03. 2013年11月12日 01:49:54
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【第43回】 2013年11月12日 武田 隆 [エイベック研究所 代表取締役] 【熊坂賢次氏×武田隆氏対談】(中編) 恋愛も情報も「所有」するのはナンセンス? 経済の原則をくつがえす新コミュニケーション論 インターネットに親しんでいる人ならば、ネットの世界の共通言語が「シェア」であるということに強く共感するだろう。 リアルな世界には、「所有」という概念が厳然として存在する。希少なモノは強者がすべて手にし、結果として富める者と貧しい者の格差が生まれる。一方、復元(コピー)にかかるコストが限りなく減少していくインターネットの世界では、良い情報は多くの人に共有され、さらに良いものへと変換されながら、無限に拡散していくのだ。 私たちにとってはまだまだ目新しいこの「シェアの世界」では、果たしてコミュニケーションのかたちはどう変化していくのだろうか?声をあげると、誰かが助けてくれる。 インターネットは「探索と支援」で成り立つ 武田 前回出てきた、フラットで多様性のある新しい社会のかたち「きょうだい関係」。インターネットは、まさにそういう関係性で成り立っていますよね。 熊坂賢次(くまさか・けんじ) 1947年1月28日生まれ、東京都出身。現在、慶應義塾大学環境情報学部教授(シニア有期)。専門はライフスタイル論と社会調査。1984年「素顔なんて、ないの」というゲームブック形式の調査で新しい方法論に目覚め、2000年にはiMapというインターネット調査を実施、つねに社会調査に革新的で社会実験的な手法を導入する。その後、柔らかい構造化手法を開発し、インターネット上のビッグデータから社会文化現象を計量的に解釈しようと、若手の研究者と一緒になって、必死に楽しく模索中。 熊坂 はい。今までは、常に発信者が受信者に対して情報を与える、発信と受信という関係でコミュニケーションの論理がつくられていました。それは、発信者のほうに希少な情報財が所有されている点で、発信者から受信者への権力論でもあった。しかし、インターネットはそれを根本から変えます。インターネットのコンセプトは、探索と支援です。
武田 「探索」は「検索」をイメージするとわかりやすいですが、「支援」というのは……? 熊坂 ひとつ例をあげましょう。僕は最近、イラストレータ(Adobe社の描画ソフト)で色を塗った三角形の図をつくりたいと思ったんです。でもやってみると、どうにもうまくいかない(笑)。そこで、「イラストレータ 三角形」などで調べたところ、どうやればいいのかすぐわかりました。正三角形をつくるにはとか、直角三角形をベースにすると、などあらゆる方法が出てくる。インターネットのすごさは、「知りたい、でもわからない、だから、誰か助けて」と声を上げると、誰かが支援してくれるところにあります。 武田 しかも、その説明を書いた人は熊坂先生に教えようと思って書いたわけではないんですよね。 熊坂 そこがネットワークにおけるコミュニケーションの重要なところです。情報を所有している人は、ただ公開しているだけなんですよね。その人に権力があって、「わからないなら、教えてやろう」と上から教えるわけではない。所有している人は別に偉くないんです。ここに、今までとは違う新しい社会のつくりかたのヒントが隠されています。 武田 今回、熊坂先生に「所有」の概念についても伺いたかったんです。先生は岡崎京子さんの漫画『pink』の批評の中で、貧しさと豊かさについて対比していらっしゃいますよね。ここで先生がおっしゃっている貧しさと豊かさというのは、どういったものなのでしょうか。 熊坂 簡単に言うと、貧しさは「よいものは少ない」ということから生まれます。希少性ですね。いいものが少ないと、強いやつがすべて持っていってしまう。そうすると、弱い人は「どうすればいいんだろう、悲しい、寂しい」となり、持っている人からもらうしかなくなる。これが貧しさです。豊かさというのは「よいものはたくさんある」ということです。そうなると、「1個くらいあげていいかな」と思いますよね。