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http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52631
茨城県取手市・中3女子自殺事件【前編】
内藤 朝雄 明治大学准教授 いじめ問題研究
■いじめ問題、変わらぬ構造
いじめによる生徒の自殺が、次々報じられている。
学校でおきる残酷なできごとも、その報道のされかたも、同じことが繰りかえされているとしか言いようがない。
いったい、何がどうなっているのか。どうすれば解決できるのか。
まずは単純明快な正解を示そう。
日本の学校制度は何十年も変わっていないのだから、不幸な結果の生じやすさも同じである。学校制度を変えるほかに、有効な手立てはない。
しかし、いじめを構造的に蔓延・エスカレートさせる学校制度の欠陥を、メディアは問題にしない。
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日本の学校は、生徒を外部から遮断した閉鎖空間につめこみ、強制的にベタベタさせるよう意図的に設計されている。これは世界の学校のなかで異常なものである。
生徒を長時間狭い場所(クラス)に閉じこめ、距離のとれない群れ生活を極端なまでに強制する学校制度が、人間を群れたバッタのような〈群生体〉に変える。そして、いじめ加害者を怪物にし、被害者には想像を絶する苦しみを与える。
学校で集団生活を送りさえしなければ、加害者は他人を虫けらのようにいたぶる怪物にならなかったはずだし、被害者は精神を壊された残骸や自殺遺体にならずにすんだはずだ。原因は、学校のまちがった集団生活にある。
学校であれ、軍隊であれ、刑務所であれ、外部から遮断した閉鎖空間に人を収容し、距離をとる自由を奪って集団で密着生活をさせれば、それが悲惨で残酷な状態になりやすいのは理の当然である。こんな簡単なことが、教育評論家やテレビのプロデューサーたちには、どうして理解できないのだろうか。
いじめが起きていない局面でも、学校は、人間関係をしくじると運命がどう転ぶかわからない不安にみちた場所になる。
この不安(友だちの地獄)のなかで生徒たちは、多かれ少なかれ、付和雷同する群れに魂を売り渡し、空気を読んで精神的な売春にはげみ、集団づくりの共鳴奴隷・共生奴隷として生きのびなければならない。
学校は、人のことが気になりすぎて自分を失う怖い場所なのだ。
ここまで述べてきた学校の問題について詳しくは、拙著『いじめの構造――なぜ人が怪物になるのか』(講談社現代新書)をお読みいただきたい。
■なぜ加害者を非難できないか
報道では、いじめ加害者の責任を問うという声もない。
というのは、次のような、はっきり言葉にならないタブー感覚がただよっているからだ。それを露骨な言葉にしてみよう。するとこうなる。
たとえ法が責任能力を認める年齢(刑法では14歳以上、民法ではさらに幅が広い)であっても、中学生や高校生は人間であるまえに〈教育のもの〉であるから、それを頭越しに、法や正義や人間の尊厳にもとづいて本人の責任を問うことは望ましくない。
生徒はあくまでも教育の論理で扱うべき。学校に外の社会の価値観を入れることは、教育の敗北であり、なによりも神聖な教育に対する冒涜である。
このように、法や正義や人権よりも教育が上位の価値であるかのような感覚が、知らず知らずのうちに世に蔓延している。だから人間の尊厳を踏みにじって笑っている加害者をおおやけに非難することができない。
そのかわりテレビや新聞は、教育委員会の隠蔽体質を集中的に報道する。
これは、生徒を狭い人間関係に縛りつけて逃げられないようにする学校制度の問題、そして加害者の責任を、おおっぴらに報道できないことからくる八つ当たりではないだろうか。
学校は変わっていない。学校と教育にかんする私たちの先入観も変わっていない。こうして学校では、人が人をおそれ、人が人をいためつける集団生活の地獄が、いつまでも続く。
ひどいことがいつまでも続くのは、人がそれをあたりまえと思うからだ。それがあたりまえでなくなると、問題がはっきり見えてくる。逆にあたりまえであるうちは、どんなひどいことも「ひどい」と感じられない。
