つに分類することができる。すなわち、
軍事的な能力を背景として、平和作戦部隊自身や人道支援活動団体、さらには現地の非
武装民間人などへの攻撃を思いとどまらせる「抑止」(deterrence)、その抑止が破れた場
合に、スポイラーの攻撃から自身や防護対象を守るために実際に武力を行使する「防御」
(defense)、スポイラーに対し、有害な行動を止めて和平合意の遵守や武装解除といった
国際社会にとって望ましい行動をとるように、武力行使の脅しや限定的な武力行使によって
圧力をかける「強要」(compellence)、そして直接的にスポイラーを粉砕・排除するために
武力を行使する「攻撃」(offense)である5
。
この 4つの機能のうち、前二者については現状の維持を目的としており、現状を変えよう
とする相手側の行動への対応が企図されていることから、その性質は受動的なものといえ
る。伝統的 PKO の時代から平和作戦部隊についても自衛のために武力を行使することは
可能であり、こうした受動的な形態での軍事力の使用は従来の平和作戦と比べて大きな変
化ではないということもできる。しかし既述の通り、伝統的 PKOはその活動に対する紛争
当事者の同意と協力を前提としており、基本的に武力行使を想定していなかった一方、近
年の内戦環境への介入においては、平和作戦部隊がスポイラーによる積極的な妨害に直面
するようになっている。そのため、平和作戦部隊自身や防護対象への攻撃を抑止し、それ
5 Taylor B. Seybolt, Humanitarian Military Intervention: The Conditions for Success and Failure, Oxford
University Press, 2008, pp. 39-43.40
防衛研究所紀要第 15 巻第 1号(2012 年10月)
が破れた場合に実際に抵抗するという物理的強制力の形で、軍事力を用いることが平和作
戦部隊により期待されるようになっている。さらに、先の 4つの機能のうちの後二者につい
ては、現状が国際社会にとって望ましくなく、その現状を変えるために平和作戦部隊の側
から積極的に圧力をかける形となる。すなわち、強要および攻撃の性質は能動的なもので
あるといえる。こうした能動的な軍事力の活用は、非強制的な活動として展開されてきた伝
統的 PKO からは大きな変化であるということができる。
このように、スポイラーが存在する環境下で活動する近年の平和作戦においてはその任
務の遂行にあたり、物理的強制力という軍事力のより本来的な機能の発揮が期待されるよ
うになってきている。さらに、その物理的強制力の中でも抑止や防御といった受動的な形
態だけでなく、強要や攻撃といった能動的な形態においてもその機能を発揮することが求
められるようになっている。
2 シエラレオネ内戦と国際社会の介入
本節では、ロメ和平合意後にシエラレオネに展開して活動したUNAMSIL および英軍
に注目し、その武力行使を跡付ける。1991年に内戦に突入して以降、シエラレオネでは和
平の締結・崩壊とクーデターが繰り返されてきた。この流れを断ち切るべく、1999 年に締
結されたロメ和平合意では、和平の履行を監督するために国連 PKOとして UNAMSILが
展開することとなった。しかし依然として現地の状況は不安定であり、2000 年5月に入る
と和平を尊重していなかった RUF が UNAMSILに攻撃を加え、多数の PKO 要員を拘束
したため、UNAMSILは崩壊の危機に直面する。この状況を受けて、英軍がシエラレオネ
に介入し、これをきっかけにUNAMSILも体制を立て直す。その後、シエラレオネ政府軍
(Sierra Leone Army: SLA)の攻撃や、ギニア軍との戦闘、RUFの収入源であった違法
ダイヤモンドの取り締まり強化といった圧力も加わり、RUFはアブジャにおいて新たな和平
合意を受け入れ、ついに武装解除された。
概略以上のように推移したシエラレオネ内戦について、以下の各項ではロメ和平合意締結
まで、5月危機以前の UNAMSIL、5月危機、英軍の介入、5月危機以後の UNAMSIL、
紛争終結への流れをそれぞれ概観する。そして UNAMSILと英軍については、それぞれ
どのような目的・任務を持っており、どのような形で武力を行使したのか跡付けることとする。平和作戦における軍事力の機能に関する一考察
41
(1)ロメ和平合意までの背景
イギリスの植民地であったシエラレオネは1961年に独立した。独立当初は西欧式の多党
制を採用していたが、1970 年代以降は政権を握った全人民会議(All People's Congress:
APC)の一党独裁体制下にあった。1991年、隣国リベリアのチャールズ・テイラー(Charles
Taylor)大統領に支援されたフォディ・サンコー(Foday Sankoh)率いるRUF がAPC 政
権打倒を掲げてシエラレオネ政府に対する攻撃を開始し、シエラレオネは内戦に突入した。
RUFはダイヤモンド産出地帯を支配下に置くと共に、民間人に対して虐殺や略奪といった
暴力をふるっていった。RUFに対抗すべく送り込まれた SLAについてもその士気と規律は
崩壊しており、RUFにまじり民間人に対して暴力と略奪を加えていた。そのため、各地域
の民間人は市民防衛軍(Civil Defence Force: CDF)を結成し、RUFとSLAの暴力から
自衛していた 6
。
こうした状況の中、1992 年 4月には SLAの一部がAPC 政権に反旗を翻しクーデター
を実施し、ヴァレンタイン・ストラッサー(Valentine Strasser)大尉率いる軍事政権、国
家暫定統治評議会(National Provisional Ruling Council: NPRC)が成立する。NPRC
に対しては国内外から選挙を実施して民政移管するよう圧力がかかった。そのため、1993
年11月にストラッサー政権は民政移管プログラムを発表する。その後 1996 年1月には
NPRC 内でクーデターが発生し、ストラッサーに代わりジュリアス・ビオ(Julius Bio)が首
班となった。選挙に反対するRUFは選挙を妨害すべく、それまでの暴力に加えて、人々が
投票できなくなるようにするため、人々の手を切り落とすという残虐極まりない形で暴力をふ
るった。しかし選挙は予定通りに実施され、アフマド・カバ(Ahmad Kabbah)が新大統
領に選出された 7
。
その後も内戦は続き、政府が契約した民間軍事会社や CDFとRUFの戦闘が続いた。
1996 年11月には政府とRUFの間にアビジャン和平合意が結ばれ、民間軍事会社は撤退
した。しかしその約半年後の1997年 5月、SLAの一部とRUF が協同でクーデターを実
施したことで、選挙で選ばれたカバ政権はわずか1年で転覆された。新たに成立した軍事
政権は軍事革命評議会(Armed Forces Revolutionary Council: AFRC)を名乗り、ジョ
ニー・コロマ(Johnny Koroma)を首班として RUFと共同政権を打ち立てた 8
。
その後、ECOWASの仲介によって1997年10月にはコナクリ和平合意が結ばれ、軍
事政権からの民政移管が協議される。しかしAFRC 側は協議に真剣に取り組まなかった。
6 Arthur Abraham,“Dancing with the Chameleon: Sierra Leone and the Elusive Quest for Peace,”Journal
of Contemporary African Studies, Vol. 19, No. 2, July 2001, pp. 205-209.
7 Ibid., pp. 209-212.
8 Ibid., pp. 213-215.42
防衛研究所紀要第 15 巻第 1号(2012 年10月)
そのため、カバ政権を支持していたナイジェリアを中心とするECOMOG が全面的にシエ
ラレオネに介入し、1998 年 2月に AFRCを首都フリータウンから放逐した。これにより、
翌 3月にカバ政権がフリータウンに復帰した 9
。これを受けて、同年の 7月には国連の非武
装軍事監視団として国連シエラレオネ監視団(United Nations Observer Mission in Sierra
Leone: UNOMSIL)が設置されている10
。
しかし、またも1999 年1月、AFRC/RUFはフリータウンを奇襲し、フリータウンを大
混乱に陥れた。当初 ECOMOGは AFRC/RUFの攻撃を食い止めることができず、フリー
タウンでは略奪と破壊が展開された。やがてナイジェリアの増援を得た ECOMOGは反撃
に転じ、フリータウンからAFRC/RUFを再度放逐することに成功したが、この1999 年1
月の戦闘では ECOMOGおよびAFRC/RUFの双方に加え、フリータウン市民に多大な犠
牲を強いることとなった11
。
フリータウンからAFRC/RUFを放逐することに成功した ECOMOGであったが、その
任務はフリータウンにカバ政権を復帰させることであり、内陸部にまでAFRC/RUFを追撃
してこれを打倒することはできなかった12
。そのため、カバ政権とAFRC/RUFの双方が国
際社会からの圧力を受けて、1999 年5月に停戦に合意して和平交渉に臨み、7月にロメ和
平合意が調印された13
。この和平合意では停戦のほか、カバ政権がサンコーをはじめとする
RUF 要人に政府ポストを提供することで共同政権を樹立することや、RUFや CDFおよび
SLAを含むすべての紛争当事者の武装解除などが定められていた。そして UNOMSIL お
よび ECOMOGに対しては、和平合意において両者が担うと規定された役割を果たせるよ
う、任務を変更することを求めていた14
。
(2)UNAMSIL(初期)の目的と活動
ロメ和平合意の締結を受けて、国連安保理では1999 年10月22日に安保理決議 1270
が採択され、UNOMSILを発展的に解消する国連 PKOとして UNAMSILが設立された。
9 Ibid., pp. 216-217.
10 ’Funmi Olonisakin, Peacekeeping in Sierra Leone: The Story of UNAMSIL, Lynne Rienner Publishers,
2008, pp. 24-25.
11 Larry J. Woods and Timothy R. Reese, Military Interventions in Sierra Leone: Lessons from a Failed
State, Combat Studies Institute Press, 2008, pp. 46-47.
