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高1女子に奨学金を返還させた福島市の非情(ダイアモンド オンライン)
http://www.asyura2.com/12/social9/msg/623.html
投稿者 こーるてん 日時 2015 年 9 月 26 日 11:20:30: hndh7vd2.ZV/2
 

高1女子に奨学金を返還させた福島市の非情(ダイアモンド オンライン)
9月25日(金)8時0分配信
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150925-00078909-diamond-soci&p=1

 2014年4月、母親と二人で生活保護を利用して生活している福島市の女子高校生が、得られた給付型奨学金を全額、自治体に収入認定され、返還するよう求められた。しかし2015年8月、厚労省は福島市の決定を不当とする裁決を下し、女子高校生はやっと、経済的な困難の少ない高校生活が送れるようになったところである。

 今回と次回は、この問題についてレポートする。まず、出来事の背景は何であり、母親はどのような半生を送ってきたのだろうか? 

● 奨学金は「収入」だから取り上げる!?  高1女子を待ち受けていた衝撃

 2014年4月16日。福島県内の公立高校に進学して間もなかった長門アスカさん(仮名・15歳)は、いつもと同じように学校生活を送り、帰途についた。住まいである福島市内の県営住宅に帰宅すると、母親・ミサトさん(仮名・37歳)がただならぬ表情で、

 「奨学金、全部、取り上げられちゃうって! 」

 とアスカさんに告げた。「取り上げられる」は、正確に言えば「収入認定」という意味である。

 小学6年のときから、母親とともに生活保護に支えられて暮らしているアスカさんは、中学3年生のとき、新高1を対象とした給付型奨学金の募集に応募しており、うち2件で採用となっていた。その2件で得られる年間合計17万円を、全額、自分の学業に用いることはできなくなってしまったのである。

 取材当日、私の目の前にいた細身のアスカさんは、知的な雰囲気を漂わせ、シャープなイメージの衣服に身を包んでいた。アスカさんは、その時、

 「は?  なんなの? 」

 と叫んだところまでは覚えているそうだ。

 「家に帰って、母からそのことを聞いた時に、理解できなくて……絶望というか、怒りがこみあげてきて、わめき散らしてました。その時の記憶は、それくらいです」(アスカさん)

 今回は、アスカさんが生活保護利用の母子世帯の子どもとして直面した問題を理解するため、最初の足がかりとして、ミサトさんの半生に焦点をあてて紹介することとしたい。

 まず、今回の問題の背景には、どのような事情があったのだろうか? 
 2014年4月、母親と二人で生活保護を利用して生活している福島市の女子高校生が、得られた給付型奨学金を全額、自治体に収入認定され、返還するよう求められた。しかし2015年8月、厚労省は福島市の決定を不当とする裁決を下し、女子高校生はやっと、経済的な困難の少ない高校生活が送れるようになったところである。

 今回と次回は、この問題についてレポートする。まず、出来事の背景は何であり、母親はどのような半生を送ってきたのだろうか? 

● 奨学金は「収入」だから取り上げる!?  高1女子を待ち受けていた衝撃

 2014年4月16日。福島県内の公立高校に進学して間もなかった長門アスカさん(仮名・15歳)は、いつもと同じように学校生活を送り、帰途についた。住まいである福島市内の県営住宅に帰宅すると、母親・ミサトさん(仮名・37歳)がただならぬ表情で、

 「奨学金、全部、取り上げられちゃうって! 」

 とアスカさんに告げた。「取り上げられる」は、正確に言えば「収入認定」という意味である。

 小学6年のときから、母親とともに生活保護に支えられて暮らしているアスカさんは、中学3年生のとき、新高1を対象とした給付型奨学金の募集に応募しており、うち2件で採用となっていた。その2件で得られる年間合計17万円を、全額、自分の学業に用いることはできなくなってしまったのである。

 取材当日、私の目の前にいた細身のアスカさんは、知的な雰囲気を漂わせ、シャープなイメージの衣服に身を包んでいた。アスカさんは、その時、

 「は?  なんなの? 」

 と叫んだところまでは覚えているそうだ。

 「家に帰って、母からそのことを聞いた時に、理解できなくて……絶望というか、怒りがこみあげてきて、わめき散らしてました。その時の記憶は、それくらいです」(アスカさん)

 今回は、アスカさんが生活保護利用の母子世帯の子どもとして直面した問題を理解するため、最初の足がかりとして、ミサトさんの半生に焦点をあてて紹介することとしたい。

 まず、今回の問題の背景には、どのような事情があったのだろうか? 

