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92歳
伝説のフォロジャーナリスト
国家権力を震撼させ続けた衝撃と告発の写真集
福島菊次郎『証言と遺言』DAYS JAPANより以下転載
すべての同志にむけて 福島菊次郎
この写真集に収められているのは、半世紀以上前の写真版だ。一枚の写真にも生命がある。一度使えば用済みになる写真はそれだけの命しかない。だが、百年前の写真でも見る者の心に衝撃を与えることがある。「死なない写真」を取らなければならない。
「一枚の写真が国家を動かす」。それは人間の尊厳を守るために、権力に迎合せずシャッターを切り続けるカメラマンだけに与えられた特権である。
広島の被爆者中村さんの記録
「70年間は草木も生えぬ」と云われた広島の原爆ドームの瓦礫から、翌年、草の芽が出た新聞写真を見て、広島の撮影を始めた。中村さんに出会ったのもその頃だったが、病苦に喘ぎ、八百屋で貰ったクズ野菜に、わずかな大豆や押し麦をいれた雑炊で飢えをしのいでいる一家の極貧の生活に、どうしてもカメラを向けることができなかった。
当時郷里で民生委員をしていたので、広島の撮影に通いながら、一家の生活保護受給などのアドバイスをし、衣類や食べ物を届けるのが僕の仕事になった。ある日、日頃無口な中村さんが、「あんたに頼みがある、聞いてくれんか」と畳に両手をついて泣きながら言った。「ピカにやられてこのザマじゃ、口惜しうて死んでも死に切れん、あんた、わしの仇をとってくれんか」。予想もしない言葉に驚き「どうして仇をとればいいのですか」と聞いた。
「わしの写真を撮って皆に見てもろうてくれ。ピカに遭うた者がどんなに苦しんでいるか
分かってもろうたら成仏できる。頼みます」と僕の手をにぎった。「分かりました」と答えた。しかしこの家に写真を撮りにきてもう1年も過ぎたのに、極貧の生活にどうしてもカメラが向けられなかった僕は「本当に写してもいいのですか」と聞き返した。「遠慮はいらん、何でもみんな写して世界中の人に見てもろうてくださいや」
その日から僕は中村さんの病苦と一家の極貧生活を憑かれたように写し始めた。日英語版の僕の最初の写真集が出版されたのを見て、中村さんは65歳で亡くなったが、僕は撮影のストレスで精神病院に入院した。プロの写真家になったのは退院後である。
中村さんは突然発作に襲われ、頭が割れる、体がちぎれると叫びながら部屋中をはい回り、体をかきむしって血だらけになり、激しい痙攣で全身が硬直して悶絶した。その姿にカメラを向けシャッターを切り続ける壮絶な撮影が続いた。
闘え 管理人さん!
今、カルトは水面下でも表面でも事態が動いています。
2014年まで踏ん張れば少しずつ良くなりますよ。
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