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リビア米領事館襲撃をめぐる数々の失態
2012年 9月 21日 21:27 JST
9月11日に駐リビア米国大使らが襲撃を受け殺害された事件は、セキュリティ上の過失に判断ミス、戦争の不透明さが重なった揚げ句に起きたものだった。悲劇は防ぐことができたのではないかとの疑問もあがっている。
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REUTERS
襲撃されたベンガジの米領事館(11日)
米当局は9月11日のデモと暴動に先立ち、隣国エジプトで警告を発し、セキュリティ体制の強化を指示していた。しかし、周辺地域の他の外交施設でトラブルが生じる可能性はほとんど見過ごしていた。
リビアのベンガジではこれまで数カ月間、米国や他の西側使節団への散発的な攻撃が続いていたにもかかわらず、米国務省は同地のセキュリティ体制を限定的なものにとどめていた。また米国はリビアにセキュリティ強化を求めるとしていたが、リビアの当局者によると、それを実行したのはたった一度、6月の1週間だけだったという。
今回の襲撃でも米国は派兵を真剣に検討しなかった。海兵隊の即応チームを招集したのは米国大使が死亡した後だった。国務省当局者は、国防総省が事態を変えられるほど早急に救援部隊を動員できるとは思えなかったと話している。ある軍高官は、国防総省は外交官の安全に責任を持つ国務省からの指示を待っていたと語る。
さらに新たな側面も浮かび上がった。襲撃は当局者らが秘密の隠れ家と呼んでいる場所にも及んでいたのだ。この隠れ家は、昨年のリビア革命後、極秘の政府プログラムにかかわる米当局者やセキュリティ担当者が使っていたものだった。
「アネックス」とも呼ばれるこの建物が襲撃を受けてもまだ、米当局者はその存在を明かすことをためらっていた。この秘密主義がリビアの対応、ひいては米国人の避難を混乱させたと、リビアのセキュリティ当局者らは指摘する。
オバマ政権はセキュリティ体制のレベルを擁護している。情報当局者らはアルカイダの北アフリカ支部が今回の襲撃を仕掛けた武装集団とつながっていた可能性を調査しているものの、米当局者らは、現時点の証拠からは反イスラム映画に対するカイロでのデモに反応した自然発生的な事態だったとしか言えないとしている。しかし、10人以上の米・リビアの当局者へのインタビューを基に詳しく調査したところ、何カ月も前からセキュリティ強化の必要性を示唆する不吉な兆候があったにもかかわらず、それを実行する機会を逸していた実態が浮き彫りになった。
大統領選挙を控えたオバマ大統領は、有権者から国家安全保障に関して高い評価を受けているが、反米デモへの対応では共和党から批判を浴びている。
20日のクリントン国務長官による議員への説明を受け、スーザン・コリンズ上院議員(共和党、メーン州)は、「安全保障が脅かされていた状況を考えれば、セキュリティ体制は痛ましいほど不十分」だったと語った。
米当局は、未だに襲撃の詳細を解明できずにいる。クリストファー・スティーブンス駐リビア米国大使が殺害されて1週間以上、国務省は同大使がなぜベンガジにいたかを説明できなかった。20日にようやく、同大使は米・リビア合同の文化・教育プログラムの設立に立ち会うためベンガジにいたと考えられると明らかにした。
スティーブンス大使とショーン・スミス情報担当官は、襲撃の第一波のなか領事館内で死亡した。その後、元米海軍特殊部隊員のグレン・ドハティ氏とタイロン・ウッズ氏が、1キロ離れた秘密の隠れ家(アネックス)で死亡した。武装集団が隠れ家のことを知っていたのか、単に領事館襲撃後に米国部隊の後をつけていっただけなのかは米・リビアいずれの当局もまだ把握していない。
消火機器に関しても過失があったようだ。リビア人警備員らは、防煙マスクや消化器が備わっていなかったことが本館の救援活動を妨げた一因だと指摘する。国務省高官らは、これらが備わっていたとしてもディーゼルによる猛火を防ぐには不十分だっただろうと述べている。