12 Ibid., p. 47.
13 Abraham,“Dancing with the Chameleon,”pp. 219-220.
14 “Peace Agreement between the Government of Sierra Leone and the Revolutionary United Front of Sierra
Leone,”Annex to United Nations,“Letter Dated 12 July 1999 from the Chargé D'Affaires ad Interim of the
Permanent Mission of Togo to the United Nations Addressed to the President of the Security Council,”UN
Doc. S/1999/777, July 12, 1999.平和作戦における軍事力の機能に関する一考察
43
事務総長特別代表はナイジェリアのオルイェミ・アデニジ(Oluyemi Adeniji)が務め、軍
事部門司令官にはインドのヴィジャイ・ジェットリー(Vijay Jetley)少将、副司令官にはナイ
ジェリアのモハメド・ガルバ(Mohammed Garba)准将がそれぞれ就任した。UNAMSIL
の主な任務は、和平合意の履行においてシエラレオネ政府を含む紛争当事者と協力し、ま
た武装解除、動員解除、社会復帰(disarmament, demobilization and reintegration:
DDR)の履行を支援することであった。マンデートの履行にあたっては、国連憲章第 7 章
の下に「UNAMSILはその人員の安全と移動の自由を確保し、また能力と展開の範囲内に
おいて、物理的暴力の急迫する脅威にさらされている民間人を守るために必要な行動をとる
ことができる」ことを定めている。その一方、和平合意に基づきフリータウンやルンギ空港
を含め、ECOMOG が展開している地域については ECOMOG が引き続き治安を確保す
ることとなっていた15
。UNAMSILの規模は軍事監視員260名を含む最大6,000名とされ、
その主な構成は、ECOMOGから所属を変更して引き続き展開するナイジェリア部隊 3,000
名と、インド部隊 2,000 名、ギニア部隊 1,000 名となることが見込まれた16
。
しかし1999 年 12 月には、ナイジェリアのオルセグン・オバサンジョ(Olusegun
Obasanjo)大統領が地域諸国による平和維持に対する国際社会の支援のあまりの少なさ
への失望を表明し、ECOMOGからのすべてのナイジェリア部隊の撤退加速を宣言した17
。
ECOMOGはナイジェリア中心で構成されていたため、これは実質的にシエラレオネに展開
する国際部隊が 13,000 名の ECOMOGから6,000 名の UNAMSILへと規模が大きく縮
15 United Nations Security Council, Resolution 1270, October 22, 1999.
16 Lansana Gberie, A Dirty War in West Africa: The RUF and the Destruction of Sierra Leone, Indiana
University Press, 2005, p. 162.
17 Ibid., p. 163.
安保理決議 1270 において規定された UNAMSIL の任務
@ シエラレオネ政府および他の和平合意当事者と、和平合意の履行で協力すること。
A DDR 計画の履行において、シエラレオネ政府を支援すること。
B この目的のため、武装解除・受け入れセンターや動員解除センターを含む、シエラレオネ全土の主要な地点に
プレゼンスを確立すること。
C 国連の人員の安全と移動の自由を確保すること。
D 1999 年 5月18日の停戦合意の履行を、同合意において定められた枠組みを通じて監視すること。
E 当事者に信頼醸成メカニズムを構築するよう促し、その運用を支援すること。
F 人道支援の配布を促進すること。
G 事務総長特別代表およびそのスタッフ、人権担当職員、民事担当職員を含む、国連文民職員の活動を支援す
ること。
H 要請に従い、シエラレオネ憲法に従って実施される予定の選挙を支援すること。
(出所)United Nations Security Council, Resolution 1270, October 22, 1999.44
防衛研究所紀要第 15 巻第 1号(2012 年10月)
小することを意味していた18
。
ECOMOG の部隊撤退加速を受けて、国連安保理では 2000 年2月7日に安保理決議
1289 が採択され、UNAMSIL の規模と任務が変更された。具体的には、UNAMSIL の
規模を、軍事監視員 260 名を含め最大で11,100 名まで拡大することとし、国連憲章第 7
章の下でフリータウンや主要空港、DDRサイトの安全確保といった任務を追加している。
これらの任務は UNAMSIL の能力と展開の範囲内において遂行されるとされ、またその
遂行にあたって必要な行動をとる権限をUNAMSILに与えている。さらに先の決議と同様、
自身の安全と移動の自由を確保し、またその能力と展開の範囲内において、急迫した暴
力の脅威にさらされている民間人を防護するために、必要な行動をとることができるとして
いる19
。
このように 2 つの安保理決議で定められたUNAMSIL の任務であったが、その中には
武力を行使することが想定されている任務と、そうでない任務とが存在していた。例えば、
和平合意履行支援や DDR支援といった任務は現状変更を目指すものであるが、これらの
任務は国連憲章第 7 章下で定められた任務とはなっていない。これらの任務については、
紛争当事者が和平の履行や DDRに同意しているはずであったことからして、その遂行に
あたって武力行使は想定されていなかったといえる。その一方で、国連憲章第 7 章の下に
UNAMSILは最初から自衛や非武装民間人防護を目的とする武力行使が可能であったこと
に加え、さらに安保理決議 1289 採択後には一部の治安維持機能まで担うことになり、武
力を行使可能な範囲は広まっていた。UNAMSIL の展開時には停戦が成立していたことを
考えると、自身や民間人の防護、重要地点やDDRサイトの安全確保といった任務に関して
は、UNAMSILの軍事力には現状を維持する抑止の役割が期待されていたといえる。しか
し実際には、UNAMSILに参加した部隊はマンデートを理解しておらず、戦闘に備えてい
18 Olonisakin, Peacekeeping in Sierra Leone, p. 46.
19 United Nations Security Council, Resolution 1289, February 7, 2000.
安保理決議 1289 において追加された UNAMSIL の任務
@ 重要な地点と政府施設、特にフリータウン、重要な交差点、ルンギを含む主要空港に安全を提供すること。
A 特定の主要道路に沿った、人、物、人道支援の自由な流れを促進すること。
B すべての DDRサイトに安全を提供すること。
C シエラレオネの法執行機関がその責任を果たすにあたり、共に展開する地域において、これと調整しまた支援
すること。
D 元戦闘員から集められた武器・弾薬やその他の軍事装備品を警護し、後のその廃棄と破壊を支援すること。
(出所)United Nations Security Council, Resolution 1289, February 7, 2000.平和作戦における軍事力の機能に関する一考察
45
なかった 20
。UNAMSILは和平の維持と紛争当事者の協力、さらに当初は ECOMOG の
協力も前提としており、ECOMOG の撤退が明らかになってからは、国連のみによってその
穴埋めが可能と考えていた 21
。
しかし、RUF 側は和平を尊重していなかった。1999 年11月、もともとロメ合意に反対
していた RUF 主要幹部の一人であるサム・ボッカリー(Sam Bockarie)は、戦闘再開を宣
言する。サンコーもまたロメ合意の和平プロセスには全くコミットしていなかった。サンコー
は 2000 年1月にマケニに設置されたUNAMSIL の武装解除センターを訪問し、PKO 部
隊に暴言を吐いたのち、RUF 兵たちに武装解除するなと命じている22
。
そして 2000 年1月以降、UNAMSIL部隊が武装勢力に攻撃され、拘束・武装解除さ
れる事態が続発した。1月10日には、UNAMSILと合流しようとしていたギニア部隊の
車列が RUFによって武器・弾薬と装甲車を奪われた。1月14日にはオクラ・ヒル地域に
おいて、ケニア大隊の要員が元 SLA分子に待ち伏せされ、武装解除された。ケニア大隊
の要員は、1月31日にもマケニ付近において RUFに武器を奪われている。マケニの RUF
は、1月18日にもNGOを護衛していた ECOMOG 兵14 名を拘束し、武装解除してい
る。これらの事態を受けて、国連事務局とUNAMSIL司令官ジェットリーは兵員提供国と
部隊に対し、UNAMSILのマンデートと交戦規定に従った行動と国連の基準に合った装備
での展開を求めた 23
。現地においても、ギニア部隊から奪取した武器を返却させるため、2
月4日に ECOMOG、UNAMSIL およびシエラレオネ政府の代表がサンコーと共にカマク
ウィーの RUF 拠点を訪問した。しかしサンコーは RUF 兵に対して武器の返却を強く指示
せず、調査に訪れただけであると述べた。さらにサンコーはフリータウンに戻ると、RUF
はUNAMSILから武器を奪う行為にはかかわっていないと主張した 24
。
2月23日には、インド大隊の車列がケネマからダルに向かって移動していたところ、重
武装の RUFによって移動を妨害された。RUF 指導層は UNAMSIL の移動の自由を保
証していたが、彼らは UNAMSIL 部隊のそれ以上の前進を認めなかった。インド軍部
隊の車列にはガーナ大隊からの要員が増援として加わったが、2日間にわたる対峙の後、
UNAMSIL部隊はケネマに引き上げた。同じく23日には、ペペル島のナイジェリア大隊地
区において UNAMSIL パトロールと反乱軍の間に銃撃戦が生じた 25
。
20 Gberie, A Dirty War in West Africa, pp. 164-165.
21 Olonisakin, Peacekeeping in Sierra Leone, pp. 42, 49.
22 Gberie, A Dirty War in West Africa, pp. 162-164.
23 United Nations,“Third Report of the Secretary-General on the United Nations Mission in Sierra Leone,”
UN Doc. S/2000/186, March 7, 2000, para. 11.
24 Ibid., para. 12.
25 Ibid., para. 13.46
防衛研究所紀要第 15 巻第 1号(2012 年10月)
3月21日にはバフォディアやカバラといった地域において、RUFとAFRCの間に戦闘
が発生したため、UNAMSILは軍事監視員とケニア大隊から2 個小隊を現地に派遣した。
戦闘は断続的に 3月30日まで続いたが、AFRC 側が UNAMSILによって提案された武
装解除に応じ、ルンギの武装解除キャンプへと移った。その後カバラには軍事監視員とケ
ニア大隊から1個小隊が展開していたが、5月に入ってからの情勢悪化を受けて態勢を立
て直すため、マケニに後退した 26
。さらに 4月30日には、AFRCによる武装強盗に対応す
るため派遣された、UNAMSIL のナイジェリア部隊が反乱軍に拘束され、武装解除されて
しまった。またその際、ナイジェリア部隊の軍曹1名が銃撃されて重傷を負っている27
。
このように、UNAMSIL の軍事力には抑止の提供が期待されていたが、反乱軍に対し
て有効な抑止を発揮することはできなかった。紛争当事者からの協力を前提としていた
UNAMSILは、反乱軍の非協力的態度や敵対行動に直面した場合に強硬に抵抗する準備
ができておらず、UNAMSIL の軍事能力の低さを確認した RUFはより全面的に和平への
反旗を翻すことになる。
(3)5月危機
RUFの敵対行動は 2000 年5月に一層深刻になり、UNAMSILは崩壊の危機に瀕する
ことになった。4月半ば、マケニ、マグブラカ、ボー、モヤンバの各地に DDRキャンプが
設置されると、RUFは DDRプロセスに対する妨害を開始した。サンコーは UNAMSIL
によるRUFの武装解除に強く反発していた。彼はロメ和平合意の取り決めのうち、政府
とUNAMSIL が軍事的側面、すなわちRUFの武装解除について熱心な一方で、政治的
取り決めの履行が不足していると考えていた。サンコーは UNAMSILとそのフリータウン
におけるプレゼンスを支持しておらず、あらゆる機会をとらえては事態の悪化をUNAMSIL
の責任として非難していた。4月22日にはマグブラカの DDRキャンプを警護していた
UNAMSILケニア大隊とRUF が衝突し、同キャンプは一時閉鎖された 28
。
先述の通り、それまで ECOMOGとして大規模な部隊を駐留させていたナイジェリアは
ECOMOG 撤退を決定していたが、UNAMSIL に編入される2 個大隊と1個戦車中隊
を除く部隊の撤退が 5月2日に完了した 29
。そしてこの 5月2日の ECOMOG 撤退以降、
26 United Nations,“Fourth Report of the Secretary-General on the United Nations Mission in Sierra Leone,”
UN Doc. S/2000/455, May 19, 2000, para. 15.
