02. 2014年11月14日 07:52:41
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「会社員の皆さん、若輩から一言」 親のリストラ、子供からはどう見える? 「俺、大学辞めなきゃいけないのかな…」 2014年11月14日(金) 若輩ライターズ2014 前回は、還暦で社会復帰と自立を果たそうとするお母さんのお話でしたが、今回はそのちょうど逆、正社員として日本を代表するクラスの企業に勤め続けた母が、退職を決意する内容です。 不況の影響が、子供たちの生活や人生にも及んでいることがよく分かります。家計を支えてきた柱が消えるピンチに、一家の主、われらがお父さんはどう立ち向かうのか。事実は小説よりも、を地で行く、意外な展開が待っていました。 日経ビジネスオンラインをご覧の皆様、はじめまして、九州の某大学で学んでいる男子学生、Iと申します。よろしくお願いします。 私たち大学生は常日頃から先生方や講師の方から「自分の力を生かせる、やりたいことのできる仕事で、かつ、先を見据えた職場で働いた方がいい」と耳にタコができる程聞かされています。「しかし、本当にそんなことが自分の意思で可能なのだろうか」とも、正直思います。 今回、話をさせていただくのは、私の身近で起きた「仕事」に関する出来事です。 今年の3月に私は実家にいる母親から「仕事を辞めたい」という連絡を受けました。 母は、おそらく社会人の方、いえ、大学生以上ならば誰もが知っている超一流企業に30年近く正社員として勤務していました。 我が家には私を含めて3人の子供(妹が2人おります)がいて、妹たちはみな大学進学を希望しており、教育費だけでも大変な時期です。 なぜそのような事態になったのでしょうか。 リーマンショックの影響で 私の母親は生まれたときからずっと同じ町に住んでいます。小、中、高も地元の学校に通い、高校卒業後、地元に支社のある大企業、A社に就職しました。母親の通っていた高校は地元でも偏差値は低いほうでした。今なら、とても正社員で入れるとは考えられないそうです。バブル特需で経済が潤っていたことと、母親の努力があったからこそ、就職ができたのかもしれませんね。 私から見た限りですが、母親は自ら働きながら、家事、育児を万全にこなしていました。本音を言わせていただければ、身内贔屓なしに最高の母親であったと思います。そんな母親に転機が訪れたのが、リーマンショックでした。 2008年、世界的金融危機、リーマンショックが起きました。母親の勤めているA社にもただならぬ影響があり、支社の方でも何人もの従業員が解雇をやむなくされました。幸い、私の母親は何とか首の皮一枚繋がり、生き残ることができましたが、いつ解雇されてもおかしくないという状況でした。 そして、従業員の解雇が一段落した後、A社から従業員に「退職金を上乗せするから自主退職しませんか」という案内が届くようになりました。後から聞いた話ですが、当時、母親は「何の前触れもなく解雇されるくらいなら、少しでも良い条件で辞めた方がいいか」と、かなり迷ったそうです。 悩んだ末に母親は会社に踏みとどまることにしました。当時、私が中学生で母親に「大学に進みたい」と相談していたことと、妹たちがまだ幼く、どのような道に進むのか先行きが分からなかったというのが決め手になったと、これも後から聞きました。 その後もA社からは2、3年に一度、自主退職の案内が届くようになったそうです。 そして、今年の3月。 1年前から私は大学に入学し、アパートを借りて、一人暮らしをしていました。運動部系の部活動もしており、バイトも勉強も人並みには両立できた生活を送っていました。 3月のある日、夜10時ごろにバイトから帰宅した私に母親から電話がかかってきました。 普段なら私の方から電話、メール等は出すのに、その日は母親からでした。なんの用だろう…。少し不気味に思いながらも電話に出てみると、 母:「I、母さん仕事辞めていい?」 私:(はいっ!? いきなり?) 元気? とか、調子どう? とかの言葉もなく、いきなりの言葉が「仕事辞めていい?」でした。