学校や教育の世界を、なにか聖なる区域のようなものとして扱い、それをあたりまえと思う私たちの習慣が、学校の残酷、理不尽、そして教育関係者の腐敗を支えている。
私たちは、この「あたりまえ」を、もういちど考え直す必要がある。教育という阿片に侵食された、思考の習慣を改めてはどうだろうか。
多くの人が学校がらみ、教育がらみの「あたりまえ」をあたりまえと思わなくなることによって、事態が改善し、不幸なできごとを減らすことができるからだ。
■学校は自殺の事実を隠した
この文章は、前回記事(日本の学校から「いじめ」が絶対なくならないシンプルな理由 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50919)の第二弾である。
今回は、茨城県取手市で起きたいじめ自殺事件と、教育委員会のふるまいに関する記事や番組をもとに議論を展開しよう。読者は、私たちが学校や教育について、どれほどまちがった認識をもっていたかに驚かれることだろう。
以下ではまず、取手市教委のふるまいに関する報道を紹介し、そこから私たちが教育について持っている困った先入観について議論を展開する。
次に、今回のいじめについての報道を紹介し、それを手がかりに日本の学校制度の問題を論じる。
教委のふるまいについて報じられたあらましは以下のとおりである。
朝日、読売、毎日、産経、日経、東京、茨城など、新聞各社の大量の記事をもとに、適宜、テレビや雑誌の調査報道を用いた。煩瑣な引用により文章が読みづらくなることを避けるため、新聞記事から引いたものは引用表記を省略した。各紙の文章をそのまま用いたり、合成したりした箇所があることをあらかじめことわっておく。もちろん紹介箇所のオリジナリティは報道各社にある。
2015年11月10日、茨城県取手市、市立中学3年の中島菜保子さん(15歳)が自室で首をつっているのを、両親が発見。
翌日11月11日、菜保子さんは死亡した。
同日、学校は市教委宛に「自殺を図り」と記した緊急報告書をファックスで送り、市教委は臨時会合を開いた。そこで、生徒に自殺と伝えない方針が決まった。
2015年11月12日、校長は全校集会で、「思いがけない突然の死」と生徒に説明し、自殺の事実を隠した。
2015年11月13日、学校は、自殺ではなく「死亡事故」「事故者」と記載された緊急報告書を市教委に送った。この書類で学校は、臨時保護者会を開かない方針と、警察への口止め行為(「警察から報道(機関)に広報しないことを確認した」との文面)を市教委に報告した。
後に市教委は「子供の心を考慮し、遺族の意向もあった」と釈明するが、それに対し父は「そうしてほしいと頼んだことはない」と語る。学校側は、3年生の受験を理由に中島さんの死を「不慮の事故」として生徒らに報告したいと父に同意を求めていた。
同級生は当時のことを次のように証言する(いつのことか日付は不明)。教員が生徒たちに「中島さんがなくなりました。いじめはなかったですよね。皆、仲良くしていたので先生も残念です」と説明した。保護者にも自殺の理由について「家庭の事情で」と発表があった。(『週刊文春』2017年6月15日号)
2015年11月16日、両親が、菜保子さんの日記をみつける。そこには、いじめの存在を示す記述があった。
制服のポケットからは「くさや」と書かれた付箋が出てきた。
両親は学校側にこれを示し、菜保子さんが自殺した事実を生徒たちに伝えて真相を究明するよう求めた。
■市教委は無視し続けた
2015年12月。自殺があったことを生徒に隠したまま、学校は全校生徒にアンケートをし、市教委の担当者が3年生に面接調査をした。
アンケート調査の質問票は、いじめや自殺に触れていなかった。
面接調査で担当者は、「くさや」の文字を隠した付箋のコピーを見せるだけで、具体的ないじめについて質問をしなかった。それと対照的に、習っていたピアノのことや両親との関係など、菜保子さんの家庭事情については質問をしていた。
ある同級生は「(ピアノのことなどで)お母さんは厳しかったの?」と質問された。また別の同級生は、いじめと関係があると思った菜保子さんからの手紙を面接担当者に渡したが、すぐその場でつき返された。いじめがあったとはっきり証言したという同級生もいた(TBS「News23」5月29日(以下「News23」と略))。