そして、あげたらどうなりますか? 武田 私の手元からはなくなります。 熊坂 はい。物の場合はそうなります。でもそれが、情報になるとどうでしょう。僕が今持っている情報を武田さんに話しても、僕の頭の中からなくなるわけではない。ネットワークでは、よい情報は多くの人に共有され、さらに良いものへと変換されていきます。情報は、無限に拡散していくんです。 武田 デジタルの世界では、インターネットの根源的な性格として、復元(コピー)にかかるコストが無限に減少するから、情報は無限に拡散していくわけですね。 熊坂 そう。コピーは所有という概念を無にします。 シェアの世界では「カンニング」が推奨される? 武田 隆(たけだ・たかし) エイベック研究所代表取締役。日本大学芸術学部にてメディア美学者武邑光裕氏に師事。1996年、学生ベンチャーとして起業。クライアント企業各社との数年に及ぶ共同実験を経て、ソーシャルメディアをマーケティングに活用する「企業コミュニティ」の理論と手法を独自開発。その理論の中核には「心あたたまる関係と経済効果の融合」がある。システムの完成に合わせ、2000年同研究所を株式会社化。その後、自らの足で2000社の企業を回る。花王、カゴメ、ベネッセなど業界トップの会社から評価を得て、累計300社のマーケティングを支援。ソーシャルメディア構築市場トップシェア(矢野経済研究所調べ)。2011年7月に出版した著書『ソーシャルメディア進化論』は第6刷のロングセラーとなっている。JFN(FM)系列ラジオ番組「マーケの達人」の司会進行役を務める。1974年生まれ。海浜幕張出身。 武田 私が何かの所有を主張すると、それは同時に「他の誰のものでもありません」ということを主張することになりますよね。これは恋愛も同じで、「僕はA子と付き合っている」と言うときは、「A子は他の男と付き合うな、僕も他の女とは付き合わない」という暗黙の了解があります。
熊坂 近代的恋愛というのは、所有における排他性の原理にもとづきます。近代社会は、男女の恋愛をベースに社会をつくっているので、所有にもとづいているとも言える。所有は貧しさと豊かさの差を生みます。所有して豊かになりたいから、皆ががんばって争う。それで資本主義経済のメカニズムが働き、近代化というかたちで一気に社会が発展していった。 でも僕たちはそろそろ、その原理の限界を知らなきゃいけないんですよね。恋愛と経済の2大原則が壊れないと、次のステップへは進めません。 武田 先生のお考えは、ラディカルですね。たしかに、情報についてもネットワークが広がる前は、所有の概念が根強くありました。たとえば、いろいろなことを覚えている人は、生き字引などと言われて、昔は重宝がられました。でも、記憶をアウトソースできるようになると、そのことに価値がなくなっていく。まさに「検索」すればいいわけですから。 熊坂 そうです。それにともなって、教育も変わらなければいけない。いま日本の教育はまだ、データベース型です。僕は、試験なんていうのはカンニングすればいいと思ってるんですよ。 武田 またまたラディカルなご意見が(笑)。でも、カンニングもネットワークでの助け合いと言えば、そうかもしれませんね。 熊坂 単にカンニング推奨というと語弊があるかもしれませんが、つまり知っている人が教えればいいんです。みんなが知識を持っているということが、社会としては一番重要。全員が100点をとるのがゴールなんですよ。できる人だけが情報を独占しているというのは、コミュニティ全体にとって良いことではない。 武田 できる子が、まだわかっていない子に、答えだけでなく考え方も教えればいいんですね。 熊坂 そう。さらに、教え方まで教えるといい。その連鎖の中で授業をすることが重要なんです。福沢諭吉が説いた、教えて学び合うという「半学半教」の精神は、教育の基本ですよ。そうしないかぎり、教育はもう成り立たないと思います。 武田 でも、できる子がみんなに教えて、みんなの成績がよくなったら、できる子が志望校に入れないということが出てくるのでは、という考え方もあります。 熊坂 そういうときのために、教える子は「尊厳の切符」をもらうようにすればいいと思います。