それだけ母親にとっては切羽詰まった状況だったのだろうと思います。電話越しに聞こえる声も、普段の母親とは違う、とても暗く元気のない声でした。 私:「えっ!? どうしたの? なんかあった?」 母:「今度、人事の異動があってね。新しく入ってくる部長さんと馬が合いそうにないのよ。本当にイライラしちゃって…」 私:(母さんが弱音って珍しいな。しかも人間関係でなんて) こんな弱音を吐いてる母親に接したのは本当に初めてで、戸惑ってしまいました。 私:「そんなに合わないの?」 母:「うん。ほんとにダメ」 私:「そうなんだ。その部長さんってもういるの?」 母:「いや、来週からなのよ。だからそのことを今の部長さんに相談してみたのよ。」 私:「うんうん。それで?」 俺、学校辞めなきゃいけないのかな… 母:「そしたら今の部長さんが、そんなに辛そうなら退職金を上乗せするから、今の部長さんがいる間に辞めますかって聞かれてさ。母さん、どうしたらいい?」 私:「ああ、そういうことね。ちなみに上乗せ金額ってもう分かってるの?」 母:「それがまだなんよ。だから、踏み切れなくてさ。どう思う?」 私:(話が急すぎでしょ。それに俺もまだ大学2年だし、マジどうすんの。学費とかもある上に一人暮らしだし、うちの収入が激減したら…) 我が家の月当たりの収入は父親が6割、母親が4割です。そのうち4割が丸ごとなくなることを考えると、自分も大学を中退しなければならなくなる可能性もあるし、妹たちの進学も難しくなりそうです。 私:「親父はなんて言ってるの?」 母:「お前の好きなようにしろ、って言ってくれたよ」 私:「なるほどね。俺も親父と同じ意見だよ。結局のところ、自分のことは自分が一番分かってるんだしさ。やっぱ、母さんが納得できるのが重要なんじゃない」 と、電話口では良い子ぶってみましたが、俺が大学に通っている間は辞めてもらいたくない、辞めないで、とは言えないし…が正直な気持ちでした。 母:「そーね。分かった。もうちょっと考えてみる」 私:「おう。またなんかあったら連絡して」 こうして、この日の母さんの相談は終えましたが、はっきり言ってバイトと同じぐらい気力体力を使った気がしました。その日の夜、布団の上で考えてみました。 (今この状況で辞めるとすると、どうなんだろ。俺学校辞めなきゃいけなくなるかな。それは嫌だなー。でも、チビ(妹)たちの進学もあるし、母さんが辞めるなら、俺が働かなきゃいけないのかな。うわぁ。ほんとにどうなるんだろ) 今、自分なりに充実感を得ている大学生活の危機です。この日以降は本当に母親の動向が気が気じゃありませんでした。 「上司や先輩がどんなに厳しくても、耐え抜いて頑張るんだよ」 まだ中学生だった私が部活の先輩の愚痴をこぼしていた際に、母親はそう言いました。なのに言った本人が仕事を辞めたいという事態になるとは…… しかし結局、この時、母親は会社を辞めませんでした。 少し時間がたち、私は無事大学2年生となりました。 そして、この授業に登録したことで日経ビジネスオンラインの記事を書くこととなり、私は先日の母親の件を題材とすることに決めました。今度は私の方から取材ということで母親に電話してみました。5月のはじめの事でした。 私:「オッス。どう。新部長さんとはうまくやれてる?」 母:「うん。まぁまぁね…。で、今日はどうしたの」 私:「実はかくかくしかじかで……」 母:「フーン。母親をダシに使うんだ」 私:「そこを何とかお願いします。」 母:「ふぅ。いいよ。あ、でも会社とかが分かるようなことは書かないでね。母さんの退職金、全部泡になっちゃうから。で、何に答えればいいの」 私:「結局、退職しなかったのはなんでなの。」 母:「本当のところ、退職の時の上乗せ金額が思ったほどではなかったのよ。あれじゃあ、辞められないかなって」 私:「なるほどね。んじゃ、まだ辞める気はあるんだ」 母:「もちろんよ。今すぐにも辞めたいわ」 (こりゃまだ安心できないなー) またまた自主退職の説明会が 私:「もし、経済が今ほど不況と言える状態じゃなくて、部長さんとの関係も良好だったら、退職なんて考えなかった?」 母:「うーん。