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いじめ社会
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投稿者 asy8 日時 2015 年 10 月 16 日 22:07:44: 3ati27iqg4fYY
 

兵庫県の警官複数がいじめを苦にして自殺を図った。一人はすでに死亡している。世間一般の人は、ああまたかという印象しか持たないかもしれない。しかし、現職の警官がいじめを苦にして自殺するなどというのは普通ではない。しかも一人だけでなく、複数の被害者がおり、連続してこういうことが発生したということは異常事態だ。それに警官になるためには相当に厳しい訓練を受けてきたはずであるし、それなりに強い精神力があったはずだ。今までにも公務員のいじめ自殺は頻繁に起きている。自衛官のいじめ自殺もあるし、教師のいじめ自殺も繰り返されてきた。だが、いじめは防止できていないし、今後もいじめは繰り返されるだろう。学校や職場のいじめもなくなっていない。それどころか増えている。しかし、学校側は非常に巧妙であり、学校としての体面を守るために、いじめがあってもそれを隠蔽し、報告していないことが明らかになっている。職場でのいじめも減少していない。いじめは組織犯罪であり、個人を集団で集中攻撃して破滅させ、死に追いやる卑劣な手口である。そのほとんどが組織の管理者、最高権力者がいじめを知りながら故意に放置している。もともと、いじめは証拠を残さない犯罪なので、発覚しにくい。またたとえ発覚したとしても、それを証明する手段がないのが実情だ。特にいじめの被害者が死亡してしまったら、もはやいじめそのものがなかったことにされてしまう。何しろ、いじめがあったということはどんな組織にとっても、不名誉なことであり、恥であるだけでなく組織の管理者の職務遂行能力の欠如を意味するので、死ぬ物狂いでいじめを否定し、もみ消そうとする。もしもいじめを認めてしまうと責任追及が行われるし、結局は、辞職や辞任、解任、追放処分となる。いじめを認めることは今までのあらゆる肩書も地位も、年収も失うことになるからだ。なぜいじめが繰り返されるのかというと、権力者が何らかの目標達成のために邪魔になる者を排除してしまいたいという欲求があるからだ。あるいは単なるすとれる解消のための憂さ晴らしで、いじめを面白がってやるのだ。どうせいじめが発覚したとしても、自分は最高権力者なので、後の処分はどうにでも自由裁量でできるという計算だ。つまり、いくらでも隠蔽ができるし、嘘の情報を流すことができる。いじめのターゲットが死亡してしまえば、死人に口なしというわけで、後はいくらでも嘘の話をでっちあげることができる。例えば、精神的に弱いとか、家族に問題があるとか、やたらに人を気にしすぎるとか、能力がないとか何かにつけて理由を作り出すことは簡単だ。警察は基本的にいじめの捜査などはしない。職場でのいじめに関しても、労働基準監督署はいじめの捜査や調査はしないし、たとえどういう公的機関に相談しても無駄である。学校でのいじめに関しても、喧嘩両成敗という形でうやむやにすることが多い。それどころか教師同士のいじめとか、保護者同士のいじめもし烈である。どうしてこんなにいじめがはびこっているのかわからない。とにかくいじめという形であれば人を死に追いやっても、処罰されることもないし、調査も捜査もないのだ。つまり日本はいじめに支配されており、いじめこそが最大の死神となっている。日本はいじめの死神にとりつかれており、これに戦うこともできないし、いかなる改善策も見いだせていない。いじめの加害者が無敵なのではない。無敵なのは、対応ができないいじめという死神だ。いじめの加害者がいじめという死神を悪用して、他人を死に追いやったり、不幸な日々に陥らせて喜んでいても、それは一時的な勝利に過ぎない。なぜならば、いじめという名の死神は、自分を悪用して他の人間に危害を加えた者も容赦なく地獄に引きずり込むからだ。死神という表現が気に入らなければ悪魔と表現することもできるがどちらにしても同じことだ。勘違いをしてはならないのは、いじめという魔物を悪用してそれで勝ち誇る者も決して幸福ではないということである。もしもいじめの勝利者だけが生き残ることができ、安全に快適に幸福に生きられるとしたら、いじめは邪悪なものではないということになってしまう。しかし、そういうことは誰がどう考えても間違っていると気が付くはずだ。つまり、破壊の神が主人ではありえない。破壊する前に創造がなければならない。創造の神が創造しなければ、破壊の神は何もできず、存在そのものも無となってしまう。あるいは、創造の神と破壊の神は同じ神であり、一人で、創造したり破壊したりを繰り返しているのかもしれない。だがもしもそうであるなら、それも普通ではない。いじめに関する相談所というのはいろいろと増えてきている。学校でもカウンセラーがいるし、役所でも相談所はある。だが、児童相談所を見ればわかるように、ほとんどがまともに機能していない。ただ、表面的に、ふんふんと話を聞くだけのことであり、基本的に一切何もしない。ただ相談所という形があるだけのことで、実際は何の意味もない。それである程度は気分も晴れる人もいるかもしれないが、大部分は納得できないはずだ。法テラスとか、消費者生活相談所とか、あるいは市民対話課とか、悩み相談受付ます的なもの、人権センター、各種偽装相談所などいろいろある。ほとんどは何の役にも立たない。つまり、いじめ攻撃を受けると基本的に相談するところはない。それを常に思い知らされる。またいじめに対して我慢するべきだという世論が根強い。そのようにして孤立化させ、ノイローゼに追い込んで自殺させるという汚い手口が横行している。アメリカなどでは、頻繁にいじめの被害者が銃を乱射して、いじめの加害者や関係者を死に追いやるという事件が多発している。中には無関係の人も犠牲になっている。これはもちろん間違った対応だ。何の関係もない人が、たまたまその場にいたというだけで犠牲者となっている。それに加害者が銃で自殺することも多い。あるいは死を覚悟の上で発砲を繰り返し、制止命令も無視している。これに関して、またしても世間一般の人々は、やれやれまたかアメリカだから仕方がないなという反応を示す。この世間の人々の進歩のない反応にも問題がある。どうしていつも他人事だと決めつけているのか?自分には絶対起こりえないとなぜ思い込むのか?それが不思議でならない。そしてまたいつものように世間話をしたり、近所の噂話をしたり、愚かなテレビのバラエティー番組を見ている。何も考えていない。何も気にしない。完全に進行停止の状態であり、まったく何の変化もなく、自ら対策をとることもせずいつも他人任せにしている。国や行政が何かしてくれるだろう。マスコミが何かしてくれるだろう。公務員や政治家が何かしてくれるだろう。そういう態度である。それはそれで仕方がないのだろう。誰もが自分のことだけで忙しい。私は、自衛隊員とか警官とか、教師とかそういう公務員がいじめの犠牲になることだけを問題視しているのではない。何の肩書も地位も名誉もない、これからそういうものを獲得していくのだろうが、とりあえずはまだ現時点で子供で未成年で学生の人々のいじめを重大問題だと思う。だからといって高齢者のいじめが許されるとか、そういうことではないが、これから先がどうなるのかもわからない年齢の人がいじめの犠牲者になったり、あるいは加害者になることを警戒するべきだと思う。いじめの理由として、体格、体臭、学歴、出身地、収入、出身校、性別、年齢、そのほか、ありとあらゆることがきっかけになっている。部落差別もいまだに続いている。こういう差別やいじめに取り組む姿勢が足りない。一応は、パンフレットを配ったり、大きな看板を掲げたり、ポスターなどでスローガン的なことはあるが、それは形式的なものばかりだ。実際には学校でのいじめ問題を解決するよりは、全国テストの成績レベルを上げることに情熱を注ぐ教師が多い。いじめを解決するよりも、いろいろなスポーツ大会で優秀な成績を収めることを目標としている学校が多い。それは作業所でも同じで、本来はそういういじめは差別、虐待、嫌がらせがあってはならないはずなのに、実際には蔓延している。老人ホームでも虐待死が頻繁に起きている。職場でも職場のいじめをなくすよりも、利益を上げることのほうが最優先される。これが現実だ。しかし、目先に利益追求に走るばかりにいじめ問題などを放置したり、あるいはそれどころか、いじめを利用して成績を上げようとする組織の管理者もいる。こういう連中はものすごく悪い。だが、実際には調査も何も行われないし、逆にこういう腹黒い連中のほうがどんどん出世したりする。だが、そういうことを繰り返してば、決して健全な方向には進めない。今回のパワハラいじめでも、権力者は、知らぬ存ぜぬということで押し通すのだろう。代わりの人間はいくらでもいるからすぐに別の新しい人材を確保し、またいじめを繰り返して死に追いやるのだろう。福祉施設などでも大抵の最高権力者である施設長とか、社長とか、代表責任者とか室長とかいろいろな肩書があるが、こういう連中は、一見すると、おだやかで、にこやかで、落ち着いていて、虫も殺さぬようなとても福祉的な顔をしているが、本当の裏の顔は恐ろしいものである。だが、世間一般の人は、ころりと簡単に騙されてしまう。いじめの死神と取り引きをすることはやめるべきだ。  

