03. 2013年4月03日 00:41:20
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JBpress>海外>海外の日系紙 [海外の日系紙] 日本への出稼ぎが生んだロストゼネレーション(中)さまよえる日系ブラジルの若者たちはいま 2013年04月03日(Wed) ニッケイ新聞 ニッケイ新聞 2013年1月15〜17日 (4)「何とかなる」と高校中退 工場労働で後悔の日々も 三宅ミドリさん(22、四世)は1996年、6歳の時に訪日し、先にデカセギに行っていた両親と合流した。家庭内もポ語会話が基本で、日本語を覚えるのには苦労したという。 「社会人として働くっていうことの厳しさは工場に入るまでわからなかった」と呟いた三宅さん 通学した愛知県豊橋市の公立小学校にはブラジル人の職員がおり、国語の科目の時間のみ日本語が得意でない外国人の生徒を対象に特別教室があった。
「全校でブラジル人を中心に外国人生徒が15人くらい。ペルー人なんかもいた。居心地は良かったけど、日本語が上手くなるにつれて行かなくなった」。その理由を尋ねると「日本人の友達もできたから」と照れくさそうに笑う。 それでも中学校への入学が目前に迫ってくると、ブラジル人学校への入学を希望するようになった。「特別授業がない国語以外の科目に段々ついていけなくなった。特に算数が難しかった」。しかし、金銭的な都合により断念。一般の公立中学校に進学する。 人格形成は発達心理学や教育学の一分野といわれるが、その一つにシュタイナー教育理論がある。《第1段階》7〜14歳は「感情が成熟していく時期」で、いわば感情や情緒を決定する時期だ。小学校と重なる。 さらに《第2段階》として中学高校以上となる14〜21歳は、論理的な思考能力や、理性的かつ抽象的な推論能力を発達させる重要な時期なのだとしている。 第1段階がしっかりしていないと第2段階へは容易には進めない。さらにこの両方が揃わないと、大人になってから必要となる将来設計・生涯設計をするような現実的思考ができないことがあるようだ。 デカセギ子弟の場合、日本の中学はなんとかなっても、高校で論理的な思考能力が求められる学科で授業についていけず、落ちこぼれるバターンがままある。これは、家庭環境の問題や、2言語子弟に関する親や教育関係者の理解不足にも関係があるようだ。 三宅さんによれば、日系友人のうち半分近くは中学校入学時にブラジル人学校に転校し、学校に占める外国籍生徒の割合も大きく減ったという。 「ブラジル人の数も減って、わからないことがあっても、周りに聞くことが恥ずかしいと思うようになった。内容は難しくなったのにそんな風だから、勉強はあまり得意ではなかった」 それでも周りの日本人の友人に促されるような形で高校への進学を希望した。ブラジル人専門の塾にも通い、何とか市立高校へ合格。「一番低い学校だったけど一生懸命頑張って入れたから本当に嬉しかった。人から認められるってやっぱり特別なこと」と振り返る。 それにも関わらず、高校2年の春に学校を中退した。入学後にアルバイトを始めたことがきっかけだった。「高校の勉強は難しくてついて行けなかったし、自由に使えるお金をもっと稼ぎたかった」。両親には強く反対されたが「何とかなる」と楽観的な姿勢が変わることはなかった。 高校を辞めてからは地元の自動車部品工場で働き始めた。朝7時から午後5時までみっちりと働く毎日。時には深夜近くまで残業する日もあった。ブラジル人の多い職場だったため苦痛ばかりではなかったが、退学に反対だった両親との約束で給料の7割は家に入れなければならなかった。 「そんなに自分のお金は増えなくて、何で学校辞めたんだろう、何のために働いているんだろうって後悔もしました」 幼少時の家庭環境など、いろいろな原因が積み重なって学校を落ちこぼれていった時、誰の責任といえるのか――。責任の所在がどこにあっても、本人が自分の一生をかけてそれを償っていくしかない。 (5) 妊娠、帰伯、離縁、解雇・・・四世に対する厳しい壁 三宅ミドリさん(22、四世)は週末のほとんどをストレス発散のために、ブラジル人の友人と愛知県豊橋市内のゲームセンターやカラオケに繰り出した。変わり映えのない日々に“変化”が生じたのは、学校を辞めて約1年半が経った頃、妊娠が発覚した時だった。 「子どもを育てていくためにも学校に入りなおして勉強したい」とも話した三宅さん 相手は付き合い始めて間もない8歳年上のブラジル人。「産むことに大きな迷いはなかった」という。話し合いの末、ブラジルに戻って育てることに決めた。