どうだろ。定年までずっと働く気はなかったけど、流石にこんなに急に辞めたいとは思わなかったかもね」 私:「だよね。でも、今回機会を逃したから、次の退職チャンスは先になるんじゃない」 母:「実はそうでもないのよ」 (へっ!?どういうこと?) 母:「噂なんだけど、近々また自主退職を薦める説明会があるんだって。今度はこの間みたいに個人じゃなくて、全体が対象になるやつ」 私:「マジで。それ参加するの」 母:「勿論。まぁ、辞めるかどうかは条件次第だけどね」 私:「うんうん。んじゃ、記事のネタにするからそれが終わったら、また話聞かせてね」 母:「分かった」 母親から、5月の中旬ごろに「今日、この間言ってた説明会が行われるよ」というメールが届きました。私はその日のうちに電話し、説明会の詳細について尋ねました。 私:「オッス。早速本題に入るけど、今日の説明会どうだった」 母:「えーとね。まず、説明会に参加したのが40人弱で」 私:「うんうん」 母:「んで、体育館でプロジェクター使っていろいろ説明されたよ」 私:「ほうほう。内容はどうだった」 母:「まぁ、予想どおりで、辞める人には退職金を上乗せしますよー。って、話だった。ただ、今回違うのが今年の夏の分のボーナスまで付けるって点かな。多少減らされはするだろうけど」 私:「えっ。それってすごくない」 母:「すごいよね。その上、上乗せ金額も例年よりも多いのよ。だから、今回の話で辞める人多そうだよ…というか、母さんもこの機に乗じて辞めるんだけどね。」 私:「………うん」 (ああ……話の途中からなんかそんな気がしてたよ) 一度、相談を受けていたからだろうか、私の中では覚悟のようなものが決まっていて、辞めることを聞いても驚きはしましたが、すんなり受け入れることもできました。 本音では、「苦学生になりたくない」けれど 母:「はっきり言って、こんなに条件いいこともう絶対ないよ。今辞めなかったら、ほんとに定年まで辞めれなくなるもん」 私:「そんな言い訳みたいなこと言わなくてもいいって。母さんが決めたことなら俺からはなんも言えないし」 (本当はめっちゃ不安だけど。できることなら反対したいけど。) 母:「母さんももう年だし。それにまた人事異動があって、今度は母さん自身が今までとは全く違う部門にとばされることになったし。そんなことも含めると、ほんとにきついのよ」 私:「分かってるって。でも、M(私の末の妹)の学費とかどうすんの」 母:「お金の件はちゃんとお父さんと話して考えてるよ。だから、心配しなくても大丈夫だよ」 (そうは言っても、心配するでしょ。俺、長男坊なんだし。それに俺もほんとのところ、苦学生にはなりたくないし。気楽にやりたいよ) 私:「分かった。んじゃあ、俺も母さんたちに心配かけないように単位とかちゃんと取らないとだね」 母:「そうよ。うちはどんどん余裕がなくなってんだからね。留年とかやめてよね」 私:「はいはい。また電話するわ。んじゃ、おやすみ。」 こうして、色々心配だった母の退職は「決定事項」として聞かされたのでした。 しかし、ほんとうに我が家の生活(そして自分の学生生活)は大丈夫なのでしょうか。 5月の下旬、休講が重なり、土日も含めるとちょっとした連休ができたため、私は帰省することにしました。退職の件で母親、そして、一家の大黒柱である父親と直接会って話がしたかったからです。 まずは母親と、隣町の職場にクルマで送るついでに話をしてみました。 私:「どう。仕事辞めることになって」 母:「うん。肩の荷は下りた気がするけど、まだ大変だから実感はあんまりないかな」 私:「でも、なんかスッキリした顔してるよ」 母:「そう?」 私:「いつだっけ。会社から綺麗に足を洗うのって」 母:「8月いっぱいだけど、有給がかなり残ってるから、それも使って、ちょうどチビたちの夏休み開始ぐらいからかな」 私:「そっか。んじゃ、本当にあと少しじゃん。長い間お疲れ様でした。ありがとう」 母:「うん、ありがとうね」 この短いやり取りの中での母親は、本当に憑き物が落ちたようにすがすがしい顔をしていました。