生徒たちは菜保子さんへのいじめを目撃しており、何人かの生徒はすでにいじめについて教員に話をしていた。教員は「わかった」「そうなんだ」などと言っていたという(NHK「クローズアップ現代」2017年7月18日(以下「クロ現」と略))。
市教委は両親に「いじめは認められなかった」と報告した。
市教委の調査に疑念を抱いた両親は、菜保子さんの同級生二十人と会って話を聞いた。彼らは両親にいじめを裏付ける証言をした。以後、両親はいじめがあったと訴えたが、市教委はそれを無視し続ける。
翌2016年2月。両親は市教委に第三者委員会の設置を求めた。
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■「重大事態に該当しない」
同2016年3月卒業日。中学3年生になると卒業日に渡す個人アルバムを、1年間のいろいろな行事を書き加えてつくっていく。卒業式の朝、両親はアルバムを受け取った。そこには、「きらい/うざい/クソやろー/うんこ」などと書かれた菜保子さんに対する寄せ書きがあった。
「そのアルバムは自死から卒業式まで、学校側による調査があったにもかかわらず、ずっと隠されていたわけです。それで、いじめはなかった、という調査結果でした」(菜保子さんの母)。
2016年3月16日。市教委は前もって学校から重大事態発生報告書を受け取っていた(3月4日)。それにもかかわらず、市教委は臨時会を開き、「いじめがなかったとの判断」を示した(「クロ現」)。
そして、菜保子さんの死を「(いじめ防止対策法で規定された)いじめによる重大事態に該当しない」と議決したうえで、調査委員会の設置を決定した。この臨時会の議事録は大半が黒塗りであり、発言者の個人名が記載されていなかった(取手市議会2017年6月8日、染谷議員質問より)。
2016年6月、市教委は定例会で5人の調査委員を決定した。茨城大教授1名(教育学)、筑波大教授2名(精神科医と臨床心理士)、東京の大学教授1名(臨床心理士)、茨城県で開業している弁護士1名である。
2016年7月、調査委が調査を開始。
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■筋書にはめ込むための調査
調査委員の聞き取りを受けた同級生は、菜保子さんの家のことばかり聞こうとする委員の不審な言動について、次のように証言する。
「聞かれたのはそっち(いじめ)の方が少なくて、家のこととか聞かれた数ではそっちの方が多かった。ピアノの練習もきつくて死んじゃったとか、お母さんがピアノ厳しいから亡くなっちゃったんじゃないのかとか、なんでそんな話しになるんだろうと思いました」(「News23」)
翌2017年3月。調査委は両親への聞き取りをしようとしなかったので、両親は調査委がきちんと機能するよう文科省に訴えた(「News23」)。
同2017年4月、両親が文科省に訴えるとしばらくして、第三者委二人が両親に聞き取り調査を行った。このときの委員の不審な言動について両親は次のように証言する。
母:「食欲が落ちてませんでしたか、否定的な発言をしていなかった、とか、私たちの思春期の反抗期まで聞いてきたので、それがどういう調査に関わるのだろう」。
父:「いじめのことについては聞かれないんですかということを言いましたら、学校の調書があります、っていう回答が返ってきました」。「いじめのことに関しては、もう学校・教育委員会の聞き取った以上のものは何も調べないんだな。その流れを固めるためにそういうことを行おうとしているんだな、ということを感じました」。
母:「いつ学校は向き合ってくれるんだろう。学校っていったい何なんだろうなあ」(「News23」)
第三者委について評論家の尾木直樹は、「ピアノの練習が厳しかったので虐待ではないか、など家庭に問題があったという筋書にはめ込むための調査≠セったと聞く」と証言している(『週刊文春』2017年6月22日号)。
■「弁解する余地ない」
2017年5月29日、両親が「中立性や遺族への配慮を欠く」として調査委の調査の中止と解散を文科省に直訴する。
翌日5月30日、市教委は文科省の指導を受けて臨時会を開き、「いじめによる重大事態に該当しない」との議決を撤回。また、これまでの「いじめがなかったとの判断」をおおやけに撤回した。
