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>〈福音書〉のユダヤ地理がデタラメなのも、よく知られた事実です。
わたしの勉強不足のせいなのか、それは初めて知りました。
しかし具体例が挙げられてないことにはなんとも確認しようがありませんのでパスします。
>デタラメなのは地理だけでなく、年次もです。イエスの誕生年について、マタイ2-1はヘロデ大王の在世
>中と書き、ルカ2-2はクィリニウス総督の代としています。ところがヘロデはBC4年に没、クィリニウスは
>AD6年以後の赴任なので、これはありえない矛盾なのです。
ヘロデが亡くなった年代については論争の余地もありますが、西暦前1年であったことを示す、少なから
ぬ証拠があります。ヘロデ大王の没年の計算は、かなりの程度ヨセフスの歴史書を根拠にしていますが、
ヨセフスによれば、ヘロデは月食後ほどなくして、過ぎ越しの前に死にました。(ユダヤ古代誌、第17巻167、
191、213)
「167 さて、ヘローデースはマッティアスを大祭司職から解任したが、もう一人のマッティアスすなわち
騒ぎの扇動者のほうは、その幾人かの同志とともに焚刑に処した。しかし、(その焚刑の行なわれた)
まさにその夜に月蝕がおこった。
191 そして、このようなことをなし終えると、息子のアンティパトロスを殺した日から五日後に死んだ。
彼がアンティゴノスを処刑したときからは34年間の、またローマ人から王に指名されたときからは37
年間の、彼の支配は このようにして終わった。
213 さてこのとき、ユダヤ人にとって伝統の祭りである種入れぬパンの祭りが巡ってきた。その祭り
は出エジプトを記念するもので、ファスカと呼ばれていた。」
それで、西暦前4年3月11日(3月13日、ユリウス暦)に月食があったので、ヨセフスが述べているのは
その月食だったと結論している人たちもいます。しかし、西暦前4年のその月食は規模がわずか36%ほ
どにすぎませんでしたし、その月食が起きたのは早朝の時刻のためほとんどだれの注意も引かなかっ
たでしょう。一方、西暦前1年1月8日(ユリウス暦では1月10日)には皆既月食があり、月が1時間41分間
にわたって暗くなりました。この日は過ぎ越しの3か月ほど前であり、伝承によるヘロデの死の日付、シェ
バトの月(1-2月)の2日の18日前に当たります。
もう一つの計算方法は、ヘロデの死んだ時の年齢を中心としたものです。ヨセフスによれば、ヘロデは
その時約70歳でした。ヘロデはガリラヤの知事に任じられた時(一般的な見方では西暦前47年)に15歳
だったとヨセフスは述べています。しかし学者たちは、恐らくこれは誤りで、25歳と書くつもりだったのだろ
うと考えています。(ユダヤ古代誌、第17巻148、;第14巻158)そうなると、ヘロデが死んだのは西暦前2
年もしくは1年になります。
次にクレニオ(クィリニウス)がシリアの総督であった時期ですが、福音書の記述は次のことを伝えてい
ます。
「さてそのころ、人の住む全地に登録を命ずる布告がカエサル・アウグスツスから出た。(この最初の
登録はクレニオがシリアの総督であった時に行なわれたものである。)それで、すべての人が登録をす
るため、それぞれ自分の都市に旅立った」。(ルカ 2章1〜3節)
聖書批評家たちは、クレニオがシリアの総督だった時期に行なわれた唯一の人口調査は西暦6年ごろ
のことであったと言っています。しかしこれは実際のところ、クレニオの統治下で行なわれた2度目の登録
でした。なぜなら、その数年前にクレニオが皇帝の地方総督としてシリアで仕えていたことがアンティオキ
アとその近くで発見された幾つかの碑文により明らかにされたからです。このことに関して、クランポンの
フランス語聖書の「新約聖書辞典」(1939年版、360ページ)はこう述べています。「ツンプトとモムゼンの学
術的研究によれば、クレニオが2度シリアの総督になっていたことは疑問の余地がない」。多くの学者はク
レニオの最初の総督在任時期を西暦前4年から1年の間のいつか、多分、西暦前3年から2年までとしてい
ます。しかし、こうした年代を算出した彼らの方法は確実なものではないため、クレニオの実際の総督在
任期間はいまだに決まっていません。それで、イエスが誕生した時期に行なわれた登録に関して、歴史家
でもある聖書筆者ルカが、「この最初の登録はクレニオがシリアの総督であった時に行なわれた
ものである」と述べて2度目の登録と区別したのは正しかったことになります。その2度目の登録は後に同
じクレニオの統治下で行なわれたもので、使徒5章37節でルカはこの登録について触れています。