100点を最初にとった子が、他の子に教えてあげる。そうすると、別の子が今度は100点をとれるようになった。この100点の知識は誰のおかげか。教えてくれた彼のおかげだ。僕は彼に、尊厳の切符をあげよう、となる。その切符をたくさん集めた学生は、進学先を好きに選べる。競争という概念ではなく、情報をシェアする関係の中で教育が成り立つようにしたいですね。 人と合意を形成すること。その連鎖がこれからの社会をつくる 武田 シェアというのは、豊かな感じがします。所有というのは、やはりどこか貧しさに立脚している。高度成長期、冷蔵庫や洗濯機が日本の家庭に行きわたるようになった頃のキーワードは「人並みになる」でした(本連載第9回宮台真司氏との対談参照)。それはやはり、すごく「貧しさ」が前提になっていますよね。 熊坂 日本の良さというのは、そういう普通の人の豊かさを底上げしてきたところですよね。平均値をみんなで上げていくときは、競争の原理よりも協働の原理が働いている。いま日本では、その普通の人の豊かさが崩れてきている気がします。普通の人のレベルを上げつつ、多様性を付加するというのが、目指すべき社会のイメージだと思うんです。ぼくらは、もっとネットワークの精神をベースにした新しい社会のつくり方を実現しなければいけない。そのときに、インターネットがもたらす社会的環境変化は、すごく大きな意味を持ちます。 武田 インターネットは、シェアという概念をはじめから持っていました。 熊坂 そうですよね。SFCの村井純教授(注:情報工学者。慶応義塾大学環境情報学部長。日本におけるインターネットの黎明期から、技術基盤づくりなどに従事。日本のインターネットの父と目されている)なんて、まさにそうですよ。彼は、豊かさとインターネットの社会以前に、これしかないとされていた所有や競争の概念から完全に解放されています。 武田 さすが「ミスター・インターネット」。日本のインターネットの礎を築いた方ですね。1988年に村井教授が設立した、インターネットに関する研究プロジェクト「WIDEプロジェクト」がなければ、日本のインターネット環境は整っていなかったと思います。 熊坂 インターネットの持つイデオロギーは、今までの産業社会の、希少性と所有をベースにした貧しい社会の構造を変えるすごさを持っていると期待しています。 インターネットで知らない人とコミュニケーションするときには、「了解のリアリティ」が重要になってきます。了解のリアリティというのは、事実としてのリアリティとも、実感としてのリアリティとも違う。 1人の女性が道を歩いていたとして、「彼女は人間だ」というのは、誰でも同じような認知をするという意味で、事実としてのリアリティ、客観に基づいたリアリティです。そして、ある男が彼女のことを「すごい美人だな」と思うのが、実感としてのリアリティ。主観に基づいたリアリティです。そして、その男が自分の彼女に「あの人、きれいだよね」と言ったら、「えっ、ぜんぜん美人じゃない!」と言われて、意見が割れたとする(笑)。ここにコミュニケーションが発生します。 武田 男の技量が試されますね。返答を間違えると、彼女が大泣きしてせっかくのデートが台無しになってしまいそうです(笑)。 熊坂 そこで相談した結果、男が「うーん、よく見たらそんなに美人じゃなかったね!」と言ったとします。こういうとき、男は弱いですから(笑)。これが、認知に関して合意が形成されている状態。了解としてのリアリティです。 武田 コンセンサスがとれている、とも言えそうです。 インターネットがもたらす社会的環境変化がネットワークをベースにした新しい社会を実現する。 熊坂 そうです。僕とあなたという2人の間で、合意された、了解された、という意味でのリアリティがあります。これが2人の間でおさまってしまうと、ひとつの小さな共同主観で閉じてしまう。
この他者との間に成り立つ小さな了解のリアリティを、より大きな社会のレベルまでにどうやって連鎖させていくかというのが、今の時代に求められています。哲学的には「間主観性」といって、ある事柄が2人以上の人間の間で合意が成り立っているという概念は、昔からありました。でも今の時代は、ネットワーク上でその了解を拡散していけるというところに、次の社会の可能性が秘められています。 武田 了解のリアリティは、コミュニケーションが発生することによって成り立つ。そのコミュニケーションが、インターネットというテクノロジーを舞台に、無限に広がっていく可能性があるということですね。 ※この対談の後編は、11月26日(火)に配信予定です。
