7. 2015年10月27日 04:16:31
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男の生きづらさを助長する「五郎丸ラブ」の女8割が「社内にイケメンが必要」と答える女たちの圧力 2015年10月27日(火)河合 薫 今回のテーマは、……。男と女の違い、…違う。性とは何か? ううむ、硬い。う〜ん、なんだろう? 「“男”でいることの生きづらさ」かな? まっ、そんな感じの、数年前から何回か取り上げている「男性問題」についてです。 念のため、毎度のことながら断っておきますけど、男性問題は、私の男関係のいざこざではありませぬ。「男性差別」と呼ばれることもある、男性への“イメージ”から生じる、いわばジェンダーに関する問題ですので、あしからず。 まずは、こちらの写真をご覧いただきたい。 (写真:ロイター/アフロ) マッチョなボディーに、端正な顔立ち。どこか育ちの良さを感じさせる、ソフトな笑顔――。
実はこの男性、先週行われたカナダ総選挙に勝利した自由党の党首、ジャスティン・トルドー氏。ルックスのみならず、政治家としての評価も高い、43歳の若き首相だ。 といっても、勝利の喜びから上半身裸でガッツポーズを取ったわけじゃない。トルドー氏が2012年にボクシングの試合に出たときの、計量時のショットである。 「きゃ〜イケメン!」 「ソフトマチョ〜〜!!」 「好き(ハートマーク)」 「カナダに移住したい!」 「私を抱いて〜〜」 などなど、この写真がネットで公開されるや否や、世界中の女性たちが大騒ぎした。 英ロイターはその“騒ぎ”を記事にし、英BBCでは、「Is Canada's new PM the only world leader with a tattoo? (カナダの新しい首相はタトゥーを入れた世界で唯一のリーダーなのか?)」というタイトルで、ファイティングポーズを取るセクシーな表情の写真を載せ、これまた“大騒ぎ”となった。 この記事には、ワイルド&マチョなオバマとプーチンの、半裸写真も掲載されている。こちらです→写真 トルドー氏の父親は1960年代から80年代にかけてカナダ首相を務めた、故ピエール・トルドー氏だ。カナダの名門、マギル大学とブリティッシュコロンビア大学を卒業した後は教鞭を執っていたが、2007年に政界に進出。 正真正銘の“サラブレッド”が、このルックスとあればメディアが放っておくわけがない。 ちなみにBBCの記事は、By Vanessa Barford。ネットで話題となった写真に関するロイターの記事は、BY ANDREA HOPKINS。名前を見る限り、どちらも女性記者だ。 「なんか…すごいな」 「天は二物を与えてしまった〜」 「オバマもプーチンも、マチョだな」 「つーかさ、コレ、女性の首相にも、こんなことやるのか?」 「男が上半身裸の写真だったら、女はビキニか?」 「女性にこんなことしたら、女性差別だ、女性軽視だ、性の道具にしてる、とか、こてんぱんにたたかれそうだな」 これらは、私の半径3メートル圏内の男性たちの反応である。 カナダ国内の“温度”がいまひとつ分からないが、日本でやったら、一悶着も二悶着もあるでしょうね、きっと。 とかく容姿については、タブーだ。 ラグビー日本代表の五郎丸歩選手には、「胸板が厚くてかっこいい!」と、キャーキャー騒ぎ立てる女性たちの姿をメディアは報じても、女性スポーツ選手を、「美脚がたまらない!」などと、仮に男性たちが騒いだとしても大手メディアが取り上げることはない。 社内にイケメンがいるとモチベーションが上がる そういえば、先日もあるアンケート結果に、男性たちが「ちょっとひどくない?」と、大いに憤った出来事があった。 女性会社員を対象にした調査で、83.6%が「社内にイケメンは必要」とし、49.8%が、「イケメンがいると、仕事のモチベーションが上がる」と答え、“イケメンに職場活性効果アリ”とマイナビやエコノミックニュースが報じたのだ。 「どのような点が『イケメン』だと感じるか?」という質問には(複数回答)、 1位.「顔がかっこいい」79.8% 2位.「笑顔が素敵である」42.7% 3位 「スタイルが良い」40.0% 「イケメンに業務連絡する際の連絡手段は?」 