「遙なるコンシェルジュ「男の悩み 女の嘆き」」 「ベッキー謝罪会見」の私見問われたのはプロ意識 2016年1月15日(金)遙 洋子 (ご相談をお寄せください。こちらのフォームから) ご相談 にわかに注目を集めた「ベッキー不倫疑惑騒動」、遙さんはどう見ましたか。(30代女性)
遙から タレントのベッキーさんの不倫疑惑騒動で、その日、某テレビ局は喧騒の中にあった。偶然、その日は私の出演する番組の収録日でもあった。 「すごいメディアで今日は大変でした」と番組プロデューサー。 「ベッキーさん、不倫疑惑発覚直後がこの局だったのですか?」 「そうです」 「そりゃ、よかったですねぇ」 これが我々芸能界での会話になる。 「不倫発覚」「そりゃよかったですねぇ」。 つまり、視聴率の数字がとれる。その幸運を祝う会話になる。 煌びやかな話題であれ、ダーティな騒動であれ、旬のタレントがナイスタイミングで同局に登場というのは局的には歓迎すべき出来事なのだ。 不謹慎な…と眉をひそめる方も多いと思われるが、芸能界的にはそういうことになる。そんな芸能界的不倫疑惑騒動を今回は少々分析してみたい。 「たかが不倫」 私がまず最初に思ったのは「たかが不倫」だ。 またも不謹慎な…と思われただろうが、ひとたびタレントの「不倫話」が出てくると、その真偽を問わず、メディアがこぞって取り上げるのは、芸能界的にはお決まりのパターン。当事者には同情しつつも、たかが不倫くらいでこれほど問題視される時代ってなんだ。明治か大正か。なんと平和な国だろう、という感じの、ぼんやりした感想だった。 だが、この考えはこの騒動を知れば知るほど変化していく。 発覚したとされる証拠写真とやらを見た。ホテルで。ベッドで。窓のカーテンを開けたまま。ベッドの上で二人が並んで…。 …正直あきれた。 ここまで脇が甘いタレントっているのか。 不倫自体、いけないことなのだろう。が、それよりもっといけないのは、この二人の脇の甘さにあると感じた。 この職業を選んだ人間なら悪魔に魂を売ったくらいの自覚がなくてはいけない。常に他人の眼を意識した生活を余儀なくされ、そんな生き方になんらかの妥協点を見いだせない者は、耐えきれず、あるいは病んで、この業界を辞めていく。 マイケルジャクソンが自宅に遊園地を作り、友達をサルにしたことを思い出してほしい。 つまりはそういう職業なのだ。 タレントで知名度を得る=成功、とは言い切れない悪魔との取引がある。それは、生涯、自由を失う、ということだ。だが、これを麻薬のように快感とするタイプもいれば、つくづくほとほと嫌になって自宅に遊園地を作るタイプもいる、ということだ。 なにをフツーにのびのびと不倫やっとるか、と、写真を見て彼らの若さ幼さを思った。 本人は否定しているので、ここでは個人としての不倫の是非論を問うつもりはない。今回を機に"タレントが不倫をする時"の是非論を書きたい。 結論から言うと「死ぬ気で隠せ」だ。 無邪気が邪気に 新たな時代の恐怖を感じたのが「LINEの暴露」だ。二人のLINE上のやりとりとされるものがメディアで公開された。 「不倫は文化」と言ったとか言わないとかで石田純一氏が物議をかもしたのは、あれは、その中身が露呈していないから成立したトンデモ発言で、どこか許せる感があり、キャラクター内に押しとどめられて今日の好感度の維持がある。 あくまで、中身が露呈していないからだ。 だが、今回のベッキー不倫疑惑騒動では、写真もありLINEの会話もある。離婚を匂わす代替用語に「卒論」という言葉を使い、「せーの」という言葉の続きには「おやすみ」にニッコリマークをつけている。 この「卒論」という言葉が世間の妻たちの怒りを買った。妻を侮辱している舐めていると。当然だ。卒論どころか私が妻なら「せーの」「おやすみ」で死刑レベルだ。 この会話からは、妻がいる男性のアプローチをたやすく"許す"女性のある種の価値観があり、自尊心の低さがあると私は見ている。