01. 2014年12月05日 06:38:05
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「養老孟司×隈研吾 「ともだおれ」思想が日本を救う」 年寄りがいなくなれば、若い人が入ってくる 養老孟司×隈研吾 日本人はどう死ぬべきか? 第1回 2014年12月5日(金) 清野 由美 中高年男性の自殺率が世界でもトップレベルになった日本。「死」が徹底的に排除された都市に住み、「死」について考えなくなった私たちは、どのようにそれと向き合えばいいのだろうか? 同じ学校でキリスト教式の教育を受けた、解剖学者の養老孟司さんと建築家の隈研吾さんが語り合います。 養老:今、都道府県で言うと、大阪と広島の人口構成が、20年前の鳥取県と同じなんだって。つまり、都市部に高齢化が進んでいるということなんですけどね。 隈:そうなんですか。それはあまり知られていないと思いますが、大阪までそうなっていっているとしたら、恐るべきことですね。 養老:そうは言っても、何のことはないんだよ。みな年を取っただけの話で、鳥取は先進県だったんですよ。 隈:すでに20年前に状況を先取りしていたわけですか。 養老孟司(ようろう・たけし) 1937年、鎌倉市生まれ。1962年、東京大学医学部卒業後、解剖学教室へ。1995年より同大名誉教授。著書に『からだの見方』(サントリー学芸賞)『人間科学』『唯脳論』『バカの壁』(毎日出版文化賞)『死の壁』『養老孟司の大言論』『身体巡礼』など、隈研吾との共著に『日本人はどう住まうべきか?』がある。(写真:鈴木愛子、以下同) 養老:じゃあ、人口構成がちゃんとしているところって、どういう場所だろうか。そういうことを、日本総合研究所の藻谷浩介さんが日本中で調べているんだけど、大阪のような都市ではなくて、なんと田舎の田舎なんですよ。うんと田舎になると、2〜3組の夫婦が2〜3人の子供を連れて移住しただけで、人口構成がちゃんとなっちゃう。なぜかというと、「年寄りがいないから、以上」という結論になるんです。
隈:究極の田舎に、一番健全な人口構成が出現するということですか。 養老:岡山なんかは限界集落が700以上もあるというから、将来有望な場所だと僕は思っているの。だってそれらの限界集落は、20年以内にほとんどなくなるということだからね。 隈:地域がいったんリセットされる。 養老:そこへ若い人が入ってきて、新たなスタート地になる。アメリカ的に言えば、やっと日本にも西部ができ始めているんだよ。 隈:フロンティアが出てきた、と。 年寄りのいない田舎に若い家族が移住 養老先生のお宅がある鎌倉には最近、若いベンチャー世代の人たちが、多く移住しています。軽井沢に住んで仕事は東京、という例も若い世代に増えているそうですし、もっと田舎に移る人たちも増えています。 養老:若い人たちが今、移るところは、ただの田舎じゃないんですよ。 どういう田舎なんですか。 養老:年寄りのいない田舎なんですよね。若い人にとって、年寄りって邪魔なんだよ。だって既得権を持っているでしょう。田舎っていうのは、1次産業がなきゃやっていけないところで、そうすると畑のいいところは全部、年寄り連中が持っている。 この間、香川に行った時に、甲野善紀さんや内田樹さんが行くという、看板の出ていない和食屋に立ち寄ったのね。そこは埼玉から引っ越したご夫婦がやっていて、自前で畑と田んぼを持ちたくて探した土地だったんですよ。香川は水がないところだから、周囲の水事情によって値段が倍以上違ってくるんだって。でも、そういう事情は、誰も教えてくれない。地元のおやじたちと1年付き合って、やっといろいろなことが分かってくると言っていましたね。 この連載が本になりました。『日本人はどう死ぬべきか?』2014年12月11日発売。解剖学者と建築家の師弟コンビが、ニッポン人の大問題に切り込みます。 東京から香川に移住した方が、同じような事情で家の取得をあきらめて、帰ってきた例を知っています。
