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(回答先: 「井戸掘った人を忘れぬ」ではない 中国は「2人で井戸をのぞけぬ」怖い国 投稿者 MR 日時 2012 年 11 月 08 日 08:38:00)
「井戸を掘った人を忘れない」
岡崎嘉平太と周恩来
2012年11月9日(金) 服部 龍二
日中貿易に尽力
全日空社長などを歴任した経営者に岡崎嘉平太(かへいた)という人物がいました。岡崎は、財界人としても著名ですが、中国との関係拡大に尽力したことでも知られています。岡崎は周恩来総理らと会談を重ね、日中貿易を通じて、日中国交正常化を側面から支援しました。
以下では、岡崎と中国、とりわけ周恩来との間柄について述べたいと思います。
まず、岡崎のプロフィールを簡単に記しておきます。
岡崎は1897年、岡山県吉備郡に生まれました。岡山中学、第一高等学校を経て、1922年に東京帝大を卒業し、日本銀行に入行します。日中戦争期には、中支那(なかしな)派遣軍特務部付となり、1939年には上海の華興商業銀行で理事に就任しました。太平洋戦争中の1942年には大東亜省参事官となり、翌1943年には在中国日本大使館参事官として上海に勤務します。
戦後には公職追放を受けますが、1949年には池貝(いけがい)鉄鋼の社長に就きました。その後、丸善石油や全日空の社長を歴任します。1962年には高碕(たかさき)達之助衆議院議員らと訪中し、日中間の貿易に努めます。1964年には高碕の死去に伴い、日中総合貿易連絡協議会会長となります。日中国交正常化後の1972年11月には日中経済協会を設立し、常任顧問になりました。その後も訪中を繰り返し、1989年に亡くなっています。
戦前・戦中、上海華興商業銀行などで活躍
それでは岡崎は、中国とどのようにかかわったのでしょうか。戦前にさかのぼってみたいと思います。
岡崎には岡山中学校のとき、陳範九という中国人の学友がいて、中国への関心が芽生えました。第一高等学校のときには、龔徳柏(きょうとくはく)という友人がいました。対華21カ条要求が行われていた時代でしたので、龔徳柏は「日本という国は実にけしからん国だ。こんな国にはいたくないから中国に帰る」と言って帰国してしまいました。
岡崎は学生のときから、「アジアでは日本と中国が――実は私はインドを含めて考えていたのですが――手を握ってまずアジアの文化を高め、アジアの貧乏を追放しなければいけない、アジアの中でお互いに争っていたら植民地の状態から永久に脱却できない、と思ってきました」。
岡崎は1922年に東京帝大を卒業し、日本銀行に入ります。ドイツ駐在、外国為替局次長などを経て、1938年3月、陸軍省嘱託として上海に赴き、為替金融を調査します。1939年に華興商業銀行という日中合弁の銀行が上海に創設されると、岡崎は日銀を退職して上海華興商業銀行の理事となりました。
1942年には帰国して、大東亜省の参事官になりました。1943年には上海の日本大使館参事官として赴任します。
上海で終戦を迎えた岡崎は、日系工場における退職金問題に奔走します。日本の敗戦が決まると、日本企業の工場で働いていた中国人労働者が、それぞれの会社に退職金を要求したのです。岡崎は、国民政府とも連絡をとりながら対処し、1946年に帰国します。
池貝鉄鋼や丸善石油、日本ヘリコプター株式会社、のちの全日空で社長として経営に携わりました。岡崎はこの時期、貯蓄増強中央委員会の会長にもなりました。貯蓄増強中央委員会とは、通貨安定やインフレ抑制を目的とした日銀、大蔵省の救国貯蓄運動に呼応した国民運動です。
LT貿易に取り組む
岡崎が再び中国と交わるようになるのは、いわゆるLT貿易においてでした。LT貿易というのは、1962年から始まった半官半民の日中貿易のことです。正式には「日中総合貿易に関する覚書」といいます。Lは中国側代表の廖承志(りょうしょうし)、Tは日本側代表の高碕達之助から採ったものです。
1968年には日中覚書貿易に改められて、1974年に日中貿易協定が締結されるまで続くことになります。
LT貿易を進めたのが、自民党衆議院議員の高碕、松村謙三、そして岡崎でした。その背景には、中国との交易を進めようとする池田勇人首相の後押しがありました。
LT貿易まではどうだったのでしょうか。1958年にいわゆる長崎国旗事件が起こりました。
