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(回答先: テスト 投稿者 赤かぶ 日時 2012 年 9 月 13 日 13:42:13)
国民、人民、市民、大衆、民衆 なんでもいいけど、生きてる人間の生活が第一
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2012-09-14 反戦な家づくり
「生活」というワードでグーグル検索しても、「国民の生活が第一」は出てこない。トップページはおろか、10ページまで探しても影も形もない。
このことの深刻さを、当事者の国民の生活が第一党のみなさんはわかっておられるだろうか??
SEOをやれとかそんな話ではない。グーグルに出てこないと言うことは、人口に膾炙していないということだ。ネット上には生活党の支持者が比較的に多いにも関わらず。
たしかに「生活」は広いキーワードだから、いきなりトップは無理だとしても、容易に探せる程度の順位では出てくるものと思っていた私は、少々ショックを受けた。
因みに、「反戦」と検索すると、数年前からこのブログが2位に出てくる。ウィキペディアの次だから、実質的なトップだ。
これは、いかに日本に反戦運動が存在しないか の証明みたいなものだ。
書き続けている者としては、上位に出てくるのはうれしいが、このブログがトップではあまりにもお寒いというものだ。
反対に「家づくり」で検索した場合は、かなり長い間上位には出てこなかった。
だいたい3ページ目くらいだったのだが、ここに来てトップページの下の方に表示されるようになった。これは、足かけ8年間続けて書いてきたこと、日に1000から2000人くらいの方がアクセスしてくれたこと、それに伴って被リンクが多くなったことなど、いろいろ要因は考えられる。
それにしても、「家づくり」というのビッグワードでトップページに出るのは、アドワーズなどでカネをかけてやろうとしたらかなりの額になる。
ウチのような「家づくり」のことなどほとんど書かない一介のブログでも、それなりに多くの方の目に触れイジってもらえれば、検索に上がってくるのである。
だから、たかがネット検索ではなく、それはどれだけ人目に触れ、話題になっているかの指標なのだと思った方がいい。「生活」で「生活党」が、まったく影も形も出てこないという事態は、やはり深刻なのである。
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ちょっと視点を変えてみよう
日本で生きている人びとにとって、自分たちを集合的に言い表す言葉が、実は無いということをご存じだろうか。
英語ならば、さしずめ PEOPLE にあたる言葉が、日本にはない。
government of the people, by the people, for the people は 「人民の人民による人民のための政治」と訳されるから、たぶん人民が近いのだろうが、人民解放軍などかなり政治的な色づけがされてしまったので、 PEOPLE と同義では使いにくい。
市民というのもよく聞く。が、これまたどうもイメージができてしまっている。誤解を恐れず有り体に言えば、お行儀のいい都会のホワイトカラーやインテリ層を想定しているようで、これまたとっても使いにくい。
言葉のそもそもの意味からして、市は都市の市であり、第一次産業とはなじみがよくない。
もっと言うと、 PEOPLE は例えば受刑者だって除外されないが、市民はどうだろうか。
大衆ってのもある。週刊大衆ではない。
これはこれで、少数の支配者が多数の被支配者をひとからげにして見下している言い方に聞こえる。
たしかに、そうやって支配する少数と支配される多数という関係は実在しているのだから、一番実態に近い言葉なのかもしれない。沖縄の社会大衆党という政党名にも、そんなことが反映されているのかも知れない。
それしても、大衆とクチにしたときの、ほのかに人バカにしたような響きは消しようがない。
似たのに、民衆という呼び方もある。大辞林の解説によれば、民衆は大衆よりも、より被支配階級という意味が強いのだそうだ。そう言えば、民という字は、目を針で刺す様を表しており、奴隷を意味するという話を読んだ記憶がある。なんぼなんでも、奴隷ではいやだ。
「なんで国民を出さないんだ」というお叱りの声が聞こえてきたので、最後に「国民」を考えたい。