その顔から、「ああ、本当に母さんは今までしんどかったんだろうな」ということが分かり、辞めることになってよかったねとさえ思えてきました。 父親がかっこよく見えた「瞬間」 そして父親です。私が5月に誕生日を迎え、二十歳となったため、父親とは家からさほど遠くない居酒屋で一対一で、酒を交えながら話すことにしました。 私:「親父、母さんが仕事を辞めることについてどう思ってるの」 父:「本人の好きなようにさせればいいよ」 私:「それでいいの?」 父:「むしろ、今まで共働きでよく頑張ってくれてたよ」 私:「家計とか不安じゃないの。チビたちの学費とか」 父:「確かに不安だけど、大丈夫だ。そんなことは俺がどうにかすればいいことだし。だから、本人の好きなようにさせるのが一番なんだって」 私:「んじゃあさ、ちょっと話変わるけど、親父は仕事辞めたいと思う?」 父:「そりゃ、辞めても何の支障も出ない状況なら辞めたいよ。でも、そうでないなら、辞めてはいけない。てか、辞められない。少なくともお前らをしっかりと育てるのが親の義務なんだから」 私:「…お、おお(親父かっこいい)」 前にも書きましたように、母親が仕事を辞めることは、家計にとっては4割の減収になるのです。それなのに「大丈夫だ」と言う父親がなんとも頼もしく見えました。 そして、二人で居酒屋を出る間際のこと。 父:「実は俺も今でっかいことを考えてんだよ。」 ぼそっと父が言ったこの言葉。 その真意を私が知るのは、それから半月後のことでした。 なんと、親父は、この状況で会社を辞めてしまったのです。 このコラムについて 会社員の皆さん、若輩から一言 あなたの会社に再来年の4月、彼らが入ってくるかもしれない。某大手私立大学生約30人から見た、ビジネスパーソン(オヤジ)世代とのギャップと、それを埋める彼ら彼女らなりの試みを、ちょっと稚拙な文章ですがそのまま載せます(あの連載と似ていますが、偶然です。先を越されました)。どうぞお付き合いください。愛の鞭も歓迎です。いま会社にいる新人たちと近い世代からのアイデアが、社内のコミュニケーションを円滑化し、さらにはお子さんとの距離を縮めてくれる、かもしれません。 http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20141113/273783/?ST=print http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20141111/273694/?ST=print 「全盲弁護士が語る「あきらめない心の鍛え方」」目が見えないことはハンディばかりじゃない
第1回:大胡田誠弁護士が語る仕事の喜びとやりがい 2014年11月14日(金) 吉岡 陽 全盲で司法試験に合格した日本で3人目の弁護士、大胡田誠氏。12歳で視力を失い、絶望の淵に立たされながらも、「人の手助けを受けるだけの人生は嫌だ。人を助ける側の人間になりたい」と一念発起。数々の困難を乗り越えて、町弁(町医者的弁護士)として活躍する。全盲のパートナーと結婚し、2児の父として子育てにも奮闘する。どんな逆境にあっても、人生を「楽しむ」ことを諦めない。そんな生き方の秘訣を語ってもらった。 (聞き手:吉岡陽) ご自身の半生を綴った著書『全盲の僕が弁護士になった理由』(日経BP社)が、同名の2時間ドラマになりました(12月1日、月曜日、21時からTBS系列で全国放送)。しかも主演の全盲弁護士役は、NHK大河ドラマなどで注目を集める、松坂桃李さんです。 大胡田 誠(おおごだ・まこと) 弁護士 1977年静岡県生まれ。先天性緑内障により12歳で失明する。筑波大学付属盲学校の中学部・高等部を卒業後、慶應義塾大学法学部を経て、慶應義塾大学大学院法務研究科(法科大学院)へと進む。8年に及ぶ苦学の末に、2006年、5回目のチャレンジで司法試験に合格。全盲で司法試験に合格した日本で3人目の弁護士になった。07年に渋谷シビック法律事務所に入所。13年からは、つくし総合法律事務所に所属し、一般民事事件や企業法務、家事事件(相続、離婚など)や刑事事件などに従事するほか、障がい者の人権問題についても精力的に活動している。(写真:藤本和史) 大胡田:ドラマ化のお話をいただいたときは驚きました。私の身の上話がドラマの題材になるなんて想像もしていませんでしたから。それと、目の見えない弁護士が、どんな風に描かれるのか正直心配でもありました。可愛そうな主人公のお涙頂戴や、逆に「座頭市」のようなスーパーマンが活躍する話になると、実際の僕とはちょっと違うなあと。