この突然の撤回に関して、市教委の教育部長は記者会見で次のような言動を示している。
記者:「お上に言われたからあわてて(臨時会を)開きました感が否めないのですけど、そのへん、いかがですか」
教育部長:「それについては、あの、もう、あえていいわけはしません。正直いって、私たち、弁解する気もないので、弁解する余地ないと思っとります。むしろ文科省も、この件に関しては、指導いただいてありがとうございます、というところでございます」。(この発言の際、教育部長の怒りにゆがんだ顔とにらむような目つきがテレビで放映される)(フジテレビ『とくダネ!』2017年6月1日)
■教委への「不信」「信頼の危機」
市教委は、調査委を解散してほしいという遺族からの要求を拒んだ。
2017年6月1日、市教委はまた文科省の指導を受けると、すぐに調査委を解散する方針を表明した。
市教委の教育長は、「両親の申し入れを重く受け止め、信頼回復しながら次に向かっていくために解散する方向で進めたい」と話した。
2017年6月9日、同教育長が市議会で「調査委員会の中立性を重視するあまり、一番寄り添う必要のあったご遺族の意向を聞くことをせず、さらに苦しめることになった。慚愧(ざんき)に堪えない」と謝罪した。
この事件の報道に際し、新聞各紙で教委への「不信」「信頼の危機」「信頼回復」といったたぐいの語が見出しや本文にあらわれるようになった。
2017年6月13日、調査委の解散をうけて、当該委員長は、新たな委員会にバイアスをかける(予断を与える)ことになるのを避けるために調査資料は全部消去すると話す。
以上、取手市教育委員会のふるまいについて、報道より概略を示した。
次回、これらの報道を前提に市教委の行動について分析を試みたい。
<つづきはこちら「『いじめ自殺』多発にもかかわらず、学校の有害性が問われない不可解」>
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52633
日本の学校からいじめがなくならないのはなぜか? それは有害な学校制度がいつまでも変わらないからである。茨城県取手市ではひどすぎるいじめ自殺事件が起きた。学校は事実を隠し、教育委員会は当初無視しつづけていた。いじめ研究の第一人者がこの事件を徹底分析する。
前編はこちら:日本の学校は地獄か…いじめ自殺で市教委がとった残酷すぎる言動(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52631)
■首尾一貫した隠蔽工作
茨城県取手市で起きたいじめ自殺事件に関する市教委の行動を、「いじめがあった」とするのに役立つものと、「いじめがなかった」とするのに役立つものに分類すると、そのほとんどすべてが「いじめがなかった」とするのに役立つタイプになる。
逆に、通常であればしてもおかしくない行動のなかで、「いじめがあった」とするのに役立つ行動はことごとく選択されていない。
「いじめがあった」ということになりそうな調査を強いられる(あるいは、そうなることが予測される)場合は、調査の検出効力を最大限弱める努力がなされる。
さらに、これらの行動群の組み合わせに関しても、「いじめがなかった」とするのに役立つように、前の行動が後の行動の布石となっている戦略的コンビネーションを見出すことができる。
偶然の一致とはとうてい考えられない、上記のいちじるしい行動の偏りと組み合わせが、市教委の行動原理をくっきり浮き彫りにしている。教委の行動群は「いじめはなかった」と社会的現実を改変するための合理的戦略行動(隠蔽工作)として首尾一貫しすぎているのである。
さらにこれらは、嘘をつく、隠蔽する、誘導する、知らせない、調査の正確性を意図的に毀損する、といった職務に関する背任行為を多く含んでいる。
「いじめはなかった」とすることだけでなく、全般的に、利害計算が市教委の首尾一貫した行動原理となっている。
教委は利害損得によって行動しながら、なんとでも言える〈教育〉的なストーリーから都合のよいものを巧みに選択して「いいわけ」に用いている。
以上のことを報道に即して説明しよう。
■教員はいじめを知っていた…?