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コメント
 
1. 2015年10月17日 01:22:44 : pW1rhWABdw
具体的にいじめを無くす為はどうしたら良い?
「ストップいじめ!」「いじめ 恥ずかしい!」

まずは個々の親の資質だろう、大概の親なら賢く、強く、優しい人の痛みを知る人間に
生まれて来るように願い、
育て上げたいと思うだろう。
まずは自分を改める、そんな子供に育つにはどういう鏡になるべきかを考える。
テレビの世界も区別、差別、格差をお笑いネタにする、
なるべく遠ざける。汚い言葉を使わない、甘えさせ過ぎない、
わがままは許さない、我慢を教える、叱る時にはその意味を良く言い聞かせる。
子供社会も残酷だ、体力や学力が劣る者は餌食となろう、
付き合いが悪い、正義感が強過ぎても孤立するかも知れない、
そんな不安にも負けない優しさと強さがあればきっと仲間も集まる筈だ。
エロやヲタクやマニアックな世界にどっぷり漬かるとヤバいな、
一生付き会える親友を作る、女の子との恋愛経験も身に付けさせたい。
クラスとかにコンプレックスと腕力の有るリーダー格が存在するだけで厄介だ。
地域選びを考えたらそれなりの財力も必要だろう。
学力と体力を(出来れば武道場へ通わせたい)相応に付けさせ、
なるべく良い所の子息が通う学校へと通わせたい、
いわゆる底辺学校は最悪だ。
後は良く解らん、その子の進みたい学校や就きたい仕事次第だが…
やはりブラック企業は避けた方が良いな、
高学歴で資格やスキルが多い程に潰しは効くね、
嫌な奴の居ない風通しの良い職場を求めて何度も転職したって良い、
そんな風に育った子供達が多くの挫折と立ち直りを繰り返し、
反省から学びいつか社長として会社を興して欲しい。

…って、まるで「本宮ひろし」作品の主人公みたいだな。
政治家や財界人や組織のトップにそんな人間が増えて欲しい。


2. 2015年10月23日 06:25:58 : jXbiWWJBCA
2015年10月23日 小川たまか [編集・ライター/プレスラボ取締役]

「毒親」のDNAはあなたにも?その愛情が子どもを凍りつかせる

女性芸能人たちが相次いで告白本を出すなど、ここ数年話題が続いている“毒親”。足もとでは「毒親」に関する報告例が、以前にも増して増えている。その中には、耐え切れなくなった子どもが親に絶縁状を突き付けるなど、家庭崩壊につながったケースも少なくない。そもそも“毒親”とは何なのか。どんな親が子どもにとって“毒親”となるのだろうか。あなたの中にも眠っているかもしれない「毒親」の資質について考察する。(取材・文/プレスラボ・小川たまか)

ある日突然、子どもから絶縁状が?
あなたは「毒親」になっていないか


足もとでは「毒親」に関する報告例が、以前にも増して増えている。子どもに愛情を注いでいるつもりでも、逆に子どもを痛めつけてしまう「毒親」とは?
?自分が良かれと思ってしていたことが、子どもにとっては「毒」になっていたら。そしてある日突然、子どもから絶縁状を突き付けられたら――。

?数年前から「毒親」という言葉が話題になっている。『ポイズン・ママ―母・小川真由美との40年戦争』(2012年/小川雅代)、『一度も愛してくれなかった母へ、一度も愛せなかった男たちへ』(2013年/遠野なぎこ)、『解縛:しんどい親から自由になる』(2014年/小島慶子)など、タレントや女優たちが「毒母」に関する本を執筆。『母がしんどい』(2012年/田房永子)など、毒親に育てられた本人たちが描くコミックエッセイも相次いで刊行され、話題と共感を呼んでいる。

?今年7月に発売されたコミックエッセイ『ゆがみちゃん?毒家族からの脱出コミックエッセイ』(原わた)も、著者自身の経験を描いたもの。amazonレビューには、次のようなコメントが寄せられている。

「自分ってなんてダメなんだと思っている人、自分の過去やツラさを封じ込めてきた人に読んでもらいたい」

?毒親とは、どんな親のことなのだろうか。毒親はどんな影響を子どもに与えてしまうのだろうか。もし自分が毒親だと子どもから指摘されてしまったら、どうしたらいいのか。読者諸氏の中にも気になる向きは多いのではないか。

?まず毒親について、前出の書籍やコミックエッセイに描かれている例から見ていこう。小島慶子さんは、『解縛』『「自分」がしんどい』の中で、父親の職業で友達の「価値」を判断し、その価値観を押し付けてくる母に反感を覚えていたと述べている。

?田房永子さんは、自身の経験を描いた『母がしんどい』に続き、毒親の元で育った人たちへの取材をまとめたコミックエッセイ『うちの母ってヘンですか?』(2014年)、『それでも親子でいなきゃいけないの?』(2015年)を刊行。これらの中では、「髪型や服装の強制」「進路・進学先の強制」「友人関係への過剰な干渉」「親の感情で子どもを振り回す」「過度な干渉と無関心を交互に繰り返す」「思春期にブラジャーを買い与えない」「無視」などの例が挙げられている。

『ゆがみちゃん』で描かれているのは、「子どもの意志に反する宗教の強要」「子どもの頃から日常的に『ブス』『かわいげがない』『性格が悪い』と罵る」「兄には充分に与えている金銭を妹には与えない」「『殺してやる』という暴言を繰り返す」など。

?暴力に関するケースは少ない。中には「中学校の校門前で、教師が見えている前で母親から暴行を受けた」「大学受験の当日に母親が角棒を振り回しながら追いかけてきた」といった例もあるが、多くの場合は精神的なプレッシャーを与えるものだ。身体への暴力は、最近では「虐待事件」と見なされることが多いからだろう。

“毒親”の子どもを
最も苦しめるのは周囲の無理解

?昔は「親のしつけ」として見過ごされることもあった暴力による虐待は、最近では事件化することが増えてきた(それでもまだ虐待死に至るまで見過ごされてしまうことがあるが)。一方で、「毒親」に見られるような精神的な抑圧については、家庭内暴力事件よりもさらに周囲が介入しづらいという特徴がある。子どもが訴えても、「反抗期」「どこの家にもあること」と言った言葉で片づけられてしまうこともある。精神的な抑圧は、子どもに自己否定や自責感を植えつけ、将来にわたって苦しめる可能性があるにもかかわらず、である。

『ゆがみちゃん』では、「毒親に対する無理解」について、次のように書かれている。

「世間には、『家族はすばらしい』と無条件で称賛する風潮があります。フィクションの物語が『子どもを愛さない親なんていない』と吹聴することもありますが、現実には子どもを愛せない親、間違った愛を押しつける親が存在しています」

?家の外からでは状況がわかりづらいから、周囲は一般論と照らし合わせて「大したことではない」と判断してしまう。また、それ以上に恐ろしいのが、子ども自身が「ひどい言葉を言われても親は悪くない。悪いのは自分」「自分が反省しなければいけない」「何があっても親を愛さなければいけない」と思い込んでしまうことだ。親を愛さなければいけないという気持ちと、親からのひどい仕打ちを拒否したい感情の狭間で、子どもの心は次第に凍りついてしまう。

?だが、いったん子どもが親の異常さに気づいたとき、子どもはすごいスピードで親の元から去ろうとする。『ゆがみちゃん』の主人公は、バイトで貯めたお金で家を出て、まったく縁のない地方まで引っ越し。さらに結婚後は分籍と転籍を行って、親からの追跡を完全に断とうとする。他のケースでも、親との縁を何とか断とうとする子どもは多い。

“毒親”は子どもが親と自分を
切り離すための言葉でもある

?1999年にすでに『毒になる親 一生苦しむ子供』(スーザン・フォワード、玉置悟訳)が出版されているが、「毒親」という言葉は「子どもを苦しませる親」という意味で使われることが多い。最近はマスコミで取り上げられることも多いことから、「毒親ブーム」と言われたりもする。

?しかし一方、田房永子さんは最新刊『それでも親子でいなきゃいけないの?』の中で、「親を罵るための蔑称じゃない」と書く。「“毒親”は子供が自分と親をきりはなして考えるための言葉」というのだ。親が「毒親」かどうかを判断する基準は子どもがツラいかどうかであり、親を「毒親」と認識することで初めて子どもが救われ、自立に向かえる場合があるのだ。

「毒親」と言われる親たちは、子どもを過剰にコントロールする傾向が強い。いつまでも子どもを自分の見える範囲内に置き、自分の都合のよいように扱おうとする。子離れができない究極の形とも言える。普通の家庭では子どもが一定の年齢に達すると親は彼らの自立を見守るが、子どもと自分を一体化しようとする「毒親」は子どもの自立を認めようとしない。自由を求めて子どもが親の元を脱出するための方法が、「愛さなければいけない存在」だった親を「毒親」と認識することなのかもしれない。

専門家が語る「毒親」の見分け方
心の中に住むインナーチャイルドとは?

