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いじめ常習犯はいじめ仲間と一緒にいじめ攻撃を仕掛けてくる。それだけではない。いじめ仲間以外のその他大勢の周辺の人間まで巻き込んで集団でいじめをするように扇動する。これは恐ろしい状態で、いじめ被害者にとっては圧倒的に不利だ。それで、アメリカなどではいじめ被害者が銃を使用していじめ加害者と対抗することが多い。だが日本では厳重な銃規制があるし、また日本人特有の国民性から、反撃することなく自殺に追い込まれることが多い。これは明白な計画殺人であり、その罪はいじめ加害者当事者だけでなく、周辺の関係者にまで及ぶ。注意しなければならないのは、いじめの実行犯と、いじめの主犯格は別であることもあるということだ。いじめ主犯格の裏ボスはやくざ組織のボスのように、実際に手を汚すことなく、部下に命令して相手を死に追いやることができる。日本はいじめ対策が不十分であり、あまり真剣に検討されていない。他の先進国ではいじめは犯罪であると明白に定義しており、いじめ対策法なども制定され、かなりきちんとした対応をしている。だがそれでもなおいじめ事件は続いている。いじめ問題はどうしても当事者でないとわからないことが多いので、たとえかなり近くで同じような生活をしても気が付かないことが多い。それに集団生活においては、ある程度の我慢を強いられる。いじめがはびこっているということは、学校にしろ会社にしろ不名誉なことであり、少しも自慢できないので、管理組織としてはなんとしても隠蔽しようとするものである。いじめ問題の解決は非常に困難なことから、すべてを被害妄想ということにしてしまったほうが簡単なのだ。それをいじめ常習犯も狙っている。だが、いじめ被害者が自殺したり、転校や転勤などでいなくなったとしても、それでいじめ常習犯は満足しない。いじめ中毒であり、いじめをしないと生きていけない病気なので、次々に新しい獲物を狙っていじめを繰り返すだけだ。弱そうな人間を狙っているので、ほとんどの場合には相手は無抵抗で、告発もしないし、誰にも相談せず、一人で悩みこむ。それも計算の上だ。いじめ常習犯はただ単にいじめだけをやっているのではない。いじめなどはほんのお遊びで、他にもありとあらゆる犯罪行為を繰り返している。こういう連中にとってはいじめなどは罪だとは考えていないし、悪いことであるという自覚もない。いじめ常習犯の考え方としては、世の中はいじめが蔓延しており、いじめのない社会などは考えられず、いじめをする側になるかあるいはいじめ攻撃を受ける側になるか、どちらか二つしかないと捉えている。つまり正義などは信じていないのだ。いじめ加害者の中には過去にいじめの被害を受け続けた者もいる。過去の復讐のためかいじめを繰り返しても正当なことであると考えている。学校側や会社側も何もしなかったし、警察も対応しなかったし、誰も助けてくれなかった。それならば今度はいじめる側になろうということだ。しかしそれは本当の意味で強くなるということではない。いじめの発端は男世界のことというよりも、実は、女世界から始まったことだ。陰湿ないじめは女が得意とする分野である。男はどちらかというと単純に力による決闘を好み、しかも、一対一の決闘こそが正当であると考える。だが、日本では決闘も禁止されている。昔は敵を討つとか決闘も容認されていたが今は違う。それで現代社会では、非常に難しくて複雑な対応を迫られる。管理者がいい加減な場合にはいじめ問題などは解決せず、むしろいじめが蔓延する。そういう組織ではいじめが大変な力を持つようになり、いかなる法や規律よりも、いじめのほうが強くなってしまう。それは本当に地獄のような世界だ。教師間のいじめとか自衛隊内部のいじめもあり、あらゆる組織にいじめがはびこっているといえるだろう。だがいじめを放置していると、士気が低下し、内部分裂が起こり、反乱や暴動が起きやすくなる。また規律違反も増え、まるで海賊のような世界になってしまう。我々は文明人としてもっと進歩的な世界にする必要がある。いじめ常習犯は決して表社会に出ることはできない。いじめは証拠を残すことがタブーであるし、いじめの主犯格であることが発覚すると、その後の活動ができなくなるからだ。いじめは一人の個人とかなり大勢との戦いになるので、そのままうかつに一人で戦うと、いじめ加害者グループの計画通りで負けてしまう。それでできるだけ多くの仲間を見つける必要がある。何でも隠蔽してしまうような人ではなく、高い道徳心と倫理観のある人物に相談して味方につけたり、ある程度の地位がある人に悩みを打ち明けることが近道だ。いじめ常習犯の人生は地獄そのものであり、常にいじめ中毒の状態で、いじめにしか興味はない。そして非常に多くの人の恨みを受けている。いじめを続けると悲惨なことが次々に起こりやすくなる。また周囲の監視も強化されるし、将来の希望も持てなくなる。いじめ仲間はいるがそれは本物の友人ではない。厳しい上下関係があり、少しでも弱体化すれば踏みにじられ、裏切りも多い油断がならない世界だ。いじめ加害者にはばら色の未来などはなく、常に何かに追われている状態だ。そしていじめ常習犯が消滅しても、誰も悲しまないし、それどころか気づかれることさえないだろう。いじめはあらゆる宗教に反し、神や仏や御先祖様までも敵に回すことになるので、味方がまったくないといえる。いじめ仲間は味方とはいえず、いざとなったら逃げ出す。いじめをしないというだけでその人は善人であり、まともな人間であると思う。たとえどんなに貧しくても、社会的地位がなくても、何の肩書きもなく、資格もなく、低学歴で、容姿が悪く、あまり評価されないような人でも、いじめをしない人は立派な人間であると思う。そういう人は幸福な人生を送る資格があり、また成功するべき人間だ。いじめをする人間が地獄へ向かうのに対して、いじめをしないということだけでも、人間としての価値があり、貴重な人であると思う。いじめをしない人はあらゆる世界のあらゆる生物の友人であり、指導者である。
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