でも、脚本を読み、撮影にも立ち合わせていただき、松坂さんが等身大の姿を熱演なさっているのを見て、スタッフとキャストの皆さんが視覚障がい者のことを深く理解されて、全力でいい作品を作ろうとしていることが分かりました。 できあがった作品を家族と一緒に観賞させていただいたのですが、本当に素晴らしくて胸が熱くなりました。 非合法施設から被害者を救出 大胡田さんは、全盲で司法試験に合格した日本で3人目の弁護士だということですが、普段はどんなお仕事をされているんですか。 大胡田:弁護士といっても、いろいろな得意分野を持った弁護士が世の中にはいます。企業の合併や買収などを手掛けるのが得意な企業法務の弁護士もいますし、刑事事件を多く手掛けている弁護士もいます。テレビにたくさん出てコメンテーターをやっている弁護士、これを業界的には半分やっかみも込めてタレント弁護士、略して「タレ弁」などと呼んでいます。私はいわゆる町弁です。市民の皆さんが直面するトラブルを主に対象としている町医者のような弁護士です。離婚とか相続、交通事故、あとは借金問題が多いです。 私は自分自身に障がいがありますから、障がい者の関係する事件にも力を入れています。例えば、駅で視覚障がいの男性が杖を突いて歩いていたところ、その杖が向こうから歩いてきたおばあさんの足元に入って転んでしまって手首の骨を折った。男性に対して150万円の損害賠償を請求してきた。被害者の方は大変気の毒ですけれども、これで障がい者の責任が認められてしまうと、私自身も怖くて外を出歩けなくなってしまう。幸い男性に過失はないという判決を勝ち取ることができました。 他にも、障がいがある人たちを家族の依頼によって閉じ込めている施設がありまして、非合法な施設なんですが、実は日本には何軒もそういった施設があります。そこから命からがら逃げ延びてきた人が、その施設に対して違法拘禁だということで裁判を起こし、僕がその代理人を引き受けています。この間、まだ施設に残っている被害者を助けるため、協力してくれる人たちと車を施設に乗りつけて、隙をみて何人かを連れ出すことに成功しました。 健常者でも難しい弁護士の仕事をどのようにこなしているんですか。 大胡田:工夫していることは大きく2つあります。1つ目は、視覚障がい者用に工夫されたIT機器を上手に使うということ。もう1つは、アシスタントと二人三脚で連携して仕事を進めるということです。 IT機器を駆使する 弁護士の仕事は膨大な資料との格闘です。様々な資料を読み込まなければなりません。ここで威力を発揮するのが、「画面読み上げソフト」です。これはパソコンの画面に表示されたテキストを合成音声で読み上げてくれるものです。今は書類の多くは電子化されていますし、紙の資料もスキャナーで取り込んで「OCR(光学文字認識)ソフト」を使って文字データに変換すれば、画面読み上げソフトに読ませることができます。 電子メールやインターネットもほとんど健常者と同じように使えます。法律や判例も今では電子化されてデータベース化されているので、問題ありません。文章を書く際にも、例えば「今日は」と入力したい場合、ソフトが「今のコン」「日曜日のニチ」「ハ」という風に読み上げてくれるので、正しい漢字に変換できるし、「は」と「わ」を混同することもありません。 携帯電話もバリアフリータイプのものが発売されていて、メールの内容や操作項目などを読み上げてくれます。 他にも、点字で内容を書いたり読んだりすることができる電子手帳もなくてはならない道具です。筆箱ほどの大きさの機械で、中には大量の点字データを記憶するメモリーが入っていて、スケジュールや依頼者との面談のメモなど、大事な情報は何でも記録します。