27 Olonisakin, Peacekeeping in Sierra Leone, p. 54.
28 Ibid., pp. 54-58.
29 5月15日時点での UNAMSIL の規模は、軍事監視員 260 名を含む 9,251名となっていた。United Nations,
“Fourth Report of the Secretary-General on UNAMSIL,”paras. 23-24.平和作戦における軍事力の機能に関する一考察
47
RUFは大規模な軍事行動に移り、UNAMSILに攻撃を加えると共にフリータウンに向け
て進撃を開始する。すでに前日の 5月1日に、RUFはマケニとマグブラカの DDRキャン
プに部隊を進めており、両キャンプを警護するUNAMSILケニア部隊との間で緊張が高
まっていた。5月2日にはマケニとマグブラカの両 DDRキャンプは破壊され、UNAMSIL
を武装解除しようとするRUFと抵抗するUNAMSIL の間に戦闘が発生した 30
。さらに同
日、カイラフン地区では RUF が UNAMSIL 要員 30 名と、ヘリおよびその乗員・乗客
を拘束した。カイラフンに向かっていた 23 名からなるインド軍部隊も、クイヴァにおいて
RUFに拘束された31
。5月3日にはカンビアでナイジェリア中隊が RUFの攻撃を受けて拘束
され、RUFに武装を奪われた後に解放された 32
。5月3日までに、RUFは少なくとも49 名
の UNAMSIL 要員を人質にしており、マケニにおける戦闘ではケニア大隊の 4 名が死亡し
たと報じられた 33
。
こうした RUFによるUNASMILへの攻撃を受けて、ナイジェリア、マリ、リビアなどの
地域諸国は使節団を派遣し、サンコーに和平プロセスへと復帰するよう説得した。この使
節団との面会の後、5月3日にサンコーは、人質の解放とUNAMSILへの攻撃停止、そし
て UNAMSIL および人道支援機関の移動の自由を認めることで同意したと発表した 34
。
UNAMSIL自身についても、100 名規模のインド軍即応中隊を増援としてマグブラカへ
派遣し、カバラのケニア軍中隊をマケニに再配置し、新たに到着したザンビア軍大隊もマケ
ニへの増援として差し向けるなどの対応をとった35
。しかしこのザンビア軍大隊はRUFの待
ち伏せに合い、拘束・武装解除されてしまった。この時点で、RUFによって拘束され人質となっ
たUNAMSIL 要員は計 318 名と推測され、さらにその後一週間とたたないうちに、その
数は約500名へと増加した36
。RUFはフリータウンに向かって軍を進めてルンサルやマシア
カを制圧し、さらにウォータールーへと迫っていた。さらに RUFはマンゲからポート・ロコ
に対しても進軍しており、その先にあるルンギの安全も脅かされようとしていた 37
。
UNAMSILに付与されていたマンデートからすれば、UNAMSILには RUFの攻撃に対
して実力で対抗することが期待される状況であった。しかしUNAMSILは RUFの攻撃を
受けて多数が拘束・武装解除されてしまっていた。一部には抵抗を続けたり、無事に RUF
30 Ibid., paras. 56-59.
31 Ibid., para. 60.
32 Ibid., para. 61.
33 Olonisakin, Peacekeeping in Sierra Leone, p. 57.
34 Ibid.
35 Ibid.; United Nations,“Fourth Report of the Secretary-General on UNAMSIL,”para. 62.
36 Olonisakin, Peacekeeping in Sierra Leone, pp. 57-58.
37 Gwin Prins, The Heart of War: On Power, Conflict and Obligation in the Twenty-First Century,
Routledge, 2002, pp. 196, 200.48
防衛研究所紀要第 15 巻第 1号(2012 年10月)
を振りきり逃げきったりした部隊もあったが、全体としては RUFの攻撃に対して、有効な
防御を実現することに失敗したといえる。
RUF がフリータウンに向けて進軍しており、UNAMSIL がこれを阻止できずに次々と拘
束・武装解除されていくなか、フリータウンでは反 RUF・反サンコーの機運が高まっていた。
この機運は 5月8日にサンコー邸を取り囲む約 30,000人のデモとなって表出した。しかし
このデモに対して、サンコーの護衛が銃撃を加えたことでデモ隊の 20 名ほどが死亡、さら
に多数が負傷する惨事となってしまった。このとき邸内にいたサンコーは逃亡したものの、
その後 5月17日に拘束された 38
。
(4)英軍の目的と活動
このような状況の中、2000 年5月に英軍がシエラレオネに介入した。当初の英軍の任務
は、イギリス国籍保持者などを対象とする非戦闘員退避作戦(non-combatant evacuation
operation: NEO)であった 39
。当時主にバルカン半島での作戦にコミットしていたイギリスは
シエラレオネへの介入に備えておらず、この介入は 5月4日の国連安保理開催後に国連事
務総長および米仏両国の意向を受けて、予期せず急遽実施せざるを得なくなったものであっ
た40
。しかし、その後のイギリスの行動は迅速であり、数日のうちに部隊を展開して「パリ
ザー作戦」と名付けられた NEOに備えた41
。そして5月8日、前述のとおりフリータウンで
サンコー邸前でのデモ隊にサンコーの護衛が銃撃を浴びせるという事件が発生すると、同
日午後の早い時間に英国高等弁務官は統合任務部隊司令官のデイビッド・リチャーズ(David
Richards)准将に NEO の実施を要請し 42
、英軍によるNEO が開始された。その後数日
以内に 499 名の資格保持者が避難したが、一方で英軍の到着をうけて多くの者が残留を
決め、状況も安定し始めた43
。
NEOを成功裏に実施したイギリスであったが、そのまま撤退してしまえば UNAMSIL
を見捨てたとの認識が広がってしまい、状況を再度不安定化させる恐れがあった44
。今回の
38 Olonisakin, Peacekeeping in Sierra Leone, p. 60.
39 NEO の対象となった「資格保持者」(entitled personnel)は、具体的にはイギリス国籍保持者、EU、コモンウェ
ルス、アメリカ国民、そして能力の余剰分と当該国政府のコスト負担に応じて他国の国民、であった。Andrew M.
Dorman, Blair’s Successful War: British Military Intervention in Sierra Leone, Ashgate, 2009, p. 61.
40 Ibid., pp. 57-58, 62-64.
41 Ibid., pp. 70-80.
42 状況の急速な悪化を受けて、トニー・ブレア(Anthony Blair)首相、ロビン・クック(Robert Cook)外相、ジェフ・
フーン(Geoffrey Hoon)国防相の 3 名は、そのすべての政治的・軍事的権限を、英国高等弁務官(政治面)と
統合任務部隊司令官(軍事面)に委任していた。これにより、両者が NEO 実施のタイミングや、UNAMSIL お
よびシエラレオネ政府への支援内容を決定することが可能であった。Ibid., p. 79.
43 Ibid., p. 80.
44 Ibid., p. 78-79.平和作戦における軍事力の機能に関する一考察
49
介入では、リチャーズは作戦偵察連絡チーム(Operational Reconnaissance and Liaison
Team: ORLT)の長としてシエラレオネに入ったが 45
、過去にシエラレオネを数度訪問してい
たリチャーズは、カバ大統領を含めて要人にも顔の通った存在となっており46
、さらにジェッ
トリーや UNAMSIL 訪問中の国連 PKO 局トップであるバーナード・ミエット(Bernard
Miyet)と協議して UNAMSILとの協力関係を確保していた47
。そのため英軍は、NEO 実
施後もUNAMSILを支援するために以下のことを実施した。
第一に、フリータウンとルンギ空港周辺の要地を確保した。NEOを実施するためには
ルンギ国際空港が不可欠であったため、カバ大統領の同意の下、英軍はすでに 5月7日
以降同空港を確保し続けていた48
。またフリータウンでは、英軍が避難地点の安全確保に
加えてパトロールも開始した。さらに 5月14日には海兵隊を中心とする水陸両用即応群
(Amphibious Ready Group: ARG)と空母イラストリアスがシエラレオネ沖に到着し、英
軍の規模と能力は大幅に強化された。第二に、UNAMSILの支援と強化のため、RUFの
侵攻ルート上に位置していたUNAMSIL部隊に対し、ルンギに到着したUNAMSIL 増援
部隊と装備をヘリで輸送した。また、すべての UNAMSIL部隊に連絡士官を派遣し、防
御陣地の構築やRUFの進軍ルート想定などでアドバイスを提供した。第三に、カバによる
国内民兵組織の動員にも協力した。カバは、この時点で政府側に立っていた民兵組織であ
るAFRCや CDF、ウェスト・サイド・ボーイズ(West Side Boys: WSB)などを動員して
武装し、これらを指揮するため各勢力の長で構成される統合軍事委員会を設置した。こう
した民兵は、合わせて6,000 名ほどの規模であった。英軍は各勢力に対して連絡士官を
派遣し、ガイダンスを提供した。第四に、RUFの位置と能力および意図を把握する努力も行っ
た。偵察機やヘリなどによる空からの偵察、地上部隊の無線傍受(RUFは通信の管理が
できておらず、容易に会話内容を聞き取れた)、特殊部隊による偵察などで情報を収集した。
第五に、リチャーズは情報戦も展開した。ラジオを通じてイギリスのコミットメントを宣伝し
たほか、フリータウンをパトロールする英兵や、あえて陸上から肉眼で見える距離に停泊す
る英軍艦艇の存在、航空機による上空飛行によっても英軍の存在を誇示した。特に艦艇に
ついては、シエラレオネ川をさかのぼり、実弾演習を実施した49
。
45 ORLTの目的は状況の調査と、作戦実施段階において統合司令部の基礎となることであり、シエラレオネのケー
スでは 5月7日に英軍前方司令部となるよう任務が再付与された。Ibid., pp. 72-73, 79.
