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WISDOM
未来授業〜明日の日本人たちへ
湯山玲子さん〜競争原理とは距離を置き、心を平静に保てるような生き方を模索することの意義
2015年06月05日
今回の講師は、著述家の湯山玲子さん。先ごろ、新刊の『男をこじらせる前に〜男がリアルにツラい時代の処方箋〜』(KADOKAWA/角川書店)を発売。女性が変化を遂げるなか、実は男性にこそ、それ以上の大変革が起こっているのではないかと問いかけています。
では、いま男性は、女性はどうあるべきなのでしょうか? そして、両者の関係性は? そのことについて、考えをお聞きしました。
男の人と競争社会
『男をこじらせる前に〜男がリアルにツラい時代の処方箋〜』を書くにあたり、男友だちや、周りの人にリサーチをかけたことがありました。その結果、改めて気づいたのは、男の人は競争原理が血肉化しているということ。血液のなかに、競争という要素が入り込んでいるような、なかなか大変な状態です。ちなみにいま、「大変」といったことには理由があります。
日本人のいまの社会には、歴然と学歴の競争というものがあります。東大を中心とした学歴ヒエラルキーがあって、みんなそのために受験勉強をするわけです。「東大というキャリアだけあれば、あとは安泰」というような考えは、戦後の昭和時代に大衆に染み渡りました。しかし、働いている人は実感があると思うのですけども、いまはもう実力社会になっていて、東大を卒業したからといって順当なキャリアが約束されてはいない。逆に学歴のない人でも、ものすごく仕事ができて重要なポストに就いたりします。これは、同窓会なんかに行くと、本当にこういうことになっているし、自分の実感もそうです。にもかかわらず、学歴競争の渦中で自分に「負け組」というラインを引いてしまって、そのコンプレックスで可能性を潰してしまう男性は本当に多いのです。
もちろん女の人も、学歴競争のなかにいますし、ほかにも社会には様々な競争はあります。しかしそれでも女の人は、それほど競争社会を血肉化しません。仕事以外にも「子どもを産んで、専業主婦でも充実している」というような、ラインがいくつかあるわけです。そして、どのラインを選択するかというのは、べつに良い悪いの話ではなく、自分の生き方をひとつに定めなくてすむということです。つまり女性は「こっちがダメでもこっちがあるさ」と競争から距離を取りやすいわけです。しかも、女性は私生活も充実させたい方なので、会社に身も心も捧げる、という”熱気”からクールでいられる。しかしながら、男性はそうではないということです。
競争社会で勝ち組になり、いい会社に入ってバリバリ働くということに対して「それでいいのか?」と男性たちも気がつき始めていて、違う生き方を模索していると感じます。では、どうやって生きればいいのか? この問いについては、「隣にいる女の人を見なさい」といいたいのです。競争に負けたら友だちと楽しく過ごしてもいいし、とにかく足を動かして、おのれの勝ち負けがまだ決定していない分野にどんどん行ってみたらいいと思います。
そのひとつで、すでにそういう男性が増えているな、と思うのは、村上春樹的な「カフェ男」。自分が「気分がいい」というものを自分の周りに置き、そういう生き方をするということ。それはコーヒーかもしれないし、好きな音楽かもしれないけど、自分が気に入るようなことだけを享受し、徹底的に追求して味わい尽くして、生きていきたいというライン。よくカフェで、眼鏡をかけた草食系男子が本を広げて自分の時間を過ごしているじゃないですか。ああいう人たちを見ると、彼らは「そうじゃない生き方」を実践しているようにも思えます。
先の競争の話でいうと、勝ち組は1人か2人で、残りは全員が負けるというのが競争のシステムです。ですから、負けるということを真剣に考えてはダメ。「負けた俺」とコンプレックスを持つような回路が、日本の教育では小さいころから男の子の脳にインプットされてしまう。それを、意志の力で断ち切ることです。負けてもいい、2番手でもいいのです。