1位.「直接話しかける」74.5% 2位.「メール」28% 3位.「内線電話」21% 「イケメンが、社内に与える影響は?」 1位.「仕事へのモチベーションが上がる」49.8% 2位.「社内のコミュニケーションが活発になる」21.2% 3位.「他の社員も外見に気をつけるようになる」20.3% 「イケメンがいることで起こったことや感じたことは?」 1位.「イケメンがいるから会社に行くのが楽しい」34.0% 2位.「イケメンと関われる仕事には他の仕事よりも力が入る」20.3% 3位.「イケメンがいるからつらくても会社を辞めない」7.7% 「社内にイケメンは必要か?」 「そう思う」83.7% 「そう思わない」16.3% ※調査を実施したのは企業のトータルブランディングを手がけているESSPRIDE(エスプライド)。対象は、「社内にイケメンがいる」という、20〜49歳の女性会社員600人。 ……す、すごい。身もふたもない回答の連続にあ然というか、笑うしかないって感じなのだが、紹介されるや否や、男性たちは牙をむいた。 「女性様だな」 「ブサメンに人権は無いんかい!」 「殺意が湧いてきた」 「社内の業務連絡、メールしかこないぞ。直接話しかけられないオレは、イケメンじゃないってことか…」 「完全にセクハラだろ」 「女どもひどすぎる……」と非難囂々。 「男性にこんなアンケートしたら、それだけで大問題になるぞ」 との指摘が相次いだ。 まぁ、怒って当然……ですね。 だって、女性を「職場の華」といっただけで批判されるご時世だ。“イケメンに職場活性効果アリ”はないだろうし、いかなる目的であれ、よほど空気の読めない人か、批判目的の人たち以外、こういったアンケートはやらない。というか、できない。 仮に、もし、仮にこういったアンケートが、男性を対象に実施されたとしても、「やっぱ顔っしょ!」「そりゃ必要でしょ!」って答えにはならないと思う。 恐らく男性たちは、どんなに心の中で「やっぱ顔だろ」と思っていても、「笑顔」と答えるだろうし、「そりゃあ、美人がいた方がいいわな」と思っていても、「必要かって? う〜ん。別に必要ではないでしょ」と答える。 世間に蔓延する「男たちへの厳しい視線」と、女性たちへの気遣いがそうさせるのだ。 ホントに8割以上もの女性たちは、「イケメンは必要」と答えたのだろうか? ホントに「イケメンがいるからつらくても会社を辞めない」なんて人がいるのだろうか? なぜ、イケメンの基準を「顔」とした人たちがこんなにも多かったのだろう? 正真正銘の女性である私でさえ、驚いた。 もちろん聞かれ方や、聞かれたときの状況次第では、“ノリ”で答えてしまうこともあるかもしれない。「ひょっとしたら私も……」と一抹の不安を感じないわけじゃない。でも、うん、それでもやはり違和感を覚えずにはいられなかったのである。 他人からのまなざしは無意識の圧力 そういえば、最近「キモい」とか「ウザい」といった、人格を否定するような言葉が、男性、特にオジサン世代、に対して使われることが多いが、それこそ女性に使った途端、ヘビー級のパンチが飛んでくるに違いない。「女性の人権をどう考えているのか!」というジャブだかフックだか分からないパンチが、男性たちがタオルを投げるまで連打されるのだ。 女だろうと、男だろうと、容姿で判断されたらイヤ。女だろうと、男だろうと、キモい、とか、ウザいなんて書かれたらイヤ。 なぜ、女性には許されて、男性には許されないのか? 「男性には、これくらい言っても大丈夫」 「男性は、こんなことは気にしない」 「男性は強くて当たり前」 「男性は心が広くて当たり前」 そんな“男”という性への勝手なイメージが、そうさせるのか。 男という性に求められる、“男らしさ”。女性たちの男性への、まなざし。 女性は自分たちに向けられる、まなざしには敏感なのに、男性のソレにはひどく鈍感で。世間の人々も、何事もないかのごとく扱っているように思う。 「まなざし」は、社会が作り出した無意識の圧力である。 フランスの哲学者、ジャン=ポール・サルトルはこれを「regard」と名付け、以下のように論じた。 「人間は自分で選択したわけでもないのに、気づいたときにはすでに、常に状況に拘束されている。