国民の生活が第一の「国民」。
当然ながら、国民はどっかの国の国籍を持っている人の集まりということになる。だから、概念と言うよりは法律用語だ。国籍のない人は含まれないし、他の国に移籍すれば国民じゃなくなるし、国が無くなったり変わったりすれば消滅する。
逆に、国籍はあっても日本を離れてほとんど関わりも無い人は、国民であっても日本の PEOPLE ではない。
強制的であれ好きこのんでであれ、古今東西、所属する国が変わった人びとは数知れず。でも、国籍が変わっても生き続けているし、場合によっては支配者だけが変わって自分たちは何も変わっていないということすらある。
PEOPLE は 国という制度よりも先に存在し、生きている人間集団のことであり、 PEOPLE=国民ではない。
PEOPLE にあたる日本語がない。
これもまた、深刻なことだ。民主主義とかいっても、実はその主体を呼ぶ言葉さえないのだ。
言葉がない、ということは、それが意識されてこなかった ということ。
日本というところは、それくらい江戸時代のマンマなのである。
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そうは言っても、何か言葉を決めないと話が進まないので、便宜的に国民という言葉を使うことにする。
政治の話をする以上、国という枠組みの中で考えざるを得ないからだ。
2007年に小沢一郎が「国民の生活が第一」というスローガンを掲げたとき、これは画期的だと思った。
その当時はまだ私も、小沢一郎といえば「豪腕」「金権」というマスメディアの流すイメージで見ていたから、このスローガンにはとても驚いた。
それでも最初は、政権を狙う保守政党が「国民の生活が第一」なんて言うのは人気取りかな、と半分疑ってかかっていた。でも、その後の経緯を見つつ、小沢イズムやらを読んでみて、こりゃ本気なんだなと思うようになる。
これまた誤解を恐れず言うならば、小沢一郎という政治家にとって、一番大事なことは民主主義の確立ということなのだろう。そのために、自分は必要な場所に立とうとする。
荒唐無稽な想像だが、もし社会党がフランス並以上に強くて、自民党が負け続けていたならば、たぶん小沢一郎は自民党を出なかっただろうし、「国民の生活が第一」なんてスローガンはクチにしなかっただろう。
(属国日本にはアリエナイ想定だけれども)
その思考回路が理解できたことで、私は今この局面では小沢一郎という政治家を信頼出来ると思うようになった。
それは、彼の政策や思想を全部肯定できなくても、ある大きな段階までは信用して任せられる、ということだ。
逆に言うと、「国民の生活が第一」という状態がかなり達成できて、国民が自分たちのことを自分たちで決めるという意識が定着してきたときには、大きな分岐はある ということでもある。
改憲や軍事のことになれば、やはり私は小沢氏の主張に頷くことはできない。
前にも書いたが、私は「自衛隊は国際災害救助隊に再編すべき」と真剣に考えているし、今の天皇は親父の過ちを謝罪した上で、財団法人皇室博物館の館長になって独立採算で身過ぎ世過ぎしてもらいたいと本気で思っている。
そんな私のような人間から、天皇陛下のもとに日本軍を再興すべきというような人間まで、「国民の生活が第一」には集っている。
それでいいのだ。
国民というときに、他国民への排外主義や差別がそこに含まれてさえいなければ、国民の生活が第一というスローガンは結びの要になることができる。
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そのようなすばらしいスローガンを、そのまま党名にした「国民の生活が第一」が、しかし今、国民の目から消えかけているように見える。
一方で、マスメディアが無視黙殺キャンペーンを始めたということ。あきらかに、自民、民主、維新 以外の党名をクチにするのはタブーになっているようだ。
あれだけネガティブキャンペーンで、クチを開けば小沢の悪口ばかりを言っていたマスメディアが、小沢のオの字もクチにしない。
9月26日には控訴審が開かれるし、今までだったら小沢「被告」と被告をひどく強調しながら連呼していたものだが、まったく音無の構えだ。
悪名は無名に勝る。そのことに、敵の方が気がついたのである。
他方で、「国民の生活が第一」党の広報作戦が弱い。弱すぎる。。。
隔日で動画配信する「小沢一郎チャンネル」はいい試みだと思う。が、なんで有料??