【第9回】 2012年7月17日 武田 隆 [エイベック研究所 代表取締役] 【宮台真司氏×武田隆氏対談】(後編) 「生活のリアリティ」が「社会のコモディティ化」を打破する 「女子大生ホイホイとしてのプレリュード」「アイドルはみんな聖子ちゃんカット」。80年代に青春を送っていた人には懐かしいワードだが、かつて消費社会が隆盛を極めていた時代はこのように「ああ、それ知ってる!」とみんなでわかり合える共通認識のもとに流行するものがあった。 しかし消費社会が終わりを告げ、みんなでわかり合える“何か”を失ったいま、私たちは社会というものをどこか遠い存在として感じている。この孤独感を埋められる手立てがあるとすれば、それはどのようなものだろうか? 前々回、前回から続く話題の対談、いよいよ完結。
社会がコモディティ化し、モノが輝かなくなった 武田:先日、宮台さんがされていた「クルマが輝かなくなった」というお話が非常に示唆的でした。「むかしクルマは輝いていた。いまはかつての輝きはない」とおっしゃっていました。品質の面でいえば向上していると思われるのに、なぜなのでしょうか? 宮台真司(みやだい・しんじ) 社会学者。映画批評家。首都大学東京教授。1959年3月3日仙台市生まれ。京都市で育つ。東京大学大学院博士課程修了。社会学博士。権力論、国家論、宗教論、性愛論、犯罪論、教育論、外交論、文化論などの分野で単著20冊、共著を含めると100冊の著書がある。最近の著作には『14歳からの社会学』『〈世界〉はそもそもデタラメである』などがある。キーワードは、全体性、ソーシャルデザイン、アーキテクチャ、根源的未規定性、など。 宮台:それは一般にコモディティ化(粗品化)と呼ばれる現象です。モノは、手元にあるのが当たり前になると、日常の風景に埋没し、輝かなくなるのです。そもそも「輝く」とは「日常における非日常の亀裂」つまり「ケに対するハレ」です。
クルマに乗る経験が少ないころは、乗り心地やエンジン音のちょっとした新しさが非日常を醸し出しました。クルマが日常化すると、そうした新しさはどうでもよくなり、クルマは目的地に着くための道具になり下がります。 社会学の[表出性/道具性]という枠組みに重ねると、モノだけでなく、たとえば性の世界にもコモディティ化=道具化が見出されることに気づきます。性が禁圧された時代は、性的なものにほんの少し触れただけで目眩がしました。 ところが、性が自由になると、性は「快楽の道具」や「相互理解の道具」になり、入替可能になります。「快楽の道具」や「相互理解の道具」は他にもあるからです。性のコモディティ化を、いくつかの要素に分けてみます。第一は〈完全情報化〉。 武田:たしかに私が中学生のころ、性に関する情報源は、いまに比べるとずいぶん少なかったように思います。 宮台:だから「ワケがわからずドキドキした」のです。いまは「すべて事前の情報どおりだった」で終了。第二は〈脱タブー化〉です。かつては、規範の明白な境界が共有されてきました。タブーがあるから、タブー破りの快感もありました。 たとえば80年代半ばまで、人妻が婚外関係を持つことは、いまよりずっと罪の意識を伴いました。だから盛り上がったのです。いまは不倫も当たり前になり、罪の意識を用いた「言葉責め」も機能しなくなりました。 武田:輝きを失い、興奮しなくなってしまったということですか? 宮台:そう。第三が〈脱偶発化〉です。出会い系サイトや婚活サイトは、年収・身長・学歴・趣味などのスペックへのニーズを元にマッチングされます。自分が最も嫌うタイプの相手を好きになるアクシデントがありえません。すべてが枠の内側で起こります。 〈完全情報化〉も〈脱タブー化〉も〈脱偶発化〉も、ニーズに応じたものです。前回お話ししたように、「ニーズに応じたマーケット・イン」は人々の幸福値や尊厳値を下げます。