いわゆる愛人は、相手の男の妻と対立関係にあり、オンナというカテゴリーでは同類であり、法律上は訴えられかねない危うい立場にある。その関係の中で、男性が妻をムゲにする言動を愛人側が許してしまうのは、よほど男性にのぼせ上がっているか、よほど想像力が欠けるか。そもそも「妻がいるくせに私にすり寄るな」的自尊心の高さがあれば、オトコの欲どおしさを撥ねつけもしただろう。 昔から不倫男が常套句で使ってきた「別れるから待って」という言葉は今、「卒論」に置き換えられて、かえってその邪悪さがLINE上で浮き上がる。 周りへの配慮が必要ないLINE上の「無邪気な幸せ会話」は、暴露された途端、邪気そのものに変貌する。 損だ。タレントとしてとても損だ。 LINEはタダで、メールは一通3円ほどかかるという。3円を惜しんだわけでもなかろうが、3円かけて秘密が守れるなら(これも確かではないが少なくとも今回のような暴露の不様さよりマシか)、そこケチるなとも言いたい。 これだけ不倫の中身が露呈する、ということが、今の時代の危険さだ。 モロ出しの時代 ここまで「モロ出し」にされると、その流れの中でどれほど敏速に謝罪会見をしようが、モロ出しを見せつけられた側の気分の悪さは払しょくしきれるものではない。その結果が、CMの降板という結果に繋がると私は見ている。 「不倫」→「降板」ではない。 「不倫」→「モロの醜悪」→「収拾できなさの判断」→「降板」だ。 もし、石田純一氏の時代なら、ここまで好感度が下がったとは思いにくい。実際、下がっていないし。 つまり、今は「モロ出しの時代」だと認識しておいたほうがいい。 謝罪会見にもそこの認識の甘さが露呈する。「誤解」とか「友達」とかいう言葉で謝罪として会見している。 ここに私は事務所の判断がどうしても見える。 モロ出しの時代を認知していれば、中途半端な会見になっただろうか。とっとと謝り、なんでもいいから謝り、ボロが出ないように記者の質問は禁止してとにかく謝って、CM降板の被害を最小限に食い止めたい、という事務所サイドの焦る思いが見えた。 事実認識の甘さがこういう会見を生む。 すでにモロに出ている写真、そして、他愛なく見えてそのぶん邪悪な印象のLINE会話。それらを前に「誤解」「友達」という言葉のなんと脆弱なことか。 「モロの時代」を前提に危機管理するなら、まずモロにならぬよう最大限に隠す、ということ。これを彼らはしていない。次に、モロに出ているのだから、もうモロに謝るしかないという認識がない。 彼女がした謝罪会見はおそらく想像だが事務所の決死の判断だ。もし、モロ謝り会見だったらどうだったか。 すべてを認め、まず妻に謝り、二度としませんと世間に誓う。これ以外の着地を私は想像できないのだが。この会見なら好感度をそう落とさず復帰できる。なぜなら、たかが不倫、だからだ。人を殺したわけでもない。 記者会見にまで追いつめられた時ほど、「自分の言葉で語る」ことの大事さを実感することができた会見だった。 感謝はどこへ タレントとして思うことがあるとすれば、手厳しい表現をお許しいただきたいが、なんと感謝を忘れたタレントか、ということくらいか。見るとCMは10社くらいに及んでいた。10社もの企業が自分を買ってくれている。このことへの感謝があれば、好感度が下がる言動には慎重にもなろう。男性側も下積み時代を支えてきた妻だというではないか。その女性への感謝があるなら不用意にカーテン開けてベッドでツーショット撮るか…。 タレントだって駐車禁止もすれば速度違反もすれば不倫もしよう。そういう意味でのたかが不倫だ。そこを擁護するつもりはないが叩くに値するとも思わない。 モロ出しになってしまう時代に嗅覚を鈍らせ、安易にLINEでおやすみを言い合い、「友達だ」で謝罪するユルさとズレ。こっちのほうがよほど危機だ。 