養老:それは香川がだめなわけでなく、年寄りがだめということ。年寄りで今、地元に残っている人たちというのは、僕らの世代から団塊まででしょう。そういう人たちが既得権を持ってしまっているから、ものごとが動かない。テレビのニュース番組で、農業の後継者問題なんかを取り上げることがあるでしょう。田舎のじいさんが「後継者がいなくて…」と、こぼしているんだけど、「お前がいるからだろう」って俺は思うんだよね。 この対談で養老先生のお話をずっとうかがってきましたが、年寄りは邪魔だ、とはっきりおっしゃったのは初めてです。 養老:年寄りって、いるだけで邪魔という面があるんだよ。今、そういうことをはっきり言わなくなっちゃったけど、とりわけ若い人にとっては、うっとうしいに決まってますよ。 それはずっとそう思っていらしたんですか。 養老:ですから僕は東大を辞めてから、ほとんど古巣には行っていませんから。行くとしても、5年に一度とかね。 年寄りばっかりだからですか? 養老:いや、年寄りが来たらうるさいだろうから。 ああ、ご自分がそっちに入ったって自覚があるんですね。 養老:そう、定年で辞めたんですからね。10年に一度ぐらい行くと歓迎してもらえるかもしれないけど、毎日なんか来られたら、迎える方はたまったもんじゃないですよ。実際、名誉教授が毎日来ていて、勘弁してくれって例を知っていますよ。 有名企業でも、引退した重鎮が毎日来ちゃって、社員がお世話に困っている例を聞きます。 養老:そんなの年寄りの風上にも置けないよ。ちゃんと年寄りらしく生きる方法を考えなさい、って。落語だけどさ、西行なんて妻子を縁側からけ落として、出家したわけで、それが日本人の生き方でしょう。誰か言わないといけないんですよ。 「お前はここに骨を埋める気があるのか」と聞く団塊世代 隈研吾(くま・けんご) 1954年、横浜市生まれ。1979年、東京大学工学部建築学科大学院修了。米コロンビア大学客員研究員を経て、隈研吾建築都市設計事務所主宰。2009年より東京大学教授。1997年「森舞台/登米町伝統芸能伝承館」で日本建築学会賞受賞。同年「水/ガラス」でアメリカ建築家協会ベネディクタス賞受賞。2010年「根津美術館」で毎日芸術賞受賞。2011年「梼原・木橋ミュージアム」で芸術選奨文部科学大臣賞受賞。著書に『負ける建築』『つなぐ建築』『建築家、走る』『僕の場所』、清野由美との共著に『新・都市論TOKYO』『新・ムラ論TOKYO』などがある。 隈:僕も仕事でいろいろな土地を回っていますが、そこに年寄りがいると、「お前はここに骨を埋める気があるか」と、必ず聞いてきます。
養老:余計なお世話だ。 隈:そう言われたら、返答に詰まっちゃうんです。だって、埋める気はないから。 養老:人生何が起こるか分かりません。それが分かっていれば、安請け合いなんて、できないよ。 隈:そうなんです。でも、団塊の世代なんかからも、「骨を埋める気云々」の質問は来るんですよ。例えば、地方の小さな町のために「がんばっていい建築を作りたい」と言うと、「骨を埋める気もないくせに、生意気なことを言うな」みたいなリアクションが返ってくる。それはやっぱり、日本人的なメンタリティーで、「骨を埋める気」を問いながら、よそ者を排除する仕組み。その根本が、前近代から団塊の世代まで、ちゃんと受け継がれているんです。 養老:そう聞かれたら、「俺が死んだら骨を持っていきます」と言おう。骨なんて200以上あるんだからさ、いろんなところに埋められるよ。釈迦なんて、仏舎利などと言いながら、世界中に骨を埋めているからね。 ……養老先生、今、おっしゃっていることを今回の対談テーマ「いかに日本人は死ぬべきか」に、どうつなげていけばいいんでしょうか。 養老:いや、だから、お年寄りはね、あんまり固着しない方がいいんじゃないですかね。 何に? 生きることにですか? 養老:万事にですね。まあ、そこにいるのはしょうがないけど、邪魔にならないようにしましょうよ、ということですね。芭蕉や西行は、若い人たちの邪魔をすることなく、晩年までうろうろしていたじゃないですか。あんな感じがいいなと思って。 隈:あの2人はいいですよね。 養老:日本人は元来ああだったんだと思いますよ。『方丈記』を書いた鴨長明がそうでしょう。 隈:鴨長明の「方丈」は、今で言うとダンボールハウスですよね。 養老:今で言えば、坂口恭平さんとも通じますね。 ※坂口恭平:建築家、作家。著書の『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』では、無職、無一文で実践した東京での路上生活をドキュメント。東日本大震災後に熊本に独立国家を設立し、初代内閣総理大臣を名乗る。 隈:坂口くんは今、変人として生きているけれど、何百年かたつと浄化されて、神聖な人として世の中に伝わっているんじゃないですか(笑)。 養老:とはいえ、鴨長明というのはめちゃくちゃ常識家だよ。『方丈記』を読んだらしみじみ分かりますよ。何もおかしなことを言ってないもん。 養老先生のご本もそうですね。書いてあることは全部まともです。 養老:そうでもないと思うけどな。