長崎国旗事件とは、日中友好協会の長崎支部がデパートで中国の切手や切り絵などの即売会を行い、中国国旗を掲げたところ、右翼青年がこれを引き下ろしたという事件です。
それを機に中国は、それまでの貿易協定をすべて破棄し、日中貿易を停止してしまいました。
中国は政経不可分ということで、政治3原則を打ち出します。3原則とは、中国に対する敵視を止めること、「二つの中国」を作る陰謀を行わないこと、中日の正常な関係の回復を妨げないこと、でした。
周恩来との初会見
全日空社長だった岡崎は、高碕議員とともに1962年10月下旬から11月上旬にかけて訪中します。LT貿易に関する交渉のためでした。岡崎は、このとき初めて周恩来総理と会っています。
周恩来は11月1日、国務院で岡崎たちにこう述べました。
甲午(日清)戦争いらい日本は八十年に渡ってわが国を侵略し、人命、財産に大きな損害を与えた。ことに東北(満州)事変以来はわが国は甚大な損害を受けている。われわれはこれを深い怨みに思っている。しかしこの怨みの八十年も、中日友好二千年の歴史に比べれば僅かな時間である。われわれはこの怨みを忘れようと努力している。怨みを忘れて、これからは手を握ってアジアを強くしましょう。アジアを強くしたその力で、外に向かって戦を挑むのではない、将来もしアジアの外から再びアジアに圧力をかけるものがあったら、それを防ごうではありませんか。
そう述べた周恩来は、「岡崎先生どうですか」と問いました。とっさに岡崎は、こう答えました。
日本と中国とは共に手を携えてアジアの独立、文化向上、貧乏追放をやるべきだということは私の学生当時からの願いである。
周恩来は、第1回貿易協定調印に現れ、陳毅外交部長、郭沫若科学院院長などを伴って臨席しました。
高碕と廖承志が署名する間、周恩来は岡崎の傍らに立ち、「岡崎先生いつ帰りますか」と日本語で呼び掛けました。
中国の賠償請求放棄
岡崎らが進めたLT貿易は半官半民の長期バーター取引協定であると同時に、民間事務所の相互開設、新聞記者の交換、政財界の窓口をもたらすものでした。LT貿易に結実する交渉は、中国による賠償請求の放棄とも関連します。
ご存じのように、1972年の日中国交正常化に際して、中国は賠償請求を放棄しています。日中共同声明の第5項に、「中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する」とあります。
中国が最初に賠償請求の放棄を日本に伝えたのは、その10年前の1962年に高碕や岡崎が訪中したときのことでした。中国は1955年の段階では、日本が「中国の公私の財産に数百億米ドルにのぼる損害を与え」たとして、賠償請求権を主張していました。
ところが、高碕と岡崎が1962年10、11月に訪中したとき、中国側は賠償請求放棄の意向を示しています。
貿易協定を締結しようとする高碕、岡崎らに対して、趙安博(ちょうあんはく)中国共産党中央外事工作部秘書長が11月8日にこう述べました。
中国はたしかに請求権はありますが、中国としてはたとえ、日本と国交を回復する時になつても、そのような請求権の問題を強く表面に出す考えはもつておりません。
何故かと言えば、それは第一次大戦後のドイツの例によつても明らかなごとく、もしそのような請求権問題を強く表面に出せばそれは日本国内にフアシストを誘起さすことになります。
これらのことは外務省の記録に出ています(外務省アジア局中国課「高碕達之助議員の訪中に関する件」1962年12月20日、「本邦対中共貿易関係 民間貿易協定関係 高碕・廖覚書交換(1962年)」E'.2.5.2.2-1-2, Reel E'-0212, 外務省外交史料館所蔵)。
岡崎はこのような発言を受けて、中国が賠償を請求しないだろうと感じとりました。このとき中国側には、孫平化(そんへいか)、肖向前(しょうこうぜん)、王暁雲(おうぎょううん)という「知日実務家の三羽烏」が同席していました(中国側動向については、「廖承志関于接待高碕達之助及其随行人員的請示、来訪人物材料和言論」105-01151-01, 中華人民共和国外交部档案館所蔵)。
対中関係の推進
賠償請求の放棄が内示された背後で、周恩来の意向が働いていたことは間違いないでしょう。LT貿易の覚書が交わされたのは、1962年11月9日のことでした。