他人から何ものかとして見られることは、わたしを一つの存在として凝固させ、他者のまなざしは、わたしを対自から即自存在に変じさせる。地獄とは他人である」と。 まなざしは、自分との“違い”を認識し、ラベリングする心の動きだ。まなざしに拘束される息苦しさは、まなざしを感じている人にしか分からない。まなざしを注いでいる人たちには、そこに地獄が存在することすら分からない。 「ならば、“地獄”がいかなるものか、体験してみようじゃないか!」 と、自ら実験した人物がいる。 クリスチャン・ザイデル、別名クリスティーニ。俳優、ジャーナリストを経て、テレビ番組・映画プロデューサーとして名をはせたドイツ人の男性が、「女装して、一年間暮らしてみた」のである。 ザイデルはこの実験について、「男の中に潜む女について、論じるだけじゃなく、自分の身体で体験したかった」としているが、彼が実験の一部始終を書いた著書、『女装して、一年間暮らしてみました』(サンマーク出版)を読む限り、ザイデルは“今の自分”でいるのが、しんどくなっていたんだと思う。もっと違うナニかに、リセットしたかった。 とはいえ、その突破口が「女装」になるとは、ザイデル自身、夢にも思っていなかった。なんせ、彼は女装癖があるわけでも、女性になりたいわけでも、男性が好きなわけでもない。正真正銘のストレートなのだ。 ストッキング売り場に感銘 きっかけは、一足のストッキングだった。 寒がりの彼は、冬になると風邪をひくという切実な理由から、ある日、デパートのストッキング売り場に行ってみることにした。 すると……、そこには男性の売り場にはない、“自由”な空間が広がっていることに感銘を受ける。 ストッキングという、たったひとつの商品を探すのに、ストッキングが置かれた棚には、薄いもの、厚手のもの、ガーターフリー、長いヤツ、膝までのもの、ピンク、ブルー、ブラック、etc、etc …、終わりがないと思えるほど長い棚がストッキングだけで埋め尽くされていた。男性にはない、選択の自由、が存在した。 驚愕するザイデルに、内なる声がささやく。 「さぁ、買いなさい。自分のために! 男の見栄なんてさっさとお捨てなさい!」と。 「なんなんだ! このすばらしい世界は。デニールって何なんだ? 色の違いは何なんだ? どれを選べばいいんだ!?」 好奇心をかき立てられたザイデルは、一気に女装にはまっていったのである。 女性の服をまとった彼は、男性でいることの窮屈さを自覚するようになる。 自分がいかに、「男らしく」生きることに息苦しさを感じていたか。自分がいかに「男らしさ」を強調することで、自分の中の女性らしさを封じ込めてきたか。 自分に対する疑問と、男らしさへの疑問。そして、男性たちが女性に向けるまなざしを、痛いほど感じ、そこから引き起こされる困難を次々と体験する。 かつての友人たちは好奇なまなざしを注ぎ、中傷した。女性たちは、女装した「彼女」を、「彼」だったときには決して許可しなかった、女たちの世界に、受け入れた。 ただ女装しただけで、彼を取り巻く世界が、人間関係が、180度激変したのだ。 ある日、女子会に招かれた「彼女」は、女たちとありとあらゆること(男たちは絶対に語り合うことのないセックスや身体に関することまで)をあからさまに話すのだが、そこでクリスティーニが、「クリスチャン=男」として、意見するシーンがある。 個人的には、この言葉こそが、彼の実験の最大の収穫であり、彼が訴えたかったことだと感じている。 ザイデルは、男たちの言動に不満を漏らし、非難し、苦悩する女性たちに対し、こう意見したのだ。 「女性のほうから男性に歩み寄ってほしい。女性を扱うように、男性を扱う。人間として対処する。男性に対する考え方を変えるんだ。女性を強引にリードしながら、フワフワのカーペットを広げてくれる強さと優しさを兼ね備えた人物を、男に求めちゃいけない。そんな重圧、男には耐えられない。それでなくても、子どもの頃から立派な男になることを押し付けられるのに。期待が大き過ぎるんだよ」 男性に対する考え方を変えてほしい――。 これこそが、“クリスティーニ”の気付きであり、男性たちの心の叫びなんじゃないだろうか。 