中島菜保子さんの自殺直後、学校と市教委は、生徒に「思いがけない突然の死」と説明して自殺を隠蔽した。書類には「事故死」と嘘の記載をしている。しかも生徒の証言によれば、すでにこの段階で一部教員は「いじめはなかった」とのアピールをしている。
学校が熱心に遺族にしたことは、自殺でなく「不慮の事故」にしてほしいという依頼だった。学校は保護者会を開かないことにし、警察に口止め工作をし、これを市教委に報告した。
市教委と教員は――通常の判断能力を有する社会の成員であれば明らかに意味が了解可能(わかるはず)であるという観点から――菜保子さんの日記を読み、「くさや」と書いてある付箋紙を見た時点で、いじめがあった可能性が高いことを知ったとみなすことができる。
さらに以前からいじめについて教員に話をしていたという同級生の証言にしたがえば、一部教員はいじめを菜保子さんの自殺以前から知っていたことになる(『週刊文春』2017年6月15日の記事によれば、担任教員自体が実質的にいじめグループの一員であった可能性がある。知らないはずがないともいえる)。
■自殺といじめにふれない調査の不可解
ここで、次のような仮説を立てることができる。
すなわち、自殺直後の段階で、学校と教委は菜保子さんへのいじめがあったであろうと考え、だからこそ、今後いじめ調査をしなければならなくなるときに備え、自殺の隠蔽を行った。
事前に自殺といじめを隠し、大多数の生徒を何も知らない状態にしておいたうえで、来たる調査でいじめを話題にしないでいれば、いじめがあったという証言は少なくなるはずである。
一部教員が「いじめはなかったですよね」とアピールしたのも、いじめを知っていて後に責任をとらされるかもしれないのが不安だったからではないか。
教委側の立場にたっていえば、案の定、遺族は調査を要求してきた。断ることはできない。ここにきて自殺直後からの、多方面への自殺の隠蔽、いじめ無視が、いじめをなかったことにするための有利な条件として効いてくる。
学校と教委は、アンケートと面接の双方で、自殺といじめにふれない調査をおこなった。
市教委は、面接調査で用いざるを得なくなったと思われる付箋紙から「くさや」の文字を消してコピーしたものを置いて調査をした。
「くさや」の文字がなければ市販の付箋紙の意味が生徒たちにわかるはずがないということを――通常の判断能力を有する社会の成員であれば明らかに意味が了解可能(りょうかいかのう)であるという観点から判断して――、教委は知っているはずである。
意図的に付箋紙が記憶のカギになる効果を失わせる加工をしつつ、付箋紙を用いた調査らしいことを形だけしたことにする、というのが最も整合性のある解釈である。
■公務員による露骨な背任行為
報じられた生徒の証言によれば、このとき、教委はいじめについて質問せず、「お母さんは厳しかったの?」といった誘導を積極的におこないながら家庭の事情について質問した。
また市教委は、生徒がいじめについて証言しても無視し、証拠を手渡そうとしたらその場で突き返した。当時学校は同級生の保護者に、菜保子さんが自殺した理由について「家庭の事情で」と嘘の発表を行ったという。
これらが報道どおりであるとすると、公務員による露骨な背任行為といえる。
遺族が第三者委の設置を要求すると、教委は上記の不正な調査を用いて、事務局として「いじめはなかった」との判断を示し、「重大事態に該当しない」と議決したうえで、第三者委の設置を決定する。第三者委のメンバーは5人中4人が地元茨城県の専門家である。
生徒の証言によれば第三者委はいじめのことはごくわずかしか聞かず、家庭のことばかり聞いてきたという。
そればかりでなく、ピアノの練習が厳しいから死んだというストーリーへの露骨な誘導を行ったと生徒に感じられ、「なんでそんな話になるんだ」と反感を持たれるありさまだった。
また調査委は最初遺族を無視していたが、それを文科省に訴えられてはじめて遺族に質問を開始し、そのときにも家族状況に関する質問ばかりし、いじめの質問はしないのかと問われると、教委の調書があると言う。
■巨大すぎるバイアス
父は、第三者委の調査は、家庭に問題があったというストーリーを固めるための中立性を欠いた調査であると判断し、文科省に調査の中止と調査委の解散を訴える。
文科省の指導が入り、第三者委解散が決定されると、第三者委は、報告書については、新たな委員会にバイアスをかける(予断を与える)ことになるので、調査資料は全部消去すると決めた。
これも、以前の行動と照らし合わせると辻褄があわない。生徒の証言によれば、聞き取りではいじめのことをわずかしか聞かず、家のことに偏った質問をしていた。遺族に対する調査も同様のものであった。