佐藤内閣期になりますと、日中関係は再び停滞します。それでも、LT貿易は1968年に日中覚書貿易に改められ、継続となります。岡崎、古井喜実(よしみ)議員、田川誠一議員らの尽力によるものでした。
さらに岡崎は、対中関係の推進に意欲を示します。それについても、外務省の文書が残っていました。1971年に外務省の中国課が作成したその文書には、こう記されています。
日中覚書貿易の岡崎嘉平太代表と、大久保事務局長は、中共側から7月はじめに来てほしいといつてきたが、6月中にも訪中したいと再度申し入れた。訪中の目的は明年度の日中覚書貿易交渉を本年11月に行いたい旨提案し、また、各種の懸案事項を処理するためである。
これは大久保任晴(ただはる)事務局長が橋本恕(ひろし)中国課長に伝えた内容です。このころ中国共産党は覚書貿易事務所を通じて、岡崎のほか、川崎秀二(ひでじ)を団長とする自民党や公明党の若手議員訪中団を受け入れると通知していました。中国側は、「参議院選挙後の7月はじめに来てほしい」と伝えていました。
それに対して岡崎は、「6月中にも訪中したい」と再度申し入れたわけです。つまり、岡崎のほうが、より積極的だったといえると思います(中国課「自民党若手議員・公明党・覚書貿易等の訪中」1971年6月9日、「日中国交正常化(重要資料)」2011-0719、外務省外交史料館所蔵)。
1971年7月15日には、いわゆるニクソン・ショックが日本を襲いました。アメリカのニクソン大統領が、突如として訪中を発表したのです。10月25日には国連が中国の加盟を承認し、台湾は国連脱退を表明しました。日中国交正常化の国際環境が整ってきたわけです。
「井戸を掘った人を忘れない」
1972年7月7日、田中角栄内閣が成立します。田中首相らが訪中し、9月29日には周恩来と日中共同声明に調印します。
日中国交正常化の直前、岡崎は周恩来によって北京に招待されました。岡崎が9月12日20時、帰宅して電話を取ると、北京からでした。周恩来が劉希文対外貿易部副部長に電話をさせたのです。周恩来が劉希文に「中日国交回復の日を北京で迎えるよう岡崎先生を招待することを、正式に伝えたか」と問いたところ、答えは「まだ伝えてない」とのことでした。周恩来は、「それはいかぬ、今すぐここから岡崎先生の宅に電話せよ、電話料は私が持つ」と述べたのでした。
訪中した岡崎は9月23日、周恩来らとごく内輪で食事します。人民大会堂に、一卓だけを用意した小宴でした。その席で周恩来が岡崎に語りかけました。
わが国には水を飲むときには、井戸を掘った人を忘れない、という言葉がある。中国と日本の国交は間もなく回復するであろうが、そう成るには松村先生、高碕先生、石橋(湛山――引用者注)先生、村田(省蔵――引用者注)先生などが困難に屈せず、大きな努力をされたからである。あなた方も努力しましたね。
岡崎には、生涯、忘れられない言葉になりました。
閉鎖する事務所員に職を斡旋
帰国した岡崎は1972年10月、橋本中国課長の往訪を受けています。橋本課長は、のちに駐中大使になる方です。岡崎は覚書貿易事務所の役割について、こう語っています。
1.自分としては、日中国交正常化が実現するに伴ない、直ちに日中覚書貿易事務所を閉鎖する考えであったが、中国側から、日中双方の大使館設置までかなり時間がかかりそうであるので、覚書貿易協定及び覚書貿易事務所をもう1ヶ年継続させたい旨強く希望したので、来年一杯、継続させることとした。但し、来年中には必ず閉鎖したい。
2.来年の早い時期にでも北京に日本大使館が開設されることになれば、北京駐在の覚書貿易連絡事務所員から大使館員になる者も生じようが、残りの者はそのまま覚書貿易連絡事務所で中国の勉強をさせるつもりである。
3.在京の日中覚書貿易事務所の職員の再就職の問題については、この一年来、今日を期して準備してきた結果、大体目途がついており、外務省側に迷惑をかけるつもりはない。万一、外務省の御協力を必要とする場合にはよろしくお願いする。
(中国課「岡崎日中綜合貿易連絡協議会会長談」1972年10月9日、「日中国交正常化(重要資料)」2011-0720、外務省外交史料館所蔵)。
北京に日本大使館が開設され、覚書貿易事務所はやがて閉鎖されることになるわけです。そのなかで岡崎は、北京在住の職員のうち、大使館員にならない者については「そのまま覚書貿易連絡事務所で中国の勉強をさせるつもりである」と中国課長に述べたのです。