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150925-00078909-diamond-soci&p=2
● 生活保護基準の二面性の理解が重要 「収入認定」とは何か? 

 今回の問題を理解するには、まず、生活保護基準の二面性を理解する必要がある。生活保護制度には、重要な原理4つと原則4つがあるのだが、今回は「最低生活保障の原理」と「基準及び程度の原則」が主に問題となっている。

 まず、「最低生活保障の原理」により、生活保護基準は「健康で文化的な最低限度の生活」を実現できるものである必要がある。実際に実現できた時期があったかどうかはともかく、日本国憲法第25条と生活保護法の建前はそうなっている。これが、生活保護基準の「下限」としての側面である。

 一方で、「基準及び程度の原則」により、生活保護利用者の生活は「健康で文化的な最低限度の生活」を超えてもならない。本人の就労・他制度の活用などがあっても、なおカネ・モノ(医療・介護・教育・就労など社会生活を含む)が生活保護基準より不足していたり欠落していたりするのならば、生活保護制度によって補われる。しかし、本人の自助努力の結果であるとしても、収入が生活保護基準以上となるのであれば、超えた部分は「収入認定」されてしまう。これが、生活保護基準の「上限」としての側面である。

 このため、生活保護基準を上回る収入があったら、原則として「収入認定」を受け、福祉事務所へ返還する必要がある。勤労収入の場合は、必要経費(交通費・作業服など)の実費分の補填は認めたうえで、「働き損」にならないように本人の可処分所得を若干は増やす配慮も行われているが、原則として取り扱いは同様となっている。
 
 今回、最大の問題点となったのは、生活保護世帯の子どもが自らの努力によって獲得した給付型奨学金が、「世帯の生活保護基準の範囲を超えた」という理由によって取り上げられる、いや、収入認定されることの是非だ。

 ミサトさん・アスカさん母子は、支援者・理解者たちの協力を得て、2014年6月、福島県に審査請求を行ったが、2014年11月に却下された。2014年12月、厚労省に再審査請求を行い、並行して2015年4月、福島地裁で取り消しと慰謝料支払いを求める訴訟を開始していた。

 先月の2015年8月6日、厚労省が福島市福祉事務所の取り扱いを取り消す裁定を行ったため、収入認定されたアスカさんの給付型奨学金は、本来受け取るべき本人のもとに返還されることとなった。アスカさんの高校生活が、既に概ね半分終わった時期のことである。

 なお、厚労省の裁定理由は生活保護世帯の子どもの進学や進路を切り開くための努力を全面的に認めるものとはなっておらず、福島市の手続きを主要な問題としたものであったため、その点を争う目的で、訴訟は現在も継続されている。

 そのアスカさんの母、ミサトさんは、どのような半生を送ってきたのだろうか? 

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150925-00078909-diamond-soci&p=3
● 親や教員への不信が募った子ども時代 定時制高校で未来は開けたが…

 ミサトさんは1978年、福島県内で3人きょうだいの末子として生まれ、2歳上の兄・1歳上の姉がいた。サラリーマンの父親と専業主婦の母親は不仲。父親は、外で働いて給料を母親に渡すことはするものの、家庭には無関心だった。母親は、物心ついた子どもたちに夫の愚痴を垂れ流しては「アンタたちがいなければ、私はさっさと離婚してたのに」と嘆息していたそうだ。