遺族には、いじめについてのソースは教委が調べたものしか使わないという。これは桁外れに大きいバイアスである。このように調査委は、本務ともいうべき調査活動で巨大なバイアスを入れておきながら、資料を消去するためのいいわけとしては、ほんのわずかのバイアスを気にするしぐさをする。
資料をあつかう専門家であれば、資料批判を当然の前提として、なるべくたくさんの資料を集め、自身の観点で評価しポイントを取捨選択する。それを考えれば大したバイアスにはならない。ある意味、バイアスがあるから消去するというのは、後続の専門家に対して失礼な行為でもある。
つまり第三者委は、聞き取り調査をするときは専門家としては考えられないような大きなバイアスを生む方法を用いながら、資料を消去するときはとるにたらない些細なバイアスを理由にしている。
上記2時点のバイアス感度が極端にかけはなれていて、辻褄があわない。
文科省の指導を受けた教委は、自分たちの利益のためにいじめはなかったと主張してきたのを、文科省から圧力を受けると同じ利害計算により、手のひらを返したように、そのストーリーを固める作業をあきらめる。
つまり、強者(文科省)からの圧力を、「いじめはなかった」とすることから得られる利益を上回るリスクとして計算に入れると、長期間主張し続けた「いじめはなかった」という判断を一晩で撤回する。
■強い方にしたがうだけ
ここからわかるのは、いじめを隠蔽することだけではなく全般的に、利害計算が市教委の首尾一貫した行動原理となっている、ということだ。
さらに、市教委が真実、あるいは真理というものを、どのように扱っているかを見てとることができる。市教委にとって「ほんとうのこと」は意味がないのである。
あるのは、利害と技術と上下関係が混合した職業上の生活様式だけである。このように考えると、市教委の行動様式を明確に理解することができる。
その行動様式を露骨に示しているのが、テレビで放映された教育部長の言動である。
それが真実であるかどうかではなく、強いもの(文科省)に言われると即座に従い、いじめがあったのかなかったのかという真実(ほんとうのこと)に関する判断を簡単にひっくり返したのはなぜかという質問(真実を尊重する立場であれば当然気になる質問である)には、怖い顔をして「あえていいわけはしません。弁解する気もないので」と言う。
この言葉の意味は、真実をめぐる対話には答えない、力と力のぶつかりあいで強い方にしたがうだけだ、という本音であると理解できる。
力と力のぶつかりあいのなかで、都合のよい意味づけを成功させる戦略として、とってつけたような〈教育的〉ないいわけを饒舌にくりかえしてきた市教委にとって、真実のありか(ほんとうのこと)を主題とする質問に答えることの方が無意味な「いいわけ」なのである。
■教育委員会に真理はない
おそらく教育委員会自体が、そのような上には卑屈、下には尊大で、真実は無意味、力関係とそれに応じた欺瞞のアートがすべてという職業的生活習慣の上に運営されてきたのであろうと考えられる。
一言でいえば、教委に真理はないのである。
力関係のなかで利害損得に従って仮象をはりあわせて演劇的に生きる者に、記者は手練手管とは別の真理(ほんとうのこと)という生活習慣によって応答することを求めた。強者である文科省であれば、何を要求されても教委はひたすら平伏する。
しかし、たいして強者とも感じられない記者からそのようなことを要求されると、教委は怒る。教委は、教育的な仮象をはりあわせるいいわけを繰りかえしてきたし、これからもそうするであろう。
しかし、真理を要求されても、生活習慣上、真理の言葉など出しようがない。別種の生き物のしぐさを要求された動物のように、怒りしかでてこない。相手がムチを手にした(と教委が思う)文科省であれば必死で真理のふり(もっとも苦手な芸)をしてやってもよいが、たいした強者でもない記者ごときに、そんな芸当はしてやらない。
これが、怖い顔をして「あえていいわけはしません。弁解する気もないので」と言う教委の真意(非真理の反応)である。真理の言葉こそが、教委にとって最も意味のない「いいわけ」なのだ(この考察に際しては、哲学者ニーチェの著作群を参考にした)。
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■学校制度の有害性
ところで、このような世界の住人たちが、学校で道徳教育をし、情意評価で成績をつけ、高校入試の内申点によって生徒の将来を左右している。
こういう者たちに、生徒はへつらって生きるしかない。こういった学校制度の有害性が社会問題にならないのが不思議である。
「内申や推薦や情意評価といった制度は、卑屈な精神を滋養し、精神的売春を促進し、さらに課題遂行という点では人間を無能にする」(拙著『いじめの構造』)。
