10. 2013年7月09日 13:34:05
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英語プアの日本人は、ますます下流化する 安倍政権の英語政策にモノ申す 山田 順:ジャーナリスト2013年6月19日 日本人はどうやって日本人になるのだろうか? そんな誰もが意識したことがないことを、グローバル化という視点でとらえていくとどうなるだろうか? 21世紀のグローバル化が私たちに突きつけている問題は、国際標準語(英語)を話す国際人になることではない。日本人という確固たるアイデンティティを持って、世界を舞台に活躍できる人材になることだ。 しかし残念ながら、日本で日本人の両親から生まれ、日本の教育を受けて育つと、真の日本人にならない。一人娘をアメリカと中国の教育で育てたジャーナリストが、その経験を基に、日本人とは何かを問いかける。第3弾の成長戦略を発表した安倍首相。その柱のひとつに英語力の強化を掲げた(写真:ロイター/アフロ ) 安倍内閣の「成長戦略」の柱のひとつに、グローバル人材を育てるための「英語力の強化」が入った。そこで、娘を英語、中国語のトライリンガルに育てた親として、言わせてもらいたいことがある。 「こんなんではとてもでないが、英語を話せる子供はできない。むしろ、英語嫌いの子供が増えるだけだ」と……。 なぜ、私がそう思うのか?今回はそれを述べていきたい。 「海外母子留学組」の言い分 今回の案では、現在、小学校5年生から行われている英語の授業をより低学年から始めることになっている。おそらく、4年生から実施することだと思う。さらに、授業時間も増やすという。また、大学入試や国家公務員試験に、TOEFL(トーフル)を導入するという。 そこで、みなさんにもお聞きしたい。これで、本当にグローバル人材、つまり、英語を使いこなせる日本人が育つと思いますか? と……。 この連載を始めてから、就学適齢期のお子さんを持つ親御さんから、たびたび「子供をインターナショナルスクールに入れたいけど、どうしたらいいですか?」と聞かれるようになった。また、私は、現在ブームになっている「海外母子留学」をしている方、あるいは計画中の方などを取材しており、その人たちが、なぜそんな選択をするのかを聞いている。 自分の子供を日本の学校に入れたくない。できればインターや海外の学校に入れたい。そのように思う親御さんたちの最大の理由は「子供に英語を話させたい」である。もっと言うと、「これからますますグローバル化する世界で生きていけるようにしたい」である。つまり、今回、政府が成長戦略で打ち出した「英語力を強化してグローバル人材を育てる」という方針とまったく同じである。 そこで、さらに「それなら、今後、日本でも英語教育がどんどん進むので、わざわざインターに入れたり、海外母子留学したりしなくてもいいのではないですか?」と聞いてみると、みなさん、口をそろえてこう言うのだ 「今の日本のやり方ではいくらやってもダメだと思います」 子供をインターに入れたい、海外母子留学したいという親御さんたちは、特殊な一部の方たちではない。おそらく、就学適齢期のお子さんを持つ親御さんの多くが「できれば子供が英語を話すようになってほしい」と願っていると思う。これは、グローバル化が進んだ今日、急に始まったことではなく、昔からそうだったと思う。 しかし、日本の英語教育は、この親たちの願いをかなえてくれなかった。これまで何度も「英語必要論」が唱えられた。日々、国際化、グローバル化している世界を見れば、これは当然だ。しかし、そのたびに反対が強く、「話せる英語教育」導入は見送られるか、骨抜きにされてきた。 「This is a pen.」というほぼ使うことのない文を覚えることから始まって、英文和訳、穴埋め問題ができるだけで、先生も生徒も話せないという「信じがたい英語教育」が、この国では放置され続けてきた。中学、高校、大学と毎日のように英語の授業があるというのに、誰も話せない。つまり、英語の授業でないものを「英語」と言い張って、この国は続けてきたのである。 