46 Prins, The Heart of War, p. 197.
47 Ibid., p. 200. この点については、リチャーズ自身もその効用を指摘している。David Richards,“Sierra Leone:
‘Pregnant with Lessons,’”David Richards and Greg Mills eds., Victory among People: Lessons from
Countering Insurgency and Stabilising Fragile States, Royal United Services Institute for Defence and
Security Studies, 2011, p. 457n7.
48 Dorman, Blair’s Successful War, pp. 73-74, 79-80, 92.
49 Ibid., pp. 92-94.50
防衛研究所紀要第 15 巻第 1号(2012 年10月)
英軍の展開時には RUFはまだフリータウンやルンギには到達していなかったことから、
英軍の行動は抑止が目的であったと考えることができる。しかし英軍の展開にも関わらず
RUFは前進を続けたため、5月17日に英軍とRUFの初めての衝突が発生した。前日の
16日に、英軍部隊はルンギ空港防衛のための前方拠点として、同空港近くのルンギ・ロルと
いう村を占領していた。この村に対して、RUFの攻撃を逃れてきた難民が押し寄せてきた
ため、英軍は RUF が接近していることを事前に感知した。やがて RUF が村に到達する
と、英軍との間で数時間にわたる戦闘が発生し、英軍の強硬な反撃によって RUF 側は 30
名以上が死亡した。その一方で英軍側には犠牲は生じなかったため、この戦闘は RUFに
対して英軍の先進的軍事能力を見せつける結果となった 50
。
イギリスにとって RUFは決して信用できない相手であり、何らかの形で武装解除される
必要があった 51
。すなわち、現状は受け入れ可能な状況ではなく、抑止や防御にとどまらず、
能動的に RUFに対して影響力を行使し、現状を変更していくことが必要であった。RUF
に対抗する方法として、イギリスの取りうる選択肢は 3つであった。一つは英軍部隊を展開
して直接対抗するもので、これには1個旅団(5,000 名)以上が必要と考えられた。第二に、
UNAMSILが国連憲章第 7 章下の任務を遂行することで RUFを打倒するという方法が考
えられた。第三に、SLA が各種の民兵と共同で RUFを打倒するという方法も考えること
ができた。現実に取りえたのは第二か第三の選択肢であり、リチャーズは、UNAMSILは
RUFを打倒するだけの能力も意思も持ち合わせていないが、RUF が後退した後の地域を
確保することは可能と考えた。そこで彼は第三の選択肢が現実的として、SLAを強化して
RUFに直接対抗させ、RUF が撃退された地域はUNAMSIL が確保するという形の分業
を構想した。この構想を実践するため、英軍は SLA および政府派の民兵に対して武器を
供与し、訓練を提供したほか、特に問題があったロジスティクスと通信の面で支援を提供
した。こうした支援の結果、実質的には英軍がSLAの作戦を指揮しているような状況となり、
また英軍はUNAMSILの作戦に対しても多大な影響を与えていた 52
。
5月半ばから 6月前半にかけて、英軍の介入と支援を受けて態勢を立て直した SLAや
CDF、そして政府派民兵といった政府派勢力は、UNAMSIL の支援も受けながらRUF
に反撃を加えた。ウォータールーに向けて進出していた RUFに対して政府派勢力は攻撃を
加え、RUFを押し戻すことに成功した。マシアカ、ログベリ・ジャンクション、そしてルンサ
ルへと政府派勢力は RUFと交戦しながら進軍し、要所の奪い合いを演じた。また政府派
50 Ibid., p. 94.
51 Ibid., p. 95.
52 Ibid., pp. 97-98.平和作戦における軍事力の機能に関する一考察
51
勢力とUNAMSILは、RUFによるポート・ロコに対する攻撃も撃退した 53
。こうした進展
に加えて UNAMSILにも増援が到着したことを受け、英軍は 6月15日に主要な部隊を引
き上げた 54
。
しかし、依然としてSLAの能力は十分とはいえず、RUFに対抗するためにはさらに訓練
を提供する必要があった。そのためイギリスは、主要な英軍部隊をシエラレオネから撤退さ
せた後も、訓練チームを派遣してSLAに対する訓練を継続した。まず、英軍は短期訓練
チーム(Short Term Training Team: STTT)を派遣し、「バシリカ作戦」の下で SLAに
基本的な歩兵訓練を提供した。STTTによる訓練は 6 週間のコースからなり、一度に 2 個
大隊分の要員を訓練可能であった。第一陣の訓練は 7月22日に終了し、その後も続いて
新たな要員を育成するために訓練が継続して提供された 55
。STTTと並行して、国際軍事助
言訓練チーム(International Military Advisory and Training Team: IMATT)もシエラ
レオネに展開していた。イギリスは長期的な視野に立ったシエラレオネ治安部門改革支援を
1999 年から実施していたが、IMATTはその一環として 2000 年1月に構想されたもので
あった。IMATTの実際の展開は 2000 年 6月に始まり、シエラレオネ国防省や軍の指揮
官ポストに人員を提供した56
。さらに2000 年5月から7月にかけて、イギリス軍事助言訓練
チーム(British Military Advisory and Training Team: BMATT)がガーナのアクラにお
いて40名のシエラレオネ軍士官に対し、指揮幕僚課程を実施した。具体的な課程の内容は、
士官の任務や軍事組織に関する基礎的事項と戦術的問題に大きく分けられており、全体を
通じて武力紛争法を含む法的側面が重視されていた。最終的に 40 名中 39 名が無事に課
程を修了し、うち 4 割以上は部隊や司令部で参謀を務めうるだけの能力を備えていると認
められた。訓練を受けた士官は 2000 年 8月までに配置につき、訓練で養った能力を発揮
していった 57
。
このように SLAの育成が着々と進む一方、SLAの訓練にあたっていた英ロイヤル・アイ
ルランド連隊の11名とSLAの連絡士官 1名が、パトロール中に WSBに拘束されるとい
53 “Sierra Leone News: May 2000,”The Sierra Leone Web, under“11 May”-“31 May,”<http://www.sierraleone.org/Archives/slnews0500.html>;“Sierra Leone News: June 2000,”The Sierra Leone Web, under“1
June”-“7 June,”<http://www.sierra-leone.org/Archives/slnews0600.html>.
54 Prins, The Heart of War, p. 205.
55 Dorman, Blair’s Successful War, p. 99.
56 Peter Albrecht and Paul Jackson, Security System Transformation in Sierra Leone, 1997-2007, 2009,
pp. 48-49, 54, 58-59, <http://www.ssrnetwork.net/documents/Publications/SierraLeoneBook/Security%20
System%20Transformation%20in%20Sierra%20Leone,%201997-2007.pdf>.
57 Simon Diggins,“Operational Focus: Command and Staff Training for the Sierra Leone Military,”The
Conflict, Security & Development Group Bulletin, No. 9, January/February 2001, pp. 9-10, <http://www.
securityanddevelopment.org/pdf/bulletin_issue9.pdf>.52
防衛研究所紀要第 15 巻第 1号(2012 年10月)