悪いとされることをするな、とは言わない。同じ人間だ。不倫を叩く人間にも、おそらくそれなりの割合で不倫経験がある人もいるだろうが、それも問わない。悪いとされることをするなら、はっきり、それを自覚して、応援してくれた人たちを傷つけないよう必死に隠せ、ということが言いたい。 私自身、正しく生きろなんて人様に言える生き方をしているわけでもない。ただ、売れないタレントの悲哀を知る自分としては、10社とCM契約しながらよくそれだけ脇を甘く過ごせたなという奢りが見える。これも、若くして売れたタレントならではの勘違い、錯覚とも言えよう。モロ出しの時代において、圧倒的好感度の高さで食ってきたタレントがどう復活できるかは、今後の言動にその手がかりがあろう。 自分は誰か モロ出たなら、モロ謝れ、の時代で、モロ出た以上、総叩きに遭う感情的な時代だと知ろう。そして"事務所は"は関係なく、"自分が"どうであるかを"自分の"言葉で語るチャンスのある時代ともいえる。 一番傷つけたのは誰か、が、わからなくて謝罪会見もへったくれもない。今回、最も傷ついたのは妻であり、最も損害を被ったのはスポンサーだ。 今回の騒動から見えてきたもの。それは、自分が誰であり、その自分がどれくらい世間で悪いとされることをしていて、それで最大傷つくのは誰で、最悪の事態に自分はどうすべきか、の、シュミレーションのなさだと私は考えている。彼らが罪を犯したというなら、最初の"自分が誰であり"を忘れたことにあろう。 遙洋子さん新刊のご案内 『私はこうしてストーカーに殺されずにすんだ』
『私はこうしてストーカーに殺されずにすんだ』 ストーカー殺人事件が後を絶たない。 法律ができたのに、なぜ助けられなかったのか? 自身の赤裸々な体験をもとに、 どうすれば殺されずにすむかを徹底的に伝授する。 このコラムについて 遙なるコンシェルジュ「男の悩み 女の嘆き」
働く女性の台頭で悩む男性管理職は少なくない。どう対応すればいいか――。働く男女の読者の皆様を対象に、職場での悩みやトラブルに答えていきたいと思う。 上司であれ客であれ、そこにいるのが人間である以上、なんらかの普遍性のある解決法があるはずだ。それを共に探ることで、新たな“仕事がスムーズにいくルール”を発展させていきたい。たくさんの皆さんの悩みをこちらでお待ちしています。 前シリーズは「男の勘違い、女のすれ違い」 http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/213874/011300015/?ST=print ゲスの極みについて考える 2016年1月15日(金)小田嶋 隆 猟奇殺人や著名人の自殺や食品偽装など、ひとたび印象鮮烈な事件がニュースになると、分野を問わず、似たような事件が続発する。
暗示にかかりやすい情緒不安定な人々が、大量のニュース報道に反応して、かねてから心にあたためていた妄想を実行に移してしまうものなのか、あるいは、単にメディアが似たような事案をひときわ大きく報道するケースが増えるということなのか、事情は様々なのだろう。 今年の年明けは、芸能ニュースの世界で、人目を引く話題が立て続けに記事化されている。 中でも大きな注目を集めているのは、人気中年男性アイドルグループのメンバーの独立ならびに解散の可能性を示唆するニュースと、もうひとつは、ロックバンドのボーカルとハーフ(←この言い方は公の場では使いにくくなっているのだそうですね)のタレントさんの間に勃発した不倫スキャンダルだ。 SMAPの解散話について、自分なりの憶測を述べれば、それはそれで書くことがないわけではない。が、この件に関して私的な憶測を述べることは、リスク(というか、面倒)が大きいばかりで、しかも、あまり楽しくない。書き始める気持ちになれない。 なので、今回は、先日来燃え上がっている不倫報道について考えてみることにする。 