国務省当局者らによると、領事館のセキュリティは頻繁に見直されており、彼らが当時最も起こりそうだと想定していた脅威に対応するには十分だと考えられていた。すなわち、携行式ロケット弾や簡易爆発物(IED)による限定的な奇襲攻撃である。
9月11日までの数カ月間には、6月6日に領事館の敷地外でIED爆発が起こるなど、たびたび襲撃があった。「この手の事件は我々の主な懸念の一つだった」と、ある国務省高官は語っている。ただ、6月6日の襲撃では外壁が損傷を受けたが米国人の負傷者はなかったことから、別の国務省高官は「我々のセキュリティ計画は機能していた」と付け加えた。
現・元高官らは、ベンガジのセキュリティのあり方は、セキュリティ体制を控え目にしてリビアの新リーダーたちに誠意を示そうとしたスティーブンス大使の努力を反映したものだったと指摘する。それで重武装した集団を抑制できるかどうか疑問視する声もあったという。当局者らは、スティーブンス大使はトリポリの大使館に海兵隊を駐在させることに個人的に反対すると助言をしており、米軍の駐留を避けようとしていたようだったと語る。
ベンガジ領事館のセキュリティ計画には、この街でカダフィ政権と戦う反体制派と数カ月間、ともに仕事をしてきたスティーブンス大使の自信も反映されていた。国務省当局者らによると、ベンガジ周辺はイスラム過激派と大量の兵器で不安定化している地域として知られていたが、同大使はここを訪問する際に事前にワシントンに相談していなかったという。
「国全体をコントロールしていない政府に頼るとこういうことが起きる」と、米元高官のランダ・ファーミー・ハドム氏は言う。ベンガジでは「さまざまな武装集団が大量の兵器を手に互いに戦っていた。それは秘密のことではなかった」と同氏は話す。
ある国務省高官は、ワシントンは大使の駐在国内での移動は管理しないと述べる。しかし、現・元高官のなかには、革命直後のリビアが十分なセキュリティを提供できると米政権が過信していたことは誤りだったと言う者や、なぜもっと強固な緊急事対応計画を策定していなかったのかと疑問視する者もいる。
ある国務省高官は、ベンガジ領事館は「一時的な事務所」であり、警備員らはトリポリ大使館の「補助員」として扱われていたと説明する。トリポリ大使館では、よりしっかりした手順と警戒策がとられているという。「トリポリには対応策があり、この人たちは単純にトリポリを当てにするだろうとの考えがあった。今回の状況で彼らはそのようにしたのだから想定通りだった」と同高官は話す。
ベンガジのセキュリティに関して警報が鳴り始めたのは今年の春だった。
4月10日、イアン・マーティン国連特命全権公使を乗せた車列に何者かが爆発装置を投げつけた。5月22日、携行式ロケット弾が赤十字国際委員会の事務所に着弾した。
6月6日に米領事館がIED攻撃を受けた後、米側はリビアに米国施設のセキュリティ強化を求めたと、国務省報道官は述べている。リビア当局者らは、要請は1週間に限られたものだったと話す。ある国務省高官は、外壁の損傷を修復するため一時的なセキュリティ強化が必要だったと説明する。
要請を受けたリビア人によると、追加されたセキュリティは車両2台と重機関銃が数丁だったという。修復作業が終わると、リビア側のセキュリティは通常レベルに戻った。すなわち、武装した警備員4人が周辺を警護し、武装していないリビア人警備員4人が施設内で訪問者のスクリーニングを行うというものである。
だが緊張は高まったままだった。ベンガジで6月11日、駐リビア英国大使を乗せた車列に携行式ロケット弾が打ち込まれ、ボディガード2人が負傷した。英国はベンガジの領事館を閉鎖した。
米国はセキュリティレベルは十分だと見なし、とどまることを決めた。ある国務省高官によると「米国の国家安全保障上の利益を支えるために我々がリビア東部で行っている非常に重要な任務を考慮して」のことだったという。同高官は、2011年5月に米国人が同施設に入居して以降、セメント障壁や有刺鉄線を含む「強固な」セキュリティ改善が施されたと話す。