 「正直、『そんなに人のせいにするんじゃない! 』と思っていました。自分も母親になり、年子の子どもが3人いて大変だったのはわかるんですが、だからって、それを子どもに言っちゃいかんだろう!  と思います」(ミサトさん)

 その後、ミサトさんが10歳のとき、父親は会社を退職し、自営業者となった。母親は父親とともに、自営業の事務や手伝いをするようになった。バブル崩壊直前の時期にあたっており、事業は順調だった。

 しかし子どもたちにとっては、「家に帰っても母親はいない」ということでもあった。学校で何があったか話そうとすると、母親は「うるさい、ジャマ! 」と言う。中学時代のミサトさんは、「お母さんは話を聞いてくれないから、何も話さない。もういいや」と達観していた。すると母親は「私はアンタの母親なんだから、アンタの考えていることくらい、分かるわよ! 」とぶつかってきた。

 「母親は、なにもかも『自分は正しい』という感じでした。『自分はなんでもやってきた』という奇妙な自信と、押し付けがましさがありました。大人の自分だからやれることを『アンタもやれるでしょ』と中学生の私に言い放ったり、よその子や兄・姉と比較して『なんでアンタは』と言ったり」(ミサトさん)

 中学時代のミサトさんは、高校に行きたいと考えていなかった。数学の授業についていけなくなり、大人への不信感から、

 「どうせ先生は、できる子にしか教えないんだから。私が分からなくても、勝手に授業は進んでいくんだから。だったら、もういいや、という感じで過ごしていました。もう、勉強というより、学校に興味ありませんでした。どうせ、どこでも先生って、こんなものなんだろうと。とにかく『自分は何がしたいんだろう?  何のために生きているんだろう? 』ばかり考えていました」(ミサトさん)

 しかし、母親に「とにかく高校だけは卒業しなさい」と言われ、中学の先生に「とりあえず面接だけだから受けてみては」と勧められて受験した定時制高校の3次募集に合格して進学したミサトさんを、思わぬ出会いが待っていた。

 「先生たちが、中学までのイヤだった先生たちとは全然違っていて、伸び伸びしていて。友達のような感覚で話ができたんです」(ミサトさん)

 学校生活だけではない。

 「数学、何もわからなかったのに、小学生に教えるように、わかるまで、ゆっくり説明してくれたんです。『こんな簡単なことが、なんでわからなかったんだろう? 』と、初めて思って、楽しくなりました。そして『定時制に来て良かった』と思いました」(ミサトさん)

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150925-00078909-diamond-soci&p=4
 ミサトさんは中学時代から、英語が得意だった。学校がイヤになっても、英語だけは勉強し続けていた。

 「定時制高校では、英語は自分だけ別メニューで、他の生徒と違う教材で勉強していました」(ミサトさん)

 コンビニ・ガソリンスタンド・スーパーの惣菜製造などのバイトを掛け持ちし、「時給550円程度」ではあるが1ヵ月8万円程度の収入を得つつ定時制高校で頑張るミサトさんに、高校教員が、学校推薦を受けての海外でのショートステイの話を持ちかけてきた。ただし費用は自費である。

 「とても、行ってみたかったです。日本から出たら何か変わるかも、という漠然とした思いもありました」(ミサトさん)

 しかし小さくない自費負担額がネックとなった。バブル崩壊後、家業の自営業も危機的な状況が続いていた。ミサトさんは教員に「お金がないので、行けません」と告げた。結局、その機会は後輩のものとなった。「切なかったです」とミサトさんは言う。

 高校時代のミサトさんは、将来について落ち着いて考えることが可能になりはじめていた。「人の役に立つ仕事をしたい」という気持ちが芽生えていたミサトさんは、介護の専門学校に進学したいと考えた。しかし、あまりにも学費が高額なため、断念せざるを得なかった。