不倫そのものにはあまり興味がない。不倫の当事者である二人にも関心を抱いていない。 私が注目しているのは、この不倫報道の処理のされ方だ。 というのも、第一報が報じられた時点から既に、この話題については、ネット掲示板の中での扱いと、リアルな世間の人々の受け止め方に明らかな差異があって、特にネットにおいて、行為としての「不倫」そのものとは別に、当事者の不倫以前の言動が裁かれているように思えるからだ。 昔から、ネット世論の中では、いい人ぶる人間がことのほか嫌われることになっている。 ベッキーはその意味で、潜在的な敵をあらかじめたっぷりかかえていたのだと思う。 不倫は、そのいい人ぶっていた(と、ネット雀が思っていた)彼女を、血祭りにあげるための、絶好の「ネタ」だったわけで、その意味では、この話題は、構造としては、昨年末に起きた「ぱよぱよちーん」の事件とそんなに変わりがない。 いずれも、「ドヤ顔で得意になっている人間が転落した」「口できれいなことを言っている人間が、正反対の行動をしていたことが発覚した」「典型的なザマーミロ事案」という点で、ネットに集う群衆の嗜虐趣味を著しく刺激する出来事だったということだ。 誰であれ、「正論」を吐いたり「理想」を語ったり「こころのやさしさ」を表に出したり「人柄の良さ」をアピールする人間は、21世紀のネット社会では、仮想敵としてひそかにロックオンされる。 というよりも、ネット空間内に漂う匿名の共同無意識は「得意の絶頂にいる人間を引きずり下ろす」時に、最も情熱的な形で共有されるのであって、名前を持たない群衆と化した時のわれわれは、穴から出たウサギを追う野犬の群れと選ぶところのない存在なのである。 婚外交渉はよろしくない行為だ。 この意見にはほとんどの読者が賛成してくれるはずだ。 不倫は良くない。 おそらく、異論は無いはずだ。 が、良くないということと、それをやらないということは、別の文脈に属する話だ。 人は良くないことでも、やってしまうことがある。さらに言うなら、人生の楽しみの少なからぬ部分は、良からぬことを為すことの中に埋もれている。 たとえば、私は、昨年の春に糖尿病が発覚して以来、間食をいましめられている。 間食は良くない。 よって、私は、普段の食事に気を配らねばならないことはもちろんだが、それ以上に、食間に摂るジャンクフードの類を根絶するべく、強く言い渡されている。というのも、間食のほとんどは炭水化物で、してみると、血糖値を低く保たねばならぬ糖尿病患者にとって、規定の時間外にイレギュラーな形で炭水化物を摂取することは、あらゆる意味でよろしくないしぐさだからだ。 が、時に、私はクッキーを食べている。 せんべいも食べる。 仕事に行き詰まったタイミングでは、チョコレートに手を伸ばしてさえいる。 無論、そうしたものを口にする度に、いけないことをしてしまったと、後悔する。 反省もしている。 が、だからといって、私は、自分が週刊誌に私信を暴露されなければならないほどの罪を犯したとは考えない。 私の過失は個人的なものだ。パパラッチの知ったことではない。 もっとも、この話を、話題の二人の不倫と同一の基準で語ることはできない。 なにより、不倫には被害者がいる。 私の間食に被害者はいない。強いていえば被害者は、罪を犯した当人である私自身だけだ。ということは、私は、天に向かってブーメランを投げた者の末路として、自然落下を上回る速度で、自業自得の報いを、自らの健康を損なう宿命として引き受けているわけで、この時点で、私の罪と罰は自己完結している。 一方、不倫は明らかな被害者を外部に持っている。 不倫は、不倫実行者の連れ合いにとって、残酷極まりない背信行為であり、不道徳な仕打ちだ。 とすれば、彼らは、少なくとも、結果として迷惑をかけることになる幾人かの当事者に謝罪をしなければならない。場合によっては、何らかの形で賠償を果たす責任を負うことにもなるはずだ。 