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4月28日、安倍首相は「主権回復の日」なるものを強引に開催した。たくさんのしこりと沖縄県民の深い怒りを残した。
安倍首相はまっすぐな人である。空気が読めないのではなく、見えない(KYではなくKM)。いまのような局面では、まともな政治家なら自分を抑制し、党内をまとめ、とにかく参議院選挙までは経済優先でいくだろう。だが、この人は無邪気に自分の言い分を押し通す。例えば、北朝鮮問題で各国の連携・協力が必要な場面にもかかわらず、靖国参拝問題で中国・韓国をことさらに煽るような強い言葉を発してしまう。やることなすこと「アベコベーション」そのものである。「主権回復の日」(「わが歴史グッズの話」(32)参照に至っては、「傲慢無知」の極みである。沖縄県民がなぜ怒るのかについて想像力が及ばないだけではない。天皇・皇后を悩ませる結果になったことについても理解できないようである。「国民統合の象徴」(憲法1条)が、沖縄県民の多数が反発・拒否している式典に出ること自体が問題である。47都道府県のうちの21府県知事が欠席するという異様さである(『琉球新報』4月27日付)。何らかの力学が働いて天皇の「挨拶」はとりやめになったが、少なくとも「統合の象徴」を政治利用した内閣として重大な問題を残した。
ゴールデンウィークが始まった。私は4月29日の福島を皮切りに、5月2日札幌、3日岡山、4日水戸と、4都市で講演する。これ以降も7月まで全国各地をまわる。依頼されるテーマは「安倍内閣と憲法96条」である。かつては「9条」について依頼されたが、今年は圧倒的に「96条」が多い。
自民党は、安倍首相の強い意向で参議院選挙の公約にその96条の改正を掲げた(4月27日付各紙)。「3分の2を過半数に」という公約を掲げることがどんなに恥ずかしいことなのか、わかっていない。そもそも安倍首相の改憲論の驚くほどのシンプルさ(『論座』2004年3月号の拙稿参照)は9年前に批判したが、その後まったく進歩がない。いやむしろ、短絡的な思考が進化を見せている。「国民の手に憲法を取り戻す」という表現がその一例である。過半数にハードルを下げて、誰から、何を取り戻すというのか。まったく意味不明である。
『読売新聞』4月16日付の「首相単独インタビュー」(全文は17日付11面)によれば、こういう論理らしい。(1)世論調査で5割以上の人が改憲に賛成している、(2)改憲発議を国会議員の3分の1で阻止できるのはおかしい、(3)「占領軍の手によって閉じ込められた鍵を開けて、国民の手に憲法を取り戻す。それが96条改正だ」、というわけである(『産経新聞』4月27日付首相インタビューも読んだが、『読売』とほぼ同じことが繰り返されていた)。
彼の思考回路では論理的につながっているのかもしれないが、私にはまったく理解できない。世論調査の「5割以上」というのはかなり曖昧な数字であり、それと、国会における発議要件とは何の関係もない。また、憲法何条をどう変えるか具体的ではない改憲賛否の世論調査は無意味である。何より、「占領軍」って、この人にとっては1952年までしか日本に存在しなかったかのようである。今も日本各地に基地を置き(沖縄に74%)、危険な低空飛行訓練を自由勝手に行い、「おもいやり予算」で本国よりも快適な生活を謳歌している米軍は「占領軍」ではないのか。米国は自衛隊を参戦させたかったが、常に壁となったのが憲法9条だった。憲法施行66年の歴史そのものが、この憲法がこの国の発展にとって重要な役割を果たしてきたことを示している。「取り戻す」というのは、おじいちゃんができなかった改憲の思いを取り戻すというだけのことではないか。
そもそも、安倍首相の憲法に関する基礎知識もかなり怪しい。それを国会での審議を通じて国民は見てしまった。「憲法を知らない人間が改憲を言っていいのか」という厳しい指摘がネットにも飛び交った。