人の幸福や尊厳は必ず〈未規定性〉とともに与えられるのです。 街からカオスが消え、フラットになった先に広がる〈終わりなき日常〉 武田:松下幸之助が「水道理論」でいっていたように、家電も水と同じように当たり前になれば、価格が安くなり貧困層にも普及していく。これは高度成長期に機能したひとつの幸福の方程式でした。 武田隆(たけだ・たかし) エイベック研究所 代表取締役。 日本大学芸術学部にてメディア美学者 武邑光裕氏に師事。1996年、学生ベンチャーとして起業。クライアント企業各社との数年に及ぶ共同実験を経て、ソーシャルメディアをマーケティングに活用する「企業コミュニティ」の理論と手法を独自開発。その理論の中核には「心あたたまる関係と経済効果の融合」がある。システムの完成に合わせ、2000年同研究所を株式会社化。その後、自らの足で2000社の企業を回る。花王、カゴメ、ベネッセなど業界トップの会社から評価を得て、累計300社のマーケティングを支援。ソーシャルメディア構築市場トップシェア(矢野経済研究所調べ)。2011年7月に出版した著書『ソーシャルメディア進化論』は第6刷のロングセラーとなっている。1974年生まれ。海浜幕張出身。 しかし家電は、実際にあるのが当たり前になり、生活の中に溶け込んでいく過程で輝きを失っていった。私は団塊ジュニア世代なのでリアルタイムの経験はありませんが、クーラーがめずらしいころはクーラーがあるだけで輝いていたわけですよね。
宮台:はい。〈完全情報化〉も〈脱タブー化〉も〈脱偶発化〉も、〈未規定性〉の消去です。〈未規定性〉とは「得体の知れなさ」。68年に「3C」という言葉が流行りました。カー・クーラー・カラーテレビ。どれも「得体の知れないもの」でした。よく記憶しています。 多くの家にクルマ記念日やクーラー記念日やカラーテレビ記念日がありました。それだけじゃない。新幹線も高速道路もすべてが「得体の知れないもの」でした。何もかもが〈未規定性〉に彩られ、社会全体が「輝き」に溢れました。映画や小説に刻印されています。 68年から69年までオンエアされた円谷プロの『怪奇大作戦』。SRI(科学捜査研究所)の所員が怪奇な科学犯罪に立ち向かう。都市生活や郊外生活を彩る新しいテクノロジーが、「輝き」であると同時に「得体の知れないもの」であることが描かれていました。 〈未規定性〉ゆえの「輝き」が溢れたころ。第一に、人はいまよりずっと貧しく不自由で鬱屈を抱えていましたが、それゆえにこそ「輝き」を深く体験できました。第二に、そうした〈未来〉の体験可能性を信じられたから、人はひどい貧しさや不自由に耐えました。 いわば〈ここではないどこか〉への希望。60年代までの日本映画と同じく、90年代までの韓国映画には〈ここではないどこか〉への憧憬が溢れました。ビル街とスラム街が通りを隔てて隣接するカオスつまり〈未規定性〉が、しかし「希望の光」だったのですね。 ビル街とスラム街が隣接するような格差は良くありませんから、平準化されます。すると都市から光と闇のコントラストが消えて、何もかもスーパーフラットになります。すると今度は、人はすべてに希薄さを感じ始めます。それが〈終わりなき日常〉です。 車・ファッション・グルメの三重負担を免除されたオタクの登場 武田:宮台さんは、モノが輝かなくなったのは、モノのせいではなくて、私たち消費者側の心の問題だと断言されていますよね。 宮台:そう。ただし〈個人的な心理の問題〉でなく、〈社会的な意味論の問題〉です。その中で、新たに開発されたモノも、随所に残った都市の光と闇の対照も、独特の意味加工を経て体験されました。新技術も貧困も、いまとはまったく異なる仕方で体験されたのです。 73年の石油ショックで「低成長時代」になります。石油ショックの直前、「3C」を含めた耐久消費財の普及曲線がプラトーに達し、新規需要より買替え需要が専らになりました。そして、77年からオタクの萌芽が現れ、83年には誰の目にも「見える化」します。 この時間的順序に注目してください。84年からマーケットリサーチの会社の取締役になったのですが、僕たちの会社は、オタクが車・ファッション・グルメに関心を持たない統計的事実を初めて立証しました。 