「やはり“自分の国”で育てたいっていう思いがあった。彼もそれを強く望んでいました」。工場を退職し日本で出産、2009年末に帰伯した。 日本への定住も視野にいれていた両親の反対を押し切っての帰国だった。しかしパラナ州都クリチーバで始まった親子水いらずの生活は長くは続かなかった。 「彼とは結局半年で別れちゃいました。籍は入れていなかったので、あっさりと縁が切れてしまった」と話す声には寂しさが滲んでいる。 その後は祖母の家で息子と暮らしながら、日系の病院で事務員として1年半ほど働いたが、2012年6月末の契約満了とともに解雇された。 「新しい仕事は探しているけど、なかなか見つからない。日本語を使った仕事が出来れば良いけど、選んでいられないから・・・」。現在は職を探しながら、高卒認定資格試験のための勉強もしている。「結局少し日本語が使えても、こっちでの勉強が出来ないと何もできない。日本で高校を中退したこと、ブラジルに戻ってきたこと、後悔の気持ちが沸くこともあります」との胸中を吐露した。(2012年8月22日取材) 今をさかのぼること9年前――2004年8月27日付けで本紙は、《四世への査証発給=聖総領事館、慎重に対応=旅行社ら「冷たい」と不満=入管法の改定訴える》という“四世問題”を報じた。 というのも、二世には「日本人の配偶者等」、三世には「定住者」という、それぞれ長期滞在用査証の取得権を持っている。だが、四世以降の日系人には日本長期滞在ための特別査証は用意されていないのだ。 おそらく、すでに四世世代が数千人以上も日本で生まれ、将来的には数万人になると予想される。たとえ彼らが日本で生まれ育って日本語しかしゃべれなくても、いったん伯国に戻ってきて日本の永住査証が切れたら、一般のブラジル人と同じ扱いになり、もう日本に戻るためのビザはとれなくなる。 四世子弟をさらに難しい状況に落とし入れているのは、両親の離婚率の高さだ。二世、三世と世代を経るごとに混血率が上がることは周知の事実で、離婚率も高い。 現在の在日日系社会では片親が三世で、配偶者が非日系というケースがかなり多い。日系の親に引き取られた子供は日本滞在を続けるのに問題はない。しかし、非日系の方の親に引きとられた子供は、日本で育ったにも関わらず、成人して扶養家族でなくなったら、その日から日本には居られなくなる。 日本育ちの田中アルベルトさん(21、仮名)の場合も、日本での生活を望んだにも関わらず、止むを得ない事情で伯国に戻った四世の一人だ。 三世の父と非日系の母の間に生まれた田中さんは、生後8カ月で家族と共に訪日した。ところが父は、物心つく前に母と別れて家を出て行き、音信不通となった。 このように事実上、日本で生まれ育ったに等しいにも関わらず、「四世」だからという理由で、見たこともない“祖国”へ帰らされる状況は、あまりに非人道的とはいえないだろうか。(2012年12月23日取材) (6) 非日系の母に日本語強要 不法滞在迫り“帰国” わずか8カ月で親に連れられて訪日した田中アルベルトさん(21、仮名)には、“祖国”ブラジルの記憶はない。 訪日当初、非日系の母は日本語を満足に話すことが出来なかった。田中さんが物心ついた時にはすでに父は別離した後だった。母親は三重県鈴鹿市などで、女手ひとつで田中さんを育てた。つまり、田中さんを日本人の保育園に預けて、工場で懸命に働いた。 その結果、なにが起きたか――。家庭以外の全ての時間を日本語の環境で過ごす田中さんは、どんどんポ語を忘れ、母親との間には自然と言葉の問題が生まれるようになった。母子家庭であるにも関わらず、「満足なコミュニケーションがなかなか取れなかった」という幼少期を過ごした。 そのもどかしさからか「ポ語に対する嫌悪感は年を重ねるごとに増していった」と振り返る。思春期を迎える頃になると「家で母がポ語を話したらぶち切れて怒鳴り散らしていた。日本語しか認めなかった」という形で気持ちが表現されるようになった。 同様に、祖国であるはずのブラジルに対する感情も嫌悪的で、自分が「ブラジル人」として扱われることに極度の嫌悪感を覚え、常に強い抵抗を感じていた。 「自分は日本しか知らないし、ポ語も話せない。意識としてはただの“日本人”でしかなかった。あの頃の俺にとってのブラジル人は、母が家に連れてくるような日本語を覚える気もなければ向上心もない人間。そんな奴らのことは心底嫌っていたし、一緒にされたくなかった」と当時の心境を語る。 このようにデカセギ子弟の一部には、日本人よりも日本人的な人格が形成される傾向がある。かつて、終戦直後に思春期を迎えた当地には「ブラジル人よりもブラジル人らしい」二世の集団が生まれたことがある。まるで、その裏返しのような現象だ。 そんな田中さんが日本に留まることを望むのは自然な流れだったが、中学校に進学した頃、ビザの問題を教えられ、将来的に帰伯を余儀なくされることを知った。 