これは、膨大な税金のムダであり、将来を担う子供たちをわざわざ英語嫌いにしてしまうとう愚かな行為ではなかろうか?それでは今回、こうした日本の英語教育とは呼べない英語教育が変わるのだろうか? 安倍内閣は、本気で日本の子供たちに英語を話させようと考えているのだろうか? 残念だが、私には、とてもそうとは思えない。 単に、「いくらやっても話せない、できない」英語教育が、小学校低学年まで広がるだけ。そして、これまでの入試英語がTOEFLに代わったとしても、今度はTOEFLでハイスコアを取るための違うかたちの受験勉強が進むだけではないだろうか? 日本の英語教育は、英語教育になっていない 私は、日本人が英語を勉強したにもかかわらず話せないのは、本人のせい(いまはやりの「自己責任」)だとは思っていない。英語教育が間違っているからだと考えている。それは、インターや英語圏の学校と比較してみれば、すぐにわかることだ。 次の3つの点において、日本の英語教育は英語教育になっていないのだ。 1. 教師が英語を話せない 2. 時間数が足りない 3. 英語不要論が根強くある(つまり誰も本気で子供たちに英語を話させようとは思っていない) それでは順に、説明してみたい。 小学校5、6年生で英語教育が必修化されたのは2011年のこと。そこで何が起こったかというと、英語に自信が持てず、必修化に不安を抱える教師が続出したことだ。そこで、そういう教師に英語を教える必要が出たうえ、ネイティブの外国語指導助手(ALT)を雇う学校も多くなった。 つまり、現状では、子供より先に先生を教えなければならないのである。 こんなバカな話があるだろうか? 中学、高校でもそうだが、日本の英語教育は、英語が話せない教師が、生徒に日本語で話しかけ、英語を教えている。これは英語の授業ではないだろう。 つまり、そういう教師を全部クビにして、英語ネイティブ教師に代える。これが、第一にすべきことだ。それなのに、文科省がそうしないのは、現在の英語教師の雇用を守っているとしか思えないのだが、どうだろうか? 今回、英語教育がさらに低学年化したことで、「英語は大人になってからでも遅くない」という反対論がまたささやかれている。また、「日本の英語教育は読み書き中心。それができるのだからいいのでは」という意見も聞こえてくる。しかし、これらは全部間違っていると、私は思う。 なぜなら、どの言語でもそうだが、子供はまず親から話しかけられて言葉を覚え、その後、子供同士で幼児語を使ってコミュニケーションするようになる。さらに学校に通って、友達や先生に囲まれ、いろいろな言葉を覚えていくというプロセスを通して成長していく。こうした過程をいっさい無視して、ある時点から知識としての英語教育だけを施しても、なかなか上達しない。つまり、小さいときから自然に言葉に接したほうがいいに決まっているのだ。 「読み書きならなんとか」という錯覚 あなたが日本語を覚えた過程を思い出してほしい。まず、お母さん、お父さんの話している言葉をまねするところから、言葉を覚えたはずだ。そうして、だんだんに話すようになり、学校に入って読み書きを覚えた。順番で言うと、「聞く」→「話す」→「読む」→「書く」である。 ところが、日本の英語教育は、こうした自然な流れを無視し、むしろ逆からやっているのだ。こうすると、いつまでたっても話せない。また、「聞く」→「話す」を飛ばして「読む」→「書く」を中心に教えると、結局「読む」→「書く」もできなくなる。できているように思えるのは、英語を日本語に翻訳して「読む」、日本語を英語に翻訳して「書く」ということだけで、よく「読み書きならなんとか」と言う人がいるが、これは一種の錯覚である。 次に、時間数が足りないという問題を考えてみよう。 今回の案どおりになるとすると、子供たちは小学校4年生から英語を習うことになる。そうして、中学、高校と6年間、英語を勉強する。さらに大学に入ってからも教養課程で2年間、英語の授業を受けるとすると、なんと、今後の日本人は11年間も英語を勉強することになる。 