● 元夫や親きょうだいから身を守る日々 しかし力尽きて生活保護を申請

 高校卒業後のミサトさんは、実家に住みつつ、温泉の宴会コンパニオンと工場での派遣労働を掛け持ちしていた。ほどなく、きょうだいの友人として知り合った男性と交際するようになったミサトさんは、アスカさんを懐妊し「俗に言うできちゃった結婚」をした。

 「とにかく、家を出たかったんです。居たくないから。自分の居場所がないから。『だったら、さっさと結婚しちゃえばいい』と考えました。今から考えたらバカみたいですが。そのタイミングで妊娠したので、『じゃ、結婚しよう』と」(ミサトさん)

 現実のものとして「自分で仕事をして一人暮らし」という選択肢を考えるには、地方の高卒女子の賃金は低すぎた。

 しかし、元夫の収入は手取り15万円。親子3人が暮らしていくには厳しい金額だ。さらに元夫は、結婚前に購入した四駆の自動車をどうしても手放さなかった。その自動車のローンなどの借金の支払いが、1ヵ月あたり合計8〜9万円にも及んでいた。

 「支払いを済ませたら、手元に5000円くらいしかなかったんです。産婦人科に行ったら食べられないくらいでした」(ミサトさん)

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150925-00078909-diamond-soci&p=5

 2歳上の元夫は、父になるには幼すぎたのかもしれない。

 「彼は、母親に『お前はかわいいなあ』と、私の前で頭を撫でられていました。彼も、お母さんも(私に見られていても)平気でした」(ミサトさん)

 ミサトさんは、アスカさんを出産して間もなく、クラブで働くようになった。保育園を探してから仕事を探していたのでは間に合わないほど、状況は逼迫していた。元夫は、アスカさんの世話はしたものの、ミサトさんの手取り月14万円の収入、家にいず外で働いていることに不快を示し、「クラブで男を作って浮気しているのでは? 」と邪推した。

 毎晩、「私は子どもを守る義務と責任があるんだから、あなたは文句を言うな」と元夫を怒鳴りつけて働くミサトさんだったが、ストレスから出たアトピー湿疹の掻き傷を元夫が「キスマーク」と思い込んだことから、アスカさんが生後10ヵ月のとき、同居生活の終わりとなった。

 その後のミサトさんは、家業不振・兄の引きこもりから不安定な状況の続く実家に身を寄せたり、実家の倒産の影響を受けたり、姉の男性の友人たちに翻弄されたりしながら、工場・クラブ・保険の外交員と数多くの仕事をこなしつつ、アスカさんを育てつづけた。

 しかし、アスカさん小学3年の冬、ミサトさんを異変が襲った。

 「家から出られない状態になったんです。高校時代の友達のアドバイスで、付き添ってもらって精神科に行ったら、うつ病ということでした」(ミサトさん)

 この時のことを、アスカさんは、

 「私が小2のときから、様子がいつもと違うのは感じていました。でも母は、私には、いつもと変わらない感じで接していましたから、私もいつもどおりに母に接していました。それまでの母は、必要に迫られてのことだとは思いますが、いつもキビキビ動いていて、仕事熱心でした」

 と語る。

 その後も無理に働き続けていたミサトさんのもとに、離婚した母親・交際相手と別れた姉が転がり込んできた。精神的負荷から体調を悪化させたミサトさんは、仕事を辞めざるを得なくなった。障害基礎年金(2級)と児童手当を受給して県営住宅で暮らしながら、やっとのことで母と姉に出て行ってもらうことに成功したミサトさんだったが、アスカさん小6の夏、障害基礎年金の更新が行えなかったことから、支援団体からコメなどの食糧支援を受けつつ、生活保護を申請。数日後に保護開始となった。

 生活保護についても母親の説明を受けた娘のアスカさんは、

 「このとき、はっきり『変わった』と感じたことはありませんでしたが、生活保護が始まって、『少し、余裕ができたかな? 』という感じでした」

 という。

 次回は、アスカさんの視点から、中学・高校時代、奨学金収入認定問題、今後の進路への見通しを紹介する予定である。娘と母それぞれにとっての生活保護の意味・「健康で文化的な最低限度の生活」の意味が浮かび上がってくるはずだ。
.
みわよしこ
 