?それでは、毒親にならないためにはどうすればいいのか。自分が毒親だと気づく術はあるのだろうか。

?東京吉祥寺で15年以上にわたってカウンセリングを行うセラピストの大澤富士夫さんは、「カウンセリングに来る人の苦しみの元は、本人が気づいているいないにかかわらず、100%親との関係に起因している」と指摘する。人間は親との関係を元にして自我をつくり上げる。親にきちんと受け止めてもらった人は自我が安定し、他人との関係においても「相手を受け止める」ことができる。しかし、支配的な関係を親に強いられた人は、自我が安定せず、他人との関係において「支配するか」「隷属するか」のどちらかのスタンスを取るようになってしまうという。

?また大澤さんは、「親自身の人生に余裕がなければ、毒親になる」と話す。この場合の「人生の余裕」とは、経済的な余裕や社会的な地位とは関係がない。親自身が人生を楽しみ、自分を尊重していることが大事なのだと言う。

「自分を尊重できる人は、他人も尊重できる人です。逆に自分を尊重できない人は不自由で、常に安心を求めている人。子どもの意志を尊重することもできない。そもそも親子は『親』と『子』という役割があるだけで、本来人間として平等です。自分を尊重できない人にはそのことがわからず、子どもにも意志があることを理解できません」

?親が子どものために「自己犠牲」を選ぶ姿勢はときに美化されることがあるが、「親が自己犠牲をしていると、子どもにもそれを強要するようになる」と言う。「私はあんたのために離婚せず、我慢したのに」と子どもをなじるような例が典型的だ。

?虐待は連鎖するという話は有名だが、親から抑圧を受けた子どもが親となったとき、その子どもを抑圧してしまう理由について、大澤さんは次のように説明する。

「人の心の中にはインナーチャイルドがいます。子どもの頃に理不尽な目に遭った人は、その小さな子どもが悲しんでいたり怒っていたりする状態です。そうすると、自分の子どもが生まれたときに、インナーチャイルドと子どもが『ライバル関係』になってしまうのです。子どもが幸せそうにしていると、インナーチャイルドがそれを阻止しようとする。自分が満たされなかったのに、なぜこの子どもが幸せなのかと憎むのです。親が子どもに『お前のためだから』と言って子どもの意志に反することを強要したりすることがありますが、これも本当は、子どもに幸せになってほしくないからです」

?また、インナーチャイルドの怒りは、母親なら女の子、父親なら男の子、すなわち同性に向かいやすいのだという。

自分を抑圧するべからず
自己肯定感が他人の尊重につながる

?自分が毒親かどうかのチェックポイントとして、大澤さんは「子どもが言いたいことを言えているかどうか」を挙げる。

「たとえば、一緒に暮らしているうちに、子どもが親に対して『あなたは私にとって毒親だ』とはっきり言えるのであれば、そこまでひどい状況ではない。子どもが親を恐れて言いたいことを言えず、自分で自分を抑圧している状況が一番危ないと思います」

?あなたの家庭ではどうだろうか。コミュニケーションが一方的にならず、子どもが言いたいことを言えているだろうか。

?最後に、ダイヤモンド・オンラインのメイン読者である男性の心理について聞くと、大澤さんはこう話してくれた。

「カウンセリングに来るのは7〜8割が女性です。男性は自分からカウンセリングに来ないですね。だからと言って、男性が悩みや苦しさを感じていないというわけではないと思います。男性の場合、生きづらさに気づかないようにしていたり、生きづらくても『こういうものが人生だ』と思って、辛さを心の中にしまったりしているのではないでしょうか」

?もしあなたが生きづらさや不自由さを感じ、「毎日が楽しくない」と感じていれば、その鬱屈や抑圧は子どもを苦しめる行為に向かいかねない。毎日イライラする、不安を感じる、人にあたってしまうということがあるならば、一度専門家に相談してみると、日常生活の中で見える景色が変わって来るかもしれない。
http://diamond.jp/articles/-/80433


3. 2015年11月13日 15:10:20 : OO6Zlan35k
「遙なるコンシェルジュ「男の悩み 女の嘆き」」

「10センチ離してください」の冷酷

弱い誰かは、明日の自分だ

2015年11月13日(金)遙 洋子

(ご相談をお寄せください。こちらのフォームから)


ご相談
 日々仕事に追われ、責任ある役職を任されている今、親が介護を必要とする状況となりました。もちろん親の心配をしながら、仕事も放っておくわけにはいかず、心の整理もつかないまま、慌ただしく過ごしています。今後のことを考えると不安も尽きず…。(40代女性)

遙から
 この社会はつくづく不完全だなぁ、ある種類の人たちの目線で仕上げられているなぁ、と最も感じるのが、車椅子の人と街に出た時だ。

 高齢者施設で暮らしている知人の男性を歌舞伎にお誘いした。施設のホールでは高齢者たちが風船でバレーボールみたいなゲームをやっている。

 知人の高齢男性は「あんなこと、やってられるか…。僕はいつも参加せん」と言ってのける。彼にとっては高齢者=幼稚園児のように扱われることに辟易としているようだ。

 「では、私たちは歌舞伎に行きましょう」

 「行こう!」という時の知人は輝いた表情だった。

お洒落は不要ですか

 出がけに「ハンカチとティッシュを」と施設の職員にお願いしたが、答えは「ありません」。

 …そうだった。「お洒落な方ですので、観劇の日にはスーツを着せてあげてください」という私の依頼に、施設は「え? 服はありませんが」という回答だったのを思い出した。

 確かに日頃の生活にスーツは要らないだろうが、まさか入居に際して身ぐるみはがされるわけではないだろうから、外出用の服がないというのはどうしたわけか。詳しい仕組みはわからないまま、ジャージ姿での観劇を覚悟した。いつもポケットチーフにストールで決めていた高齢男性だから、こんな日だけでもお洒落をさせてあげたかったが、そこは多くを望むまい。

 「いいですよ。ジャージでも」と返事しておいたが、どうやらジャケットは手に入れたようだ。だが、ハンカチとティッシュは準備できなかった。

 「差し上げます。私のハンカチ」

 「すまないね」と私のを知人は受け取った。

 介護タクシーはすばらしい。手慣れた段取りでささっと車椅子ごと乗せてくれ、料金もそう高くない。運転手は言う。

 「介護施設で働いていたんですが、介護タクシーに仕事を変えたんですよ」

 「今、需要は増えてるんでしょ?」

 「いえ、タクシー運転手で食べられない人たちが、介護タクシーに参入してきていますから、こっちはこっちで厳しいです。でも、僕は元介護職員ですから、運転以外のことでもいろいろできますんで」

 介護施設の人員不足、経営不振が言われる中、そこから生き延びるために介護タクシーに、介護の経験を付加価値として参入する男性たちと、元タクシー運転手との競争がある。

 ひとつ経験する度に、その背後にある社会の現実とニュースが合致する。いろいろなことが頭に浮かぶまま、介護タクシーに乗った。

最後部に並んでください

 車椅子を押しながら移動しようと思えば、健常者との行動計画より1時間ほど前倒しになる。早く現場に着き、入場者の混乱を避けて「早く入れてもらえないか」と入口職員に交渉したが、「列に並んでください」と、けんもほろろだった。

 しかし、列に並ぶのはかなりの難作業なのだ。

 その会場の周りは、地面は石や芝生やコンクリートやらが入り混じる段差だらけ。そこを、男性が乗った重い車椅子を自由に移動させるのは難しい。

 見ると、両手に杖の高齢女性も列に並んでいた。そうだ。歌舞伎ファンはおしなべて高齢者が多く、車椅子秒読みの観客も多い。

 結果、列に並べない車椅子は、1時間も早くに来て、最後に入場することになった。

 たまたまだが、その会場では客席の車椅子エリアが最後尾席の端だった。私たちの車椅子と、タッチの差でより端っこの場所に収まることになった別の高齢者男性の車椅子が並んだ。

 その婦人らしき女性が、夫らしき車椅子男性の後頭部越しに舞台を眺めていた。

 「この席から舞台が見えるだろうか。こんな端から…」という心配声が聞こえてきそうだった。

 そちらのお年寄りも大事だろうが、私の知人も大事、と、席を交代してあげなかった。自分の意地悪さにへこんだ。

 開演前に会場のスタッフに頼んだ。

 「一つしかない障害者用トイレに、高齢者たちも殺到するのが想像できますので、障害者用トイレの扉を休憩の少し前に開けてもらえませんか」

 スタッフの返事は想像を絶した。

 「休憩は混雑が予測されますので、車椅子の方は、もっとも遅くに移動していただくことになっております。会場のお客様たちが皆さん行列を作られた後、車椅子の方は移動していただきます」

 …優先の順番が違うんじゃないか…。

 車椅子の人は、健常者よりもトイレの時間を長く要する。両手が杖のご婦人も並ぶはずだ。隣りの車椅子夫さんも…。開演前に、トイレのことを思うだけでドキドキした。

 が、意外なハプニングが開演中に起こった。

なぜ10センチ?