う事件が 8月25日に発生した。WSBは AFRC 首班であったコロマに率いられていたが、
コロマは 5月危機以降カバ政府側につき、フリータウンにそのまま残留したため、WSB指
導者の座はフォディ・カーライ(Foday Kallay)准将(自称)にとってかわられた。RUF か
らの離反者であったカーライの下で WSBは政府から離れ、DDRプロセスに入るよう求め
られても無視し、グベリ・バナに拠点を構えて現地住民を迫害していた 58
。
WSBとの交渉によって拘束された人質の一部は解放されたものの、その後交渉が進展
しなかったことから、イギリス政府は実力での人質奪還を決定、「バラス作戦」を 9月10
日に実施した。人質が拘束されていたWSB 拠点を特殊部隊と空挺連隊がヘリボーン作戦
によって強襲し、わずか 20 分の間に人質を奪還、さらに WSBに使役されていた 22 名の
シエラレオネ人も救出したほか、カーライも拘束した。人質救出後にはジャングルへ逃げ込
んだ WSBの掃討も行われ、最終的に英軍は WSBの 25 名を殺害し18 名を拘束した。
この作戦では英軍部隊にも1名の犠牲が生じ、他に12 名が負傷した 59
。なお、バラス作戦
の後には、英軍によって訓練された SLA がオクラ・ヒルのWSBに対して掃討作戦を実施
している60
。
さらにイギリスは、後述するようにインドとヨルダンの要員が UNAMSILから撤退するこ
とを受け、兵員の入れ替えが UNAMSIL の弱体化としてつけ込まれないよう、シエラレオ
ネに対するコミットメントを宣伝すると共に、11月の1週間の間 ARGをシエラレオネ沖に派
遣した 61
。ARGを構成する6 隻の艦艇は上陸演習や砲撃演習を実施し、ヘリにシエラレオ
ネ上空を飛行させ、また海兵隊がフリータウンを行進するなど、各種の示威行為を実施した。
この後、無事にUNAMSILの部隊入れ替えは終了した 62
。
(5)UNAMSIL(後期)の目的と活動
イギリスとUNAMSILはRUFに対するアプローチについて意見を異にしていた。英軍は、
UNAMSIL はより積極的に武力を行使すべきであると論じていた。一方、UNAMSIL 事
務総長特別代表のアデニジは、最も成功する可能性が高いオプションはロメ和平合意の復
活とRUF への再関与であるとしていた。アデニジは、UNAMSILには RUFを打倒する
だけの軍事的能力がないことを認識していた 63
。
58 Dorman, Blair’s Successful War, pp. 104-105.
59 Woods and Reese, Military Interventions in Sierra Leone, pp. 66, 69-71.
60 Dorman, Blair’s Successful War, p. 118.
61 Ibid., pp. 118-119.
62 Prins, The Heart of War, p. 208.
63 Olonisakin, Peacekeeping in Sierra Leone, p. 66.平和作戦における軍事力の機能に関する一考察
53
5月危機への対応として、アデニジは 3つのオプションを検討した。第一は現状のアプ
ローチを維持するもので、これは現実的にとりうるものではなかった。第二は ECOWAS
か有志連合に頼るというものであったが、これもECOWASの再関与は多大な支援を与え
ない限りは無理と思われたし、他に完全な軍事的コミットメントを提供する用意のある国も
いないように思われた。そこで第三の選択肢として、UNAMSIL のマンデートと作戦構想
の変更が行われた 64
。安保理ではUNAMSILを強化する決定が続々と下され、一連の決
議で UNAMSIL の規模は最大 17,500 名まで拡大されたほか 65
、コフィー・アナン(Kofi
Annan)国連事務総長によって提示された作戦構想も承認された。
まず、2000 年 5月19日に採択された安保理決議 1299では、現地の治安情勢の悪化
を受けて、UNAMSIL の規模を260 名の軍事監視員を含む最大 13,000 名にまで拡大す
ることを決定した。加えて、各国に対して UNAMSILを強化するために兵員および後方支
援その他の軍事的能力を追加的に提供するよう求めている66
。
フリータウンへの進軍が挫折し、SLAや CDFといった政府派勢力の攻撃を受けて後退
を余儀なくされた RUF であったが、ルンサル、マシアカ、ポート・ロコといった地域では
政府派勢力に対する攻撃を繰り返していた。UNAMSILについても政府派勢力が確保し
た地域に展開し、RUFによる攻撃に対して反撃していた。6月12日にはロケル・ブリッジ
において、ヨルダン軍特殊部隊の中隊が、カヌーを使って渡河を試みた約 200 名規模の
RUFを3回にわたり退けた 67
。6月30日にはマイル 91付近でヨルダン部隊が攻撃され、同
部隊の1名が死亡、4 名が負傷したが、攻撃した RUFのほとんどは反撃で殺害された 68
。
さらに 7月4日には RUF がマシアカの奪取を試みて攻撃を加え、同地を確保していた政
府派勢力は撤退に追い込まれたが、UNAMSIL のインド軍およびヨルダン軍部隊が迅速
に展開し、同日交戦の末 RUFをマシアカから撃退した。マシアカの地理的重要性を鑑み、
UNAMSILは同地への駐留を増強した 69
。ポート・ロコに対しては 5月以降、RUFは幾度
も攻撃を加えており、そのたびに同地に展開しているUNAMSIL のナイジェリア部隊は政
64 Ibid., p. 92.
65 United Nations Security Council, Resolution 1346, March 30, 2001.
66 United Nations Security Council, Resolution 1299, May 19, 2000.
67 William Fowler, Operation Barras: The SAS Rescue Mission, Sierra Leone 2000, Cassell, 2004, pp. 102-
103;“Sierra Leone News: June 2000,”The Sierra Leone Web, under“13 June.”
68 United Nations,“Fifth Report of the Secretary-General on the United Nations Mission in Sierra Leone,”
UN Doc. S/2000/751, July 31, 2000, para. 21;“Sierra Leone News: July 2000,”The Sierra Leone Web,
under“1 July,”<http://www.sierra-leone.org/Archives/slnews0700.html>.
69 United Nations,“Fifth Report of the Secretary-General on UNAMSIL,”para. 21;“Sierra Leone News:
July 2000,”The Sierra Leone Web, under“4 July.”54
防衛研究所紀要第 15 巻第 1号(2012 年10月)
府派勢力と共に攻撃を撃退している70
。
このように、5月危機後の UNAMSIL は RUF などによる攻撃に強硬に反撃するように
なっていった。しかし、政府派勢力として5月危機において共に RUFに対抗した SLAと
WSBの間には対立が深まり、武力衝突が発生するまでになっていた。この内紛に付け入る
形で、RUFは政府側勢力からルンサルを奪還した71
。SLAとWSBの度重なる衝突を受け、
シエラレオネ政府とコロマはSLAとWSBの対立を解決しようと試みたが、うまくいかなかっ
た。政府はWSBに対し、武装解除に応じて新国軍編入へのスクリーニングを受けるよう最
後通牒を出したが、WSBはこれを受け入れなかった。WSBはオクラ・ヒル地区に陣取り、
マシアカに続く道路に検問を設けて民間人からの略奪を行ったほか、UNAMSIL の移動
も妨害した。さらに、WSBが RUFに加わろうとしており、UNAMSILへの攻撃を計画し
ている可能性を示す情報を得たことから、UNAMSIL はこれに先制すべく、7月22日に
WSBの検問を除去し、オクラ・ヒル地区を掃討するための軍事作戦を実施した。作戦は
成功裏に終了し、UNAMSIL側は損害を被らなかった 72
。この「サンダーボルト作戦」には
ナイジェリア部隊とインド軍戦闘ヘリが投入され、道路からWSBを駆逐したかと思われた
が、彼らはすぐにまた舞い戻り、依然として道路が危険な状況にあったとの報道もある73
。
後に WSBが英兵を誘拐し、英軍の人質救出作戦によって大打撃を被ることは先述の通り
である。
RUFに拘束されていたUNAMSIL 要員については、リベリアのテイラーを通じてコノ地
区で拘束された461名が 5月16日から28日の間に解放され、さらに 6月29日にはクイヴァ
で拘束されたインド兵21名が解放された74
。一方で、カイラフンで包囲されていたインド軍部
隊については移動の自由が回復されない状況であった。UNAMSILは RUFとの連絡を維
持しており、RUF 司令官との接触によって、RUF 勢力下に拘束されているUNAMSIL部
隊に食料を届けることも可能であった。しかし道路状況の悪化とRUFの態度硬化によって
これも中止せざるをえず、外交・政治的手段が不発に終わったことを受けて、UNAMSIL
は包囲されたインド軍部隊の救出作戦を実施した 75
。この「ククリ作戦」にはインド軍 2 個
大隊を基幹にナイジェリアとガーナのそれぞれ1個中隊、さらに攻撃ヘリや火砲などが投入
70 “Sierra Leone News: May 2000,”The Sierra Leone Web, under“17 May";“Sierra Leone News: June
2000,”The Sierra Leone Web, under“15 June";“Sierra Leone News: August 2000,”The Sierra Leone Web,
under“24 August”“- 25 August,”<http://www.sierra-leone.org/Archives/slnews0800.html>.
71 “Sierra Leone News: June 2000,”The Sierra Leone Web, under“17 June,”“21 June.”
72 United Nations,“Fifth Report of the Secretary-General on UNAMSIL,”para. 23.
73 Fowler, Operation Barras, pp. 103, 109.
74 United Nations,“Fifth Report of the Secretary-General on UNAMSIL,”para. 24.
75 Ibid., paras. 25-27.平和作戦における軍事力の機能に関する一考察
55
され、英軍もヘリを用いた空輸支援を実施した。作戦は 7月15日に実施され、4 段階か
ら構成されていた。すなわち、カイラフンからの軍事監視員と負傷者などの空路救出、カイ
ラフンの部隊による包囲の強行突破、ダルから接近する救出部隊との合流、ダルへの後退、
である。16日の夜までに全部隊はUNAMSIL 基地まで帰還することができたが、包囲の
突破や救出後の後退に際して RUFとの激しい戦闘が発生し、インド兵1名が死亡、数名
が負傷した。一方の RUFの損害は甚大なものであったと考えられている76
。
2000 年 8月4日には、安保理決議 1313 が採択された。本決議では、RUF による
UNAMSILへの攻撃に対抗するため、任務面と能力面において UNAMSIL の強化が必
要であると述べられている。マンデートとしては、首都周辺地域と主要経路の安全確保や、
シエラレオネ政府の権威を行き渡らせて法の支配や安定を漸進的に拡大すること、そして
RUFの攻撃に対する抑止と対抗や、展開と能力の範囲内における民間人の防護、DDRプ
ログラム支援などを優先的任務として付与する意図が表明されている。能力面については、
こうした任務を遂行するためにも、特に航空・海洋戦力、予備戦力、通信、後方支援能力
などの面での強化が必要と指摘し、所要の能力を備え、効果的な指揮命令構造を伴った
76 Vijay K. Jetley,“‘Op Khukri’: The United Nations Operation Fought in Sierra Leone Part-I,”USI Journal,
Vol. 137, No. 567, January-March 2007, <http://www.usiofindia.org/Article/?pub=Journal&pubno=567&an
o=399>; Vijay K. Jetley,“‘Op Khukri’: The United Nations Operation Fought in Sierra Leone Part-II,”USI
Journal, Vol. 137, No. 568, April-June 2007, <http://www.usiofindia.org/Article/?pub=Journal&pubno=568
&ano=388>.