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コメント
 
1. 2015年10月23日 06:25:22 : jXbiWWJBCA
生活保護のリアル〜私たちの明日は? みわよしこ
【第27回】 2015年10月23日 みわよしこ [フリーランス・ライター]

「生活保護で子だくさん」は罪なのか?体験者だから語れる本音の解決法

生活保護利用者は、毎月、「過去最多」を更新し続けている。生活保護を必要とする人々が増加し続けている以上、致し方のない成り行きである。では、「生活保護が必要」という事情を少なくするためには、何が有効だろうか??生活保護世帯で育った女性のインタビューを通して、考えてみたい。

「生活保護で子だくさん」は許されない?
「生活保護の子が大学」は高望み?


生活保護世帯で育った女性は、あえて生活保護を受ける人々に対して苦言を呈す
?10年来の友人であるエツコさん(仮名・40歳)は、10代後半の約3年半、家族とともに生活保護を利用していた。

?エツコさんと私は、生活保護利用者に対する見方では、意見が合わないことも多い。たとえばエツコさんは、

「このごろ、『生活保護のリアル』で、子だくさんの生活保護家庭を、よく取り上げてるでしょ??でもさ、たくさん産むからいけないんじゃないの??立て続けに生まれてるとき、医者が『おかしい』と思って強制的に避妊リング入れるくらいのことは、すべきなんじゃないの?」

?と言う。私は返答に詰まってしまう。1996年、優生保護法が母体保護法へと改正されて以後、医師の判断により強制的に不妊・断種手術を行うことは許されていない。それに、親には生まれた子どもを養育する義務もある。自分の経済力だけで養育できない場合、生活保護を利用して悪い理由があるだろうか?

「生活保護に頼らないで暮らして子だくさんだった人が、何かの事情でどうにもならなくなって生活保護なら、しかたないと思うよ。でも、生活保護なのに子どもをたくさん作るのは、どうもね」

?エツコさんのその主張を、私は理解できない。2012年、京都府宇治市で、生活保護利用者に対し、

「前夫・内縁の夫・異性の友人や知人などと生活を伴にしないことを誓います。保護受給中の妊娠・出産については母子世帯・夫婦世帯に関わらず相手にしっかりと話をしたうえで相手に経済的・精神的な責任をとってもらい、生活保護に頼ることなく養育することを誓います」

?という文言を含む「誓約書」を提出させたことが問題となった(誓約書全文)。行政は、各家庭の「家族計画」に干渉すべきではないし、生まれた子どもに罪はない。

?さらにエツコさんは、生活保護世帯の子どもが高等教育を受けたがることに対しても厳しい。

「どうしても大学で学びたいなら、方法はあるでしょう??学生支援機構の奨学金とか、新聞奨学生になるとか。私、その高校生たちに聞きたいよ。『今、家にお金がないのは、あなたのせいじゃない。でも、お金がないのに大学行かなくちゃいけない理由はあるの??大学行かなかったら、就けない仕事はあるの??夢とか希望とか言う前に、生きるために稼ぐのが先で当たり前じゃないの?』って」

?私はふだん、原則として友人は取材対象にしない。でも、生活保護を経験したエツコさんが、現在の生活保護利用者に対して厳しくなる理由は理解したい。生活保護制度の現在の「煮詰まり」を解決するヒントも得られそうだ。そこで、10年来の友人に、改めてインタビューをお願いした。

問題はあっても裕福な生活から
中学の制服も買えない状況に

?エツコさんは、溶接工の父親と病弱な専業主婦の母親の長子として、1975年、関東北部の中都市で生まれた。

「ベビーブームの最後の年に生まれて、就職氷河期に当たっちゃって。人生、いつもストレートじゃなかった」

?2年後に妹、4年後に弟が生まれた。腕がよく、船の先端など困難な溶接をこなせた父親は、一軒家や外国車が買える収入を得ていたが、

「酒飲みで、生活考えずに競馬に給料全部賭けちゃったりすることもあって」

?父親の当時の勤務先の社長は状況を熟知しており、父親には小遣い分だけを渡し、給料のほとんどは母親に渡していた。母親も、エツコさんが小学2年のころから、近所の工場でパート労働を続けていた。