実は、仕事で成功した私の友人は男女の差にかかわらず、全員が一度は負けています。負けて勝ってきたというか、負けの体験がないと、その先の勝利は得られないのです。ところが競争社会では、最初から「負けたくない」という方向に進んでしまいがちです。となると、負けることが怖くなるから、自分から能動的な動きをしなくなる。ことなかれ主義というのでしょうか。周りの空気を読んでおとなしくしているという、ブレーキばかりが強い人生になってしまうと、生きていてあまり楽しくないだろうし、皮肉なことに絶対に「勝ち」を得ることもできません。確かに「ことなかれ主義」で出世することはある。しかし一時でしょうね。それほど、日本の会社は順風満帆ではないですから。そういうタイプを何人も知っていますが、名刺の力が大好きで、実力ある人間に関して非常に嫉妬深い。つまり「嫌な奴」であり、こういう人は定年後に辛い人生が待っているでしょうね。
夢を見てはいけない理由
いまは女子の環境も、男子に負けず劣らず大変です。私たちの時代は、女の人が働くこともまだまだ難しかったのですが、その一方には「嫁に行っちゃえば、働かなくてもいいじゃない」というような能天気な空気も漂っていました。バブル期の少し前のことです。けれど、いまの30代は、まず働いて税金を納めることを国から強く期待されています。
しかしその一方、女性の場合は結婚して家庭をつくり、子育てをしなさいともいわれる。また、少子高齢化の「高齢」の方も忘れてはいけない。つまり、先に待っているのは親の介護です。そういうものが30代女子のもとに、ドカドカと押し寄せているのです。
実はいま、数字で見ると専業主婦はあまりいません。多くの人がパートをやっていますし、つまりはみんな職業婦人なのです。旦那のお金だけで、「今日はオペラだ」「今日はフランス料理のランチだ」というようなことができる王侯貴族みたいなことはないわけです。
仕事がきつくて先が見えないので、「だったら主婦に」と考えるような方向性は、若い女性はシンデレラの夢物語として語っているフシがある。安倍政権下では「女性の登用」が政策として掲げられていますが、そこにまだまだ、「女に上に立たれるのは不愉快だ」という感情からも来る “ガラスの天井“があったり、やはりその先の「働き方」が女性にとってあまり魅力的ではない部分があります。「仕事で自己実現する」というような、70年代ごろ、つまり私たちの時代にあったようなことのメッキが、現在の会社社会においては剥がれてしまい、普通の男性サラリーマンが持っていた絶望と悲哀を、女性も感じるようになったわけです。
私は「未来設定型」の人間ではありません。「ヴァイオリニストになりたい」というような専門がある人以外の個人にとっては、夢は実は危険だと思うのです。見ない方がいいと思う。なぜならば、夢はそれに着手しない限りは、ずーっと夢心地でいられるから。それよりも、20代(30代、40代もそうですが)の女子がやらなければいけないことは、とにかく「楽で得を取らない」こと。資本主義社会に住んでいる以上は、時間を潰して、お金を出せば簡単に手に入る快楽がものすごく多いわけです。でも、そこにハマってしまうと、「ちょっと小金を使って楽を取れる」ということだけで人生を埋めてしまえる。だから、気がついたときにはもう中高年、ということにもなってしまう。
だとしたら、多少きつかったとしても、「これがおもしろいな」と思ったような人生の賭けをしてみた方がいい。手を付けておくと、知っておくと、人生が豊かになるかもしれない特定のジャンルというものがあるじゃないですか。もしかしたら、そこで仕事が発生するかもしれないと思えるような。たとえば人によっては飲食業だったり、スポーツだったり。仕事をしながらでもいいから、土日やアフター5を使ってそういうものに足を突っ込むことが大切です。そうやって、チャンスというか、現場に足を運んでいくことを絶対に止めちゃダメだと思います。
それから、飲み会は絶対に断っちゃいけませんよ。今後、仕事のチャンスというものは、「◯◯の資格を取って面接を受けました」というような「受験的なターム」では訪れません。間違いなく、人間関係からチャンスが来る。私にも「湯山さん、今度新しくネットマガジンをたちあげるんだけど、いい子いないかな?」なんていう依頼が来ます。そのときに「あの子なら間違いがない」というのは、たいてい飲み会でおもしろい意見を述べていた子。ですから履歴書を回すだけじゃなく、人間で担保を取らなければダメだということです。そういったことが夜遊びの場であったり、いろんな会合、いま流行っている読書会みたいなのでもいいでしょう。そういう、不特定多数の知らない人たちが集まるようなところへ足を運ぶというのは、非常に良いことだと思います。