本体の上面に、15文字ほどの点字を表示できるディスプレーがあって、小さな突起が出たり入ったりして次々と点字を表示する仕組みになっています。ディスプレーのほかにボタンがいくつかついていて、これを両手でタイプして点字データを入力します。USBでパソコンにつないで外部から点字データを取り込むこともできるので、小説などのデータをダウンロードして仕事の合間に楽しんでいます。ほかにも計算機の機能もついていて、とても便利です。 この十数年の間に、ITツールが劇的に進歩して、視覚障がい者と健常者との情報格差が大きく縮まりました。工夫次第で、いろいろな仕事ができるようになった。でも、意外とこのことが世の中では知られていません。 仕事の情報は、「点字電子手帳」に記憶させる 機械だけではカバーできない点もありますよね。
もちろん人の手助けも大切です。私の事務所では、月曜日から金曜日までフルタイムでアシスタントに付いてもらっています。手書きの文書とか図表やグラフ、そういったものはパソコン音声で読み上げることが難しいので、アシスタントに読み上げてもらいます。他にも、離婚の裁判などでは、例えば不倫現場の写真が証拠に出てきます。若い男女がホテルの前にいる写真とかですね(笑)。こういう場合も、アシスタントが横に来てくれて、状況を詳しく教えてくれます。警察署に被疑者の接見に行くときに付き添ってもらったりもします。 司法試験の勉強も、こうして人の手助けを借りたり、IT機器の使い方を工夫したりしてなんとか乗り越えられました。もっとも、8年間勉強して5回目でようやく合格ですから、たいぶ苦労はしています(笑)。 そもそも、どうして法曹の世界を目指そうと思ったんですか。 私は先天性緑内障という病気により12歳で視力を失いました。当時は、絶望的な気持ちになって、自暴自棄になりました。でも、小学校を卒業して盲学校に進学したんですが、そこで人生を大きく変えることになる2つのものに出会ったんです。1つは、同じように視覚障がいを持ちながらも楽しく明るく生きている仲間、友達だったんです。生まれつき目が悪い友達というのは、もうそれが自然になっていますので、決して自分の障がいを卑下することなく毎日明るく楽しく過ごしています。そして、ちゃんと悪さもするわけなんです(笑)。 人生を変えた出会い 当時、私は学校の寄宿舎に入っていました。寄宿舎の門限は夜10時だったのですが、10時を過ぎて学校の門が閉まった後、みんなで裏のフェンスを乗り越えて寄宿舎を抜け出して、牛丼屋さんに行くとか、夏には公園で花火をするとか、本当に面白かったですね。花火は意外に思うかもしれませんが、音やにおいで結構楽しめるんです。そこで、目が見えなくなったから何もできなくなったわけではないんだぞということを知りました。 もう1つは、ある本と出会ったことが私のその後の人生を大きく変えました。それは、『ぶつかって、ぶつかって』という本だったんです。京都の竹下義樹という私と同じように全盲の視覚障がいを持った男性が、当時まだ司法試験を点字で受験することすら認められていなかったにもかかわらず、弁護士を志して、法務省と掛け合って点字で受験させることを認めさせ、そして何と9回目の受験で合格するまでの物語が書かれていたのです。 私は大きな衝撃を受けました。目が見えなくなったことでいろいろな可能性が閉ざされてしまった思いでいたけれども、それはただ自分がそう思っているだけで、いざ目標を決めてそこに向かって頑張ってみると、限界だと思っていたものは実は限界ではなく、いろいろなドアが開いていくのではないか、可能性が開いていくのではないかということを学んだのです。 それまでは、目が見えなくなってしまったら、これから先は誰かの手助けを受けて生活するしかないだろうと思っていたけれども、この本を読んで、自分も弁護士になれば今度は自分が誰かの手助けをすることもできるのではないかと思ったんです。そのとき、「絶対に自分も弁護士になるぞ」と心に決めました。実は今私が働いているのは、そのきっかけをくれた竹下義樹先生の事務所なんです。永遠の憧れの人であり、今は怖いボスでもあります(笑)。 