武田:いまの若者にも共通していますよね。 宮台:そう。この統計的事実を元に、オタクが従来のマニアと巷で区別される理由は、オタクがリアルなコミュニケーションに関心を持たないからだと結論しました。その意味で「マニアは一般市民の片割れだが、オタクはそうじゃない」から差別されるのだと推定しました。 77年という年号が重要です。「オタクの時代」が、デートマニュアルに象徴される「ナンパの時代」と同時に幕を開けた。ナンパ系の人にとっても、クルマはもはや単体で「輝き」を持たず、ナンパツールとして意味を持つものへと変じていた。この事実が大切です。 モノが「輝き」を失ったので、「輝き」を持ち込むツールとして、当時はまだ不自由だったがゆえに「輝き」を帯びた性愛が持ち込まれたのです。でも性愛には得手不得手があります。不得手な人はコンテンツに「わかる人にはわかる」的な「輝き」を探しました。 モノを所有し「これで人並み」と威張ることが“痛く”なった 宮台:消費社会の概念を確認すると、モノをイメージによって消費する社会という意味です。モノの「輝き」もイメージの最たるもの。さて、「3S(炊飯器・掃除機・洗濯機)」や「3C」の時代、その「輝き」を人は「人並み化」という言葉で表現しました。 いまでは「?」でしょう。周囲がどんどん「3S」化「3C」化している(と見える)なか、「3S」「3C」の商品を買って「これで我が家は人並みだ」とイバるのです。ここでのポイントは「人並み」の言葉が示すような〈「輝き」イメージの共有〉です。 実は「モノの時代」とは〈「輝き」イメージの共有〉があった時代です。ところが普及曲線がプラトーに達した後は〈「輝き」イメージの共有〉が失われ、島宇宙ごとのコミュニケーションで「輝き」を探求するようになる。それがナンパ系/オタク系の時代です。 90年代後半に至るまで、ナンパ系もオタク系も共通して、コミュニケーションの閉じた島宇宙内でイバれることを、少なくとも作業目標(一応の達成目標)としました。ところが、90年代後半から島宇宙がバラけ、イバりが「痛い」ことだと見え始めます。 このことはナンパ系とオタク系の「階級落差」の消滅を意味させた点では良いことに見えます。でも1点、問題を抱えた。消費社会では「輝き」イメージの共有度合いにかかわらず、「自分の欲望は他者の欲望」でした。誰にも理解されない欲望には意味がないのです。 ところが、島宇宙がバラけ、所属が不透明かつ流動的になり、そのぶん人間関係がその場のノリを維持するだけの希薄なものになると、「他者の欲望を自分の欲望とする」メカニズムが働かなくなります。その結果、驚くべきことに、欲しいものがなくなるのです。 「落差」が消えてそこそこハッピーになったことの見返りに… 武田:「本当は何が欲しかったのか?」と問われ、いままで欲望の対象だと思っていたものが、実はそれほど欲しいものではなかったと認識されるということでしょうか? 宮台:そう。人間関係を通じて消費アイテムに「輝き」をもたらし、かつ消費アイテムを通じて「輝き」を持つ人間関係を選別する動きが、鈍くなるのです。これが〈コモディティ化の第2段階=島宇宙拡散〉です。ちなみに〈第1段階=耐久消費財飽和〉でしたね。 〈第1段階=耐久消費財飽和〉と〈第2段階=島宇宙拡散〉の違いが重要です。〈第2段階〉までは、ナンパ系のデートツールであれ、オタク系のウンチクツールであれ、消費を通じて、コミュニケーションによって成り立つ社会を支えている、との自負がありえました。 言い換えれば、消費がどのように分布するかを見渡すことが、社会がどう構成されているかを見渡すことに通じるという発想です。これが消えるのが96年から98年にかけてです。具体的には、ナンパ系とオタク系の「階級落差」の著しい緩和が目印です。 何にせよ「落差」は動機づけの源泉です。岡田斗司夫氏が言うように、ナンパ系とオタク系の「階級落差」がもたらす鬱屈感が、目も綾なるコンテンツを生み出す原動力でしたが、「落差」が消えてそこそこハッピーになった結果、コンテンツ供給力が急減しました。 武田:つまり、オタクの人々にとっても圧力をかけてくる存在として、社会が近くにあったんですね。 宮台:そう。