 信じられないことだが、私たちの車椅子が…鳴る…のだ。

 シーンとした歌舞伎の見せ場のシーン。

 ギーコ…ギーコ…と、車椅子の金属のきしみ音が聞こえる。もうそれは辺り一帯に。遠い舞台の音よりも身近に響く金属音のどれほど耳障りなことか。

 歌舞伎の間、芝居の最中に、遠くのセリフより、車椅子から発せられるギーコ、ギーコ、ギーコ、が客席に響き渡った。トイレのドキドキを、今この場でのハラハラが上回る。お年寄りに「微動だにするな」とは言えない。なんで車椅子が鳴るんだよっ、という憤りを体に溜め込みつつ、ひたすら休憩を待った。

 休憩中に会場スタッフを捕まえて懇願した。

 「この車椅子、ギーコギーコと音がして、舞台に集中できないんです。周りのお客さんにご迷惑をかけています。他の車椅子があれば交換してもらえませんか」

 「では」と話し出す会場スタッフの若い女性の助言は、唖然とするものだった。

 「では…、その車椅子を今ある場所から10センチ離して置いてご観劇ください。他の車椅子はありませんので」

 「は? 10センチ?」

 「そうです。10センチほど離していただければ、だいぶ音はマシかと」

 「あのね。マシとかいう問題じゃなく、10センチどころか、10メートル四方の範囲で他のお客さんに迷惑をかけているの。私が音がつらいんじゃなく、迷惑をかけているの。わかる?」

 だが、他の車椅子はない。10センチずれろ、以外の言葉はなかった。

 思わず厳しい物言いになってしまったが、音を立てているのは他ならぬ私たちだから、誰かを責めようということではない。代わりの車椅子がないのも仕方がないし、急いで1台買ってきてくれなどと無理を言うつもりもない。何とか音を立てないで観劇できる方法はないだろうかと、その会場の設備などを私たちより良く知っているはずのスタッフに助けを求めたわけだが、その答えは「10センチ端へ」。

 何か手はないか、と考えるそぶりもなく、何とかしようという気持ちも微塵も感じられない答えに、へこんだ。そして、私たちが10センチ端に寄れば、今でさえ舞台が見えるか見えないかのぎりぎり端っこの高齢夫さんも、さらに10センチ端っこになるじゃないか、と考えて、さらにへこんだ。

 といって、へこんでばかりもいられない。残りの休憩時間を車椅子の知人のトイレに付き添って、客席に戻った。

「かめへん、かめへん!」

 まず10メートル四方のお客さんに詫びた。

 「すみません。ギーコギーコと音が鳴ってしまって。本当にすみません」

 すると意外な反応が返ってきた。

 「かめへん、かめへん!」と、片手を高く上げて、気にするなと手を振ってくれた。

 そうしたお客さんの多くは年配女性。想像するに、介護経験者たちだった。

 安くはないチケットを購入したら隣りで邪魔な音が始終しても「かめへん!」と手を振ってくれる女性たちの、あの姿の、かっこよさといったら。涙が出そうになった。

 終演後、車椅子の知人の手を触ると冷え切っていた。

 しまったと思った。ひざ掛けなどを準備するのを忘れた。施設の人も、施設から歌舞伎観劇というのはレアケースのためか、冷える、という発想はなかっただろう。

 しまった。これで風邪でも引かせてしまったら大変だと、急いで施設に戻った。

 「あと10分で到着します!」と電話を入れたが、施設の玄関は鍵がかかっているではないか。

 チャイムを鳴らしても誰も出てこない。

 介護タクシーの運転手さんが教えてくれた。

 「ああ。夜は職員が極端に減りますから、施設ではチャイムを鳴らし続けないと出てこないですよ。鳴らし続けてください」

 介護タクシーのプロは施設の現状をよく知っていた。

 鳴らし続けるとやっと職員が出てきてくれた。

 車椅子の知人男性が言ったひと言が忘れられない。

 「月がきれいやなぁ…。はよ元気になるわな」

 「そうですね。次いつ歌舞伎行きましょう」

 もう、次は難しいと知っている。老い、は、治るものではない。街も、施設も、会場スタッフも、誰も車椅子には親切じゃなかった。もう古くなって傷んだから外出用とされた車椅子に、大きく書かれた油性マジックの「外出用」という文字を恨めしく見た。優しかったのは、介護経験があると高い確率で予測できる年配女性たちと、実際に経験のある介護タクシーのプロ運転手だけだった。

あなたのやり方で

 これから高齢者だらけの時代がやってくる。

 「車椅子を10センチ離してください」的、すっとんきょうで、とぼけて、馬鹿にした返事をしないで済む、「かめへん!」と言い切れるカッコいい女性になるためにも、私は、介護経験はプラスこそあれ、マイナスはないと助言したい。

 やってみてこそ、わかることがある。例えば、外に行きたくなる上着を用意してあげたり、車椅子がギーコと言わないか事前に確かめたり、一枚ひざ掛けを鞄に潜ませておいたり。そうした、実際の経験や失敗から得られる小さな思いやりの積み重ねが、ふさぎがちな高齢者や、体の不自由な人たちの気持ちを、ほんの少しでも明るくしたりするのに役立つかもしれない。

 少子高齢化社会では、高齢者を支える若い世代の負担が大きい。そうした問題は重大だが、だからといって、高齢者がないがしろにされていいわけではないだろう。弱い誰かは、明日の自分だ。誰もが歳をとる社会で、歳をとった者がないがしろにされる状況は、何かがおかしい。

 先ほど介護経験のある人の優しさと書いたが、経験がなくとも、声に出さずとも、そっと車椅子が通りやすいようにと気遣ってくれた人もいただろう。要は、目線だ。親や大人たちの手で守られながら子供が育ち、力がついたら誰かを守り支え、弱くなったら誰かが支える。そうしたシンプルな成り立ちが当たり前と思える視線だ。そうしたものが日々の暮らしから消えた社会は、きっと誰もが生きにくい社会だろう。

 私が車椅子の知人を介護施設から歌舞伎観劇に連れ出したのも、そういう行為を親にしてあげられなかった苦い介護経験から来ている。仕事との両立はしんどいだろうが、介護にもぜひ向き合ってほしい。自分を追い込むようなやり方ではなく、上手く折り合いをつけるやり方で。答えは一つではない。あなたのやり方を見つけてほしいと願う。


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このコラムについて
遙なるコンシェルジュ「男の悩み 女の嘆き」

 働く女性の台頭で悩む男性管理職は少なくない。どう対応すればいいか――。働く男女の読者の皆様を対象に、職場での悩みやトラブルに答えていきたいと思う。
 上司であれ客であれ、そこにいるのが人間である以上、なんらかの普遍性のある解決法があるはずだ。それを共に探ることで、新たな“仕事がスムーズにいくルール”を発展させていきたい。たくさんの皆さんの悩みをこちらでお待ちしています。

 前シリーズは「男の勘違い、女のすれ違い」
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/213874/111100011/?ST=print


4. 2015年12月03日 17:05:30 : OO6Zlan35k : ScYwLWGZkzE

賢者の知恵
2015年12月03日(木)
「母はわたしを愛さなかった」その事実を受け入れ過去を手放した、ある女の告白V
あれはしつけではなく「虐待」だった…

(PHOTO〕iStock
安田加奈(仮名)。47歳。独身。都内の小さな音楽事務所に勤めている。人口5万人ほどの中国地方の町で生まれた。中小企業を経営していた父と専業主婦の母、2つ歳上の兄、6つ年下の妹の5人家族。子どもの頃から母親に虐待されて育った。

【ある女の告白】 虐待、暴力、錯乱・・・「生まれる前からお前が憎かった」と母にいわれ続けた
【ある女の告白U】「どうしてママを棄てたの?」母の過剰な干渉から逃げきれなかった
母を知る──「自己愛マザー」だった母
わたしは自分を取り戻すために、母娘関係の本を読みあさった。心理学者が書いた専門書もあれば、母親との問題を抱えた女性の体験談もあった。たくさんの和書を読んだが、それでも読み足りずに、わたしはアマゾンで英語の本を探し始めた。