夢がかなって弁護士になったわけですが、カベにぶつかることはありませんでしたか。 私は弁護士になって8年なんですが、なりたてのころは依頼人と信頼関係がうまく作れなくてとても悩みました。打ち合わせの際に私が白い杖を突いて面談室に入っていくと、「先生、本当に大丈夫なの?私の弁護できるの?」と不信感や不安な気持ちを与えてしまったり、そんなこともありました。 だから、相談者に安心してもらえるように最大限に気を配るようになりました。難しい法律用語はなるべく使わずに丁寧に説明する。見えなくてもきちんと相手の目を見ているつもりで顔を向けて、低く落ち着いたトーンでゆっくりと話す。そんなことを心掛けています。 人が誰かと初めて会ったときにその人のどんな要素が印象に残るのかということを調べた、米国のアルバート・メラビアンという心理学者の有名な研究があります。それによると、表情などの外見が55%、声のトーンや話し方が38%、そして言葉の内容自体がわずか7%だというのです。私自身は、表情と言われてもどんな表情をすればいいか分からなかったものですから、知り合いの元ミュージカル俳優だった方に聞いてみました。その方は、「先生、表情をつくるというのは難しいことじゃないんですよ。口角、唇の端っこを5mm上げる。それを意識するだけですごくいい表情になりますよ。毎朝これを鏡の前でやってみてください」と言ってくれました。私はそれ以来このアドバイスを実践しています。意外と細かいところまで気を遣ってるんですよ(笑)。 ただ、目が見えないことはハンディばかりではないんです。私は視覚に頼れない分、相手の微妙な声の様子やちょっとした所作、ときには匂いなどからも相手の性格や暮らし向きを察することができます。外見などの視覚情報からは分からない人間の内面が意外とそういうところに表れるんです。それに、障がいによって自分自身が社会的に厳しい立場に立たされた経験があるので、困難に直面している依頼人の気持ちがよく分かります。弁護士としてこのことは、とても強い武器になっていると思います。 感謝してもらうことがやりがいと喜び 激務で心が折れそうになることはありませんか。 弁護士の仕事は、離婚とか破産、あとは刑事事件で逮捕された、そんな人生の絶体絶命の瞬間に立ち会うことが多い仕事ですし、労働時間もかなり長い大変な仕事です。でも、やりがいと喜びも一方では大変大きなものがあります。特に、依頼者に「先生にお会いできてよかった。先生に負けないように頑張ります」と感謝してもらったときの喜びはひとしおです。 以前、私が窃盗事件で刑事裁判を担当した方が、刑務所の中から一通の手紙をくれました。その方の手紙には「裁判の際に先生に大変お世話になったので、自分も今度は刑務作業で点訳に取り組んで、社会に恩返しをしたいと思います」と書いてありました。点訳というのは活字を点字に翻訳することです。刑務所の一部では刑務作業の一環として点訳ボランティアが行われています。依頼人とのこういう触れ合いが何よりの励みになっています。 (次回は、松坂桃李さんと大胡田弁護士との対談を掲載する予定です) 【大胡田弁護士のインタビュー音声はこちら】 全国の書店さんが絶賛!書籍『全盲の僕が弁護士になった理由』 『全盲の僕が弁護士になった理由』 大胡田誠弁護士の半生を綴った書籍『全盲の僕が弁護士になった理由』を原案にしたドラマが12月1日TBS系列で放送されます。主演は松坂桃李さんです。この本の書評はこちらをご覧ください。 書籍はこちら、電子版はこちらです。 日経ストア、アマゾン(キンドル版)、楽天 このコラムについて 全盲弁護士が語る「あきらめない心の鍛え方」 全盲で司法試験に合格した日本で3人目の弁護士、大胡田誠氏。12歳で視力を失い、絶望の淵に立たされながらも、「人の手助けを受けるだけの人生は嫌だ。人を助ける側の人間になりたい」と一念発起。数々の困難を乗り越えて、町弁(町医者的弁護士)として活躍する。全盲のパートナーと結婚し、2児の父として子育てにも奮闘する。どんな逆境にあっても、人生を「楽しむ」ことを諦めない。そんな生き方の秘訣を語ってもらった。 |