モノが単純に「輝き」を帯びなくなった〈第1段階=耐久消費財飽和〉以降、しかし「女子大生ホイホイ、HONDAプレリュード」「女子は全員、聖子ちゃんカット」など笑い話がありました。社会の全体が感じられる濃密なコミュニケーションの時代でした。 コモディティ化を抜け出すヒントは、生活のリアリティ 武田:企業が主催するオンラインコミュニティに参加する消費者には、コミュニティへの参加を通して、「社会とつながった気がする」という感想を持つ方々がいます。この結果に、私は大きな可能性を感じています。 企業コミュニティは、ハーレーダビッドソンやマッキントッシュなど、商品の特徴が差別化されていなければ活性しないといわれていました。しかし、実際はそうでもありません。さまざまな会社のさまざまなテーマでコミュニティは活性します。たとえば、フルーツをテーマにしたコミュニティも大活性しています。 宮台:なるほど。それは、どういう理由からなのですか? 武田:商品はフルーツなので、それを持っているからといって仲間から注目されたりするものでもなければ、オーダーメイドで私だけのものになるわけでもありません。しかし、フルーツを自宅に持ち帰って消費するプロセスは千差万別です。それら多様な生活のリアリティがソーシャルメディアを通して噴水のように表出されています。 たとえば、そのフルーツを食材にしたレシピ大会や子どもと一緒に撮る写真大会などです。そういう活動に参加していると、スーパーマーケットで買い物をしている際、彼女らの目にはそのフルーツが輝いて見えるのだそうです。 これは、彼女らが主体的に参加しているコミュニティの履歴が、そのフルーツと、またそのフルーツを通したほかの参加者たちとの関係を特別なものにしているからだと分析しています。つまり、自分がその商品に関与しているという実感が、商品を輝かせているのだと思います。 モノから失われた輝きはコミュニケーションによって蘇る。 我が事化とはつまり「声」を出すことそのもの。 宮台:そのような流れを通れば、たしかに輝いて見えるでしょうね。
武田:そうした関係が生まれると、会社や商品に向けた参加者たちの理解も深まっていくようです。いままで気づかなかった魅力に気づくようになる。そうした会社や商品の魅力を、フェイスブックやツイッターといった外部のソーシャルメディアに発信する人の数は、一般消費者の20倍になるというデータもあります。 「声を求められる」と、社会が突然近くなる 武田:これを地域コミュニティに応用することを考えた際、「生活のリアリティが発露する」というソーシャルメディアの特性が地域活性にも役立つのではないかという仮説があります。 現状、一般の市民には、自治体や政党の決定に対して、代表者を選任する「投票」というカタチでしかそれに関わる方法を与えられていません。コミュニティ活性の観点から見ると、これでは粗すぎて、我が事化を期待するのは困難だと思います。 積極的に議論に参加できればいいのかもしれませんが、議論には準備や訓練も必要になるので、参加できるのは一部の人に限られてしまう。その他の多くの人々には、やはり参加の機会は見つかりにくい。 そこで、議論の場に意見を投げるとまではいかなくとも、いま自分が感じていることを表出させるという軽い関与であれば、より多くの方が参加できます。特定のテーマで集まるグループに、司会進行役が入り、攻撃されたり無視されたりしない、自分の本音の声を求めてくれる場所をつくる。そうした場所から表出される生活のリアリティが集まり、それぞれの地域が抱える悩みや希望を可視化する市民によるウィキペディアが生まれるわけです。 市民の多様な声が創りだすこうした空気が、間接的にでも政策に影響を与えるような仕組みができれば、誰もが参加でき、我が事化することで、より強いコミットを持ってつながり合う社会が生成されるのではないかと考えています。 宮台:なるほど。僕は先日まで東京都民投票条例の制定を求める直接請求の請求代表者でした。住民投票の本質は、ポピュリズム的な衆愚政治の恐れを批判される「世論調査による政治決定」でなく、住民投票に先立つ数カ月間の公開討論会の活動にあります。 