03. 2014年11月14日 07:48:50
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「小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 〜世間に転がる意味不明」 絶賛コンテンツはなぜ増えるのか 2014年11月14日(金) 小田嶋 隆 テレビの世界では、ここしばらく「ニッポン」を称賛するタイプの番組が、高い視聴率を獲得する流れになっているらしい。
で、各局とも、タイトルに「日本」や「日本人」を含んだ番組を制作しては、柳の下のドジョウを待つ構えで日々を過ごしているのだそうだ。 なるほど。 たしかに、番組表をざっと眺めてみると、「cool japan 発掘!かっこいいニッポン」(NHK)、「世界が驚いたニッポン!スゴ〜イデスネ!!視察団」(テレビ朝日)「所さんのニッポンの出番」「世界の日本人妻は見た!」「ホムカミ〜ニッポン大好き外国人 世界の村に里帰り〜」(以上TBS系)、「世界への挑戦状!! 行け!ジャパンプライド」「世界のムラで発見!こんなところに日本人」(朝日放送)「世界ナゼそこに?日本人」「和風総本家」「YOUは何しに日本へ?」「仰天ニッポン滞在記」(テレビ東京)……と、それらしいタイトルがズラリと並んでいる。 いつの間にこんなことになっていたのだろうか。 ちなみに申し上げると、私は、上記の番組を、ほとんどまるで見たことがない。いくつかについては、ザッピングの途中で瞥見しているのだが、その程度の視聴実績で、ものを言うのは失礼だろう。 なので、個々の番組の内容に関しては、何も言わない。 実は、書店の店頭は、既に、3年ほど前から、祖国礼賛本のコーナーが常設されている状況だ。 『とてつもない日本』(麻生太郎:新潮新書:2012年) 『美しい国へ』(安倍晋三:文春新書:2006年) 『新しい国へ 美しい国へ 完全版』(安倍晋三:文春新書:2013年) 『日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか』(竹田恒泰:PHP新書:2010年) 『日本人だけが知らない 世界から絶賛される日本人』(黄文雄:徳間書店:2011年) 『日本はなぜアジアの国々から愛されるのか』(池間哲郎:扶桑社:2013年) 『日本が戦ってくれて感謝しています アジアが賞賛する日本』(井上和彦:産経新聞出版:2013年) まだまだ山ほどある。 上記は、その中で、販売部数が目立ったものを並べてみた結果だ。 今回は、上でご紹介した自国称賛企画が、身の回りを席巻するようになった事情について考えてみたいと思っている。 ところで「自国称賛企画」という言葉は、たったいま作った造語です。 ほかの名称でも構わなかったのだが、この呼び方が一番色がついていない点で穏当だと判断した。参考までに、ボツ案を以下に列挙しておく。 「我田引水コンテンツ」「手前味噌本」「夜郎自大書籍」「オレオレ番組」「祖国万歳番組」「ウリナラマンセー番組」「自己愛性パーソナリティ障害バラエティ」「ナル本」「身内ボメ企画」「パトリオットスタジオショー」「愛国ひな壇バラエティ」「翼賛ロケ企画」 不採用タイトルを羅列したことに、他意はない。忘れてください。 私自身は、個人的に、自国称賛本が次々と出版され、自国称賛番組があとからあとから制作されるに至っている現今の現状を、必ずしも嘆くべき傾向だとは考えていない。 出版社にしても、テレビ局にしても、商売である以上、売れるものを制作するのは当然のなりゆきだ。法に触れる内容でない限り、制作者が何を作ろうが、販売店が何を売ろうが、他人がそれを非難するべきいわれは無い。 その意味でも、自国称賛企画の連発傾向は、同じ商売ずくでやっていることでも、「嫌韓嫌中本」の出版ラッシュに比べれば、ずっと健全なできごとだ。 もっとも、嫌韓嫌中本であっても、表現の自由がある以上、出版業界の人間がそれらを企画し、執筆することや、書店が店頭販売することを他人が阻止することはできない。 隣国を誹謗中傷する内容の書籍が、書店の店頭の一番目立つ場所を占有している現状について、どういう気持ちを持っているのかと言えば、当然、不愉快ではある。 が、言論の自由を掲げる人間は、最初に、自分にとって不愉快な言論についての自由を容認しなければならない。とすれば、好き嫌いはともかくとして、その善悪や正否についてはあまり言い募るべきではない。 いまここで言っていることは、きれいごとだ。 が、この種のきれいごとを掲げておかないと、この分野の議論の先行きは、どうにもならない泥仕合になる。 それにしても、たった5年ほどのうちに、どうしてこんなにメディアの空気が変わってしまったのだろうか。 テレビ欄に並んでいる活字や、書店の店頭で平積みにされている書籍のタイトルを見る限りでは、この5年ほどの間に、わたくしども日本人の国民感情が、かつてない勢いで、変化してしまったように見える。すなわち、愛国心が亢進し、自国への評価が高まり、自分たちの民族や文化への誇りの感情が増幅しているらしく見えるということだ。 