ベンガジで襲撃が起きるようになったため、情報機関はセキュリティリスクの高まりを警告したが、特定の脅威や攻撃計画についての具体的な情報は持っていなかった。8月27日、国務省はベンガジとトリポリの両都市で暗殺や車両爆弾の危険があるとして、リビアへの渡航延期勧告を出した。勧告では、攻撃の背後にいる武装グループは「リビア政府が認可するものでも管理するものでもない」ため、大使館が介入するには限界があるとされた。
9月11日の直前、情報機関は2001年米同時多発テロ11周年を前にセキュリティリスクが高まるという毎年恒例の警告を発した。多くのテロ対策担当者は、10周年である上にオサマ・ビンラディン殺害後初めての9月11日でもあった昨年に比べ、今年はリスクが低いと考えていた。
当日を目前に控え、リビアでは大使館員らがセキュリティの見直しを行った。そして、襲撃が計画されているとか、ベンガジ領事館の「体制が不十分だ」などと考える理由はないと判断したと、ある政権高官は述べている。
一方エジプトでは、9月8日に危険信号がともった。エジプト人の過激派聖職者が、米国で制作されたとされる反イスラム映画の一部をテレビで放映したのだ。駐カイロ米国大使館の当局者らはその夜、ワシントンと周辺地域の他の大使館に映画について警告する最初のメッセージを送るとともに、対応方法や予想される反発に関する助言を求めた。
国務省当局者らによると、カイロの大使館はソーシャルメディアを監視していたため映画が注目を浴び始めていることを察知していたという。「それは彼らがワシントンから得たすべての情報に先んじていた」とある当局者は話す。
9月10日、情報機関はカイロの米国大使館に直接警告を送り、デモが暴徒化する可能性があると告げた。カイロの外交セキュリティ担当者はほとんどの大使館職員を帰宅させた。
この時点で情報分析官らには、騒動が隣国リビアや他地域に広がると考える根拠はなかったと、当局者らは話す。国務省当局者らも同様に、他の周辺地域の大使館の警戒を高める根拠は見いだせず、海兵隊チームをカイロ支援に派遣しないことを決めた。
ある国務省高官は、「背景に照らして考える必要がある。カイロでデモに次ぐデモが起きた。我々は軍の居場所を知っている。我々は軍が必要になれば、彼らがどこにいるかを知っている」と語る。
米・リビアの当局者らと協力し、ベンガジの病院にかかわっている米国の開発経済学者イーサン・チョリン氏は、襲撃の1時間ほど前にスティーブンス大使と電話で話したが、大使はエジプトのデモの後も「トラブルの兆候はない」と話していたという。チョリン氏は、その後、大使の警備員と話をしたが、警備員が深刻な問題を理由に途中で電話を切ったとしている。数分後、襲撃が始まり、同氏がいたホテルの部屋からも爆発音が聞こえたという。
チョリン氏が領事館の警備員と話した最後の電話の途中で襲撃が始まり、電話が切れたのだ。
リビア人警備員によると、領事館への襲撃はベンガジ時間の午後9時30分すぎに始まった。米東部時間で午後3時30分のことだ。
武装して外にいた4人のリビア人以外に、領事館には武装した国務省の外交セキュリティ担当者が5人いた。
銃撃が始まって約15分後、襲撃者らが本館に火を放ったとき、外交セキュリティ担当者のデイビッド・ウッベン氏は、スティーブンス大使、スミス情報担当官とともに本館の中にいた。
ウッベン氏の役割をよく知るある国務省当局者によると、3人は隠し部屋に逃げ込んだが、煙に圧倒されたため窓から脱出することを決めた。
イラク戦争退役軍人で30歳のウッベン氏は何とか脱出したものの、煙が充満するなか、スティーブンス大使、スミス氏の2人とはぐれてしまったという。
当局者らによると、ワシントンでは、午後5時(米東部時間)に大統領執務室でパネッタ国防長官、軍制服組トップのマーチン・デンプシー統合参謀本部議長との会議が始まる前に、ドニロン大統領補佐官(国家安全保障担当)がオバマ大統領に進行中の襲撃について伝えた。そのときにはすでに、領事館の本館は火に包まれていた。
当局者らによると、その時点では軍による介入は真剣に検討されなかった。リビアの許可を得ない軍事介入は主権の侵害に当たり、事態を混乱させるおそれがあったからだ。国務省はその代わりに、リビア政府に現場への援軍を要請した。