が、それでもなお、不倫は少なくとも刑事上の犯罪ではない。 だから、週刊誌に謝る必要は無い。テレビに説明する義理もなければ、スポーツ新聞の記者に弁解せねばならない道理も無い。 この種の出来事が起こると必ず決まり文句として登場する「世間を騒がせたこと」や「ファンの信頼を裏切ったこと」についても、本来なら謝罪する筋合いは皆無だ。スジとしては、そこに謝るのは間違っている。 ただ、「世間」や「ファン」という名前で仮託されている、不特定多数の見物人の好奇心や義憤にこたえる形で、多少とも騒動を沈静化させるためには、そういう言い回しで謝罪の意思を見せておくほかに方法がないというだけの話だ。 実際、騒いでいるのは、「ファン」ではない。彼らの不倫を責め立てて騒いでいるのは、どちらかといえば、「アンチ」だ。 ファンの多くは、静かに心を痛めている。 怒ったり、いきり立ったり、眉をひそめたり、金切り声を上げたり、非難の書き込みをマルチポストしていたりするのは、はじめから、ファンでもなんでもない、この騒動を心から楽しんでいる野次馬だ。とすれば、ネット上で謝罪を要求している彼らに謝るのは、どこからどう考えても、間違っている。 報道陣にも謝ってはいけない。 週刊誌は、このネタを暴露して煽ることで、部数を稼ぎ、注目を集め、カネを稼いでいる。 とすれば、スジとしては、件の二人に対して、週刊誌の記者ならびに編集部は、むしろ、感謝をせねばならない。 ……という、ここまでの話は、一応の正論ではあるが、屁理屈でもある。 というよりも、当事者でない人間が、当事者の口を借りて言う理屈は、結局のところ、屁理屈なのだ。 不倫の被害者たる妻の傍らに立って、妻の立場からの正論を述べ立てれば、正しい告発に見える記事を書くことはそんなに難しい作業ではない。 が、その正論がいかにまっとうな告発の形を整えているのだとしても、一対一の私信であるLINEのやりとりを当人に断りなく暴露することを正当化する理屈は、どこを探しても見つからないはずだ。 それ以上に、不倫を告発する権利を、当事者から賦与されているのだとしても、不倫暴露記事を一般読者向けの記事として公開して商売に利用することを正義の言論として認める理屈は、この世界のどこにも存在しない。 つまり、この事件において、もっとも「ゲス」だったのは、記事のために私信を暴露する犯罪まがいの取材を敢行した雜誌とそれを許した編集部だということだ。私信のデータを提供した人物にも一定の責任はあるだろうし、もちろん、それ以前に不倫関係に陥った二人にも相応の罪はあるはずだ。が、ゲスの極みは記事そのものにある。このことは、はっきりさせておかねばならない。 私が今回の騒ぎにうんざりしているのは、他人のプライバシーを暴露するスキャンダル報道をいかにも正義の告発であるかにように見せかけている記事の文体もさることながら、この事件をネタに騒いでいる人たちが、不倫を憎んでいるというよりは、リンチを楽しんでいるようにしか見えないからだ。 インターネットに集う人たちは、「偽善」をひどく嫌う。 これは、ネットメディアが建前や理想論を語りがちなマスメディアへのカウンターとして出発したからでもあるのだろうし、そのこととは別に、われわれの暮らすネットの外側にある実社会が、「建前」と「偽善」に彩られた欺瞞の世界であることの反映でもあるのだろう。その意味では、ネット民の偽善嫌いは、健康な反発と言って言えないことはない。 が、当欄でも、何度か同じことを書いた気がしているのだが、私は、昨今、偽善を摘発する人々の間で共有されている露悪趣味が不当に亢進していることに、危機感を抱いている。 本来温厚な人間が、ネットにものを書く段になると、にわかに凶暴になる。これは、一種の精神衛生なのだとしても、長い目で見れば、予後が悪いと思う。どういうことなのかというと、悪ぶっている人間は、いつしか本物の悪党になる、ということだ。 