しかしながら、私たちはそんなに極端な民族ではない。 ずっと微温的な人たちだ。 思うに、多数派の日本人の自国に対する感情は、さほど劇的に変化しているわけではない。 この数年の間に急激に変化したのは、私たちの国民感情そのものではなくて、むしろ、急変したのは、われわれが面倒を避けるために従うことにしている「同調」のベースだということだ。 先の大戦で敗れてからこっちの数十年間、自国について語る時の日本人の同調のベースは「ケナす」ところにあった。 それが、「自国をほめる」態度に転じたのだとしたら、表面上の態度は急変する。いま、起こっているのはそういうことなのだと思う。 大雑把に言って、戦後昭和の時代、この国の人間が自分の国について語るにあたっては、自分が実際に考えているより厳しい言い方をしておく方が無難だった。というのも、人前で日本を礼賛したりすると、「変なヒト」(「狂信的な国家主義者」ぐらい)と思われる危険性が高かったからだ。 それが、ここへ来て反転している。 自国について語るに当たっては、それなりの愛国心を表明しておいた方が、より血の通った人間と評価してもらえる確率が高くなってきている。逆に言えば、人前でうっかり日本の悪口を言うと、「偏屈なヒト」(ないしは、「いやみったらしいインテリ気取りの外国かぶれ」)と見なされるリスクが高まっているわけだ。 多くの日本人は、おそらく、自国についても他国に対しても、一刀両断の明快な考えを持っていない。 だからこそ、世間のムードが変わりつつあると感じた時には、その空気に調子を合わせにかかる。 いま起こっているのは、おおよそ、そういうことなのではなかろうか。 もっとも、このお話は、確かな根拠があって言っていることではない。私自身は、調査もしていないし、フィールドワークもやっていない。取材も文献収集もなんにもしていない。 ただ、これまでの経験から、うちの国の国民のビヘイビアが急速に変わった時のパターンからして、どうせそんなところだろうとタカをくくっている次第だ。 戦後からこっちのとても長い期間を、わたしたちは、自分の国について説明を求められたり、思うところを問われたような場合、実際に自分が考えているより厳しい言葉を述べる人間として過ごしてきた。 「そうですね。日本人はもっと大人になるべきだと思います」 「うーん、たしかに日本は色んな面で遅れてると思うよ」 「実際、自分の国ながらなさけないよね」 「アメリカから戻ってみると、日本のせせこましさにあらためて驚愕するなあ」 などと、自国についてへりくだったものの言い方をすることが、すなわち知的な市民の態度であるという共通理解の中で私たちは暮らしてきたと言っても良い。 どうしてそんなふうにふるまっていたのかといえば、「ほかのみんなもそんなふうにふるまっていたから」だ。われわれは、万事において、周囲の空気から浮き上がることを何よりも嫌う人々だった。 大きめの葬儀の時に、行列に並んで焼香をしている人たちの様子を観察していれば、このことがよくわかる。 多くの列席者は、自分の独自のマナーで焼香をしているのではない。 前の人のしぐさをそっくりそのまま真似たり、隣の列で焼香している年長者にタイミングを合わせて合掌の時間を調節したりして、その場をしのいでいる。 特に葬儀慣れしていない若い人は、ダンス学校の生徒みたいに忠実に先行者の動作をコピーしている。つまりなんというのか、われわれは、様々な場面で、「まわりの人と同じようにふるまう」ことを強力に内面化している人間たちなのであって、それゆえ「変な人だと思われる」ことを、ごく幼い頃から、非常に強く恐怖しているのだ。 だから、何かの拍子にお香を頭上はるか高くに掲げてから炭の上に投じるみたいな、やや個性的な焼香パフォーマンスを披露する参列者が現れると、続く二三人が、同じような大きめのアクションで焼香を執り行う結果を招いたりする。 さきほど、近頃の降って湧いたような愛国傾向について「タカをくくる」という言い方をした。 が、実際問題として、メディアをまきこんだ昨今の日本ブームは、甘く見て良いものではないのかもしれない。 戦前の日本人とて、誰もが皆、そうそう熱狂的に帝国陸軍の勇ましさに喝采を送っていたのではない。なんとなく周囲がそうしているから熱狂したふりをしている人たちが少なからずいたはずだ。 が、メディアが国民感情に媚びへつらい、国民がメディアのアジテーションに乗っかり、政治家が世論の動向に同調し、軍隊が過剰適応を繰り返し、官僚が自分たちの職場を防衛することに集中した結果、ああいう戦争が起こってしまった。かように、「同調」から始まるドミノ倒しは、うちの国では、油断のならない結果を引き起こす。 そう思ってみると、いま起こっていることの先には、引き返せない未来が待っているかもしれない。 単純に考えれば、現在蔓延している日本礼賛ムードは、長い間続いてきた自虐史観と呼ばれるものの反動であり、大きな時間軸で見れば、「調整局面」ということであるのかもしれない。 とすれば、これは、そんなに心配なお話ではない。 が、日本礼賛ムードそのものが、不健康な感情でないのだとしても、私は、そこから発生するかもしれない「同調」に対しては、やはり警戒を怠るべきではないと考えている。 