しかし、そこで20代、30代の女子(男子もそうですが)の心は萎えてしまうわけです。そういう場へ行ったとしても、自ら進んで行動しなければ、「たいした奴はいなかった」とつまらないまま終わってしまう。けれど、たとえば落語の名人会は、必ずしも100%良いパフォーマンスが体験できるわけではなく、ある1回がすごければ、それが一生の体験になるということ。なので、とにかく足を止めないことが大切。1回や2回だけ行ってみて、「ああ、これは違う、飽きた。行く意味がない」と決めつけ、家のなかでネットをやっていたりする。その方が楽でしょうが、それではダメなのです。好きではない、逆にそれだからこそ、無理して足を運ぶと、心と運の筋力が鍛えられますよ。
許し合う関係の訓練
若い人が恋愛をしなくなりました。私はもう今後、若い世代で恋愛は起こらないんじゃないかと思っています。いままでなぜ男女ともに恋愛をしたかというと、異性をゲットして、イチャイチャして、いい関係になりたかったからです。しかしながら、いまはAV動画がインターネットにいっぱいあるじゃないですか。ということは、そこで「あ、こんなかわいい子がこんなことを!」というような一種の欲望が、そこで完結してしまう。生身の男女同士、気持ちがワクワクしたり、その後におつきあいをして、懇ろな関係になっていくということを面倒だと捉えるということが、いま本当にいろんなところで頻発していると思います。
この間、『テラスハウス』というテレビ番組が映画化されました。それがなんとロードショー公開後1週間で、興行収益が10億を突破したそうなのです。これはすごいことです。『テラスハウス』は普通の男女が共同生活をするなかで、恋心が生まれてしまってどうなるのかな…、ということをセミ・ドキュメンタリーの手法で映している番組です。このヒットを読み解けば、もう若者たちは結婚や恋愛という「つがい」ではなく、「男女が一緒に集まれる、ひとつのサークルみたいな居場所が欲しい」という方が、恋愛よりも強いような気がしたのです。
カップルになってもいいし、ならなくてもいい。けれども、数人の男女が一緒に集まってご飯を食べて、「おいしいよね」と話したりするような、「友情以上恋愛未満」みたいな、甘やかな共同体というような。そういうことを、ずっとやりたいのでは? という気がしました。結局、「男女共学の学校の教室」をずっとやっていきたいというのが、実は日本における男女関係の基本の快楽なのかもしれないですよ。
実際の異性はわがままもいうし、ネットの恋人たちと違って手間がかかるものです。「自分がコントロールできない相手だけど、好きな相手」という、「愛してるんだけど、憎たらしい」という二律背反みたいなことというのは、現場においては、実は辛いだけではない。心のなかにダイナミズムができるのです。そういう喜びが人生に必要だったりするので、生の人間関係におけるエネルギー交換の熱さを、積極的に取り入れるべきだと思います。そのときは辛いかもしれないけど、人生は長いですから。その筋トレが、以後80、90歳まで生きていかなければいけないとき、どれだけ人間関係を豊かにするか。そのことを信じるべきだと思います。
日本人は国民性として、グレーゾーンが嫌い。寿司屋のカウンターにもパーンっとライトがあって、影がない。「白黒はっきりしろよ」と、すっきりするのが好きなんだと思います。
白黒はっきりさせるというのは、どちらかというと子どもっぽい。ヒーローがいて悪者がいて、悪者が倒されて「バンザーイ」みたいな、「勧善懲悪」という価値観があるじゃないですか。子どもにとってはわかりやすく、やがて大人になるとだんだんそれじゃ単純バカだよ、というようなストーリーテリングですが、日本人はずっとそこで止まっているんじゃないかと思います。
だから悪いことや、相手の気に食わないことも受け止めたり、寛容になることが、いまの世の中にはありません。でも、たとえば男女の間にしても、おならをしちゃったり、体臭があったり、嫌なこともあるわけです。しかしそれをいま、カップルは別れる原因にしたりしてしまう。
そうではなく、相手の嫌な面は置いておいて、良い部分により目を向けて受け入れてあげるべきなんです。逆に自分が相手に対して嫌なことをしているかもしれませんし、「許し合う関係」の訓練に、恋愛はすごくいいと思います。
(FM TOKYO「未来授業」2015年4月20日(月)〜4月23日(木)放送より)
(2015年6月5日公開)
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