自分と母との関係を、もっとよく知りたい。より手掛かりになるアドバイスが欲しい。

それと同時に、わたしにはもうひとつ問いがあった──「母とはいったい誰なのか」。

『Will I Ever Be Good Enough?』の日本語訳『毒になる母ー自己愛マザーに苦しむ子供』
そして何冊か原書を読むうちに、ある時、アメリカの公認心理療法士が書いた『Will I Ever Be Good Enough?』(わたしはいつか充分な人間になれるだろうか?)を見つけた。その本を取り寄せて読んだ時、わたしは雷に打たれるような衝撃を受けた。

その本のなかに、母の姿があったからだ。

わたしの母は「自己愛人間」だったのだ。

自己愛人間とは、自分への強い愛に取り憑かれた、自己愛の肥大した傲慢な人間を指す。

そして、その本にある「自己愛マザー」の定義はどれもこれも、わたしの母の考え方や態度、娘に対する言動にぴったりと当てはまっていた──。

世間体が何よりも大切。自分が特別ですばらしい人間だという歪んだ自己像を持つ。常に誰かから評価され、承認されたい。自分が褒められ、注目を得るために周囲の人間を不当に利用する。自分の考えや価値観を押しつけ、娘の人生をコントロールしようとする。何かにつけ批判的だ。共感がない……。

それは啓示だった。この時、わたしは、自分が誰なのかという問いと、長年にわたる母との不和という、ふたつの問題を解決する糸口をついに?んだと確信したのである。

自分を知る──虐待され、傷ついた女の子だったわたし
その原書を読んだ時、わたしにはもうひとつ大きな発見があった。

子どもの頃、自分が虐待されていたという事実である。

最初は、その事実を自分でも認められなかった。まさか、そんなはずはない。あれはしつけであって、虐待ではなかったはずだ。虐待というのは、子どもを虐める、よその母親の話であって、わたしの体験には当てはまらないはずだ、と。

ところが原書を読み、過去を振り返り、母から受けた仕打ちを思い返せば思い返すほど、自分は虐待されていたと認めざるを得なくなった。

そう気づくと、猛烈な怒りが湧いてきた。腹の虫が治まらなかった。わたしの無垢な子ども時代は盗まれたのだ。純粋なはずの少女時代を、自己愛の強い母に奪われたのだ。

母の自己愛の毒矢に射抜かれていなければ、わたしの人生も大きく変わっていたに違いない。同じ姉妹でありながら、両親に愛された妹は地方公務員と結婚して、ふたりの娘を育てる専業主婦になった。もし、母の毒の網に絡めとられていなければ、今頃、わたしも普通に結婚して子どもの1人や2人がいても、おかしくはなかったはずだ。

そして、そういう「普通の人生」を母が奪い取った。

だがもうこれ以上は、母の自己愛の犠牲者として生きていくのはうんざりだった。

本当の自分を求めて
わたしが読んだその原書には、自己愛マザーから自分を取り戻すための「回復のステップ」が細かく紹介してあった。

わたしはそのアドバイスを、いくつか試してみることにした。

まずは母と距離を取った。実家には帰らない。電話にも出ない。

物理的に距離を取るだけではなく、心理的にも距離を置いた。母とどうしても連絡を取らなければならない時には、事実だけを伝え、できるだけ短い会話にとどめた。母が罵ったり皮肉を言ったりした時には「急いでいるから」と告げて、すぐに電話を切った。

また、パソコンに「思い出ファイル」と名づけたファイルをつくって、母とのあいだに起きた過去のできごとを一つひとつ、思い出すままに打ち込んだ。腹が立って途中で書けなくなった時もある。涙が止まらなかった時もある。

それでも毎日、1日の終わりには必ずそのファイルを開いて、過去のできごとをつづり、自分の気持ちを整理していった。泣きたい時には思いっきり泣いて、自己憐憫に浸った。 

毎日、腹が立って仕方がなかった。悔しくてたまらなかった。

だが、そのようにして猛烈な怒りに燃えた嵐のような3年が過ぎた頃、わたしは少しずつ落ち着きを取り戻していったのである。

わたしの態度に現れた変化
怒りの嵐が収まり始めると同時に、母のことを考える時間が減っていった。

母に対する執着心が薄れた、というほうが近いかもしれない。

ある日、同僚にこう声をかけられた時にはとても驚いた。

「安田さん、最近、ギスギスしたところがなくなったのね。以前よりもずっと穏やかで、何だか話しやすくなったわ」

実際、わたしは長年、胸のあたりに感じていた”重し”や”つっかえ”のような圧迫感を、あまり意識しなくなっていた。

嘘泣きをする母の夢を見る回数も減った。

冷静さを取り戻していくととともに、自分にも自信が出てきた。

長年つきあっていた恋人には、「最近、あまり癇癪を起こさなくなったね。それに、我慢するということを覚えたんだな」と言われた。

そして、わたしは母のことも、自分と母との関係についても、もっと客観的な目で見られるようになっていったのである。

母という人間の成りたち
子どもの頃から知っていた母を、わたしは違う目で見るようになった。わたしを虐待し、コントロールしようとした母とは、違う母の姿を見つけ出すようになっていた。

わたしが中学生の時に母から聞いた話によれば、まだ幼い頃、母は空襲で焼け出されて、夜中に歩いて逃げて疎開したのだという。疎開先では、ひどく虐められたらしい。戦争が終わったあとも、お金がなく、毎日惨めな思いをしたと聞いたこともある。

加えて、母親のしつけが厳しく、よく平手打ちをされたと言っていた。母もその母親に虐待され、充分な愛情を受け取ることなく育ってきたのだろう。

祖母から母へ、そしてわたしへと、痛ましい虐待の連鎖が起きたのだ。

しかも、母は大学へは行かせてもらえなかった。だから、自分の夢や望みを、娘を使って叶えようとし、わたしを思い通りにコントロールしようとしたのかもしれない。

人一倍、世間体を気にする母の性格は、やはり世間体を気にする、その母親の性格を受け継いだらしかった。

疎開時代に受けた虐めや、多感な少女時代に体験した惨めさ、進学を諦めざるを得なかった挫折感が、母の性格に大きな影響を与えたことは想像にかたくない。

そして幸せを夢見て、結婚したところ、浮気を繰り返す夫の愛情を確かめられなかった。子ども時代に味わった愛情の飢えを、夫が満たしてくれることはなかったのだろう。

そんな父を、母は憎んでいたのかもしれない。だが自分では稼ぐことができず、父に依存するしかない母は、その憎しみを父にぶつけることができなかった。だからこそ、その憎しみを娘であるわたしにぶつけたのかもしれない。

わたしと母との新しい関係
父は数年前に亡くなった。今は実家で1人暮らしをする母のために、兄と妹が年に何度か、交替で実家に帰っている。わたしは、現在もまだ母と距離を保ったままだ。

わたしと母とは心が通い合わなかったし、今後も通い合うことはないだろう。母がありのままのわたしを愛することはないだろうし、わたしが母を愛することもないだろう。

母を赦したわけではない。だが、激情に捕われた時期はもはや過ぎたのだ。

わたしは、解放されたのだと思う。

それは、母という人間の成りたちを少しは理解したからかもしれない。

母があのようにふるまい、娘を虐待した理由の一端を知ったからかもしれない。

母と心理的に分離できたせいもあるはずだ。そしてそのおかげで、わたしは失われた自分自身を少しずつ取り戻していったのである。

奇しくも、自分を知るということは、母を知るということでもあった。

今は静かな気持ちでこう思うのだ──「母はわたしを愛さなかった」。それは、わたしの人生のひとつの事実であり、わたしはその過去を手放すのだ、と。

今度、母に会った時には、もう母に呑み込まれることもなく、本当の自分自身でいられるような気がする。

わたしは今、来年春の父の七回忌に実家に帰ろうかと思っている。

おわり。

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/46648


5. 2016年1月15日 08:56:03 : OO6Zlan35k : ScYwLWGZkzE[147]
「遙なるコンシェルジュ「男の悩み 女の嘆き」」
「ベッキー謝罪会見」の私見

問われたのはプロ意識

2016年1月15日(金)遙 洋子

(ご相談をお寄せください。こちらのフォームから)


ご相談
 にわかに注目を集めた「ベッキー不倫疑惑騒動」、遙さんはどう見ましたか。(30代女性)

遙から
 タレントのベッキーさんの不倫疑惑騒動で、その日、某テレビ局は喧騒の中にあった。偶然、その日は私の出演する番組の収録日でもあった。

「すごいメディアで今日は大変でした」と番組プロデューサー。
「ベッキーさん、不倫疑惑発覚直後がこの局だったのですか?」
「そうです」
「そりゃ、よかったですねぇ」