できたての党の考え方を国民に聞いてもらうのに、いくらNHKよりは安いと言っても料金を取る?
これは理解しかねる。
本気で聞かせたいのならば、無料はもちろん、コピーOK、転載OK、改変以外はなんでもOKで、じゃんじゃん拡散させなくては。ネットというのは、糸電話じゃなくて「網」なんだから。
資金のことで言うならば、これを有料で見るくらいの人のほとんどは、ビデオがあろうと無かろうと月に840円くらいのカンパは惜しまないはずだ。
ビデオ自体は無料にして、別途カンパ要請をすれば、かえって金額的には増えるかもしれない。
それが、ネットの世界の作法だと思う。
そうした、ネットの情報拡散力を恐れるからこそ、ACTAなんてものが登場してきた。
つまり、ACTAで規制しようとしていることをやれば、情報は広く伝達できるのだ。
(ヴィトンのニセモノを作れとは言っていないので念のため)
一番やってほしいのは、街頭。
6月の官邸前に、是非とも小沢氏に出てきてほしかった。それを書いたこのブログの記事は、ある議員さんが印刷して小沢氏に渡してくださったそうだが、残念ながら叶わなかった。
たぶん、小沢氏は自分で口べただと思い込んでいるのではないだろうか。
たしかに弁舌爽やかではないが、あの「私には夢がある」には、多くの聴衆が感動した。
駅頭にも人が溢れた。
これをやってほしい。
全国縦断街頭演説ツアーをぜひやってほしい。
小沢氏以外はなかなか人が集まらないかもしれない。それはそれで、いいではないか。
一人一人の政治家が、渾身の演説をする。その姿を、駅頭で、ネットで国民が目にする。
聖火のように全国各地で松明をリレーして最後は国会議事堂前の大集会、という形もいいし、ある一日を決めて全国100箇所同時開催 というのもいいかもしれない。
政策の中身はもちろん大事だが、企画力も大切だ。
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ここまでは、政治家への一方的な要望ばかり書いてきた。
もちろん、政治である以上、まず政治家が決然と立っていただかないかぎり何も始まらない。
その上で、国民は手を叩いたりヤジを飛ばしたりして、最後に投票にさえ行けばいいのか、という問題はある。
政治家は、国民の代表。すなわち、代理人なのである。代理でない本人は、他ならぬ自分自身なのだ。
これまでも選挙運動とか後援会とか、一般の人間が政治活動に関わる機会というのは無いわけではなかった。
が、あくまでも、政治家がお願いして動いてもらう、という形に過ぎなかった。
まずは、この形と意識を変えなくてはならない。
「先生と支持者」ではなく、国民と代表という本来の(でも今まで一度も実現したことのない)関係を作り出さなくてはならない。
そのカギは、双方向ということだと思う。インタラクティブ。
これまでは、政治家→国民 という一方的な流れしかなかった。これを変えるには、国民→政治家 という流れを作ることだ。
大きなヒントは、政治と生活を考える会の政経フォーラムで行っている「市民からの声に答える」というコーナーだ。
これまでのこの会のフォーラムは、政治家の講演を聴くことが中心だったが、前回から「市民からの声に答える」というコーナーが登場した。その場の質疑応答だけではなく、あらかじめ聞きたいことを参加希望者から募って、答を用意してきてもらう、という内容だ。
政治と生活を考える会は後援会ではないから、中には政治家が答えにくいような話も出てくるし、もっと目をむけて欲しいと考えていることを、こちらからぶつけるということにもなっている。
まだ端緒的な試みだが、こうした流れをもっと大胆に作って行くことはできないか。
もちろん、無責任な放言を聞いてもらっても時間の無駄なので、主体的に何かやろうという国民の声を、これまでのような陳情ではなく、提言として逆流させていくこと。
「提言を政治家に聞かせる会」 とか 「朝まで生討論」 とか。
個別のテーマについては、アクティブな国民、いわゆる市民運動家のほうが政治家よりも詳しいことが多い。
