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「静岡新聞」の1月1日(元旦)P.10・11に掲載されていたノンフィクション作家柳田 邦男氏と政治学者中島 岳志氏の新春対談の転載です。
本源的なことだし重要だとも思っていますが、対談は、おもしろいのですが“精神世界”にやや傾きすぎているのではと思っています。
原発事故問題や安倍首相のエセ保守主義、さらには「在特会」問題など、テーマも多岐にわたっています。
なお、記事には、対談者の柳田 邦男氏と政治学者中島 岳志氏についての紹介もありますが省略させていただきました。
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試練から希望を
いのちが輝く明日へ 宗教性が問われる時代
新春対談 ノンフィクション作家柳田 邦男氏 政治学者中島 岳志氏
市場のグローバル化に伴う経済至上主義が人々を競争に駆り立て、他者や弱者への寛容さに欠ける風潮が社会を覆っている。発生後3年を迎える東日本大震災の傷は今も深く、ままならない現実がいら立ちを誘う。試練の時を人はどう生きればいいのだろうか。いのちが温かくつながり、輝きを増す未来を手にするために、政治学者の中島岳志さんとノンフィクション作家の柳田邦男さんが語り合った。
社会は不完全でしかあり得ない 中島
1 福島原発事故
中島 東京電力福島第1原発事故の後、福島で命を絶った農家の方のことをずっと考えています。有機農法家の彼が工夫した土や田畑は単に生活の基盤ではなく、身体の延長のような存在だったのではないか。人が意味を持って生きられる場所「トポス」が根こそぎ破壊される。それが福島の被害の本質でしょう。
柳田 私が育った戦時中は「天地(あめつち)の恵み」を親に教わりました。お百姓さんが汗水たらして作った米は、天から授かった大地の恵みで一粒も無駄にしてはいけないと。それが戦後の効率主義の中で、単にお金で買う商品になってしまった。
中島 原発の被害も金銭で代償され得ません。
柳田 先祖の魂が宿る土地や家は代償できないし、過疎地の評価額では移住も容易でない。貧しくても一族の墓の近くで生きられた人が、金銭補償された途端に「存在のふるさと」を失う。避難先で亡くなった人は明らかにストレス死で「原発事故関連死」と呼ぶべきなのに、行政は「災害関連死」と曖昧にしている。
中島 代償可能という発想は日本中に広がっている。例えば命令一つでどこへでも行き、多言語を操り、組織に貢献する「グローバル人材」が称賛されているが、人間に必要なのは社会との有機的なつながりです。僕が勉強したインドでは、各人がそれぞれの場所で役割を果たすことが、宇宙における生命の意味なんだといいます。そうした位置付けのない功利的人間観は、原発の安全神話を支えた科学の在り方と通じていそうです。
柳田 今の日本は科学技術の限界を直視しないまま、技術で原発事故を乗り越えようとしている。でも技術者や事董著、政府がどんなに安全だと保証しても、人間がつくったものは必ず壊れる。これは歴史の教訓です。
中島 人間がつくったものは必ずほころぶというのは、僕が考える保守思想の基本認識です。人間は不完全な存在で、人間が営む社会も過去、現在、未来を通じて不完全でしかあり得ないと考える。完全な原発、万全の対策とは口にできないのが保守。その意味で安倍晋三首相は保守ではない。
柳田 「秘密国家」主義の思考で一気に国を変えようと安倍首相は、反「自由民主」の革命家なのかもしれない。
中島 科学の問題で悩ましいのは吉本隆明さんの「遺言」です。原発をやめるのは人間をやめることだ、と彼は言った。
柳田 人間を欲望の存在と与えたのかなあ。
中島 吉本さんはたぶん、個人の意思を超えた力学を説くマルクスの観念と、人間の存在自体に罪をみる親鷲の「悪」を重ね、痛切な声として「人間は原子力を捨てられない。人間の本質を捨てることになるから」と言い残した。科学を追求してやまない人間の性(さが)と、人は折り合えるのかどうか。
柳田 便利さ、豊かさを求める人間の欲望は強烈で、政治が迎合するのは安倍政権を見ても分かる。一方、科学のモラルや倫理の問題は、理念としては提起されても大衆レベルでは受容されにくい。知性ある人間が発言を続けるしかないのかな。