個々のテレビマンたちは、単純に数字を追いかけているだけなのだろうし、書店だって、売れる本を目立つ場所に配置しているに過ぎない。 が、その種の相互作用がある臨界点を超えて、過剰適応の同調が起こった場合、その自動運動は、誰にもめられない暴走を引き起こすかもしれない。 3年ほど前、いじめについて、ある専門家(学校の先生ですが)から話をうかがったことがある。 彼の言うには、中学生ぐらいの年頃の生徒が展開する典型的ないじめは、「過剰な同調」という過程を通じて、深刻化して行くものなのだそうだ。 まず、ひょんなことからターゲットが決まる。 ターゲットを決めるきっかけそのものは、ごく些細な偶然だ。 それゆえ、数日でそのまま終息するケースも少なくない。 それが、本格的ないじめに発展するのは、クラス全体をまきこんだ「同調」がはじまった時だ。 多くの生徒は、ターゲットの子供を特段に憎んでいるわけではない。 嫌っているのでもない。 ただ、いじめを主導する何人かの生徒のやり方に調子を合わせているに過ぎない。 ここでいう「調子をあわせる」とは、「とりあえずいじめに参加しておく」ことを意味する。 具体的なふるまい方としては、明示的な暴力を発動するわけではないし、強烈な言葉を浴びせるわけでもない。 ただ、「無視」には参加するし、極端な生徒がやらかす暴行を黙認することにも同調する。 そうしないと、自分がターゲットになるかもしれないからだ。 てなわけで、始まってしまったいじめが、教室にいる全員を巻き込んだカタチでエスカレートしてしまうと、もう誰も「やめろ」とはいえなくなる。 「やめろ」ということ自体が、なによりも支配的なクラスの同調を裏切ることになる。そういう選択肢は、普通の中学生にはなかなか選べない。 私は、自分たちの国が、抜けられない同調が始まってしまった中学校の教室みたいになることを恐れている。 考え過ぎだろうか。 20年ほど前の日本人は、日本について自己採点を迫られると、自分で評価しているよりも、10点ぐらい低めの数字を答える態度で世間を渡っていた。 「うーん、まあ、せいぜい60点っていうところかな」 と。 現在、典型的な日本人は、自分で考えているよりも、10点ほど高い点数を口に出すことで、当面の保身をはかっているように見える。 「まあ、80点ぐらいは行ってるんじゃないですか?」 ということは、どちらも内心の正直な採点は、70点程度であるわけで、本当のところの評価がたいして変わっていないのだから、私は、あまり神経質に心配するべきではないのかもしれない。 でも、やはりそれでもなお、警戒心を捨てることができない。 私が警戒しているのは、日本人が日本を強く愛するようになることではない。 もし本当に日本人が日本をより強く愛する方向に変化しつつあるのだとしたら、それは望ましい変化だ。私は、その変化を拒絶しようとは思わない。 私が警戒しているのは、この先、一人ひとりの日本人に対して、本人が実際に自分で思っている以上に日本を愛していることをアピールせねばならない圧力が働くことだ。 私はわかりにくい話をしている。 つまり、こわいのはわれわれが愛国者になることではなくて、愛国者のふりをしないと孤立するような社会がやってくることなのだ。 現政権の政策に苦言を呈したり、自国の外交に非を鳴らしただけで、反日と言われたり、説教されたり、炎上したり、警察に通報されたりするような世の中が来たら、この国は大変に住みにくくなる。 考え過ぎかもしれないが、私は、それを恐れる。 なぜかって? 日本が好きだからだよ。 (文・イラスト/小田嶋 隆) 同調圧力に負けて「不採用タイトル」から 検閲削除したものがあることを告白いたします(編集Y) 『場末の文体論』 本コラムから4冊目となる単行本がついに発売されました。今回は小田嶋さんが自分のルーツを語るコラムを収録。帯に中学時代のオダジマが感銘を受けたというトルコのことわざ「明日できることを今日するな」を入れたところ、この本に関わる皆さんが次々に締め切りを忘れてしまったという……。無事間に合ってよかったです(うれし泣)。【書籍担当編集者T】
このコラムについて 小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 〜世間に転がる意味不明 「ピース・オブ・ケイク(a piece of cake)」は、英語のイディオムで、「ケーキの一片」、転じて「たやすいこと」「取るに足らない出来事」「チョロい仕事」ぐらいを意味している(らしい)。当欄は、世間に転がっている言葉を拾い上げて、かぶりつく試みだ。ケーキを食べるみたいに無思慮に、だ。で、咀嚼嚥下消化排泄のうえ栄養になれば上出来、食中毒で倒れるのも、まあ人生の勉強、と、基本的には前のめりの姿勢で臨む所存です。よろしくお願いします。 http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20141113/273792/?ST=print
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