安保理決議 1313 において優先的任務として挙げられた UNAMSIL の任務
@ ルンギ半島およびフリータウン半島、またそれらへの主要な経路の安全を維持すること。
A いかなる敵対行動や急迫かつ直接的な武力行使の脅威にも強硬に対応することで、RUFによる攻撃の脅威を
抑止し、必要であれば決定的に対抗すること。
B 主要な戦略地点と人口密集地に、一体的な作戦構造と十分な規模と密度を持って漸進的に展開し、シエラレ
オネ政府と協調して、同政府による国土全体における漸進的な権威の拡張、法と秩序の回復、状況のさらな
る安定化の努力を、プレゼンスを通じまたそのマンデートの枠内において支援し、また能力と展開の範囲内に
おいて、急迫する物理的暴力の脅威にさらされている民間人に防護を提供すること。
C 地域を確保し、移動の自由を確保し、人道支援活動の提供を促進するため、戦略的連絡線、特に首都への
主要な経路を積極的にパトロールすること。
D 特に新たな DDRプログラムにつながるような政治プロセスの進展を可能であれば支援すること。
(出所)United Nations Security Council, Resolution 1313, August 4, 2000.56
防衛研究所紀要第 15 巻第 1号(2012 年10月)
部隊の提供を求めている77
。
アナン国連事務総長は安保理決議 1313 の採択を受けて、事務総長報告の中で
UNAMSIL の作戦構想を提示している。この作戦構想では、安保理決議 1313で示され
た優先的任務を達成する上での政治的取り組みの重要性を指摘しつつも、大前提として治
安の確保が不可欠であるとして、そのためにUNAMSIL が十分な態勢の下で順次段階的
に展開地域を拡大することを構想している。展開地域の拡大は、すべての紛争当事者との
協議および状況と利用可能なリソースに関する包括的検討を経た後に実施され、また反乱
軍に対して DDRプロセスに参加するよう説得することを目的とする政治的・広報的手段と
組み合わせて実施される。しかし同時に軍事的な態勢の必要性も指摘しており、広報を通
じ、攻撃・挑戦された場合には武力を行使する手段と決意があることを示すべきであると
している78
。
UNAMSILに不足していた装備についても戦闘ヘリが到着したほか、通信面では通信
大隊 1個が提供され、さらに地図や衛星画像の取得、UNAMSIL 本部への軍事情報班
の設置など情報面も強化された 79
。このように体制の強化が目指されたUNAMSILであっ
たが、内部にはナイジェリアとジェットリーUNAMSIL司令官の深刻な対立を抱えており、
最終的にはジェットリーの交代とインド軍部隊の撤退という結果を招いた。この背景には、
ECOWASから引き続き最大の兵員提供国でありながら、ナイジェリアに軍事部門司令官の
ポストが与えられなかったという構造的要因に基づく不満と80
、ジェットリーの執筆したメモ
の流出というスキャンダルが存在した。同メモは、ナイジェリア部隊がダイヤモンドの違法採
77 United Nations Security Council, Resolution 1313, August 4, 2000. 本決議においては、優先的任務として挙
げられた各種の任務をUNAMSIL に付与することが決定されているわけではなく、あくまでこれらを任務とする「意
図を表明」したのみとなっている。しかし、その後事務総長報告においてこれらの任務に基づく作戦構想が提示
されており、安保理決議 1334でも安保理決議 1313と同事務総長報告において提示された任務をUNAMSIL の
主要目的として「想起」(recalls)している。United Nations Security Council, Resolution 1334, December 22,
2000. 安保理決議 1313と事務総長報告の関係については、山下光「PKO 概念の再検討―『ブラヒミ・レポート』
とその後」『防衛研究所紀要』第 8 巻第 1号、2005 年10月、67頁を参照。
78 United Nations,“Sixth Report of the Secretary-General on the United Nations Mission in Sierra Leone,”
UN Doc. S/2000/832, August 24, 2000, paras. 15-22. この作戦構想は、後述するアブジャ和平合意の締結
や、UNAMSILへの追加の兵員提供といった状況の変化を踏まえて、後に修正されている。修正後の作戦構
想では、UNAMSIL の展開地域拡大の構想がより具体化されている。United Nations,“Ninth Report of the
Secretary-General on the United Nations Mission in Sierra Leone,”UN Doc. S/2001/228, March 14, 2001,
paras. 57-64. 安保理決議 1346 は、修正後の作戦構想の提示と進展を「歓迎」(welcomes)し、これを最後ま
で実践するよう「奨励」(encourages)している。United Nations Security Council, Resolution 1346, March
30, 2001.
79 Olonisakin, Peacekeeping in Sierra Leone, p. 98.
80 これは、ナイジェリア人であるアデニジが事務総長特別代表に任命されており、軍事部門指令官までナイジェリア
人とすることが難しかったためであった。代わりに軍事部門副司令官には先述のとおりナイジェリア軍准将のガルバ
が任命されている。Ibid., p. 82.平和作戦における軍事力の機能に関する一考察
57
掘によって利益を得ているとしてアデニジ事務総長特別代表とガルバ UNAMSIL 副司令
官を批判しており、さらにこの目的のためにナイジェリア部隊とRUFは裏で手を組んでいる
との見方まで示していた81
。こうしたジェットリーの主張にナイジェリアは強く反発してジェット
リーの更迭を求め、一方のインド政府もジェットリーに対する批判の高まりにインド部隊を引
き上げると脅して応じた。結局、アデニジが続投する一方、軍事部門司令官はケニアのダニ
エル・オパンデ(Daniel Opande)中将と、軍事部門副司令官は前任と同じナイジェリアの
マーティン・アグワイ(Martin Agwai)少将とそれぞれ交代した 82
。そしてインドは 9月20
日に UNAMSIL からの撤退を通知した。UNAMSIL に参加していた 2 個の大隊はそれ
ぞれ11月と翌年1月に撤退し、その他のすべての要員と装備は12月に撤退することとさ
れた 83
。撤退するインド部隊の代わりにはパキスタン部隊が展開することとなったが、インド
軍部隊はUNAMSIL 内で最も実力を伴った部隊であったため、UNAMSILにとって痛手
となった 84
。
一方の RUF 側についても、指導者の交代があった。RUFは 8月21日、政府側に拘束
されているサンコーに代わり、イッサ・セサイ(Issa Sesay)が暫定指導者になると発表し
た 85
。先述した人質の解放に続き、RUFの指導者交代にあたっても大きな役割を果たした
のはリベリアのテイラーであった。6月26日にリベリアで開催された ECOWASの会議に
おいて、和平の回復のためには RUFはサンコーに代わる指導者を選出すべきであるという
点で合意がなされた。テイラーはこのメッセージを現場の RUF 指揮官たちに伝える役割を
務め、RUF 側は 8月にセサイ准将を暫定指導者として選出する形でこれに応えた。これを
受けてマリおよびナイジェリア両国の大統領がルンギ空港に向かい、そこに連れてこられた
サンコーと面会した。両大統領は新指導者としてセサイを選出した旨を報告するRUF から
の手紙をサンコーに渡し、サンコーはこの人選に同意したのであった 86
。
しかし、この RUF 指導者交代は、すぐには状況の変化をもたらさなかった。RUFの現
場司令官、特に北部の司令官たちの中にはセサイの権威を認めない者もいるとされたほか、
武器やダイヤモンド産出地帯をRUFは手放さないと主張して強硬な敵対姿勢を維持する者
もいた。一方のシエラレオネ政府は、戦闘の停止を望むとしつつも、その条件として RUF
のダイヤモンド産出地帯を含む支配地域からの撤退を主張し、同時に RUFの軍事的打倒
81 Gberie, A Dirty War in West Africa, pp. 168-169.
82 Olonisakin, Peacekeeping in Sierra Leone, p. 86.
83 United Nations,“Seventh Report of the Secretary-General on the United Nations Mission in Sierra
Leone,”UN Doc. S/2000/1055, October 31, 2000, para. 48.
84 Olonisakin, Peacekeeping in Sierra Leone, p. 86.
85 United Nations,“Sixth Report of the Secretary-General on UNAMSIL,”para. 10.
86 Olonisakin, Peacekeeping in Sierra Leone, p. 77.58
防衛研究所紀要第 15 巻第 1号(2012 年10月)
も追求していた 87
。
(6)内戦の終結
8月後半以降シエラレオネの治安情勢は小康状態にあり、政府側・RUF 側それぞれの支
配地域にも大きな動きはない状況であった。SLAとCDFは RUFを撃退すべく作戦を継続
しているものの、成果は芳しくなかった。作戦は主にマンゲおよびカンビア方面やリトル・ス
カーシーズ川沿いの地域で実施されており、CDFはコノ地域の北東部やトンゴで RUFと交
戦していた。RUFは防御体制を強化していたほか、UNAMSILに対してもRUFやWSB
から攻撃が数度加えられているが、これらは UNAMSILによって撃退され、UNAMSIL
側に損害は発生していなかった 88
。
これに対し、ギニア、リベリア、シエラレオネ国境間では緊張が高まり、RUFとギニア
軍の間で衝突が発生した。9月初め以降、RUF がギニアの国境近くの村に攻撃を加えるよ
うになり89
、ギニア政府は米英仏の支援を受けてRUFに反撃を加えた90
。ギニアはRUF拠
点に砲撃や空爆を加え 91
、コノ地区の CDF 1,000 名を訓練してダイヤモンド産出地帯に送り
込んだほか、さらに RUFの背後にいるリベリアに対しても新たな反テイラー勢力としてリ
ベリア和解民主連合(Liberians United for Reconciliation and Democracy: LURD)を
武装・展開させた92
。ギニア軍とRUFの戦闘は2000年末から2001年初頭にかけて激化し、
一連の戦闘によって民間人にも多くの犠牲を出した93
。ギニア軍とRUFの戦闘は、後述する
ように武装解除が 2001年5月に再開して以降終息した 94
。ギニア軍との衝突では、最終的
に RUFは完全に守勢に立たされたうえ、さらにテイラーがリベリア内で LURDに対抗す
るために RUFの中核戦闘員約 2,000 名を引き抜いたとされており、これがシエラレオネに
残るRUFの立場を一層脆弱にすることとなった 95
。
また、RUF 内においても路線対立が存在していたことが、無線傍受によって把握されて
いる。この路線対立は、元来 RUF 指導部内に存在する、政治的解決と軍事的解決をそ
87 United Nations,“Seventh Report of the Secretary-General on UNAMSIL,”paras. 2-3.
88 Ibid., paras. 13-15.
89 Ibid., para. 5.
90 Gberie, A Dirty War in West Africa, p. 172.
91 United Nations,“Ninth Report of the Secretary-General on UNAMSIL,”para. 22.
92 Gberie, A Dirty War in West Africa, pp. 172-173.
93 United Nations,“Eighth Report of the Secretary-General on the United Nations Mission in Sierra Leone,”
UN Doc. S/2000/1199, December 15, 2000, para. 10; United Nations,“Ninth Report of the SecretaryGeneral on UNAMSIL,”para. 22.
94 United Nations,“Eleventh Report of the Secretary-General on the United Nations Mission in Sierra
Leone,”UN Doc. S/2001/857, September 7, 2001, para. 9.