教員に生徒の態度や道徳を評価させ、成績をつけさせると、醜悪きわまりない人格支配が蔓延する。
特に「おまえの運命はおれの気分次第だ。おれはおまえの将来を閉ざすことができるんだぞ。おれのことをないがしろにしたら、どういうことになるかわかっているだろうな」という高校入試の内申制度は、青少年の健全育成にとってきわめて有害である。即刻廃止しなければならない。
■つくられたストーリー
話を元に戻そう。
教委が用いるストーリーやいいわけは、利益追求のために都合良く貼り付けられる。
さまざまな時点の言動を照らし合わせることによって、その特質があきらかになってくる。
ここで、教委が遺族に行ったことを観測のための一つの定点とすることができる。生徒の証言によれば、学校は同級生の保護者に、自殺の理由について「家庭の事情で」と発表した。
教委による聞き取りと、第三者委の聞き取りの双方で、いじめについての質問をしない(あるいはほとんどしない)で、「家庭の問題」というストーリーへの露骨な誘導をともなう質問を繰りかえしていた。
これらの行動は、「いじめはなかった」ことにしたい自己利益のために、菜保子さんはいじめではなく、あたかも「親が厳しすぎたせいで、つまり親が虐待したせいで自殺した」かのようなフィクションをつくりだし、それを公的なものとして固めようとする政治的な行動であると考えるのが最も整合的で自然である。
筆者は報道された同級生と遺族の証言から、以下これを前提に論を進める。
■極端なまでに辻褄があわない
遺族はわが子を失い、その直後から、教委・学校関係者が一丸となって「親が虐待したせいで子が自殺した」という社会的現実を、同級生たちが証言するような中立性をいちじるしく欠いた調査によってつくりだしていく。
これは、愛するわが子を失った遺族に対して、これ以上の残酷なしうちがないと言ってもよいような非道な行為といえる。
市教委が手を染めたのは、寄り添いとか、信頼とかが問題となる次元を超えた、いじめの隠蔽から得られる利益のためには両親の人間の尊厳をくつがえす、いわば遺族を虫けらあつかいするような行為である。教委が遺族にしていたことは、けたはずれに陰惨な行為といえよう。
また、いじめを無視し、家族の落ち度ばかり拾おうとした調査は、意図的かつ極端なまでに調査の中立性を破壊して利益追求を図ったものであるといえる。
その同じ教委が、文科省から指導を受けて立場が悪くなった2017年6月9日の市議会で、「調査委員会の中立性を重視するあまり、一番寄り添う必要のあったご遺族の意向を聞くことをせず、さらに苦しめることになった。慚愧(ざんき)に堪えない」と発言している。
この発言と最初に遺族にしていた陰惨な行為とは、極端なまでに辻褄があわない。この2時点間の言動の極端な食い違いから、次のように考えることができる。
■オウム真理教と同じ?
教委は、遺族のことを「一番寄り添う必要」がある存在と思っているはずがない。
「慚愧に堪えない」はずがない。当時教委は、いじめをなかったことにするのにやっきになっていて、調査の中立性を率先して破壊していた。中立性を重視していたとは考えられない。
市議会での発言は、利害情況に応じて組み立てたいいわけであるとわかる。
まず利害があり、それに応じて〈教育〉の世界で多用されるストーリーのなかから便利な素材が選び出され組み立てられる。
これは、オウム真理教の教祖が、教団にとって都合の悪い人物を殺害することを命じるときに、魂を高いところに引き上げてあげるのだと意味づけたり、性的な劣情にかられて教団内部の女性と好きなように性交することを、ヨーガの修行を助けてあげていると意味づけたりするのと同じである。
しかし、決定的に違うところがある。オウム真理教の教祖のいいわけは社会からまったく受け入れられないが、教委や学校関係者のいいわけは受け入れられてしまう。
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■教育に侵食された日本社会
これは、私たちの社会に、教育に関しては、他のジャンルであれば許されないようなことを、あたりまえと感じて受け入れてしまう思考の習慣がいきわたっているからである。
教委や学校関係者はそれにつけこんで、他の業種であればとうてい許されないようないいわけを通してしまう。私たちの社会自体が、教育という阿片におかされているのである。
重要なのは、特定の教委がどうであるということではなく、その類のものを受け入れてしまいがちになる(教育なるものに侵食されがちな)日本社会のありかたである。
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