不倫の一方の当事者が、ベッキーでなくて、もっと別のあっけらかんとした女性タレント(たとえばローラとか)だったら、ネット民の反応はずっと穏やかだったと思う。 「あーあ、ローラちゃんダメじゃん」 「明らかにダマされちゃってるよね」 「むしろかわいそうだな」 てなところで、なんとなく収束していた気がする。 巨大匿名掲示板の書き込みやツイッターのハッシュタグを見回してみると、現在裁かれているのは、ベッキーが不倫交際をしていたことそれ自体ではなくて、むしろ、その不倫に先立って彼女が常に「いい人ぶっていたこと」だったりしている。 彼らは、ベッキーが、デビュー以来、前向きで、礼儀正しくて、子供好きで、動物好きで、涙もろくて、純真で、まっすぐな心を持った女の子であるかのように自己演出していたその“偽りの演技”を徹底的に攻撃している。 私自身は、ベッキーのファンではない。 正直に告白すれば、どちらかといえば、苦手な方だ。 が、彼女が、メディア上で演じていた、「前向きで礼儀正しくて子供好きで動物好きで涙もろくて純真でまっすぐな心を持った女の子」というキャラクターが、まるっきりのウソだったとは思っていない。半分以上、どころか、8割方は、画面に映っている通りの女性なのだと思っている。 事件の実態は、つまるところ、「前向きで礼儀正しくて子供好きで動物好きで涙もろくて純真でまっすぐな心を持った女の子」であっても、妻子ある男に惚れることはあり得る、という話に過ぎない。 ところで、デビッド・ボウイが死んだ。 私にとって、デビッド・ボウイは、20歳になる手前から30歳になるぐらいまでの最も不安定で困難な時期に追いかけていた、大切なアイドルだった。 なので、彼の死は、個人的に、とてもさびしい。 面倒くさいのは、こういう「気持ち」なり「真情」を、うっかりSNSやブログに書き込むと「いい人ぶってる」「センスが良いと思われたがっている」みたいな、ひねくれた反応が返ってくることだ。 以前、ルー・リードが死んだ時、 「ルー・リードの死に反応している人たちは、自分が他人とちょっと変わった趣味を持っていることをアピールしているんじゃないかしら」 みたいなことを書き込んだ人がいて、私はその時、たいそう腹を立てたものなのだが、自戒を含めて言えば、ツイッターをはじめとするネットという空間は、その種の皮肉な深読みや、ワルぶった捨て台詞を不当に高く評価する傾きを持った場所で、それがために、心からの哀悼の言葉や、素直な感謝の気持ちを書き込むことが、なんだか、やりにくくなってしまっている。 あたりまえの自然な感情を、思っているままに書き記した言葉が、子供っぽいと見なされたり、人柄の良さをアピールしている計算高い行為と解釈されたり、誰かに対するおべっかだと言われたりするリスクを考えると、誰もが、少しずつ口を曲げてものを言うようになる。これは、大変に厄介なことだと思う。 ボウイ氏が亡くなった当日か翌日、 《「戦メリ」の撮影現場ルポとか読んでるとボウイがとつぜん小児マヒ患者の真似をして空気なごませたとか出てくるのが80年代の空気感なんですけど、小山田圭吾の虐めごときで吹き上がれるポリコレ左翼の皆さんこれ許容できるんですかね。》 という書き込みが、ツイッターのタイムラインに流れてきた。 死者を過剰に持ち上げる書き込みや、感傷的な言葉の洪水に、鼻白んだ気持ちを抱いた書き手による軽い皮肉なのだろう。 こういうことを言いたくなる気持ちは、私にもよくわかる。 が、ここで言われていることは、なかなか凶悪だ。 まず「小山田圭吾の虐めごとき」と言っているが、あれは、「ごとき」で相対化できるようなお話ではない。興味のある向きは、「小山田圭吾 いじめ」ぐらいで検索して出てくるテキストを読んでもらうとして、もうひとつ、その「いじめ」および「いじめ自慢」を批判した人々を「吹き上が」ったと表現してしまうまとめ方にも同意しかねる。 