95 Gberie, A Dirty War in West Africa, p. 173.平和作戦における軍事力の機能に関する一考察
59
れぞれ目指すグループ同士の方針の違いに起因していた。政治的解決を目指すグループは
ロメ和平合意への復帰を望んでおり、もう一方のグループは現状の維持を望んでいた 96
。
こうした文脈の中、10月の UNAMSIL および ECOWASとRUFとの間の接触の中で、
RUF 側から停戦とロメ和平合意復帰への関心が表明された。その後の調整の結果、11月
10日にアブジャにて会合が実現し、シエラレオネ政府とRUFの間に停戦合意が結ばれた。
このアブジャ合意では、UNAMSILに停戦監督任務が与えられ、シエラレオネ全土におけ
る移動の自由が認められた。また加えて、人道支援の妨害ない実施やUNAMSILの武器・
装備の返還、DDRの即時再開と履行状況の30日後のレビューが定められた97
。しかしまた
してもRUFの合意遵守姿勢は疑問符が付くものであり、その後の UNAMSILとの接触
では停戦へのコミットメントを表明しながらも、その一方で合意に反して、サンコーの釈放
などの条件が満たされない限り、UNAMSIL は RUFの支配地域に立ち入ることはできな
いと主張していた 98
。その後当初30日とされた停戦期間をさらに90日延長することで合意
が成立したが、UNAMSILは RUFに対し、強制的に武装解除を実施するような行動はと
らなかった 99
。
こうした RUFの姿勢は、国際社会からの圧力を受けてリベリア政府が 2001年1月に公
に RUF 支援の停止を表明し100
、さらに RUFに対する新たな圧力としてダイヤモンド禁輸に
向けた動きが進む中、5月に入ってついに軟化することとなった。2001年5月2日にはシエ
ラレオネ政府、ECOWAS、UNAMSIL、RUFの代表が再びアブジャで会談し、CDFと
RUFの同時武装解除が決定された。この会談の 5日後、シエラレオネ産違法ダイヤモンド
の流通ルートと考えられていたリベリアに対するダイヤモンド禁輸が決定された。さらにその
1週間後には、再度シエラレオネ政府、UNAMSIL、RUFによる会談が開かれて DDRプ
ロセスが検討された。これを受けてようやくRUFの大規模な武装解除が実現し、今回の
武装解除は順調に進捗した101
。2001年5月に DDR が再開されてから2002 年1月までに
47,000名以上が武装解除され、その内訳はRUFが約19,200名、CDFが約27,700名となっ
96 Dorman, Blair’s Successful War, pp. 119-120.
97 United Nations,“Eighth Report of the Secretary-General on UNAMSIL,”para. 2.
98 Ibid., paras. 5-9.
99 Dorman, Blair’s Successful War, p. 121.
100 United Nations,“Ninth Report of the Secretary-General on UNAMSIL,”para. 27.
101 Dorman, Blair’s Successful War, pp. 121-122.60
防衛研究所紀要第 15 巻第 1号(2012 年10月)
ていた102
。そして 2002 年1月18日、カバ大統領は武装解除の完了と内戦の終結を宣言し
た103
。
3 シエラレオネでの平和作戦における軍事力の機能
本節ではまず第 1項において、第 1 節で整理した軍事力の物理的強制機能の 4 類型
を念頭に置きながら、前節で概観した UNAMSIL および英軍の軍事力の用い方につい
て、大きくその性質の受動・能動の別に応じて整理する。続いて第 2 項において、この
UNAMSILと英軍による軍事力の使用が、RUFに停戦と武装解除を受け入れさせる上で
どのような役割を果たしていたと考えられるか評価する。
(1)UNAMSIL および英軍による活動の整理
ここまでに見てきたとおり、UNAMSIL および英軍は共に受動的・能動的双方の形態に
おいて軍事力を用いている。UNAMSILの展開はロメ和平合意に基づいており、停戦の存
在が前提となっていた。武装解除などの和平の履行については、紛争当事者が自発的に行
うことが想定されており、軍事力が現状を変更するために物理的強制力の機能を発揮する
ことは期待されていなかった。むしろ、当初 UNAMSIL の軍事力に求められていたのは
PKO 部隊自身や民間人の防護、主要地点や DDRサイトの安全維持であり、展開時には
存在していた停戦を維持する現状維持であったといえる。しかしRUFは和平を尊重してお
らず、ECOMOG がシエラレオネから撤退すると大規模な軍事行動を開始し、UNAMSIL
に対しても攻撃を加え、要員を拘束して武装解除した。こうした RUFの行動に対して、
UNAMSILはマンデート上武力を行使できる状況でも一部を除いて抵抗していないか、あ
るいは抵抗してもRUF 側に圧倒されてしまっていた。したがって、現状を維持するために
受動的な物理的強制力としての機能を発揮することが期待されていたUNAMSILの軍事力
は、5月危機の段階では抑止に失敗し、さらに防御にも失敗したことになる。
一方、その後英軍の介入を経た 5月危機後には、UNAMSILも攻撃を受けた際には強
硬な反撃を加えるようになっている。フリータウンに向けて進軍してきた RUFに対する反
102 United Nations,“Thirteenth Report of the Secretary-General on the United Nations Mission in Sierra
Leone,”UN Doc. S/2002/267, March 14, 2002, para. 13. 全活動期間を通じては、UNAMSIL はシエラレオネ
内各武装勢力の合わせて 75,000 名以上を武装解除した。United Nations Department of Public Information,
“United Nations Mission in Sierra Leone, Fact Sheet 1: Disarmament, Demobilization and Reintegration,”
December 2005, <http://www.un.org/en/peacekeeping/missions/past/unamsil/factsheet1_DDR.pdf>.
103 Olonisakin, Peacekeeping in Sierra Leone, p. 111.平和作戦における軍事力の機能に関する一考察
61
攻の前面に立ったのは SLAや CDF、そして政府側民兵といった政府派勢力であったが、
UNAMSILは政府派勢力が RUF から奪還した地域に駐留してその確保にあたった。特に
フリータウンとルンギを陸路で結ぶルート上に存在するマシアカやポート・ロコは戦略的要
衝であったが、こうした地域を確保するため、RUF が攻撃した際にはUNAMSILも強硬
に抵抗してこれを撃退している。こうした武力行使は、現状を維持するための受動的な物
理的強制力の発揮であり、防御を成功裏に実施していたといえる。
UNAMSIL による最大の能動的武力行使としては、ククリ作戦が挙げられる。
UNAMSIL は RUFに包囲されて身動きが取れなくなったインド軍部隊の救出作戦を実施
した。本作戦ではUNAMSIL側がイニシアティブをとり、救出部隊と包囲されていた部隊
が RUFと交戦しながらその包囲を突破している。これは現状変更を力ずくで達成するため
に RUF 部隊を攻撃した能動的な軍事力行使であったと理解できる。
次に英軍の行動について振り返ると、介入当初の英軍の第一の目的は自国民を中心とす
る資格保持者の NEOであった。しかし同時に、イギリスは UNAMSIL の態勢立て直し
が必要であることも認識していた。そしてこの両方の目的にとって不可欠であったのが、フ
リータウンとルンギ国際空港の安全確保であった。英軍がフリータウンとルンギに展開した
時点では RUFはまだ両地に到達しておらず、したがってこのフリータウンおよびルンギ空港
の確保については、英軍は現状維持を目的としていたといえる。したがって、英軍の軍事力
に期待される機能は受動的なものであり、当初の英軍の行動は抑止を企図していたと理解
できる。しかしこの抑止は完全には機能せず、進軍を続けた RUFと英軍がルンギ付近で
衝突した。この戦闘は英軍の勝利に終わり、英軍は成功裏に防御を実践した。
一方、明確に能動的な軍事力行使であったのがバラス作戦であった。SLAの訓練にあたっ
ていた英兵が WSBに誘拐されると、英軍はWSBの拠点を強襲して人質救出作戦を成功
裏に実施した。本作戦では、WSBによる人質の拘束という現状を変更するために、英軍
は軍事力の直接的な使用によって WSBを攻撃し、力ずくで目的を達成した形となった。
これらに加え、英軍は「『水平線越え』戦力」(“over-the-horizon”force)104
として、そ
のプレゼンスを誇示する示威行動もとっていた。航空機の飛行や沖合に停泊する艦艇、ま
たそれらによる演習といった示威行動は、RUFに新たな攻勢を思いとどまらせるという意
味では抑止として、また地上で対 RUF 作戦を実施していた SLA、CDF、UNAMSILを
支援してRUFに和平と武装解除を促すという意味では強要として機能していたと思われる。
104 Peacekeeping Best Practices Unit, Department of Peacekeeping Operations, Lessons Learned from United
Nations Peacekeeping Experiences in Sierra Leone, 2003, p. 40, <http://www.peacekeepingbestpractices.
unlb.org/pbps/Library/SL-LL%20Report.pdf>.62
防衛研究所紀要第 15 巻第 1号(2012 年10月)
その意味では、こうした示威行動は受動的・能動的双方の形態にまたがる軍事力の使用で
あったと捉えることができる。
また、先に受動的な軍事力行使と整理したルンギ付近での RUFとの戦闘についても、こ
の戦闘では英軍の高い能力を見せつけることとなったことから、見せしめとして RUF 全体
に対する強要の波及効果を持っていたとも考えられる105
。同様の波及効果は、バラス作戦
についても指摘することができるであろう106
。加えて、SLA が RUFに対する力ずくの攻勢
作戦を実施していたことを踏まえると、英軍によるSLAへの能力構築支援についてもRUF
に対する間接的な能動的圧力の行使と捉えることもできるであろう。
このように、シエラレオネの平和作戦においては、英軍・UNAMSILの双方とも、受動的・
能動的双方の形態において軍事力を用いていることがわかる。RUFというスポイラーが存
在する中で任務を遂行するために、軍事力はその物理的強制力としての機能を発揮してい
たといえる。
(2)RUFに対する全体としての強要の中での UNAMSIL および英軍の役割
前項の整理からもわかるとおり、シエラレオネの事例では介入した国際部隊によって軍事
力が物理的強制力として用いられているものの、RUFは軍事力によって直接的に打倒され
たわけではなかった。むしろ介入側の軍事力の使用を含む、様々な圧力を受けた結果とし
て、RUFは新たな停戦合意を受け入れざるをえないように追い込まれていったといえる。こ
の構図を全体として見れば、これは国際社会が RUFに対して強要(強制外交)を成功裏
に実施したものと捉えることができる。紛争当事者が暴力を用いて和平を妨害している場
合には、単なる説得によってその姿勢を変化させることが困難と思われる一方、内戦終結
後の国民和解の必要性などを考えれば、紛争当事者を完全に打倒してしまうこともあまり望
ましくない。その意味で、圧力によって紛争当事者の行動を望ましい方向に誘導することを
企図する強要戦略は、国際社会の側が紛争当事者に対して能動的に影響を与える上で有用
なアプローチであると思われる107
。シエラレオネ内戦では、RUFは幾度となく和平を反故に
105 リチャーズによると、この戦闘の心理的効果は大きなものであったという。Dorman, Blair’s Successful War,
p. 94.