以上のことからヘロデ大王の没年が西暦前1年、クレニオの最初の在任期間が西暦前4年から1年頃と
するならば矛盾は生じないでしょう。
次はイエスに対するサンヘドリンの死刑判決について考えてみます。
サンヘドリンでは全員一致の判決は無効となるため、全員が死刑を求めたという福音書の記述は誤りである
ということですね。ですが、どんなに立派なシステムでもそれが正しく機能するかどうかは運用する人間次第な
のではありませんか。そもそもこの裁判、証人が訴えを提出し法廷でそれが審理されるいう形ではなく、まず
法廷であるサンヘドリンがイエスを拘束し、あとから訴えの証人を探しをするというものでした。このことからし
ても、これが異例であり異常な裁判であったことがわかります。
ですがサンヘドリンの成員の中にはイエスに対し好意的な証言をしたり弟子となった人たちもいました。
例えば、ニコデモはユダヤ人の宗教指導者たちの横暴なやり方に対して次のような異議を唱えています。
以前にイエスのもとに来たことがあり、また彼ら(サンヘドリン)の一人であったニコデモが言った、
「わたしたちの律法は、まず人の言い分を聞いてその人が何を行なっているかを知ってからでなけ
れば、人を裁かないではないか」。それに答えて彼らは言った、「あなたもガリラヤの出というわけで
はあるまい。預言者はガリラヤからは起こらないことを調べてみなさい」。 ヨハネ7章50〜52節。
このニコデモはイエスの処刑の後、もう一人のサンヘドリンの成員であるアリマタヤのヨセフとともにイエスの
埋葬の準備にも手を貸しています。そのヨセフですが、彼はイエスに対する謀議では反対票を投じてもいます。
さて、見よ、ヨセフという名の人がいた。議会の一員であり、善良で義にかなった人であった―この
人は彼らの謀りごとや行動を支持する投票をしなかったのである―彼はユダ人の都市アリマタヤの
人であり、神の王国を待っていた。この人がピラトのもとに行き、イエスの体を頂きたいと願い出た。
そして彼はそれを下ろして上等の亜麻布に包み、岩に掘り込んだ墓の中に横たえた。それは、まだ
だれも横たえられたことのないものであった。 ルカ23章50〜53節。
このことから、サンヘドリン全体がイエスの死を求めていたという記述は、文字通り71人の成員全員という
わけではなく、数名を除く全体ということなのでしょう。そもそもこのときの状況は公開の法廷ではなく大祭司の
私邸、密室裁判でした。成員71人のうち何人が招集されていたかも不明です。
ですが、問題なのはこのマタイの記述、むしろ後半の部分だと思います。彼に対する偽証を探し求めていた
ということはイエスの死刑は決定事項であり公正などどうでもよかったのです。
一方、祭司長たちおよびサンヘドリン全体は、イエスを死に処するため、彼に対する偽証を探し
求めていた。 マタイ26章59節。
ちなみに、ユダヤ人の口頭伝承は、西暦初期に成文化されましたが、その伝承に含まれていた通則は、以下
のように適用されました。
■ 死刑判決もあり得る事件の場合には、まず無罪の可能性を探る論議が行なわれた
■ 裁判人たちは、被告人を救うために全力を尽くすべきであった
■ 裁判人たちは、被告人をかばう論議はできたが、責める論議はできなかった
■ 証人たちは、各自の役割の重大さについて警告された
■ 証人に対する審問は個別に行なわれ、他の証人が同席することはなかった
■ それぞれの証言は、問題の行為のあった日時や場所など、肝要な点すべてが一致していなければならなかった
■ 死刑判決もあり得る訴えは、昼間に審理し、昼間に結論を出さなければならなかった
■ 死刑判決もあり得る事件を安息日の前日や祭りの前日に扱うことはできなかった
■ 死刑判決もあり得る裁判は、判決が被告人に有利な場合、始めた日のうちに終えることもできたが、判決が不
利な場合、翌日になってからでなければ結論を下してはいけなかった。その後、判決が言い渡されて刑が執行
された
■ 死刑判決もあり得る事件は、少なくとも23人の裁判人によって審理された
■ 裁判人が無罪か有罪かの票を投じるときは、一番年下の者から順番に行なった。書記官は、無罪に賛同した
者と有罪に賛同した者の言葉を記録した
■ 無罪判決は1票差だけの過半数でも下せたが、有罪判決は2票差の過半数でなければ下せなかった。もし1票
差だけの過半数で有罪ということであれば裁判人が二人加えられ、有効な票決となるまで、必要なら何回でも
追加が行なわれた
■ 被告人をかばう論議をする裁判人が一人もいない有罪判決は無効とされた。全員一致の有罪判決は「共謀し
た節もある」とみなされた
また、ユダヤ人の法廷では、死刑裁判で証言をする者たちに、前もって人命の貴さに関する次のような警告が