3月29日、参議院予算委員会。民主党の小西洋之議員は、憲法13条についての首相の認識と理解を問うた。メディアでは、3人の著名な憲法学者の名前を質問して、安倍氏がまったく答えられなかったことばかりが注目された。「クイズのような質問」「憲法学の権威でもありませんし、大学でもやっていません」と懸命にかわそうとしていたが、安倍氏が法学部の学生(行政学のゼミ生)だった頃は、宮澤俊義・清宮四郎の教科書がスタンダードだったから、芦部信喜の名前は知らなくてもいいというような「通」の話ではない。現在、憲法を論点にする者が、代表的な憲法学者を知らずに話をしてしまうのは驚きである。3人のうち、佐藤幸治・京大名誉教授は、司法制度改革審議会(1999年7月、内閣設置)の会長で、2001年7月に答申を出すまで在任した。その間、森・小泉両内閣の官房副長官を務めたのが安倍氏だった。内閣の主要な審議会の会長名を失念するはずがない。答えられないというのは、驚くべきことである。これは単なる知識や、石原慎太郎氏が安倍氏に欠けているという「教養」(『朝日新聞』4月5日付石原インタビュー)の問題だけではない。
小西氏がさらに問題にしたのは、自民党憲法改正草案の「公の秩序」理解の危うさだった。ここでも、安倍氏は質問をはぐらかすだけだった。憲法とは何かについての問題意識や自覚がまったくない人が、やたら人権を制約する文言を憲法に過剰投入してくるのだから、これは本当に危ないと思う。この予算委員会でのやりとりは質問の仕方の稚拙さもあって、茶化して伝えるメディアもあったが、存外重要なことが明らかになったと思う。『朝日新聞』4月7日付コラム「天声人語」が注目していたが、憲法13条という個人の尊重の核心的規定の意味を、一国の首相がまったく理解しないで改憲を急いでいることの深刻さである(直言「権力者が改憲に執着するとき」参照)。
「まず96条から改正しよう」という言説や、改憲を叫ぶ国会議員の「憲法96条研究会」についてはすでに述べた。いま、政治家たちが改憲を表立って叫ぶ条文には、96条に加えて、なぜか「9」のつく条文が多い。
改正ターゲットのご本家、9条については、石破茂自民党幹事長が4月13日の「読売テレビ」で、「96条の改正は、将来的な9条改正を視野に入れたもの」と、衣の下から匕首をギラリと見せている。
上述の13条を軸とする人権の諸条項(納税の義務を除く29ヶ条)を、総じて「公益及び公の秩序」を盛り込むことによって薄めようとする改正草案である。文言を見ても一例を挙げれば、19条、多様な個々人の「思想及び良心の自由」は、「侵してはならない」から単に「保障する」に薄められようとしている。権力者に都合のいい特定の思想が押し付けられるおそれがある。
ほかに政治家たちが改正を叫ぶものに、90条(決算、会計検査院)、92条(地方自治の本旨)、94条(地方公共団体の権能)がある。この点では橋下徹氏が饒舌である。「勝ち負けと損得勘定」が判断基準(丸山和也弁護士)というから、ツイッターでの速射砲のような言葉の乱射も実に軽い。だから、憲法改正についても直観的である。59条があるでしょ、92条、94条も変えましょうと議論をふっかけてくる。学生に教えてもらったツイートに、こんなのがあった。ちょっと抜き出してみよう。
橋下徹のツイート
(4月16日8時1分)
「維新の会は、地方公共団体を地方政府に作り直し、道州制を日本の統治機構にするための92条改正、地方政府の立法権充実のための94条改正、衆参ねじれを正すための59条改正、国の決算を責任あるものとするための90条改正を軸に据える。統治機構改憲」(4月16日8時18分)
「96条改正だ。96条は、国民の判断を問うこともできない規定になっている。憲法改正する権限は国民主権そのもの。憲法96条は国民主権を制限し過ぎだ」(4月16日8時25分)
「日本の統治機構を、中央集権打破、地方分権型、地方政府樹立、道州制に改めるには、憲法92条、94条の改正が必要であり、この点国民的議論が必要になるので、まずは96条を改正しておく。国会議員の過半数の発議で、国民の判断を求めることができるようにする。中央集権打破、道州制改憲」