援軍チームのメンバーらによると、リビア側は20数人のセキュリティ担当者を送り、戦闘開始の30分後に領事館に到着した。
銃撃に加え、充満する黒煙と炎が領事館内での捜査を妨げた上、消化器やマスクがなかったことがさらに事態を悪化させた。
ウッベン氏の役割をよく知る当局者は、同氏と他の警備員らは大使らを探そうと何度も建物内に入ったものの、短時間しか中にいることができず、肺にさまざまなレベルの損傷を受けたと話す。
そうしたなかで彼らはスミス氏の遺体を発見し、外に運び出した。だがスティーブンス大使の気配は見あたらなかった。
米国のセキュリティ担当者らは領事館を脱出し、アネックスと呼ばれる秘密の隠れ家へと向かった。
リビア側の説明によると、午前1時30分頃、トリポリの米セキュリティチームを乗せた航空機がベンガジに到着した。チームは全地球測位システム(GPS)を使い、アネックスへの経路を見つけた。現場で米国人と一緒にいたリビア人らは、極秘プログラムとの関連を理由にアネックスの場所を知らされておらず、GPSの座標や住所も教えられていなかった。ベンガジの緊急オペレーションセンターのリビア人らにも、正確な場所は秘密にされていた。
米・リビアの援軍チームが空港から到着すると、アネックスで銃撃が始まった。
この襲撃は携行式ロケット弾や迫撃砲を使用したもので、先に起きた領事館への攻撃に比べて練度が高く、アルカイダと関係している可能性のある武装集団が関与していたようだと、米・リビアの双方が説明している。
隠れ家にいた米国人約30人を乗せた車列がリビア人に率いられ、航空機が待機していた空港に到着した。だが彼らはすぐに、一度に全員を避難させるには航空機が小さすぎることに気付いた。
「空港にいた米国人の数に我々は驚いた」と、リビアのムスタファ・アブシャグル副首相は語る。「3〜4人だろうと思っていた。誰も事前に人数を教えてくれなかった」
同副首相は、事件後に初めて米国の情報活動の程度について知ったといい、「情報の共有や収集に異存はないが、我々の主権も重要だ」と語っている。
トリポリに最初に移送されたのは米国人の外交官と民間人だった。米国のセキュリティチームは2本目のフライトを待った。待っている間、リビア兵らがベンガジ医療センターに大使の遺体を引き取りに行ったが、米国人は1人も同行しなかった。リビア当局者らによると、午前8時頃、警護特務部隊が遺体とともに航空機でトリポリに戻った。
一部の当局者らは、米国は720キロほど離れたシチリア島のシゴネラ米海軍航空基地からベンガジに部隊を送るか、スペインのロタに駐留する海兵隊チームを動員することができたと指摘する。航空機を現地に飛ばし、「武力を誇示」して襲撃者を威嚇することもできたと言う者もいる。
国務省当局者らは、そうした提案を非現実的だとして無視する。「彼らは2時間や4時間、6時間で現場に到着するわけではない。航空機のすぐ隣の部屋に兵士が座っていて、その隣の部屋でパイロットがコーヒーを飲んでいるという状況ではないのだ」と、ある国務省高官は話す。
一部の国防当局者らも、襲撃時に現地の米国人らとのコミュニケーションが限られていたことから、そうした見方に同意する。「それが戦争の不透明さだ」と、ある当局者は言った。
ウッベン氏はアネックスで迫撃砲の爆発により頭部と足を負傷した。同氏の役割をよく知る国務省当局者によると、同氏は今週、集中治療を終えたものの、今もメリーランド州ベセスダにあるウォルターリード国立軍医療センターに入院している。
同州出身のウッベン氏は、既婚で義理の娘と幼い息子がいる。父親のレックス・ウッベン氏によれば、意識はあり、コミュニケーションも取れるという。
父親は、「息子は気力がある。来週にはまた歩けるようになると(病院側は)自信を持っている」と話した。
記者: Margaret Coker、Adam Entous、Jay Solomon、Siobhan Gorman
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