中島 知性による抑制に加えて宗教、祈りの力も考えられます。英国のインド支配に非協力で対抗したガンジーは運動自体の暴力性にメスを入れようとした。日本の官邸前デモのように声高に叫ぶのでなく、日常の中で静かに祈り、世界を変えようとした。こうした宗教性を見直したい。
柳田 官邸前デモには非暴力の思想があると思いますが…。もう一つ、津波の被災者の中には、犠牲になった肉親の幽霊を見る人が結構いました。これを科学で説明しても無意味で、その現実を認め、心に深く関わるケアが求められる。それには宗教心が欠かせない。
中島 興味深いです。
柳田 そこから「実践宗教学」の考え方が出てきた。医療者、カウンセラーに宗教家が加わり、苦悩する魂を包む。がんの終末期にも求められる課題で、東北大に講座ができて「臨床宗教師」が養成されています。
2 祈りの力
中島 宗教の使命を考える上で水俣も重要です。水俣病の患者認定を巡る闘争の中心にいた緒方正人さんの「チッソは私であった」という言葉。問題を金銭的な賠償に還元してしまっていいのか。結果的に「チッソ」的なるものを強化してしまうのではないか。その全体構造を乗り越えなければと思ったとき、到達したのが祈りだった。
柳田 「本願の会」ですね。
中島 それを鮮明に書いたのが石牟礼道子さんです。水俣に住み、問題に出合った彼女は、足尾鉱毒事件を調べ、犠牲になった死者の声を聞いて「苦海浄土」を書いた。当時は生まれていなかった僕がそれを読み、水俣の過去に遡行(そこう)し、福島の未来と対話する。この時間軸の働きを、現代人は死者と一緒に取り戻す必要があります。
死者は「死後生」を生きている 柳田
柳田 私はね、死者ほど精神性のいのちが躍動し、本質に迫る言葉を発する存在はないと思う。それに気づいたのは、息子が自死を図った20年前です。脳死状態にありながら彼は、人間の苦悩をどこまで分かっているのか、と鋭い問いを父親に突きつけてきた。終末期医療の取材を積み重ねながら、死の本質に触れていなかったと思い知らされ、生と死について考えを深める契機になった。
中島 壮絶です。
柳田 それから数百人分の闘病記や追悼記を読むうちに気づいた。死者は生きているじゃないかと。愛する家族や友の心の中で「死後生」を生きている。逆を言えば、より良い死後生のために心して今を生きなきゃいかん。40年かけてたどり着いた死生観です。
中島 僕は震災直後に言葉を失っている被災地の人々を見て、身近な家族や友人の死、つまり二人称の死に直面し、死者を見失って絶望していると感じた。そこで死は喪失ではない、死者と共に生きようと新聞に書いたところ、東北だけでなく全国から手紙やメールが何百通も届いた。社会が死者をどれほど求めているかを痛感しました。
柳田 いのちの人称性の視点は大事です。現代は自分と距離のある他人、つまり三人称の他者に無関心な無人称の社会。水俣では1956年に患者が公的に確認され、劇症で亡くなる人がいても行政は見て見ぬふり。チッソの排水が原因と政府が公式に認めたのは68年です。個人の悲劇を全く見ていない。同じことが福島でも起きつつある。
中島 いのちといえば、京都の東本願寺で「今、いのちがあなたを生きている」という法語が揚げられているのを見たことがあります。主体はいのち、人は器というわけです。仏教における「私」は常に他者や世界に開かれ、変容している。この「縁起」という考え方こそ、日本の民衆が広範に引き継いできた宗教観念だと思いました。
柳田 「与えられたいのち」は宗教に普遍的なキーワードです。自分でいのちをつくって生きているのではないと。この言葉が素直に染みこめば、多くの子どもや若者が悩んでいる自己肯定感喪失の問題は解決するはずです。最近、被災地の子どもの作文にこの書棄が登場するので驚きました。
中島 死者の力ですね。
柳田 自分は奇跡的に生き延びた、だから、与えられたいのちを生き抜きたいと。子どもの日常にはない言葉です。身近な死を体験した切迫感ゆえに、言葉が特別な意味をもって胸に落ち、臓腑(ぞうふ)に染みる。大きな恐怖や喪失を体験した後、どんな言葉で自分を見つめ、いのちを考えるか。大きなヒントがあります。
中島 勉強になります。
役割を生きるのが人間の本質 柳田
3 寄る辺なさ
柳田 日本には、前の戦争で精神主義を叫んだトラウマがある。戦後、宗教は敬遠され、現実的、科学的なものが優先された。最近、宗教心が見直されているが、一方にグローバル化とデジタル化の激流があり、心の危機が生じている。