まず、憲法59条2項とは、「衆議院で可決し、参議院でこれと異なった議決をした法律案は、衆議院で出席議員の3分の2以上の多数で可決したときは法律となる」という規定である。橋下氏は「衆参のねじれを正すため」に過半数に変えるということらしいが、あまりに不勉強である。法律案、予算と条約の承認、内閣総理大臣の指名の各場面で、憲法は「衆議院の優越」を違った形で制度化している。予算や条約承認、総理大臣の指名については、最終的に衆議院だけで国会の議決となる。だが、法律については、両院での可決が原則である。参議院が異なる議決をしても、予算案のような形で自動的に衆議院の可決が国会の可決とはならない設計である。あえて憲法改正に次ぐ、「出席議員の3分の2以上」という高いハードルを要求することで、法律が両院で可決されることを促している。もし過半数に下げれば、再可決の意味がなくなる。これは参議院の無意味化を促進しかねない。むしろ「確信犯」的に、そうやって一院制を狙うということかもしれないが。
90条についてはまったく意味不明である。「地方自治の本旨」(憲法92条)は住民自治(93条)と団体自治(94条)からなる。橋下氏はやたら「地方分権」や「道州制」など、94条の団体自治をいじることばかり言うが、地方自治の発展は、住民の意思をより反映した住民自治の面も重要なはずなのだが、この点に触れることはない。「つぶやき」の乱射のなかから見えることは、自分が親分になって、国からもまわりからも妨害されることなく仕切りたいという、地方専制ボスの願望なのだろうか。
なお、橋下氏は、砂川事件で田中耕太郎最高裁長官が米側にご注進していた事実について、「今の時代、最高裁長官がアメリカ側に配慮したというのであれば大問題だが、現行憲法施行から10年〔12年の間違い:水島注〕、敗戦から12年〔14年:同〕くらいの状況で、そりゃ最高裁の長官もアメリカ側に配慮することもあるでしょ。裁判官だって人間だ」(4月19日7時50分)などとつぶやいている。「裁判官も人間だ」なんて陳腐な言葉で、戦後史の重大な問題を片づけてもらいたくない。「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」(76条3項)べきである。最高裁長官の対米追随的行為が、安倍首相が祝った「主権回復の日」の7年後のことであったことも知るべきだろう。
『自民党憲法改正草案』(2012年4月)には、たくさんの条文が削除ないしは改変されているが、とりわけ97条(基本的人権の尊重)の削除は象徴的である。憲法の最高法規の章にある条文を削除することによって、この草案が目指すものが、基本的人権を軸とした憲法ではないことを正直に語ってしまった。99条の変質はこの草案の致命的な問題点である。現行の憲法99条が憲法尊重擁護義務の主体に国民を含めなかったことの積極的意味を台無しにする。すなわち、公務に携わる者に対してのみ制限して憲法上の義務を課す「立憲主義」の本質的後退がここに見られる。
参議院選挙で「3分の2を過半数に」という志の低い公約を掲げて選挙が行われる。何とも情けない風景である。フジテレビ「国民的憲法合宿・96条」の結末と同様、権力者が積極的になっている改憲に対しては、そもそも「憲法とは権力者を制限するものでしょう」という疑問をぶつけていくべきだろう。
そのための素材として、憲法研究者が自民党改憲草案を徹底的に分析し、批判する本を緊急出版する。奥平康弘・愛敬浩二・青井未帆編『改憲の何が問題か』(岩波書店)である(5月28日発売)。自民党草案の条文を一つひとつ取り上げ、体系的にかつ詳細に検討している。私も98条と99条(緊急事態条項)を担当した。書いていて情けなくなった。あまりにレヴェルが低いからだけではない。憲法を変えるということの意味もわからず、変えることについての確固たる信念も怪しく、かつ変える内容についてわかっていないことがわかったからである。出版されたらお手にとってお読みください。
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