http://www.asyura2.com/12/social9/msg/419.html
Tweet |
日本伝講道館柔道の変容とスポーツの目的について
嘉納治五郎が創設した「日本伝講道館柔道」は、今日ではオリンピックの種目になり審判規定も国際化されたために、柔道着の上着を両手でしっかり掴んで掛ける投げ技は影をひそめ、レスリングスタイルの「Judo」に変容してしまった。
木村政彦・松本安一・吉松義彦が活躍した当時の柔道マンから見ると、講道館審判規定に基づいて行なわれた当時の試合における、華麗な立ち技の応酬が見られなくなったのが残念である。時代の流れと言うべきであろうか。
方丈記の名文「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。」の文言が頭をよぎる。
さて、1954年12月22日、蔵前国技館における、力道山(30歳)と木村政彦(37歳)の決闘について付言する。答えはズバリ「双方が、柔道着を付けての試合であれば文句なしに木村の勝ち。上半身裸の試合であれば文句なしに力道山の勝ち。」である。木村が「日本伝講道館柔道」の技の殆んどは、双方が柔道着を着た状態を前提として、工夫して創られたものであることを無視して、上半身裸のプロレススタイルで試合に臨んだのが敗因と言わざるを得ない。
試合は相手がギブアップするまで戦う60分一本勝負で行なわれたが、先ず木村が見事な一本背負いで力道山をマットに叩きつけた。柔道の試合であれば文句なしの一本であったが、力道山に全くダメージはなかった。そこで木村が力道山の金的(睾丸)を蹴り上げた。これに怒った力道山が、木村の首・頭・顔面に猛烈な空手チョップ(手刀)と拳の連打攻撃を加えたため木村は脳震盪を起して倒れ失神して5分以内で試合は終った。この為、60分間の試合を楽しみにしていた入場者の一部が「入場料を返せ」と騒ぐ一幕もあった。プロレスを八百長をやらずにやればどうなるかを如実に示した試合でもあった。
更に「生兵法は大怪我の元」について付言する。例えば、自分は小さい時から武道の修練を積んで試合でも負けることは殆ど無いので、いつ暴漢の襲撃を受けても大丈夫だと自己過信をしていると命を落とすことになる。空手・柔道・剣道等の試合は何れも禁止事項の規定があることを忘却するべからず。
「命の取り合い」にはルールは無い、禁止事項は全く無いのである。目の中に指を突っ込んでもよいし、同時に前後から攻撃してもよい。背後から刀で斬りつけてもよいし、拳銃その他の重火器を使用してもよいのである。
つまり、現在の空手・柔道・剣道等は一定のルールの下に正々堂々と技を競う「スポーツ」である。そして、「スポーツ」の目的は体力と気力の練成に在る。「命の取り合い」とは全く次元が違うことを吾人は銘記する必要がある。
余の経験則から断言出来ることであるが、「スポーツの効用」は絶大である。吾人は若い時から何等かのスポーツに馴染んで「体力と気力の練成」に努めざるべからず。吾人の人生において目的達成に寄与すること多大なものがある。
余談ではあるが、力道山が1963年12月8日赤坂のナイトクラブの便所で、暴力団のチンピラから足を踏まれたことで喧嘩になり、チンピラに腹部を短刀で刺されて病院で手術を受けたが、手術の失敗で腹膜炎となり同月15日死亡した。興行師・事業家としての才能にも恵まれて、活躍が期待されていた好漢の、39歳の若さでの死が悼まれる所以である。
さて、嘉納治五郎は柔道修行の目的は「精力善用自他共栄」に在ると喝破した。正に世界平和を人類の目標としたとも言える名言である。吾人は有り余るエネルギーとDNAに組み込まれた闘争心を柔道の修行によって発散するとともに、技の向上と人格の向上を図る。つまり、相手を尊敬し認め合って柔道を修行することで、相互共々社会に貢献できる人格者となるのが柔道修行の目的である。試合で勝敗を決することは、その為の方便であって目的ではないと言う事である。
よって、あまりにも試合の勝敗を重視し過ぎることは、修道修行の本質から外れることになる。金メダル至上主義に係る全日本女子柔道監督の女子選手への暴行事件や、全日本柔道連盟理事の女子選手へのわいせつ行為などは柔道修行の本質にもとる行為であり、嘉納治五郎の崇高な精神を冒涜するものである。
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。