中島 政治の文脈で言うと、オルテガというスペインの思想家が約80年前に、近代において死者は死んだと書いた。人々が宗教性を失い、トポスを奪われて漂流し、熱狂に踊らされてファシズムのようなものを招き寄せてしまう。それを彼は大衆社会と呼んだんです。
柳田 先駆的ですね。
中島 この大衆こそ、今の政治をつくっている僕たちです。そこに「多数者の専制」の問題がある。民主主義の原則は多数決ではなく、少数意見をくむのが熟議や政治の営みであるはずなのに、多数派を民意とみて強引な政治をする橋下徹大阪市長のような人が出てくる。デジタル化の議論ともつながりそうです。
柳田 デジタル化の最大の弊害は子どもの人格形成への悪影響です。目の色、表情、しぐさから微妙な感情を読む能力が育たず、断片的なコミュニケーションが人間関係を不安定にする。夜中に「LINE(ライン)」で発信し、すぐに返信がないと翌日には関係が切れてしまう。
中島 そういうデジタルメディアの中にこそ本音の関係があると言ったのが、秋葉原の無差別殺傷事件の加藤智大被告です。対面のコミュニケーションは建前ばかり、文字だけのネットなら本心をさらけ出せると。この感覚は今の若者には相当にリアルで、実はルソーも似たことを書いた。近代人の人間関係は外観と内心の間に「障害」があって「透明」でないと。
柳田 似てますね。
中島 たぶんルソーも加藤被告も人間の本質を見誤ったんです。人は親なら親、先生なら先生の役割を演じ、味わいつつ生きていると福田恆存は書いています。「本当の自分」 「透明な関係」など存在しない。自分がいないと物事が進まないといった実感、存在への承認が人を支えていると。
柳田 中島さんは「秋葉原事件」を書き、昭和初期の「血盟団事件」も本にされた。社会のうみを吐き出す形で起きた両事件は同根だという意見は鋭得力があるけれど、じゃあ遠いは何だろう。
中島 決定的な違いは榛的です。血盟団事件で殺されたのは井上準之助と団琢磨(だんたくま)。政治家と財閥を排除すれば社会がよくなるという論理が、当時は成立し得た。でも秋葉原事件は「誰でもよかった」殺人。自分の寄る辺なさの根拠を名指しできない、やり場のない苦悩は深刻です。
柳田 そこが核心か…。
中島 昭和初期の東京でも、農村出身者が貧困や搾取に苦しんだのですが、頑張れば田舎の親を楽にできると思えた。戦後の集団就職も同じです。しかしネットカフェで過ごす今の若者は、自分の生きづらさの意味が見えない。ここに、根無し草の彼らが「浮遊したナショナリズム」に流れる素地がある。「在日特権を許さない市民の会(在特会)」などの問題です。
「アジアとは」議論し突破口を 中島
4 二元論を超えて
柳田 在特会は伝統的なナショナリズムと異質だと思う。
中島 そこが大事な点で、家族や地域など既存の共同体が崩壊し、承認のリソース(根拠)を欠いたとき、最後に残ったのが「生まれ」だったのではないか。日本人として生まれた、というだけで敬意を得られる場がナショナリズムだった。
柳田 苦し紛れのナショナリズム、ですか…。
中島 ポイントは在特会の正式名称にあり、彼らは「特権」に怒り、そこから疎外された「市民」だという自意識が強い。だから在日だけでなく、公務員など既得権益バッシングに親和性が高い。
柳田 一人一人の生きる条件、権利がやせ細っているという意味では、彼らもグローバル化の犠牲者なのかもしれない。
中島 その流れに歯止めをかける英知としてアジアを考えたい。西洋近代の合理主義、設計主義が行き詰まる中で、ガンジーや西田幾多郎、大川周明らアジアの思想家は、もう一つの近代を懸命に考えたと思うんです。
柳田 ところが日本では、アジアという言葉に精神主義と同じように大東亜共栄圏的な香りが染みついてしまった。
中島 確かにアジア主義は戦後、全否定されました。でも僕は、今もそこに「原石」が居ると思う。人間だけに主観を置かず、人間と自然の相互関係から主体、客体の二元論を超えようとする。そんなアジアの思想的営為を踏まえて中国、韓国とも手を結びたい。アジアとは何か、精神領域に及ぶ議論をする中で、現代の突破口が見つかるのではないでしょうか。
柳田 日本では団塊の世代が老齢化し、遠からず年間死者数が150万人を超えていく。医療機関や福祉施設が不足し、死ぬのが難しい時代に、日本人はどんな死生観を持ち、政治や社会をどう変えていくのか。根源的な問いは、やはり死者から発せられています。
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