また、在京の職員の再就職については、「今日を期して準備してきた結果、大体目途がついており、外務省側に迷惑をかけるつもりはない。万一、外務省の御協力を必要とする場合にはよろしくお願いする」と語っています。
在京の職員については再就職を斡旋する半面、日中関係の将来を見据えて、北京在住の者には引き続き中国を勉強してもらいたい、というわけです。何ともスケールの大きさを感じます。
日中航空協定を急がせる
1973年1月には林祐一公使が臨時代理大使として北京に赴任しました。3月には、小川平四郎が初代の特命全権大使となりました。
国交樹立後の日中関係では、実務4協定の取り決めが懸案になります。実務4協定とは、海運協定、貿易協定、航空協定、漁業協定です。最大の難関は、台湾が関係する航空協定でした。日中航空協定には、青嵐会(せいらんかい)など自民党の台湾派が強く抵抗していました。
こうした状況を岡崎は憂慮しました。岡崎は1973年7月23日、國廣道彦中国課長にこう述べています。岡崎は1973年7月23日、國廣道彦中国課長にこう述べています。
1.日中問題について外務省の踏み込み方が足りない。中国側は日本と精神的な交わりを希望しているのであるから日本側もこれに対応しなければならない。中国側が愛そをつかして日本を相手にしなくなってからアワてても手遅れである。特に、毛・周健在のうちに地固めをして欲しい。台湾問題については国共合作が進められており、米国もこれを支持していると思われる。米国の後おしで国共合作ができた後で日本が手をうとうとしても再び後手になる。中国が共産主義国だからと言うことで接近をためらっているのなら、もっと中国の共産主義を研究すべきである。
2.通商協定の中にココムを守るための規定があると言うが、ココムの方を絶対不動のものとして協定に条件をつけるのは中国を敵視する差別である。
3.航空協定の問題は国内問題にほかならず、国内政治のために自民党が対中国関係を悪化するのであれば、中国関係を収拾しうるのは野党だけということになる。そうなれば、自民党はますます反中国政策をとるようになろう。政府首脳の英断を渇望するものである。
4.1964年の椎名外相時代に中国が航空機の相互乗り入れをしたいと言って来たとき、外務省はこれを認めると中国承認につながると言って反対した。現在台湾の航空機の乗り入れを認めたままでいるのは「中華民国」を承認していることにつながると言われたらどうするのか。幸い中国側は台湾の航空機をすべて追出せと言っているのではないから、日本側でも、早急に中国の立場を尊重する措置をとるべきである。具体的に言えば、東京から中華航空に出て行ってもらうことである。
5.タカ派の政治家もみんなが、台湾が将来ずっと今の状態でいると信じている訳ではあるまい。終戦直後の中国の恩義も蒋介石だけがほどこしてくれたものではない。中共側の恩義も随分受けた。現在国内に反対意見があっても国を誤らない決断をして欲しい。
6.廖承志に会ったとき、丁度新聞に大平大臣訪中の記事が出ていたこともあり、大臣の訪中を歓迎すると言っていたのでお伝え願いたい。
つまり岡崎は、日中航空協定の決着などを強く促したのです。
実のところ、「台湾問題については国共合作が進められており、米国もこれを支持していると思われる。米国の後おしで国共合作ができた後で日本が手をうとうとしても再び後手になる」といったくだりにはやや疑問を禁じ得ないのですが、岡崎が日中関係を懸念していたことはたしかです。
國廣課長は、「今の自民党内の情況から言って何らかの形で『中華航空』が東京に来るという可能性を否定することは誰が総理であろうとも自民党内閣にはできないと思う。中国側も台湾との間に航空機が往来すること自身は問題にしないと言っているのであるから何か工夫の余地があろうと思って苦慮しているところである」と答えています(國廣道彦中国課長「岡崎嘉平太氏の意見」1973年7月23日、「日中国交正常化(重要資料)」2011-0720、外務省外交史料館所蔵)。
航空協定は1974年4月にようやく調印されます。岡崎と意見を交わした國廣課長は、後に駐中大使となっています。
周恩来の他界
周恩来の健康は悪化していきました。1975年11月に訪中した岡崎は、対外貿易部に劉希文を訪ね、「私は中国人に劣らず周総理の病気回復を祈っている、多くの日本人も同じように心配している」と述べています。