とすれば、これだけやるのだからさすがに英語が話せるようになると、誰もが思うだろう。しかし、考えてみてほしい。私の年代は、中学校からスタートしたので8年間、英語を勉強した。しかし、ほんの一部の人間しか話せないのだ。それが3年延長されただけで、本当に話せるようになるだろうか? 日本人が英語を話せない理由を、日本の教育界はこれまでさんざん論争し合ってきた。しかし、最も単純なことを忘れている。それは、「8年間もやった」という数字のトリックにだまされて、その中身を見ていないことだ。 英語の授業は、中学、高校とも、たいてい毎日1時間(1コマ)はある。そこで、週5日授業があるとして、1年を52週とすれば、5時間×52週=260時間となる。しかし、実際には夏休みも冬休みも春休みもあるので、授業があるのは年間約40週とすれば、5時間×40週=200時間となる。では、これを8年続ければ、何時間になるだろうか? そう、200×8=1600時間である。 この1600時間というのは、日数にすると、1600÷24=66.7で、約68日にすぎない。そう、8年間といっても、たった2カ月余りしかあなたは英語をやっていないのだ。普通、留学生が英語漬けの生活を始めて、なんとか英語がわかるようになるのには、早くて半年はかかると言われている。つまり、中学、高校、大学と8年間も英語をやったからといっても、それではまったく足りないのである。 一日中、英語で授業をやればいい 現在、小学校5、6年生は週1コマ英語をやっている。今後、これが小学校4年生にまで拡大されても、やはり週1コマだろう。とすれば、月に4時間、年間48時間、3年で144時間増えるだけだ。たった、6日間である。 これで、英語が話せるようになると考えるのが、いかに馬鹿げているかおわかりになると思う。日本人が英語ができないのは、この時間数の不足が決定的であり、英語が難しいわけでも、また、英語と日本語の言語構造の問題でもないと断言できる。つまり、ネイティブ教師がいて、毎日徹底して英語をやれば、8年や11年もかからずに英語は話せるし、理解できるようになる。 英語教育を低学年化するのもいいが、たとえば1日中、英語で授業をやる。あるいは、毎日、3〜4時間はやる。これは英語の授業でなくてもいい。数学や理科を英語で教える、あるいはホームルームを英語にして、子供たち同士で話させるなどすればいい。また、「ノー日本語デー」をつくって、その日1日はすべて英語、日本語を使ったらペナルティというのも、効果的だと思う。 こうしたことを本気でやれば、小学生段階で聞くこと、話すこと、ある程度の読み書きができるようになる。そうすると、あとは教師などいなくとも子供たちの英語力は自然にアップしていく。子供は好奇心が旺盛だから、自身で、本を読んだり、ビデオを見たり、ネットをやったりして、どんどん英語を覚えていくからだ。 ここで、TOEFLの入試導入についても触れておきたい。 現在、言われているのは実施時期が5年ほど先になりそうだということだ。すぐに実施すると、教育現場が混乱するからだという。つまり、ここでも教師が教えられないという問題が派生している。 しかし、5年待ったとしても起こることは同じだと、私は思う。教師たちは、これまでのような受験英語方式を変えず、授業で日本語を使い、問題を解くのを解説するだろう。いわゆる対策授業をやってしまう可能性があるからだ。 TOEFLの試験は「Reading」「Listening」「Writing」「Speaking」の4科目。このうち日本人が苦手なのが、「Writing」と「Speaking」とされている。 そこで「Writing」を例にとってみると、「Writing」では、エッセイを書かなければならい。このエッセイのパターンは約200あるとされている。とすると、過去の出題パターンから、これをすべて暗記するという勉強法が成り立つ。「TOEFLはパターン丸暗記で克服できます!」と言い出す教師が現れ、予備校のような授業になってしまうだろう。 もうひとつTOEFLの入試導入には大きな問題がある。 