「暮らしぶりは、むしろ裕福で、憧れられるようなライフスタイルだったと思うよ。一軒家に外車、庭に白いバラを植えて」

?しかしエツコさんが中学校に入るころ、給料をすべて自分で使いたくなった父親が転職し、家庭に生活費をもたらさなくなった。エツコさんは、「給食費が払えない」「学校の修学旅行積立が払えない」「体操服が小さくなってるのに買い換えられない」といった問題に、妹・弟の分も合わせて悩むことになった。

「私が中学に入るときは、制服を買うお金を捻り出すのが大変だった。学区の再編成があって、新しい制服になったばかりで、お下がりやリサイクルという方法がなかったし」

?あんなにお金のあった家が??という近所の視線に耐えかねた母親は、パート労働を続け、就学援助も児童手当も利用し、さらに自分名義で借金を重ね、生活レベルを維持しつづけた。

?中学に入ったエツコさんは、柔道部に入った。中学1年で県大会に出場できるほどの実績を挙げ、周囲に将来を有望視されていたという。しかし顧問教師が問題を起こして退職し、柔道部は廃部に。ついで「とりあえずの現実逃避の術」として演劇部に入ったエツコさんは、またもや頭角を現し、文化祭で主役を演じた。しかし、悩みでいっぱいの中学時代だった。

「貧困にも悩んだけど、自分の人生に悩んだ。『中卒で働きたい』と先生に言ったら、『頭いいんだから、とりあえず高校は出といたほうがいい』と反対されて。でも、先生がお金出してくれるわけじゃないからね」

?エツコさんだって、高校に行きたかった。

「勉強は好きだったよ。読書が好きで、図書館が居場所だった。読んでた本は、人付き合いの本とか、人の騙し方とか、自己啓発とか、法律とか、福祉とか。可愛げのない中学生だよね」

?その間にも、家庭の状況はさらに悪化していった。自慢の一軒家を売って借家に引っ越し、外国車も売った。それでも家計は火の車。父親が家にいるのは1ヵ月に1日か2日。家にお金を入れるのは「たまに」だ。エツコさんが中学2年の12月まで、なんとか工場で働き続けてきた母親も、中学3年の4月、持病を悪化させて入院。一家は、同居していた母方祖母の老齢年金と、母方叔父からの仕送りと、父親の当てにできない生活費だけで暮らし続けた。

「母親の医療費が大変で、医療費貧乏だったよ。でも、母親が入院するちょっと前から、福祉の相談員のような人が、しょっちゅうウチに来るようになった。たぶん母親が民生委員さんか誰かに、『生活が立ち行かない』と言えたんだと思う」

?しかしエツコさんは、家事や妹・弟の世話を担いながら、乏しい生活費から母親の治療費の工面に苦労する中学3年生だった。

「『お姉ちゃんなんだから』って期待されるのが、もうイヤで苦痛で、足かせで。逃げたかった。『親父を殺したら、どんなに楽になれるだろう』って、何回も思ったよ」

?エツコさんが中学3年の10月、母親は病院で亡くなった。エツコさん一家には、母親の遺体を家まで運ぶための搬送車を依頼する費用もなかった。母親が生活のために積み重ねた借金は、700万円にまで膨れ上がっていた。その借金を相続した父親は、しばらく逃げ回った末、結局は自己破産した。同居していた母方祖母は、父親とのトラブルから「泣きながら家を飛び出した」そうだ。