 これが我々芸能界での会話になる。

 「不倫発覚」「そりゃよかったですねぇ」。

 つまり、視聴率の数字がとれる。その幸運を祝う会話になる。

 煌びやかな話題であれ、ダーティな騒動であれ、旬のタレントがナイスタイミングで同局に登場というのは局的には歓迎すべき出来事なのだ。

 不謹慎な…と眉をひそめる方も多いと思われるが、芸能界的にはそういうことになる。そんな芸能界的不倫疑惑騒動を今回は少々分析してみたい。

「たかが不倫」

 私がまず最初に思ったのは「たかが不倫」だ。

 またも不謹慎な…と思われただろうが、ひとたびタレントの「不倫話」が出てくると、その真偽を問わず、メディアがこぞって取り上げるのは、芸能界的にはお決まりのパターン。当事者には同情しつつも、たかが不倫くらいでこれほど問題視される時代ってなんだ。明治か大正か。なんと平和な国だろう、という感じの、ぼんやりした感想だった。

 だが、この考えはこの騒動を知れば知るほど変化していく。

 発覚したとされる証拠写真とやらを見た。ホテルで。ベッドで。窓のカーテンを開けたまま。ベッドの上で二人が並んで…。

 …正直あきれた。

 ここまで脇が甘いタレントっているのか。

 不倫自体、いけないことなのだろう。が、それよりもっといけないのは、この二人の脇の甘さにあると感じた。

 この職業を選んだ人間なら悪魔に魂を売ったくらいの自覚がなくてはいけない。常に他人の眼を意識した生活を余儀なくされ、そんな生き方になんらかの妥協点を見いだせない者は、耐えきれず、あるいは病んで、この業界を辞めていく。

 マイケルジャクソンが自宅に遊園地を作り、友達をサルにしたことを思い出してほしい。

 つまりはそういう職業なのだ。

 タレントで知名度を得る=成功、とは言い切れない悪魔との取引がある。それは、生涯、自由を失う、ということだ。だが、これを麻薬のように快感とするタイプもいれば、つくづくほとほと嫌になって自宅に遊園地を作るタイプもいる、ということだ。

 なにをフツーにのびのびと不倫やっとるか、と、写真を見て彼らの若さ幼さを思った。

 本人は否定しているので、ここでは個人としての不倫の是非論を問うつもりはない。今回を機に"タレントが不倫をする時"の是非論を書きたい。

 結論から言うと「死ぬ気で隠せ」だ。

無邪気が邪気に

 新たな時代の恐怖を感じたのが「LINEの暴露」だ。二人のLINE上のやりとりとされるものがメディアで公開された。

 「不倫は文化」と言ったとか言わないとかで石田純一氏が物議をかもしたのは、あれは、その中身が露呈していないから成立したトンデモ発言で、どこか許せる感があり、キャラクター内に押しとどめられて今日の好感度の維持がある。

 あくまで、中身が露呈していないからだ。

 だが、今回のベッキー不倫疑惑騒動では、写真もありLINEの会話もある。離婚を匂わす代替用語に「卒論」という言葉を使い、「せーの」という言葉の続きには「おやすみ」にニッコリマークをつけている。

 この「卒論」という言葉が世間の妻たちの怒りを買った。妻を侮辱している舐めていると。当然だ。卒論どころか私が妻なら「せーの」「おやすみ」で死刑レベルだ。

 この会話からは、妻がいる男性のアプローチをたやすく"許す"女性のある種の価値観があり、自尊心の低さがあると私は見ている。いわゆる愛人は、相手の男の妻と対立関係にあり、オンナというカテゴリーでは同類であり、法律上は訴えられかねない危うい立場にある。その関係の中で、男性が妻をムゲにする言動を愛人側が許してしまうのは、よほど男性にのぼせ上がっているか、よほど想像力が欠けるか。そもそも「妻がいるくせに私にすり寄るな」的自尊心の高さがあれば、オトコの欲どおしさを撥ねつけもしただろう。

 昔から不倫男が常套句で使ってきた「別れるから待って」という言葉は今、「卒論」に置き換えられて、かえってその邪悪さがLINE上で浮き上がる。

 周りへの配慮が必要ないLINE上の「無邪気な幸せ会話」は、暴露された途端、邪気そのものに変貌する。

 損だ。タレントとしてとても損だ。

 LINEはタダで、メールは一通3円ほどかかるという。3円を惜しんだわけでもなかろうが、3円かけて秘密が守れるなら(これも確かではないが少なくとも今回のような暴露の不様さよりマシか)、そこケチるなとも言いたい。

 これだけ不倫の中身が露呈する、ということが、今の時代の危険さだ。

モロ出しの時代

 ここまで「モロ出し」にされると、その流れの中でどれほど敏速に謝罪会見をしようが、モロ出しを見せつけられた側の気分の悪さは払しょくしきれるものではない。その結果が、CMの降板という結果に繋がると私は見ている。

 「不倫」→「降板」ではない。

 「不倫」→「モロの醜悪」→「収拾できなさの判断」→「降板」だ。

 もし、石田純一氏の時代なら、ここまで好感度が下がったとは思いにくい。実際、下がっていないし。

 つまり、今は「モロ出しの時代」だと認識しておいたほうがいい。

 謝罪会見にもそこの認識の甘さが露呈する。「誤解」とか「友達」とかいう言葉で謝罪として会見している。

 ここに私は事務所の判断がどうしても見える。

 モロ出しの時代を認知していれば、中途半端な会見になっただろうか。とっとと謝り、なんでもいいから謝り、ボロが出ないように記者の質問は禁止してとにかく謝って、CM降板の被害を最小限に食い止めたい、という事務所サイドの焦る思いが見えた。

 事実認識の甘さがこういう会見を生む。

 すでにモロに出ている写真、そして、他愛なく見えてそのぶん邪悪な印象のLINE会話。それらを前に「誤解」「友達」という言葉のなんと脆弱なことか。

 「モロの時代」を前提に危機管理するなら、まずモロにならぬよう最大限に隠す、ということ。これを彼らはしていない。次に、モロに出ているのだから、もうモロに謝るしかないという認識がない。

 彼女がした謝罪会見はおそらく想像だが事務所の決死の判断だ。もし、モロ謝り会見だったらどうだったか。

 すべてを認め、まず妻に謝り、二度としませんと世間に誓う。これ以外の着地を私は想像できないのだが。この会見なら好感度をそう落とさず復帰できる。なぜなら、たかが不倫、だからだ。人を殺したわけでもない。

 記者会見にまで追いつめられた時ほど、「自分の言葉で語る」ことの大事さを実感することができた会見だった。

感謝はどこへ

 タレントとして思うことがあるとすれば、手厳しい表現をお許しいただきたいが、なんと感謝を忘れたタレントか、ということくらいか。見るとCMは10社くらいに及んでいた。10社もの企業が自分を買ってくれている。このことへの感謝があれば、好感度が下がる言動には慎重にもなろう。男性側も下積み時代を支えてきた妻だというではないか。その女性への感謝があるなら不用意にカーテン開けてベッドでツーショット撮るか…。

 タレントだって駐車禁止もすれば速度違反もすれば不倫もしよう。そういう意味でのたかが不倫だ。そこを擁護するつもりはないが叩くに値するとも思わない。

 モロ出しになってしまう時代に嗅覚を鈍らせ、安易にLINEでおやすみを言い合い、「友達だ」で謝罪するユルさとズレ。こっちのほうがよほど危機だ。

 悪いとされることをするな、とは言わない。同じ人間だ。不倫を叩く人間にも、おそらくそれなりの割合で不倫経験がある人もいるだろうが、それも問わない。悪いとされることをするなら、はっきり、それを自覚して、応援してくれた人たちを傷つけないよう必死に隠せ、ということが言いたい。

 私自身、正しく生きろなんて人様に言える生き方をしているわけでもない。ただ、売れないタレントの悲哀を知る自分としては、10社とCM契約しながらよくそれだけ脇を甘く過ごせたなという奢りが見える。これも、若くして売れたタレントならではの勘違い、錯覚とも言えよう。モロ出しの時代において、圧倒的好感度の高さで食ってきたタレントがどう復活できるかは、今後の言動にその手がかりがあろう。

自分は誰か

 モロ出たなら、モロ謝れ、の時代で、モロ出た以上、総叩きに遭う感情的な時代だと知ろう。そして"事務所は"は関係なく、"自分が"どうであるかを"自分の"言葉で語るチャンスのある時代ともいえる。

 一番傷つけたのは誰か、が、わからなくて謝罪会見もへったくれもない。今回、最も傷ついたのは妻であり、最も損害を被ったのはスポンサーだ。

 今回の騒動から見えてきたもの。それは、自分が誰であり、その自分がどれくらい世間で悪いとされることをしていて、それで最大傷つくのは誰で、最悪の事態に自分はどうすべきか、の、シュミレーションのなさだと私は考えている。彼らが罪を犯したというなら、最初の"自分が誰であり"を忘れたことにあろう。