でも、お目にかかるとちょっと変人かな、と……(笑)。 隈:いや、本当に養老先生のお書きになっていることが、世の中のスタンダードになれば、日本ももっと生きやすい社会になるのに、と思います。 養老:そう思うのは、やっぱり世間の常識の方がズレているからなんですよ。いつの時代も、人間社会の常識というものには、相当なズレがあって、戦争中なんかはすごかったですもん。ただ、みんな、そのズレを言わないだけ。僕らはそういうことを経験して、よく知っていますから。 日本人の50%は常に本音と逆を言う 養老:隈さん、僕は最近「日本人50%論」という論を立てるのに興味があってね。 隈:どういうものでしょうか。 養老:要するに、日本人というのは集団の中で50%の人が本音の反対を言う、つまりウソをついているんじゃないかという人間観察論です。例えば原発について、100%が賛成したとしても、50%はウソをついているんだから、本音から言うと半々なんですよ。同じように全員が反対だと言っても、半分はウソを言っているから、本音は五分五分。で、これは賛成8、反対2でも、結局、本音は五分五分になるんです。 隈:賛成8割と、反対2割の半分がウソをついている、ということですものね。 養老:つまるところ、日本人の本音はいつでも半々だ、ということなんですね。現代の家族の食について研究する岩村暢子さんが書いた『変わる家族 変わる食卓』の中で、「丁寧に調べてみたら、日本の主婦の50%は言っていることと、やっていることが逆さまだった」って書いてあって、まさにこれも50%社会なんです。じゃあ、それがでたらめな社会かというと、要するにそれが日本で、そういう風に存在している、ということじゃないかって思うんです。 隈:どんな問題に対しても、日本人の本音は五分五分だ、ということなんですか。 養老:そう。この論の面白さは、「日本では半分の人間がウソをつく」という、シンプルな仮定だけがあるところなんです。高橋秀実さんが『からくり民主主義』の中で書いていたのも、まさしくそうでした。どんなに反対や賛成が激しくても、基地問題や原発問題では、その比率が51対49になるって。全員が賛成と言うと、お金が出ない。全員が反対になっても、お金は出ない。そこが、51対49だと最大限にお金を引き出せる。 隈:それを日本人は無意識的に学習しているのかもしれないですね。 養老:日本の社会は元来、本音を隠しながら、五分五分で調整してきているんじゃないかなって思いますね。 隈:確かに日本人は、やりたいことを「やりたい」って言いません。中国なんかに行くと、それこそ建築計画でも、みんな「やりたい」が、めちゃくちゃはっきりしています。「やりたいことは、ここでちゃんと儲けたいということです」って、はっきり言うけど、日本の大手不動産会社は「儲けたい」なんて、絶対言いません。 何と言うんですか。 隈:社会に奉仕したい、とか(笑)。 社会起業家みたいなんですね。 隈:だから日本の会議は、すごくフラストレーションがたまります。「この人は、結局何を言いたいんだろうか」と思うんだけど、そこで「あなたは何を言っているのでしょうか?」って聞くとまた、「それを言っちゃあおしまいよ」って感じになって、本当におしまいになる。 KYな人になってしまう。 養老:儲けることは穢れとつながる、みたいな、そういうメンタリティーがあるのでしょう。 隈:その縛りが大きいんですね。お金を儲けることが企業の目的なのに、会議でそれを言ってはいけない。だから、不思議な雰囲気が漂うんですよ。
確かに「日経ビジネス」上ですら、みなさん、おっしゃいませんね。 隈:でしょう(笑)。 養老:「儲けます」と言うと、ホリエモンみたいに捕まっちゃう。 隈:日本って、そういう社会なんですよ。 「二人称の死」が大問題 話をテーマに戻しますと、養老先生は死に対して一人称、二人称、三人称という分類をされていますよね。 養老:一人称とは「自分自身」のことで、二人称は「知り合いや家族」、三人称は「知らない人たち」ということで、その中で、二人称の死だけが考察の対象になる。 隈:それはどういうことでしょうか。 養老:そもそも自分が死んだら、自分の死のことなんて考えられないでしょう。自分と縁のない三人称も死も、まあ関係ないよね。今、隈さんと僕が対談しているこの瞬間だって、世界を見ると、何人も人が死んでいるんですよ。でも、そのことは我々に何の関係もないでしょう。赤の他人だから。 隈:でも、ここにいる誰かが亡くなったら大ごとだという。 養老:そうそう。それが二人称の死ですね。それで、人にとって考えざるを得なくなるのは、二人称の死。