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http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=274456
人間の本来の死に方について、書かれている興味深いものありましたので紹介します。
現代の日本人が、死に対して恐怖感をもつ1つの要因が、激しい肉体的苦痛を伴って、簡単に死なせてもらえないというイメージを持っていることによるところが大きいのではないかと思います。
でも、その死に方は、むしろ、現代の医療が作り出したもので、要らぬ処置をしなければ、本来は、人間は、枯れるように死んで行く、つまり、食べ物や水分を次第に受け付けなくなり、意識も遠のいて行く。「餓死」と言っても良いもの、その際は、ある種の気持ち良さがあり、痛いや痒いや苦しみにのた打ち回るということも無いようです。
人類の原始時代を想像してみても、死に近づいた者が、食べ物も受け付けず、騒ぎもせずに、穏やかに死んで行くということは、まだ、生きられる他の者に食べ物が行きわたり、集団の皆の足を引っ張らずに、場合によっては、自らが仲間の食べ物にもなるということで、集団として生き残って行く上でも理に適っており、これが、本能で、自然の摂理なのではないでしょうか。
以下の引用の中で紹介されている本の中で書かれている葬儀屋さんの話によると、最近の遺体は、重くなっているそうです。それは、本来、「餓死」して行くものを、点滴などで無理矢理に水分や栄養を補給して、人工的に延命しているから重い。そして、自然の摂理で、体が受け付けなくなっているものを無理矢理に注入するから、本人も苦しむことになる。なんと惨いことか。
そして、その上で、死は、怖い、苦しい、受け入れ難いものというイメージを植え付け、癌ビジネスを初めとした医療ビジネスの餌食にして行くという構造が見えてきます。
長寿で亡くなる場合は、天寿を全うするということで、むしろ、めでたいことであるという認識が、日本には根付いていたはずなのに、いつから、こんなことになってしまったのでしょうか?
ららさんのつれづれ草
医療と死について考える―D―自然死こそ本来の死
リンク
より引用です。
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自然死について中村医師は、次のように述べている。
「『自然死』は、いわゆる”餓死”ですが、その実体は次のようなものです。
『餓死』・・・・・・・・・・脳内にモルヒネ様物質が分泌される
『脱水』・・・・・・・・・・意識レベルが下がる
『酸欠状態』・・・・・・脳内にモルヒネ様物質が分泌される
『炭酸ガス貯溜』・・・麻酔作用あり」(P.49)
餓死というと、何か悲惨な印象を受ける。よく新聞では生活困難のために孤立死をしたとか餓死したとか報道されるようになった。それは何とも言えず哀れな状況を想像する。
しかし、自然死の場合の「餓死」およびそれに伴って起きる「脱水」は違うのだという。命の火が消えかかっているのだから、腹も減らないし、喉も渇かない(P.64)という。
人間の体は大部分が水であり、水がなければ生きていけないし、エネルギーを供給する食べ物も必要である。けれども生命力が衰えてくるとその必要がなくなるのだ。
1年生の草花を見るとよく分かるが、枯れてくると水をやっても無駄である。もう受け付けなくなるのだ。それは人間でも動物でも同じだと考えられる。
そして大事なのは、「餓死」では脳内にモルヒネ様の物質が分泌され、よい気持ちになって、幸せムードになることだ。「脱水」は、血液が濃く煮詰まることで、意識のレベルが下がって、ぼんやりした状態になる(P.64)と述べている。
また、「酸欠状態」については、次のように書いている。「それから死に際になると、呼吸状態も悪くなります。呼吸というのは、酸素を取り入れて、体内にできた炭酸ガスを放出するということです。それが充分にできなくなるということは、酸素不足、酸欠状態になること、もう一つは炭酸ガスが排出されずに体内に溜まることを意味します。酸欠状態では脳内にモルヒネ様物質が分泌されると言われます。」(P.65)
炭酸ガスには麻酔作用があるそうだ。柔道の選手が絞め技で落とされたとき、異口同音に気持ち良かったと言っているのはその証拠だという。私が子どもの頃近所の学生がよく「落としたろうか?気持ちいいぞ。」と言っていたのを思い出す。
死に際は、何も医療措置をしなければ、夢うつつの、気持ちのいい、穏やかな状態になるのだ、それが自然の仕組みなのだという。医療が発達しなかった以前(おそらく40年ほど前までは)は誰でも自宅で自然に死んでいき、家族はその姿を見ることができたのだ。
動物は死の姿を誰にも見せないようだが、人間は看取ってもらう。それについて中村医師は、看取ってもらうのではなく、看取らせることが大事だと説く。人生の最期にやるべきことは、看取らせることだというのだ。(P.92)
「『看取らせる』場合は、本人の決心、希望以外に、『信念』と『覚悟』が必要になります。それは『死ぬ』という自然の営みの、本来あるべき姿を周囲に見せると同時に、『自然死』を見たことのない医療関係者を教育する先兵となるということです。」(P.91)と指摘している。
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私事ですが、曾祖父を自宅で看取ったときも、まさに、この自然死に近い状態でした。
しかし、
現代は、医者でさえ、本来の人間の死に方を知らない、見たことがないので、医者に掛かると自然に死なせてもらえないという悲しい現実です。
我々は、もっと、死を身近なもの、自然なものとして受け入れる認識を持って行く必要がありそうです。
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