件のいじめに違和感なり非難の気持ちなりを表明した人々をひとっからげに「ポリコレ左翼の皆さん」という言い方で揶揄している態度にも賛成できない。 ついでに言えば、映画の撮影現場という閉鎖空間の中で、仲間内に向けた私的なジョークとして演じられたボウイ氏の「ものまね芸」(←これも、伝聞に過ぎない)と、いじめの加害者であった当人が、雜誌のインタビューに答えて開陳した自らのいじめ加害体験の詳細を、同一のポリコレ対象行為として並列してみせた書き方は、O氏によるいじめ加害を過小評価させる意味でも、ボウイの「ものまね芸」を過大に見積もらせる意味でも悪意のあるレトリックだと思う。 ここで挙げたのは、ひとつの例に過ぎない。 この種の「甘っちょろいことを言う人間を手厳しくやっつけることでハードボイルドな人気を獲得しているアカウント」は、ネット内に無数に蟠踞している。 ベッキー嬢を血祭りに上げているのも、同じタイプの、甘っちょろいことが大嫌いな人たちだ。彼らの一人一人がどうだということではないが、大枠として、ネット世論の「空気」が、その種の「口を曲げた言論」に流されて来ている感じに、私は、かなり以前から、いやな感じを抱いている。 私自身の経験でも、ツイッター上に書き込んだ言葉の中で炎上するのが、不適切な発言(つまりこっちが尻尾を出した時)であるのは、これはまあ、当たり前の話なのだが、それとは別に、最も大きな反発を招くのは、実は、「甘っちょろい」言葉だったりするわけで、この点には、常にがっかりしている。 最後に、ベッキー嬢に呼びかける言葉で締めようと思っていたのだが、うまいセリフが見つからない。自分の気持ちと、自分の立場のうちの、どちらかを裏切らなければならない事態に直面した時、賢明に振る舞える人間は一人もいない。 なので、適切なアドバイスはありません。 とりあえず、甘いものでも食べるのが良いんではないかと思います。 私は、原稿が上がったら、罪の味がする甘いチョコレートを食べる所存です。 (文・イラスト/小田嶋 隆) 小田嶋さんの原稿をお待ちしている間に チョコクッキーをひと袋空にした罪深い私です 当「ア・ピース・オブ・警句」出典の5冊目の単行本『超・反知性主義入門』。おかげさまで各書店様にて大きく扱っていただいております。日本に漂う変な空気、閉塞感に辟易としている方に、「反知性主義」というバズワードの原典や、わが国での使われ方を(ニヤリとしながら)知りたい方に、新潮選書のヒット作『反知性主義』の、森本あんり先生との対談(新規追加2万字!)が読みたい方に、そして、オダジマさんの文章が好きな方に、縦書き化に伴う再編集をガリガリ行って、「本」らしい読み味に仕上げました。ぜひ、お手にとって、ご感想をお聞かせください。 このコラムについて 小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 〜世間に転がる意味不明
「ピース・オブ・ケイク(a piece of cake)」は、英語のイディオムで、「ケーキの一片」、転じて「たやすいこと」「取るに足らない出来事」「チョロい仕事」ぐらいを意味している(らしい)。当欄は、世間に転がっている言葉を拾い上げて、かぶりつく試みだ。ケーキを食べるみたいに無思慮に、だ。で、咀嚼嚥下消化排泄のうえ栄養になれば上出来、食中毒で倒れるのも、まあ人生の勉強、と、基本的には前のめりの姿勢で臨む所存です。よろしくお願いします。 http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/174784/011400027/?ST=print
[32初期非表示理由]:担当:関連が薄い長文
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