TOEFLスコアが入試の足切りに使われるとしたら、そのスコアをどう決めるのかという問題だ。たとえば、アメリカのアイビーリーグでは「TOEFL iBT」(フルマーク120点)で最低100点は要求される。ならば、東大や京大でもこのスコアでいくとしたら、今の日本の高校までの英語教育からいって、落ちる学生が続出するだろう。かといって、70点なんてことにしたら、大学のレベルが国際的に問われることになる。国際的な日本の大学の価値は暴落してしまうのだ。 古市憲寿氏のコメントに驚く それでは、最後の問題「英語不要論」が根強いことを検証してみよう。これは英語教育をどうやるかということよりも、今後の日本にさらに深刻な事態をもたらすと思う。 今でも「日本人に英語は必要ない。日本は日本語だけで十分暮らせる国だ」という識者がいる。また、「英語を勉強するより、美しい日本語をもっと勉強せよ。そちらのほうが先だ」という自国文化中心主義者も多い。 しかし、実際問題として、これ以上、世界標準語となった英語を使えない国民が増えたらどうなるだろうか?日本は「極東郡日本村」として世界から取り残されてしまうに決まっている。 私が驚いたのは、2カ月ほど前、「大学入試にTOEFL導入へ」のニュースが流れたとき、NHKの「ニュースWEB」でコメンテーターの古市憲寿氏が、こう言ったことだ。 「英語がしゃべるようになってもバカはバカなまま。結局、英語がしゃべれるバカが増えるだけではないですか」 私は、耳を疑った。なぜ彼のような20代後半の若い世代、しかも気鋭の社会学者がこんな考え方をしているのだろうか? なぜ、バカが英語をしゃべってはいけないのか? なぜ、英語がしゃべれるバカが増えたらいけないのか? 教えてほしいと思った。 「英語できてもバカはバカ」は、確かにそのとおりである。 しかし、私はバカならなおさら英語を話せるようにしてあげたらいいと思う。そのほうが、英語を話せない利口より、今はたぶん就職できるし、日本以外でも活躍できる可能性が広がる。英語プアの若者は、このままだとますますワーキングプア化するだけになってしまう。そう考えると、英語教育の強化は雇用対策でもある。 英語教育こそが雇用対策である このような英語不要論者の言動を真に受けて、「英語なんて自分に関係ない」と思っている若い人に言いたい。英語不要論を唱える人々、あるいは「英語より、まずは仕事ができることだ」などと言う人々が、なぜそうした発言をするのか、考えたことがあるだろうか? これは、彼らが「若者に英語をしゃべられたら困る」と、心のどこかで思っているからだ。つまり、若者に英語をしゃべられると、やがて自分たちの地位がおびやかされる。それが本能的にわかるからだろう。 日本の若い世代全体が英語のバイリンガルになったことを想像してみてほしい。ほとんどの識者や評論家、コメンテーターなどは不必要になる。なぜなら、英語がわかれば、ハリウッド映画でも海外ニュースでもそのまま理解できる。英語の雑誌、本をそのまま読める。とすると、テレビや本でエラソーなことを言っている彼らの解説やコメントを聞かなくともよくなるだろう。 こう考えると、日本という国はわざと国民に英語を理解させないようにしているとしか、私には思えない。そうして、わざと若者を不幸にしているのだ。 たとえば、失業してハローワークに行くと、再雇用対策として職業訓練学校に通うための補助金が出る。しかし、英会話学校はその対象にはなっていない。かろうじて、入学金や受講料の一部が補助されるだけだ。 現在のグローバル経済では、英語教育こそ雇用対策である。インド人がグローバル経済の中で競争力があるのは英語のおかげが大きい。フィリンピンは世界有数の労働輸出国だが、それはフィリピン人は英語ができるので、世界のどこでも働けるからだ。 どうかこの際、安倍内閣は本気で英語教育に取り組んでもらいたい。そうでないと、やがて日本中に下流若者タウンが続々出現する。日本丸ごと下流社会、世界遺産になってしまうかもしれないのだ。
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