貧困の中での高校進学が
生活保護利用のきっかけに

?混乱の中でも希望を失わなかったエツコさんの行きたかった高校は、自転車で片道2時間の距離にあった。通学の交通費を考えると、断念せざるを得ない。エツコさんは、自転車で通える範囲にある「ヤンキー高校」を受験し、首席で合格した。しかし、高校進学に必要な制服など数多くの費用を用意することは困難だった。そこでエツコさんは中学校に事情を話し、生活保護ケースワーカーと面談。実情を話し、父親と子どもたち3人で生活保護の利用を開始することになった。

?エツコさん中学3年の3月だった。近隣の住民から相談を受けていた児童相談所も助言を行い、父親は別世帯扱いとなった。エツコさんを「世帯主」とする姉弟3人の世帯に、生活保護で給付された生活費は、1ヵ月11万5000円。なんとか暮らしは成り立つはずの金額だった。生活保護の医療扶助が利用できるようになったので、治療できずにいた弟の虫歯も治療を開始できた。

「ケースワーカーは中年の男性で、よく相談に乗ってくれる、いい人だった。最初から『いつかは脱却するための生活保護だから』と言って、ウチの収入の状況がどうなったら生活保護を切られることになるのかを教えてくれて。高校時代の私のバイトも『働き損』にならないように、『収入認定で持っていかれないように、この金額までセーブして働いて』とかアドバイスしてくれてた」

?エツコさんは家庭を支えながら高校に通い、マクドナルドで毎日、1日3時間、時給1000円のアルバイトにも励んだ。しかし父親は、たまに帰宅してはエツコさんにお金をせびり、しばしば酒に酔って他人の車や塀を壊した。エツコさんは、生活保護費から弁償費用を工面することになった。

「何回も、『高校辞めて働きたい』と、ケースワーカーに言ったよ。すると『でも、女の子が家族を養う仕事をするのは大変だよ。結局は水(水商売)になる。おじさんの目の前で、水はやってほしくないなあ。高校を出たら、事務でもなんでも、会社に入ればいいんだから』って言われて」

?エツコさんが高校を卒業した1993年は、「バブル経済」が終わり、就職氷河期にさしかかったところだった。正社員としての就職が叶わず、しかたなく派遣社員になったエツコさんは、仕事ぶりを認められて正社員になったが、結局「派遣上がり」は正社員と差別されつづけることに嫌気がさして退職。その後、さまざまな職業を転々とし、新聞販売店の正社員となった。

?その間に、2歳下の妹が中学を卒業してクリーニング工場に就職。4歳下の弟も、中学を卒業してスーパーに就職した。エツコさん18歳の11月、姉弟3人の収入で、一家は生活保護から脱却した。

「でも、子どもの労働だからね。定着して安定するまで、ケースワーカーが心配して、いろんな人とやりとりしてくれてたみたい。私の高校時代、バイト先に様子を見に来てくれたことがあった。妹や弟の就職先にも頭下げてくれた。私たち3人が仕事に就くとき、雇用契約とか、労働時間とか社会保障とか、親代わりにチェックしてくれたよ。私たちが生活保護を抜けるときは、『ダメ親父を捨てる気で働けよ、状況は、いくらでも自分たちで変えられるんだから』って言ってくれた。歪んでない、まっとうなケースワーカーだった」

?エツコさんはその後、約20年間、新聞販売店に勤務していた。20歳を過ぎた頃、生育環境との関連が疑われる精神疾患を発症したが、仕事は辞めなかった。新聞販売店では突出して優秀な営業成績を維持しつづけ、37歳で同業の夫君と結婚。38歳で男の子を出産した後も仕事を続けた。さらに仕事と育児のかたわら、通信制大学で法律学を学び、6年かかったが2014年に見事卒業。しかし優秀なエツコさんは、営業成績が良く報酬が高かったことから、職場で人件費削減のターゲットとされ、2015年5月に退職。現在は精神疾患の治療を続けるかたわら、失業給付を利用して、求職しながら起業準備を行っている。新聞の営業を通じて見た低所得層の困難を、法律の知識も活かしながら解決することを仕事にできればと、リサーチ・事業計画づくり・求職に余念がない毎日だ。

生活保護への「スティグマ」と
生活保護を必要とする状況をなくすには?