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このコラムについて
遙なるコンシェルジュ「男の悩み 女の嘆き」

 働く女性の台頭で悩む男性管理職は少なくない。どう対応すればいいか――。働く男女の読者の皆様を対象に、職場での悩みやトラブルに答えていきたいと思う。
 上司であれ客であれ、そこにいるのが人間である以上、なんらかの普遍性のある解決法があるはずだ。それを共に探ることで、新たな“仕事がスムーズにいくルール”を発展させていきたい。たくさんの皆さんの悩みをこちらでお待ちしています。

 前シリーズは「男の勘違い、女のすれ違い」
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/213874/011300015/?ST=print

ゲスの極みについて考える

2016年1月15日(金)小田嶋 隆


 猟奇殺人や著名人の自殺や食品偽装など、ひとたび印象鮮烈な事件がニュースになると、分野を問わず、似たような事件が続発する。

 暗示にかかりやすい情緒不安定な人々が、大量のニュース報道に反応して、かねてから心にあたためていた妄想を実行に移してしまうものなのか、あるいは、単にメディアが似たような事案をひときわ大きく報道するケースが増えるということなのか、事情は様々なのだろう。

 今年の年明けは、芸能ニュースの世界で、人目を引く話題が立て続けに記事化されている。

 中でも大きな注目を集めているのは、人気中年男性アイドルグループのメンバーの独立ならびに解散の可能性を示唆するニュースと、もうひとつは、ロックバンドのボーカルとハーフ(←この言い方は公の場では使いにくくなっているのだそうですね)のタレントさんの間に勃発した不倫スキャンダルだ。

 SMAPの解散話について、自分なりの憶測を述べれば、それはそれで書くことがないわけではない。が、この件に関して私的な憶測を述べることは、リスク(というか、面倒)が大きいばかりで、しかも、あまり楽しくない。書き始める気持ちになれない。

 なので、今回は、先日来燃え上がっている不倫報道について考えてみることにする。

 不倫そのものにはあまり興味がない。不倫の当事者である二人にも関心を抱いていない。
 私が注目しているのは、この不倫報道の処理のされ方だ。

 というのも、第一報が報じられた時点から既に、この話題については、ネット掲示板の中での扱いと、リアルな世間の人々の受け止め方に明らかな差異があって、特にネットにおいて、行為としての「不倫」そのものとは別に、当事者の不倫以前の言動が裁かれているように思えるからだ。

 昔から、ネット世論の中では、いい人ぶる人間がことのほか嫌われることになっている。

 ベッキーはその意味で、潜在的な敵をあらかじめたっぷりかかえていたのだと思う。

 不倫は、そのいい人ぶっていた(と、ネット雀が思っていた)彼女を、血祭りにあげるための、絶好の「ネタ」だったわけで、その意味では、この話題は、構造としては、昨年末に起きた「ぱよぱよちーん」の事件とそんなに変わりがない。

 いずれも、「ドヤ顔で得意になっている人間が転落した」「口できれいなことを言っている人間が、正反対の行動をしていたことが発覚した」「典型的なザマーミロ事案」という点で、ネットに集う群衆の嗜虐趣味を著しく刺激する出来事だったということだ。

 誰であれ、「正論」を吐いたり「理想」を語ったり「こころのやさしさ」を表に出したり「人柄の良さ」をアピールする人間は、21世紀のネット社会では、仮想敵としてひそかにロックオンされる。

 というよりも、ネット空間内に漂う匿名の共同無意識は「得意の絶頂にいる人間を引きずり下ろす」時に、最も情熱的な形で共有されるのであって、名前を持たない群衆と化した時のわれわれは、穴から出たウサギを追う野犬の群れと選ぶところのない存在なのである。

 婚外交渉はよろしくない行為だ。
 この意見にはほとんどの読者が賛成してくれるはずだ。
 不倫は良くない。
 おそらく、異論は無いはずだ。

 が、良くないということと、それをやらないということは、別の文脈に属する話だ。
 人は良くないことでも、やってしまうことがある。さらに言うなら、人生の楽しみの少なからぬ部分は、良からぬことを為すことの中に埋もれている。

 たとえば、私は、昨年の春に糖尿病が発覚して以来、間食をいましめられている。
 間食は良くない。

 よって、私は、普段の食事に気を配らねばならないことはもちろんだが、それ以上に、食間に摂るジャンクフードの類を根絶するべく、強く言い渡されている。というのも、間食のほとんどは炭水化物で、してみると、血糖値を低く保たねばならぬ糖尿病患者にとって、規定の時間外にイレギュラーな形で炭水化物を摂取することは、あらゆる意味でよろしくないしぐさだからだ。

 が、時に、私はクッキーを食べている。
 せんべいも食べる。
 仕事に行き詰まったタイミングでは、チョコレートに手を伸ばしてさえいる。
 無論、そうしたものを口にする度に、いけないことをしてしまったと、後悔する。
 反省もしている。

 が、だからといって、私は、自分が週刊誌に私信を暴露されなければならないほどの罪を犯したとは考えない。
 私の過失は個人的なものだ。パパラッチの知ったことではない。

 もっとも、この話を、話題の二人の不倫と同一の基準で語ることはできない。
 なにより、不倫には被害者がいる。

 私の間食に被害者はいない。強いていえば被害者は、罪を犯した当人である私自身だけだ。ということは、私は、天に向かってブーメランを投げた者の末路として、自然落下を上回る速度で、自業自得の報いを、自らの健康を損なう宿命として引き受けているわけで、この時点で、私の罪と罰は自己完結している。

 一方、不倫は明らかな被害者を外部に持っている。
 不倫は、不倫実行者の連れ合いにとって、残酷極まりない背信行為であり、不道徳な仕打ちだ。

 とすれば、彼らは、少なくとも、結果として迷惑をかけることになる幾人かの当事者に謝罪をしなければならない。場合によっては、何らかの形で賠償を果たす責任を負うことにもなるはずだ。

 が、それでもなお、不倫は少なくとも刑事上の犯罪ではない。
 だから、週刊誌に謝る必要は無い。テレビに説明する義理もなければ、スポーツ新聞の記者に弁解せねばならない道理も無い。

 この種の出来事が起こると必ず決まり文句として登場する「世間を騒がせたこと」や「ファンの信頼を裏切ったこと」についても、本来なら謝罪する筋合いは皆無だ。スジとしては、そこに謝るのは間違っている。

 ただ、「世間」や「ファン」という名前で仮託されている、不特定多数の見物人の好奇心や義憤にこたえる形で、多少とも騒動を沈静化させるためには、そういう言い回しで謝罪の意思を見せておくほかに方法がないというだけの話だ。

 実際、騒いでいるのは、「ファン」ではない。彼らの不倫を責め立てて騒いでいるのは、どちらかといえば、「アンチ」だ。
 ファンの多くは、静かに心を痛めている。

 怒ったり、いきり立ったり、眉をひそめたり、金切り声を上げたり、非難の書き込みをマルチポストしていたりするのは、はじめから、ファンでもなんでもない、この騒動を心から楽しんでいる野次馬だ。とすれば、ネット上で謝罪を要求している彼らに謝るのは、どこからどう考えても、間違っている。

 報道陣にも謝ってはいけない。
 週刊誌は、このネタを暴露して煽ることで、部数を稼ぎ、注目を集め、カネを稼いでいる。
 とすれば、スジとしては、件の二人に対して、週刊誌の記者ならびに編集部は、むしろ、感謝をせねばならない。

 ……という、ここまでの話は、一応の正論ではあるが、屁理屈でもある。
 というよりも、当事者でない人間が、当事者の口を借りて言う理屈は、結局のところ、屁理屈なのだ。

 不倫の被害者たる妻の傍らに立って、妻の立場からの正論を述べ立てれば、正しい告発に見える記事を書くことはそんなに難しい作業ではない。
 が、その正論がいかにまっとうな告発の形を整えているのだとしても、一対一の私信であるLINEのやりとりを当人に断りなく暴露することを正当化する理屈は、どこを探しても見つからないはずだ。

 それ以上に、不倫を告発する権利を、当事者から賦与されているのだとしても、不倫暴露記事を一般読者向けの記事として公開して商売に利用することを正義の言論として認める理屈は、この世界のどこにも存在しない。

 つまり、この事件において、もっとも「ゲス」だったのは、記事のために私信を暴露する犯罪まがいの取材を敢行した雜誌とそれを許した編集部だということだ。私信のデータを提供した人物にも一定の責任はあるだろうし、もちろん、それ以前に不倫関係に陥った二人にも相応の罪はあるはずだ。が、ゲスの極みは記事そのものにある。このことは、はっきりさせておかねばならない。