106 2000 年 9月10日の記者会見においてフーン国防相は、バラス作戦の決行によって「強力なメッセージ」を送る
ことができたと述べ、以下の点を挙げている。まず、同作戦はイギリス政府がテロリストや人質を取る者とは取引し
ないという姿勢を示すものであると指摘した。さらに、シエラレオネのWSBや他の反乱軍に対しては、不法な活
動を続けることは無意味であり、法の支配とシエラレオネ政府の権威を受け入れることを望むとした。また、英軍
に対して類似の行動をとろうとする者は、同作戦の結果を深刻に受け止めることを望むとした。Ibid., p. 113.
107 強要・強制外交の概念や、その平和作戦への適用については、拙稿「強制外交と平和作戦―東ティモールへ
の介入を事例として」『防衛研究所紀要』第 14 巻第 2 号、2012 年 3月を参照。平和作戦における軍事力の機能に関する一考察
63
しながら長年にわたり暴力的闘争を継続しており、RUFに和平を選択させることができた
のは大きな成果であった。
この RUFの姿勢の変化には、RUFに対して加えられたすべての圧力が関係しており、
そのすべてについて分析することは本稿の範囲を超えるものである。また、RUF 側の認識
に関する情報が不足していることから、UNAMSIL および英軍による軍事的圧力が RUF
に対する全体としての強要の中でどれだけの比重を占めるものであったのかを明らかにする
ことは難しい。それでも以上の考察からわかる限りにおいて、前項における整理を踏まえな
がら、UNAMSILと英軍による軍事的圧力が全体としての強要の文脈において果たしてい
たと思われる役割を考察してみると、以下の点が指摘できる。
まず英軍については、その強大な軍事能力が RUFに対する圧力の中でもかなり重要な
位置を占めていたであろうと推測できる。前項で整理した通り、英軍は受動・能動の双方
の形態において軍事力を発揮している。直接の武力行使は少ないとはいえ、各種の示威行
為に加え、UNAMSIL の崩壊を防いだことや SLAの能力構築を通じた間接的な圧力も踏
まえれば、もし英軍が介入していなければ、RUFを停戦・武装解除に追い込んだ軍事的
圧力の多くが実現しなかったと思われる。11月10日のアブジャ停戦合意を受け入れたセサ
イは、イギリスのコミットメントとそれによって UNAMSILにもたらされた機会が、RUFに
和平を選ばせたと認めている。RUFはまさしく、リチャーズが設定した「RUFに敗北は避
けられないと確信させる」という目的に屈したのであった108
。
このように考えれば、イギリス軍の展開はシエラレオネの状況を安定化させ、RUFを追
い詰めるうえで死活的な役割を果たしたといえる。しかしその一方で、英軍の役割があまり
に強調された反動として、UNAMSIL の評価が貶められることとなった側面も否定できな
い109
。すでにみたとおり、5月危機以前の UNAMSILは、RUFに対して軍事的圧力を与え
る存在とはなっていなかった。しかし5月危機後の UNAMSILについては、RUFに対し
て有効な圧力を加えることができていたと考えられる。能動的な軍事力行使であったククリ
作戦はもちろんであるが、抑止や防御といった受動的な軍事力の用い方も過小評価すべき
ではない。というのも、UNAMSIL が攻撃を受けた際に強硬に反撃するようになったこと
は、RUFに対してこのまま戦闘を継続しても内戦に勝利することはできないと認識させるこ
とに貢献していたと考えられるからである。すでに指摘した通り、イギリスはシエラレオネに
コミットしていたとはいえ、大規模な兵力を展開する余裕を持ち合わせてはいなかった。ま
た、SLAについては育成途中であり、その兵力規模も小さかった。したがって、政府側勢
108 David Richards,“Sierra Leone:‘Pregnant with Lessons,’”p. 269.
109 Olonisakin, Peacekeeping in Sierra Leone, pp. 64-65.64
防衛研究所紀要第 15 巻第 1号(2012 年10月)
力地域を安定的に確保する上では、UNAMSIL の規模が非常に重要となっていた。5月
危機以降、攻撃を受けた場合に UNAMSIL は強硬に反撃するようになったが、これは受
動的な武力行使ではあるものの、地域の確保という観点からは必要な機能であった。すな
わち、支配地域拡大というRUFの目的を拒否する形で、UNAMSIL は RUFにその目的
を放棄させるための圧力の一角を形成していたと理解することができる。
ただその一方、RUFに対して停戦と武装解除を受け入れさせるには、UNAMSIL の受
動的な軍事力の使用だけでは不十分であったことも指摘できる。というのは、RUFは東部
のダイヤモンド産出地帯を含む多くの地域を支配下に置いており、仮に UNAMSILによっ
てさらなる勢力拡大を阻止されていたとしても、ダイヤモンドという収入源と隣国リベリアの
テイラーからの支援が存在している限り、「勝てはしないが負けることもない」という状況に
あったと思われるからである。すなわち、RUFはシエラレオネ国土の一定地域支配という
現状を維持することが可能であり、停戦合意と武装解除という現状変更をRUFに受け入れ
させるためには、「このままでは負ける」という認識をRUF 側に持たせる必要があった。
安保理決議 1313以後、UNAMSILはシエラレオネ政府の権威の拡張という目的を帯び
ていたが、武力行使によって政府側支配地域を拡大するというアプローチはとっていなかっ
た。アブジャ和平合意で RUF がその支配地域への UNAMSIL の展開に同意しながら、
その後実際には展開を拒否した際にも、UNAMSILは妨害を実力で排除することはなかっ
た110
。すなわち、UNAMSILは RUF 側支配地域を縮小し、政府側支配地域を拡張すると
いう現状変更のためには武力を行使しておらず、RUFはUNAMSIL の行動からは、自身
の支配地域を喪失する恐れを感じ取っていなかったと考えられる。
このように考えると、RUFに対して停戦や武装解除という現状変更を受け入れさせるた
めには、5月危機後に UNAMSILが発揮していた受動的な軍事力行使だけでは圧力が不
十分であったと思われる。英軍の活動や、本稿ではあまり深く考察しなかったギニアとの戦
闘、ダイヤモンドの取り締まり強化といった他の圧力がなければ、停戦と武装解除に応じる
ようRUFを追い込んでいくことは困難であったといえるであろう。
このように、RUF に対する全体としての強要の中での UNAMSIL および英軍によ
る役割を考察してみると、両者ともRUF に対する圧力に貢献していたと考えられる。
UNAMSILについては主に受動的な軍事力の使用によって RUFの勝利を阻止するという
役割を果たしており、英軍については RUFの勝利阻止に加え、RUFに停戦と武装解除と
いう現状変更を受け入れさせるための能動的な圧力でもより大きな役割を果たしていたと考
えることができる。
110 Dorman, Blair’s Successful War, p. 121.平和作戦における軍事力の機能に関する一考察
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本項の初めで述べたとおり、RUFの姿勢の変化には本稿で考察したUNAMSIL およ
び英軍の行動以外の圧力も関係している。RUFに対する停戦と武装解除の強要の成功を
より全体的に理解するためには、こうした他の圧力についても考察に含めることが不可欠で
ある。上記の点も含め、シエラレオネの事例を全体としての強要の観点からさらに分析して
いくことについては、今後の課題としたい。
結びにかえて
本稿では、近年の平和作戦においては物理的強制力として軍事力が用いられるように
なっているとの認識の下、そうした平和作戦の一つであるシエラレオネにおける平和作戦を
事例として取り上げ、UNAMSILと英軍がどのような形で軍事力を用いていたのかを跡付
けると共に分析を加えた。軍事力の物理的強制力としての機能は、抑止、防御、強要、攻
撃の 4つに分類できるが、前二者は現状維持を目的とする受動的な性格をもっており、後
二者は現状を変更する能動的な性格をもっている。シエラレオネでの平和作戦においては、
UNAMSIL・英軍の両者とも受動・能動双方の形態で軍事力を用いていた。UNAMSIL
については、能動的な圧力はそれほど多くはなかったものの、抑止や防御といった軍事力
の受動的な機能を通じて RUFの支配地域拡大を阻止する形で、RUFに対する軍事的圧
力に貢献していたと評価することができる。一方の英軍については特に、示威行動の圧力
や戦闘で相手を打倒した場合の波及効果、SLAの育成を通じた間接的圧力などを踏まえる
と、能動的な機能への貢献がより大きかったと評価できる。
シエラレオネの事例では最終的に RUFに停戦と武装解除を受諾させることができたもの
の、一時は RUFの攻撃によりUNAMSIL は崩壊の危機に陥った。その後英軍の介入を
受けて、UNAMSIL は態勢を立て直すことができたが、本来であれば最初から最低限受
動的な形で軍事力を物理的強制力として用いる備えが必要だったであろう。
また英軍についても、大規模な兵員を展開し、直接 RUFを打倒するだけの余裕は持ち
合わせていなかった。シエラレオネの事例のように、今日の平和作戦においては PKO 部
隊が危機に陥った場合に、安定を回復するために先進国の軍が多国籍軍や単独で介入する
ことが多くなっている。しかし、その活動は範囲や期間を限定したものであることも多い。
単純に紛争当事者を打倒するというオプションは容易に選択できるものではないといえる。
本稿では深く考察することができなかったが、完全に打倒することが困難な紛争当事者
にどのように影響を与え、その姿勢を変えていくのか、すなわち全体としての強要をいかに
成功裏に実践していくのかが、今後の平和作戦における軍事力の用い方を考える上で重要66
防衛研究所紀要第 15 巻第 1号(2012 年10月)
となるであろう。シエラレオネの事例を全体としての強要の観点からさらに分析すると共に、
軍事力が物理的強制力としての機能を発揮した他の平和作戦の事例とも比較分析すること
で、この点に関する知見を積み上げていくことが求められる。
(おおにしけん 政策研究部グローバル安全保障研究室教官)
http://www.nids.go.jp/publication/kiyo/pdf/bulletin_j15-1_3.pdf
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