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本澤二郎の「日本の風景」(1007)
2012年03月11日 :{「ジャーナリスト同盟」通信}
<小沢事件が物語る危うい司法の独立>
日本の検察と裁判官の一体化は、無数の刑事事件によって見事に証明されている。行政機関である検察の証拠を、司法の裁判所はほぼ100%認めて判決を下す。被疑者を弁護する弁護人の無力は、いかんともしがたいほど落差がある。これが政治捜査になると、より鮮明に司法は行政に従属して被疑者・被告人に襲いかかる。司法の独立は名ばかりだ。これに議会も言論界も引きずられるだけである。小沢事件はその典型であろう。ジャーナリズムの衰弱も輪をかける。
言うまでもないが、小沢事件は他の全ての国会議員が抱える政治資金問題で強制捜査を受けた。小沢は永田町の実力者の一人でしかない。多くの弱点を抱えている普通の政治家である。全ての議員同様に叩けば埃が出る。
ただし、現在の小沢の考えと他の議員との間には大きな違いがある。長い政治経歴から生まれたのであろう。「もうアメリカの時代は終焉を迎えている」「日米は共に対等であるべきだ」「アジアを重視しよう」「これまで対米従属を強力に推進してきた霞が関の官僚政治からオサラバしよう」と主張している。
日本再生に向けた変革の論理である。まともである。これに対して旧体制の利権で潤ってきた司法立法行政の3権とマスコミが、まるで蚊の大群のようになって彼に襲いかかった。小沢を政界から排除するというのが、事件の真相である。
内外の学者はここをしかと認識する必要がある。本来、小沢や鳩山はアメリカ社会であれば、変革で大統領に当選したオバマの役回りなのである。日米の落差そのものである。
<小沢事件で露呈した検察の醜態>
無謀な政治的意図での捜査は、マスコミと検察が共闘しないと実現しない。この二つの強権を動かせる組織は、目下の日本では政府(霞が関)とCIA(ワシントン)である。
強引な捜査は、幸運にも元秘書の隠しマイクで露呈した。これは懸命な被害者の判断だった。恐らく元秘書が国会議員だったことによる。普通の市民ではこうはならなかったのではないか。小沢は救われた。
要するに「何としても小沢を逮捕せよ」という闇の命令に、検察はなりふり構わず証拠をつかもうとした。そこに証拠のねつ造事件(刑訴法事件)が起きた。
犯罪捜査をする正義のはずの検察が、自ら犯罪を行ったのである。これが日本の法治国家なのである。史上まれにみる大義も正義もない警察国家・独裁国家レベルと表現出来ようか。元秘書はそんな日本の検察の正体を暴いたのだから、これは英雄である。小沢は生涯彼に頭が上がらないだろう。それよりも日本国民が手にした成果は絶大である。検察が恣意的な犯罪捜査を行って冤罪事件を引き起こしていたことを、元法務大臣経験者から聞いたことがあるが、それを小沢事件が証拠で裏付けたことになる。
検察は国民の信頼を裏切ってしまった。
<証拠排除した裁判所>
さしもの裁判官も、これには愕然としたのであろう。証拠がねつ造されていたのだから。それを大宣伝していたマスコミも。わずかでも良心のある裁判官であれば、そんなもので小沢有罪判決は出せない。出せば、いずれ国民から裁判官自ら断罪される。
担当裁判官は「証拠としない」という当然の決定をしたことは正しい。本来であれば同時に公訴棄却の場面であるが、この裁判官はそうしなかった。背後の意思に配慮したものだろう。裁判官は独立して良心に従って公正な判断をしなければならない。これは実際問題、建前でしかない日本の司法を印象付けている。裁判官の独立自体が危ういのである。検察が証拠をねつ造しても、裁判官が独立して英断を下せない。
<控訴の棄却をしなかった判事>
司法の独立・裁判官の独立は憲法で保障されている。現場ではそれが建前でしかない。憲法規定も形骸化しているのである。これも深刻な司法の現状であることを、小沢事件は物語っている。
独立した裁判官は、こんな場合、裁判そのものが根底から壊れてしまっているのだから、公訴棄却の決定をしなければならない。ねつ造した証拠での裁判を維持することなど不可能なのだから。
しかしながら、問題の裁判官はねつ造証拠を証拠としないと決定しながら、裁判の継続はするという。この自己矛盾は、どこからきているのか。ここにも重大な司法の問題が隠されているのである。
<判決に苦悩する裁判官>
恐らく間もなく判決を下さなければならない担当判事の苦悩・苦悶は、他人事ながらいかばかりであろうかと憶測してしまう。当たり前の無罪判決が自然だが、控訴の棄却をしなかった判事である。無罪判決をすると、どうなるのか。むろん、裁判官として生きられない。弁護士になれば済むだろうが、闇の世界から何をされるのか。「遺言書を書かなければ無罪判決を出せない」のかもしれない。
ものすごい重圧が担当判事にかかっていると思われる。
逆に推認証拠で有罪判決をするとどうなるのか。大手のマスコミが狂喜の宣伝をしてくれるかも?しかし、週刊誌やネット社会が怒りの論陣を張るだろう。担当判事は今、自らの不運を嘆いているのではないだろうか。
<最高裁事務総局に操作される判事>
判決のいかんによって、判事の将来は決することになるだろう。これが今の司法の現実である。彼の判決を注視しているのは、裁判官を管理している最高裁事務総局である。無罪判決なら彼の裁判官人生は終わりだろうが、問題はそれだけで済むのかどうか。
もっとも、対米従属政権が今後も継続すると、事態は厳しくなろう。その反対になると、最高裁判事も夢ではない。無罪判決をした場合だ。
有罪判決をすれば、体制から評価されることになる。出世と報酬増が待っている。だが、法学という学問の世界からは袋叩きに遭うだろう。犯罪証拠事件を前提にした有罪認定は、言語道断である。人間失格という追い打ちも約束されるかもしれない。
筆者は、堂々と無罪判決をして、その後に最高裁に辞表を突きつければいいと考えている。そうすることを進めたい。市民が闇の暴力から彼を保護してくれるだろう。新たに勇気ある弁護士として評価を高めよう。
良心に従って、裁判官の独立を堅持しての判決を見せつけるのである。
小沢判決は担当判事にも想像を絶する重圧をかけている。市民は重大な関心をもって判決文を見守っている。
2012年3月11日21時25分記
元記事リンク:http://blog.livedoor.jp/jlj001/archives/51969930.html
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