 私が今回の騒ぎにうんざりしているのは、他人のプライバシーを暴露するスキャンダル報道をいかにも正義の告発であるかにように見せかけている記事の文体もさることながら、この事件をネタに騒いでいる人たちが、不倫を憎んでいるというよりは、リンチを楽しんでいるようにしか見えないからだ。
 インターネットに集う人たちは、「偽善」をひどく嫌う。

 これは、ネットメディアが建前や理想論を語りがちなマスメディアへのカウンターとして出発したからでもあるのだろうし、そのこととは別に、われわれの暮らすネットの外側にある実社会が、「建前」と「偽善」に彩られた欺瞞の世界であることの反映でもあるのだろう。その意味では、ネット民の偽善嫌いは、健康な反発と言って言えないことはない。

 が、当欄でも、何度か同じことを書いた気がしているのだが、私は、昨今、偽善を摘発する人々の間で共有されている露悪趣味が不当に亢進していることに、危機感を抱いている。

 本来温厚な人間が、ネットにものを書く段になると、にわかに凶暴になる。これは、一種の精神衛生なのだとしても、長い目で見れば、予後が悪いと思う。どういうことなのかというと、悪ぶっている人間は、いつしか本物の悪党になる、ということだ。

 不倫の一方の当事者が、ベッキーでなくて、もっと別のあっけらかんとした女性タレント(たとえばローラとか)だったら、ネット民の反応はずっと穏やかだったと思う。

「あーあ、ローラちゃんダメじゃん」
「明らかにダマされちゃってるよね」
「むしろかわいそうだな」

 てなところで、なんとなく収束していた気がする。

 巨大匿名掲示板の書き込みやツイッターのハッシュタグを見回してみると、現在裁かれているのは、ベッキーが不倫交際をしていたことそれ自体ではなくて、むしろ、その不倫に先立って彼女が常に「いい人ぶっていたこと」だったりしている。

 彼らは、ベッキーが、デビュー以来、前向きで、礼儀正しくて、子供好きで、動物好きで、涙もろくて、純真で、まっすぐな心を持った女の子であるかのように自己演出していたその“偽りの演技”を徹底的に攻撃している。

 私自身は、ベッキーのファンではない。
 正直に告白すれば、どちらかといえば、苦手な方だ。

 が、彼女が、メディア上で演じていた、「前向きで礼儀正しくて子供好きで動物好きで涙もろくて純真でまっすぐな心を持った女の子」というキャラクターが、まるっきりのウソだったとは思っていない。半分以上、どころか、8割方は、画面に映っている通りの女性なのだと思っている。

 事件の実態は、つまるところ、「前向きで礼儀正しくて子供好きで動物好きで涙もろくて純真でまっすぐな心を持った女の子」であっても、妻子ある男に惚れることはあり得る、という話に過ぎない。

 ところで、デビッド・ボウイが死んだ。

 私にとって、デビッド・ボウイは、20歳になる手前から30歳になるぐらいまでの最も不安定で困難な時期に追いかけていた、大切なアイドルだった。
 なので、彼の死は、個人的に、とてもさびしい。

 面倒くさいのは、こういう「気持ち」なり「真情」を、うっかりSNSやブログに書き込むと「いい人ぶってる」「センスが良いと思われたがっている」みたいな、ひねくれた反応が返ってくることだ。

 以前、ルー・リードが死んだ時、

「ルー・リードの死に反応している人たちは、自分が他人とちょっと変わった趣味を持っていることをアピールしているんじゃないかしら」

 みたいなことを書き込んだ人がいて、私はその時、たいそう腹を立てたものなのだが、自戒を含めて言えば、ツイッターをはじめとするネットという空間は、その種の皮肉な深読みや、ワルぶった捨て台詞を不当に高く評価する傾きを持った場所で、それがために、心からの哀悼の言葉や、素直な感謝の気持ちを書き込むことが、なんだか、やりにくくなってしまっている。

 あたりまえの自然な感情を、思っているままに書き記した言葉が、子供っぽいと見なされたり、人柄の良さをアピールしている計算高い行為と解釈されたり、誰かに対するおべっかだと言われたりするリスクを考えると、誰もが、少しずつ口を曲げてものを言うようになる。これは、大変に厄介なことだと思う。

 ボウイ氏が亡くなった当日か翌日、

《「戦メリ」の撮影現場ルポとか読んでるとボウイがとつぜん小児マヒ患者の真似をして空気なごませたとか出てくるのが80年代の空気感なんですけど、小山田圭吾の虐めごときで吹き上がれるポリコレ左翼の皆さんこれ許容できるんですかね。》
 という書き込みが、ツイッターのタイムラインに流れてきた。

 死者を過剰に持ち上げる書き込みや、感傷的な言葉の洪水に、鼻白んだ気持ちを抱いた書き手による軽い皮肉なのだろう。

 こういうことを言いたくなる気持ちは、私にもよくわかる。
 が、ここで言われていることは、なかなか凶悪だ。

 まず「小山田圭吾の虐めごとき」と言っているが、あれは、「ごとき」で相対化できるようなお話ではない。興味のある向きは、「小山田圭吾 いじめ」ぐらいで検索して出てくるテキストを読んでもらうとして、もうひとつ、その「いじめ」および「いじめ自慢」を批判した人々を「吹き上が」ったと表現してしまうまとめ方にも同意しかねる。

 件のいじめに違和感なり非難の気持ちなりを表明した人々をひとっからげに「ポリコレ左翼の皆さん」という言い方で揶揄している態度にも賛成できない。

 ついでに言えば、映画の撮影現場という閉鎖空間の中で、仲間内に向けた私的なジョークとして演じられたボウイ氏の「ものまね芸」(←これも、伝聞に過ぎない)と、いじめの加害者であった当人が、雜誌のインタビューに答えて開陳した自らのいじめ加害体験の詳細を、同一のポリコレ対象行為として並列してみせた書き方は、O氏によるいじめ加害を過小評価させる意味でも、ボウイの「ものまね芸」を過大に見積もらせる意味でも悪意のあるレトリックだと思う。

 ここで挙げたのは、ひとつの例に過ぎない。

 この種の「甘っちょろいことを言う人間を手厳しくやっつけることでハードボイルドな人気を獲得しているアカウント」は、ネット内に無数に蟠踞している。

 ベッキー嬢を血祭りに上げているのも、同じタイプの、甘っちょろいことが大嫌いな人たちだ。彼らの一人一人がどうだということではないが、大枠として、ネット世論の「空気」が、その種の「口を曲げた言論」に流されて来ている感じに、私は、かなり以前から、いやな感じを抱いている。

 私自身の経験でも、ツイッター上に書き込んだ言葉の中で炎上するのが、不適切な発言(つまりこっちが尻尾を出した時)であるのは、これはまあ、当たり前の話なのだが、それとは別に、最も大きな反発を招くのは、実は、「甘っちょろい」言葉だったりするわけで、この点には、常にがっかりしている。

 最後に、ベッキー嬢に呼びかける言葉で締めようと思っていたのだが、うまいセリフが見つからない。自分の気持ちと、自分の立場のうちの、どちらかを裏切らなければならない事態に直面した時、賢明に振る舞える人間は一人もいない。

 なので、適切なアドバイスはありません。
 とりあえず、甘いものでも食べるのが良いんではないかと思います。
 私は、原稿が上がったら、罪の味がする甘いチョコレートを食べる所存です。

(文・イラスト/小田嶋 隆)

小田嶋さんの原稿をお待ちしている間に
チョコクッキーをひと袋空にした罪深い私です

 当「ア・ピース・オブ・警句」出典の5冊目の単行本『超・反知性主義入門』。おかげさまで各書店様にて大きく扱っていただいております。日本に漂う変な空気、閉塞感に辟易としている方に、「反知性主義」というバズワードの原典や、わが国での使われ方を(ニヤリとしながら)知りたい方に、新潮選書のヒット作『反知性主義』の、森本あんり先生との対談(新規追加2万字!)が読みたい方に、そして、オダジマさんの文章が好きな方に、縦書き化に伴う再編集をガリガリ行って、「本」らしい読み味に仕上げました。ぜひ、お手にとって、ご感想をお聞かせください。


このコラムについて
小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 〜世間に転がる意味不明

「ピース・オブ・ケイク(a piece of cake)」は、英語のイディオムで、「ケーキの一片」、転じて「たやすいこと」「取るに足らない出来事」「チョロい仕事」ぐらいを意味している(らしい)。当欄は、世間に転がっている言葉を拾い上げて、かぶりつく試みだ。ケーキを食べるみたいに無思慮に、だ。で、咀嚼嚥下消化排泄のうえ栄養になれば上出来、食中毒で倒れるのも、まあ人生の勉強、と、基本的には前のめりの姿勢で臨む所存です。よろしくお願いします。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/174784/011400027/?ST=print

[32初期非表示理由]:担当:関連が薄い長文


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