周恩来が他界したのは、1976年1月8日のことでした。岡崎はこう記しています。
私はしだいに周総理の清高なお人柄に引きつけられ、総理として尊敬するよりも、人間味の豊かな人として心から敬慕するようになった。そして私は、周総理を人生の師として少しでもあやかりたいものと努めて来ていたのである。
その周恩来総理が長逝せられたのである。私は親を失ったときと同じように、堪え難い悲しみに胸を締めつけられる。〔中略〕
周総理は、自分が死んだら火葬にして、その灰を全国土に撒けと、遺言しておられ、またその通り実行されたので、周総理のお墓はない。また記念碑もない。だから私は北京に行っても何か物足りなくて淋しい。いつか必ず何らか、周総理を偲ぶものができるに違いない、と私は待っている。
岡崎は2月10日、日比谷公会堂における国民追悼会で、「周総理に対する、われわれの尊敬と感謝は、今後永久に変らぬことを申し上げて、哀悼の辞といたします」と弔辞を読まれています。
「日中友好の肝をきめていた」
1980年代になりますと、日中関係は中曽根康弘首相、胡耀邦(こようほう)総書記の時代を迎えます。とりわけ1984年は、日中交流2000年の歴史で最良といわれました。そのハイライトは、中国が日本から3000人の若者を建国35周年の国慶節に招待したことです。
全日空相談役となっていた岡崎は、これに最長老として参加しました。岡崎は、「一高の頃から日中友好の肝をきめていた小生には、今度の日本青年三千人の友好交歓訪中に随行するのは正に冥土への土産と思って頑張っている」と友人にしたためています(杉山久男宛て岡崎嘉平太葉書、1984年9月18日、「岡崎嘉平太関係文書」岡崎嘉平太記念館所蔵)。
岡崎が帰らぬ人となったのは、1989年9月22日のことでした。
それから23年後の今日、日中関係は不安定な状態にあると申し上げねばなりません。このような時代にこそ、日中関係を切り開いた人、周恩来のいう「井戸を掘った人」を思い起こすことには意味がありそうです。
岡崎は、まさに「井戸を掘った人」でした。中国で「井戸を掘った人」の筆頭が誰かといえば、周恩来をおいてほかにないでしょう。岡崎と周恩来の国境を越えた友情がなければ、日中国交正常化は難航していたかもしれません。2人が運命的な出会いを果たしたのは、1962年秋のことでした。それからちょうど半世紀後の今日、岡崎と周恩来を振り返る機会を与えて下さったことに深く感謝いたします。
【付記】本稿は、2012年11月3日、岡崎嘉平太記念館で行った講演「岡崎嘉平太と中国」を下敷きとしています。講演では、「岡崎先生」などと尊称を用いましたが、本稿では敬称略といたしました。掲載を認めて下さった岡崎嘉平太記念館の関係各位に深謝申し上げます。なお、文中では、直接引用で句点を補うなどしてあります。
<参考文献>
足立正・市村清・本田宗一郎・岡崎嘉平太・宮崎暉『私の履歴書 昭和の経営者群像 6』(日本経済新聞社、1992年)
伊藤武雄・岡崎嘉平太・松本重治述/阪谷芳直・戴国W編『われらの生涯のなかの中国――60年の回顧』(みすず書房、1983年)
岡崎嘉平太『中国問題への道』(春秋社、1971年)
岡崎嘉平太『私の記録』(東方書店、1979年)
岡崎嘉平太『終りなき日中の旅』(原書房、1984年)
岡崎嘉平太伝刊行会編『岡崎嘉平太伝――信はたて糸 愛はよこ糸』(ぎょうせい、1992年)
霞山会『日中関係基本資料集 1949年―1997年』(霞山会、1998年)
藤山愛一郎『政治 わが道 藤山愛一郎回想録』(朝日新聞社、1976年)
服部 龍二(はっとり りゅうじ)
中央大学総合政策学部教授。
日本外交史・東アジア国際政治史専攻。
1968年生まれ。92年、京都大学法学部卒業。97年、神戸大学大学院法学研究科単位取得退学。博士(政治学)
ニュースを斬る
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http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20121011/237929/?ST=print
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