過去の「女性らしさ」から解放される女性と、一向に変わらない「男性らしさ」に翻弄される男性たち。選択肢が増えたことで苦悩する女性たちと、選択肢が一向に増えないことに生きづらさを感じる男性たち。 女性たちはなんでもかんでも、「僕たちのせい」にするけど、もうちょっとだけ尊重してよ、と。アレもダメ、これもダメ、と相手を縛ることで、生きづらさを解消するのではなく、それはそれとして認めてくれよ。 もうちょっとだけ女性たちが寛容さを持てたなら、僕たちの生きづらさが解消される、もっともっと自由になれる。いや、正確に言うと、彼は「クリスティーニ=女性」になって、「クリスチャン=男性」の生きづらさの正体に気がついた。もっともっと通じ合える関係になれるよ。もっともっと可能性が広がるよ。彼は、そう言いたかったんだと思う。 「男であれ、女であれ、人間として扱う」というのは、これまでにも私自身散々、書いてきたことなので、300%アグリー!である。 ただ、ひとつだけ、“女”として、“男”のザイデルに反論したいのは、男性に対する考え方を変えることはできても、好みは変えられない。いわゆる“男らしさ”に魅かれる女性を、変えることはできない。 そして、もう1つ。矛盾するようだが、「らしく」が存在することが、100%悪いと言い切れない自分もいるのである。 私は女なので、女性に向けられるまなざしが、どういうものかは分かる。 そのまなざしやイメージに合った言動を、「女性らしさ」っていうのだろうけど、「らしく」振る舞うことで、自分の居場所を確認できるという側面も存在するのだ。 うまく言えないけど、仕事の仕方も、生き方も、決して「女性らしい」と言えず、「拘束された状況」から脱しているので、逆に「女性らしく」振る舞う自分や、「女性」として他者から扱われることに安堵するというのだろうか。 ほかの女性たちのことは分からないけど、時折「私はその辺の男性より、男らしいんじゃないか」と、私の中の男に遭遇することがあるので、余計にそう思うのかもしれない。だって、私は男になりたいなんて微塵も考えたことないし、女性は私のアイデンティティの一部だし、女でいたいし、何より私は、女だ。当たり前か(苦笑)。 たかが服装、されど服装 自由というのは、広い砂漠に放り出されることじゃなくて、その砂漠に住む家があって、初めて感じられる感覚なんじゃないだろうか。そして、ずっとその家にいると、外に砂漠が広がっていることさえ忘れてしまう。一歩家から踏み出せば、果てしない自由と「可能性=砂漠」が広がっているのに。性差はシンプルであり、ややこしくて。まなざしっていうのも、抑圧であり、拠り所でもあるように思う。 ザイデルの実験は、「ストッキング」というたわいもないモノからスタートしたが、改めて街を見渡せば、一年中、男性たちはスーツに身を包み、革靴で歩いている。黒、グレー、紺、茶……。時々、ベージュと、色のバラエティーも少ない。 ウーマンリブの時代、女性たちはドレスを脱ぎ、パンツをはいた。イブ・サンローランは、「女性は(従来のようなスタイルで)女性らしく振る舞わなくてもいいのではないか」と、積極的にパンツスタイルを提案し、“パンタロン革命”を起こした。 こんなことムリなのかもしれないけど、ノー残業デーのように、ノーパンツデーなんてモノができて、男性たちがスカートをまとって会社に来るだけで、社会は大きく変わるかも、などと思ったりもする。たかが服装、されど服装。 さて、アナタもストッキング、履いてみますか? ちなみに私は、下着なのか、靴下なのか、分からないストッキングは超苦手。夏は素足、冬はタイツで過ごしています。ええ、かなり自由に…。 このコラムについて 河合薫の新・リーダー術 上司と部下の力学 上司と部下が、職場でいい人間関係を築けるかどうか。それは、日常のコミュニケーションにかかっている。このコラムでは、上司の立場、部下の立場をふまえて、真のリーダーとは何かについて考えてみたい。 http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/200475/102300019/
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