第一の目的は、一部は法令に基づいて行政や企業に情報を開示させ、論点ごとに対立的な意見を持つ専門家たちを呼んで質疑をすることで、「原発絶対安全神話」や「いつかは回る核燃サイクル」のような〈巨大なフィクションの繭〉を破ることです。 でも第二の目的も大切です。昨今どの自治体でもモンスター親に象徴されるクレージークレイマーだらけ。共同体空洞化が彼らをもたらしました。丸山真男によれば「孤独を感じ、知的ネットワークから排除された、社会問題に無関心な層」が社会問題に噴き上がります。 共同体空洞化が生み出したクレージークレーマーが、やはり共同体空洞化ゆえに近隣によって囲い込まれて緩和されることなく、ダイレクトに政治家や行政官僚に大声でガナリ立てます。かくして至るところで〈安心・安全・便利・快適至上主義〉の出鱈目が起こります。 だから武田さんのプロジェクトに期待します。軽い関与でも特定テーマで集まるグループに参加して本音をしゃべれること。そうした関与の集積から地域の悩みや希望が可視化されること。やがてクレージークレーマーを凌駕する生活のリアリティがシェアされること。 僕が導入を働きかけてきたデンマーク発のコンセンサス会議と同じで、徹底して仕組みを工夫せねばならず、簡単ではありませんが、工夫次第では期待できます。現にフルーツのコミュニティは、元々フルーツに関心がある人が集まるだけでなく、逆も成り立つのですよね。 武田:そうです。最初は懸賞が目当ての参加者も多くいます。ところが、参加するうちに我が事化も進み、帰属意識も生まれてきます。企業のコミュニティが活性するにつれて、「社会に参加した気分になる」という感想も多く挙がってきます。 宮台先生にお聞きしたいことがあります。システム社会の中の交換可能なひとつでしかないと思いがちな私たち消費者が、改めて「声を求められる」経験をすると、社会が突然近いものになるということはないでしょうか? そうだとすると、ここで起こっている状況は、ユルゲン・ハーバーマスのいう「システム世界」の余剰分とされた「生活世界」のレコンキスタ(再征服)のようにも見えるんです。 宮台:おもしろいですね。たしかにそう見えます。しかし、あえて悲観的に眺めましょう。もしそうした参加アーキテクチャがルーティン化したらどうしますか? いや、新しいコミュニケーションには可能性があると確認したところで、今回はやめておきましょう(笑)。 ※次回は、株式会社アスキー・メディアワークスの福岡俊弘氏との対談を7月31日(火)に配信予定です。 http://diamond.jp/articles/print/21449
【編集部からのお知らせ】 大好評ロングセラー!武田隆著『ソーシャルメディア進化論』 定価:1,890円(税込) 四六判・並製・336頁ISBN:978-4-478-01631-2 ◆内容紹介 当コラムの筆者、武田隆氏(エイベック研究所 代表取締役)の『ソーシャルメディア進化論』は発売以来ご高評をいただいております。 本書は、花王、ベネッセ、カゴメ、レナウン、ユーキャンはじめ約300社の支援実績を誇るソーシャルメディア・マーケティングの第一人者である武田隆氏が、12年の歳月をかけて確立させた日本発・世界初のマーケティング手法を初公開した話題作です。
「ソーシャルメディアとは何なのか?」 「ソーシャルメディアで本当に消費者との関係は築けるのか?」 「その関係を収益化することはできるのか?」 ――これらの疑問を解決し、ソーシャルメディアの現在と未来の姿を描き出した本書に、ぜひご注目ください。 ※こちらから、本書の終章「希望ある世界」の一部を試し読みいただけます(クリックするとPDFが開きます)。 絶賛発売中!⇒[Amazon.co.jp] [紀伊國屋BookWeb] [楽天ブックス] ◆内容目次 序 章 冒険に旅立つ前に 第1章 見える人と見えない人 第2章 インターネット・クラシックへの旅 第3章 ソーシャルメディアの地図 第4章 企業コミュニティへの招待 第5章 つながることが価値になる・前編 第6章 つながることが価値になる・後編 終 章 希望ある世界 http://diamond.jp/articles/print/43584
[12削除理由]:無関係な長文多数 |