それはつまり、共同体の問題になってくるんですよ。 隈:へえ。 養老:結局、死後に「自分」という主体が残るのは、共同体においてなんです。たぶん本人だって、共同体には記憶していてもらいたいと思うでしょう。その一番極端な例がユダヤ人で、彼らは墓を一切壊しません。都市計画で新しい道路ができる時も、ユダヤ人は墓地の移転はしないで、道路の下とかに作り直す。 隈:先生のおっしゃる共同体というのは、「私」と「あなた」という二人称の、もっと大きなもののことですか。 養老:そうですね。それも家族からもうちょっと広がって、日本の場合だと、世間といわれているもの。まあ、厳密に定義することは難しいのですが、一応自分とつながっているという前提の人たちですね。 隈:養老先生が、その死に対する距離感を考え始められたのは、いつぐらいからなんですか。 養老:僕は解剖をやっていたでしょう。そのころからですよね。解剖が行えるその対象というのは、基本的には三人称なんですよ。 隈:そうですよね。 養老:知り合いは嫌だもん。 想像するだけで無理、無理、無理です。 養老:一度、僕らの先生だった教授から、ご遺体をいただいたことがあったんですよ。藤田恒太郎先生という実直な方で、そういう方なもんだから考えが真面目で、遺言でやかましく「自分の体を実習用に出しなさい」って指定されたのね。でも、1週間後に教室全員一致で引っ込めちゃった。「藤田先生がここにいらっしゃると、邪魔でしょうがない」って。 隈:亡くなったはずなのに、影響力を発揮されている(笑)。 養老:解剖学の部屋に「二人称」がいると、生きているのと同じ扱いになってくるから、何ともやりにくくてさ。 隈:「二人称」と「三人称」の間の、「二・五人称」ぐらいはないんですか。 養老:たくさんありますよ。それもやりにくいものなんですよね。心理学でいろいろ言われていますが、例えば政治家だって、一度でも顔を見たことのあるやつって、強いんですよ。彼らは人に顔を見せると票になるって分かっているから、あんなにニコニコして握手して歩くんだよ。 隈:そこで握手した人にとっては、他人じゃなくなるわけですね。 養老:そうなんだよね。 人は「頬に触れる」より「手を握る」ほうが抵抗がある 隈:握手で言えば、先生は以前、解剖では手が一番抵抗があるっておっしゃっていましたね。手には顔以上に、三人称も二人称に引き寄せる妙な力があるんじゃないかなって気がする。 養老:それは酒場でしょっちゅう言って聞かせている。飲んでいる最中に、隣の男にこうやって手を握ろうとすると、すっ飛んで逃げるよ(笑)。 隈:女性にやったら、危ない結果になりそうだけど。 養老:解剖をやっていたころ、酒を飲んで横須賀線に乗っていて、目が覚めたら、僕の左手が隣の人の太ももをつかんでいた。何か夢を見ていたんだね。 鎌倉にて(2014年6月撮影)。 先生、危ないです。
養老:自分でも怖かったですよ。ただ、その隣のやつは男だった。女だったら大変よ。 女性だったら、先生の今はなかったかもしれません。 養老:まだ東大の現職中だった。だから僕は「飲んだら乗るな、飲むなら乗るな、ただし電車に」って、標語にしたんだけど。 隈:車じゃないんですね(笑)。それにしても、手が持つ意味って大いにあると思います。ヨーロッパで仕事をすると、相手の頬にキスする挨拶があるじゃないですか。あれ、日本人にはあり得ない接触ですが、その挨拶に慣れちゃうと、むしろ手を握る方が緊張する。頬と頬は平気なのに、手と手を合わせると、距離がすごく近くなる気がします。 養老:確かに頬の方があまり抵抗ないね。 隈:頬に反応していたら、日本の満員電車に乗れない(笑)。でも、その中で手を握られたら、びっくりします。 養老:満員電車で手を握ったら、間違いなく痴漢だね。 このコラムについて 養老孟司×隈研吾 「ともだおれ」思想が日本を救う 環境問題に代表されるいまの社会のさまざまな課題は、「生き物」としての私たちが、合理性、均質化、分業による効率の追求に耐えきれなくなってきた、その表れなのではないか? 偏ったバランスを、カラダの方ににちょっと戻すためにはどうしたらいいのか。 現代人は「脳化社会」の中に生きていると喝破した養老孟司氏と、ヒトの毎日の環境である住宅、都市の設計を行う建築家の隈研吾氏が、次のパラダイムを求めてゆったりと語り合います。 http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20141121/274162/?ST=print
[12削除理由]:管理人:関連が薄い長文 |