与えられました。
「あなたは、推測した事柄、伝え聞いた事柄、あるいは証人のだれかが他のだれかに言った事柄に
基づいて証言しようとしてはいないか。『わたしたちは信頼できる人から聞いた』と思ってはいないか。
また、最終的には自分自身がしかるべき尋問と審理を受けて取り調べられる、ということを知っているか。
あなたは、窃盗事件の裁判に関する律法は死刑裁判に関する律法とは異なる、ということを知っている
べきである。窃盗罪の場合は、罰金を払えば償えるが、死罪の場合、[誤って有罪とされる]その者の血
とその者から生まれるはずの子孫すべての血は、[偽証する]証人に降りかかることになる」。
―「バビロニア・タルムード」、サンヘドリン 37a。
確かにこの文面を見る限りでは、当時の裁判ができうる限り公正であろうとしていることは分かります。
ですが、先にも述べたようにそれも運用する人間次第なのです。
次に、イエスに対する裁判の違法性について挙げて見ます。
■ 法廷では、無罪を支持する論議も証言もされなかった
■ 裁判人はだれ一人としてイエスを弁護しようとせず、皆がイエスに敵対していた
■ 祭司たちは、イエスに死刑の宣告をするために、偽証する者を探した
■ 裁判は夜間に密室で行なわれた
■ 審理は、祭りの前日に始まり、その日のうちに結審した
■ イエスを逮捕する前に何の起訴手続きも取られなかった
■ 『自分はメシアである』というイエスの主張は、真相が究明されることもないまま、「冒とく」だと決めつけられた
■ ピラトの前での裁きの時には、訴えの内容が変えられた(煽動罪)
■ 訴えは根拠のないものばかりだった
■ ピラトは、イエスの無実を認めていたにもかかわらず、処刑させた
ところで、イエスの死刑ですが処刑を実行したのはローマ人でした。もしユダヤ人の手で処刑が行なわれていた
ならば、ローマ式の磔刑ではなく石打ちだったでしょう。サンヘドリンにはたとえ死刑判決は下せたとしてもそれを
実行する権限はなかったようです。(ヨハネ 18章31節)そのためにユダヤ人はローマ総督のピラトにイエスの
処分を委ねます。しかし、サンヘドリンでのイエスの冒とく罪よる有罪でした。ところが、最終的にピラトに対しては
ローマに対する煽動罪として訴えがなされ処刑されているのです。結局のところ、サンヘドリンでの裁判手続きな
どはどうでもよかったのです。単に表向きは法的な手続きに従っていることを示したかっただけなのでしょう。
では次に、
>イエスが十字架からその日のうちに下ろされたというのも奇妙です。当時の磔刑は、数日かけて苦しみながら
>死なせる−という残酷なもので、数時間ですむようなものではなかったからです。
という点ですが、イエスは夜を徹しての取調べを受け、ピラトの下ではローマ式のむち打ちの虐待を受けていました。
ローマ式のむち打ちがどのようなものであったか、「アメリカ医師会ジャーナル」誌は、ローマにおけるその習慣につ
いてこう述べます。「よく使われた刑具は、長さが不ぞろいの何本かの革ひもや、撚った革ひもの付いた短いむち棒
……だった。その革ひもには小さい鉄球や尖った羊骨が所々にくくり付けられていた。……ローマの兵士が受刑者
の背中を繰り返し力一杯打つと、その鉄球によって深い挫傷が生じ、革ひもと羊骨は皮膚や皮下組織に食い込んだ
ことだろう。そしてむち打ちが続くにつれ、裂傷は深部の骨格筋にまで及び、ひも状に裂けて垂れた血のにじむ肉が
震えていたであろう」。ですから、イエスの活力は、杭の重さに耐えられなくて倒れてしまうかなり前から衰えていたに
違いありません。実際、同誌は「ユダヤ人やローマ人が行なった身体的、精神的虐待、また食事や水や睡眠をとら
なかったことも、イエスを全体的に衰弱させる原因になった。それで、磔刑が実際に行なわれる前のイエスの体の状
態は、少なくとも重体、もしかしたら非常に危険な状態にあったかもしれない」。とも述べています。
またイエスとともに磔刑に処せられた罪人は、翌日が安息日ということで死を早めさせられたようです。
その後ユダヤ人たちは、それが準備の日であったので、安息日に体が苦しみの杭に残ったままにならない
ようにと(その安息日は大いなる日だったのである)、彼らの脚を折って、死体を取りのけてくれるようピラトに
頼んだ。それゆえ兵士たちが来て、彼と一緒に杭につけられた最初の男の両脚、そしてもうひとりの男の両
脚を折った。しかし、イエスのところに来てみると、彼はすでに死んでいたので、彼の脚は折らなかった。
ヨハネ19章31〜33節。
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