お願いレベルじゃなくて、政策提言をしっかりできるレベルの人たちがいくらでもいる。ここをつなぐ。
市民運動を長年やっている人は、たいがい政治にはクールだ。というか、ほとんど失望している。
だからこそ、この問題だけはなんとかしようとしてがんばっている。
この人びとの言葉に、政治家が真剣に学ぶという姿勢を持ってもらいたい。
はっきり言って、市民運動家がストレートに支援者になることはあまり期待しない方がいい。そんなに簡単じゃない。
でも、国民 → 政治家 という流れを確実に作り出すことができるし、運良く意気投合すれば、ものすごく強力な支援者になる。
また、市民運動はやってないし、語る言葉も多くは持っていないけれども、危機感を持って自分も何かしようと思っている人も少なくないはずだ。
こうした人たちの言葉を引き出すこと。お手伝いではなく、自分の活動を見いだしていくこと。
これはたぶん、徹底的に話し合うことしかないように思う。
政治家の方々は忙しい。だから、イベントがあっても分刻みで次の予定へと去って行ってしまう。
そこを何とか時間を作って、支持者・支援者の普段は言葉にならない言葉を引き出し、胸に刻んでいただきたい。自分の話を聞かせるのではなく、言葉を引き出してもらいたい。
自らの言葉を発し始めた支持者は、支持者の枠を超えて政治活動への一歩を踏み出しうる。
国民の側も、政治家の側も、いまだかつて実現したことのない「民主主義」に向かって、意識を改造していく必要があるのだ。
国民の代理の政治家と、政治をする国民。同時養成プログラム ってところだろうか。
もちろん、「国民の生活が第一」党の政治家に限らない。真剣にこうしたことをやってくれるなら、何党にかかわらず一緒にやって、お互いに切磋琢磨してもらえば良いと思う。国民もまた、多くの意見を聞くことで、なにが正しいのか見分ける知恵を付けることができる。
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こうした、民主政治家と政治国民を同時に養成するプログラムと、街頭企画、そしてインターネットも組みあわせ、
本気で「国民の生活が第一」を実現する、大運動を作って行くこと。
このくらいの展望をもってやらないと、小手先で後援会がどうとかやっても、たぶん民自公維の大政翼賛会には歯が立たないだろう。
生活党のみなさんが、どのような戦略を考えているのか、私にはうかがい知ることはできないが、かなりの危機感をもって検討していただきたい。
唐突だが、放射能を安全だ安全だといって被曝を強要する山下俊一という殺人鬼が福島にいる。
傍目には鬼に見えるこの人物が、一部の人たちから、原発村ではないごく普通の人たちから、ありがたい人と見られている。
心の奥では「危ない」とわかっていても、できればそれを認めたくない。大丈夫と思いたい。そんな切実な思いを後押ししてくれる、甘い言葉を山下俊一は与えてくれるからだ。
誰でも、危険が目の前にあると、それを見たくないと思う。たぶん大丈夫だと思ってしまう。こういう心理を正常化バイアスというらしい。
生活党のみなさんが、決して正常化バイアスにかからぬよう、失礼を承知で書かせてもらった。
私ら国民、人民、市民、大衆、民衆 まあなんでもいいけど、とにかく生きてる人間として、国民の生活が第一を実現するために何ができるのか、実践的に考えていきたい。
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9月30日 政治と生活を考える会 政経フォーラム
話題沸騰の 孫崎享氏 『最大のタブーに迫る! 戦後史の正体』
→ くわしくはこちら
http://blog.goo.ne.jp/seijitoseikatsu/e/fa810316d40ce1fac2e24a25a15366e6
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