?努力してきたとはいえ、就職氷河期に社会に出ることになったハンデを今も背負い続けていると自覚しているエツコさんは、

「氷河期40代ニートが、『働けない』『結婚できない』、あれもこれもできない、と生活保護を利用する気持ちは、わかる」

?と言いつつも、生活保護を利用しているシングルマザーたちには、

「生活保護があるから離婚できる、とか思わないでほしい」

?と厳しい。私が「わかるから共感してる一方で、わかるから反発してる感じがするんだけど?」と言うと、「あ、それだ!」という答えが返ってきて、会話の流れが変わった。

「初めて『生活保護』という言葉を聞いた時、『ウチは自己破産よりひどい貧乏なのか』という絶望感があった。生活保護を受けていたころは、普通の生活をすることに、変な罪悪感を感じた。申し訳ないとか、情けないとか、苦しいとか、悔しいとか。『こんなものを貰わないと、暮らせないのか』って。でも、自分一人じゃ何もできなかった。だから、屈辱的だと思いながらも、自分の人生を変えて、ここまで来れた」

?では、経験者として、生活保護に望むことは?

「(生活保護という)名前が悪いから変えてほしい。病気の人・障害者・高齢者など、働けない人が認められた権利の中でちゃんとした生活をすることを恥じなきゃいけないのは、おかしいと思う。働けない理由に合わせて、それぞれ別の名前の制度にしてほしい。子だくさんの家庭に対しても、『生活保護』ではなく『育児支援給付』とか、別の制度にしてほしいよね」

?働ける人に対してはどうだろうか??たとえば、失業から生活保護に至ってしまう例は少なくない。

「失業者の場合は、失業給付の『自己都合退職なら3ヵ月待機』が問題だと思う。あの3ヵ月を持ちこたえられなくて生活保護しかなくなる人は、結構いるから。雇用保険の穴が、生活保護に押し付けられているわけでしょ??労災の場合も、労災認定を受けられるまでの期間の生活や裁判費用で持ちこたえられなくなって、生活保護しかなくなる人がいるわけだし」

?よく言われる、社会保障のセーフティネット3層構造(雇用のネット・保険のネット・扶助(生活保護)のネット)で言うと?

「雇用のネットと保険のネットの穴をなくして丈夫にすればいいんだと思う。それで日本人は、自主防衛できるようになって、憲法25条が機能するようになるんじゃないかと思う。蜘蛛の巣みたいな見えないネットでも、セーフティネットは必要だから」

?雇用保険の対象にならない人々も多い。

「それがいけないんだよ。どんな仕事でも、パートでもアルバイトでも、雇用保険は全員強制加入にして、働けてないときは失業給付を受け取れるようにしないと。健康保険と年金は『国民健康保険と基礎年金でも、ないよりマシ』と割り切っていいと思うけど」

?それが実現すれば、働ける年齢層にとっての生活保護の必要性は、かなり少なくなりそうだ。でも今、雇用・保険のセーフティネットは脆弱で穴だらけだ。

「だから、そこを『ナマポで勝ち組』とかいう言葉で終わりにしてほしくないんだ。生活保護は、決められた最低基準の暮らしのための支援金。マイナスをプラスにするものではなく、マイナスをゼロにするもの。プラスにするのは自分の力。それを日本人が理解したら、蔑みの言葉になるわけがない。でも、『生活保護』という言葉に染み付いたスティグマは、本来の意味に、もう全然合ってないけど」

?では、働ける年齢層の人々にとっての生活保護は、今、どのような存在になっているだろうか??2013年の生活保護法改正以後、「就労促進的になった」とされる生活保護制度は、実際に就労を促進するものになっているのだろうか??次回は、生活保護と就労の「今」をレポートする予定だ。
http://diamond.jp/articles/-/80434


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