「母は非日系だったから、俺の扶養期間が終わったら帰らなきゃいけなくて、俺も無条件でいられるのは18歳までだと聞いた。その時は絶望したよね・・・」。日本で生まれたも同然で、日本しか知らないで、日本語だけで育った田中さんは当然、そのまま居られるものだと思っていた。 18歳までは合法なのに、その後、知らない“祖国”に「帰れ!」と放り出される。日伯の教育と法律の矛盾という深い溝に、ズッポリとはまってしまった。 その時から、田中さんは真剣に自分が日本に残る方法を考えるようになった――。 「幼くて馬鹿な考えだったけど、日本人との間に子どもを作ればここに居られるって本気で考えて実行しようとしていた時期もあった」と自嘲気味に笑う。 高校に進学し、いよいよ期限が目前に迫ってくると、ツテを辿って知り合った政治家や、法律の専門家らに助言を仰ぐようになった。だが、そうした努力や調査も実ることはなく、有効な解決策はなかった。 「このまま不法滞在か、素直に帰国か。相当悩んだけど、前者の場合二度と日本に戻ってくることが出来なくなる可能性もあるっていう助言もあって・・・。そうしたら帰るしかないでしょ」。そう呟く表情からはやるせなさが滲む。 帰伯後、当地で知り合った二世との間に一児をもうけた。「今はもう日本に帰りたいだとか言っていられない。子どものために家を建てないと。とにかくお金を稼なきゃ」と自分に言い聞かせるように語る。 だが、こんな言葉もポロリと漏らした。「死ぬときは、日本で死にたいなって思う。でもやっぱり難しいかな」。 この一言の奥には、本当の“祖国”はどこなのか――という深い問いかけがある。(2012年12月23日取材) (7)「単調な工場労働イヤ」 家族残し、自分の意志で帰伯 「日本での生活が嫌になっちゃったんですよね」。帰伯して1年が経つ的野アドレルさん(22、三世)は、今までの例とは異なり、自分の意思でブラジルに戻ってきた。 「子どものときから日本に永住するっていう考えを持ったことはなかった」と話した的野さん 2歳で広島に移住して以来、約20年間を県内で過ごした。母は幼い頃にブラジルに渡った準二世で、広島県警で通訳を務めるほど日本語が堪能だったが、家の中ではポ語での会話が普通だったという。
一方で家庭以外の生活言語は当然日本語。的野さんも二カ国語を問題なく使いこなす。「いずれブラジルに戻るのだろうって考えていたし、何より自分はブラジル人だって意識は強く持っていたので、違和感を覚えることはありませんでしたね。おかげでポ語会話に困ったことはないです」と敬語を交えて語る日本語は実に流暢だ。 日本の学校での勉強に対する気持ちは「自分の国のことでないのに」と「周りになめられたくない」という二つの感情の板ばさみとなっていた。 「『やっぱりこれだからブラジル人は』って思われるのが一番嫌でした。中学校に上がると、日系人の同級生の数がぐんと少なくなったからなおさらで。それでも、やっぱり歴史や国語の授業なんかへの意欲はどうしてもね・・・」と言葉を濁す。 好条件を求めて転職を繰り返す家族の都合で、10回以上の引越しを経験し、その都度、転校も余儀なくされた。「中学生の時は、いったん転出した中学に再転入することまであった。何度も何度も新しい環境になじまなきゃいけない、慣れたらまた転校…。そりゃあ、うんざりして登校するのも嫌になりますよね」 そんな学校生活での唯一の楽しみは部活動でのバスケットボールだった。 「やはり“外国人だから”という理由で嫌がらせや軽いイジメもありました。でもバスケで活躍すればみんな認めてくれる。自分を見る目が変わる。それにチームワークの重要性とか、生きていく上で大事なこともたくさん学べました」と話し、「バスケと出会えただけで日本に行った甲斐があった」とまで言い切る。 高校への進学を希望した理由も、継続して部活動を続けたいという気持ちによるものが大きかった。 ところが、デカセギ子弟向けの補習を積極的に利用するなど、満を持して試験を迎えたはずの高校受験に失敗した。「他に行くところがなかったから」という理由で、夜間の定時制高校へと進学先を変えた。 高校進学という日系子弟の厚い壁が、ここでも高く立ちはだかった。 「不良ばかりがいるイメージで入学前はビクビクしていた」というが、行ってみれば、様々な経歴を持った同年代から50代までの幅広い年齢層の生徒が集まる場だった。そんな多様性は、これまで外国人というマイノリティーの寂しさが付きまとっていた的野さんにとって、「むしろここに来られて良かった」と感じられる居心地の良いものだった。 高校卒業後は約4年間工場等で働いた。この経験が、それまで漠然としていた帰伯への思いを明確にさせた。「閉鎖的な環境で毎日同じことの繰り返し。好きな仕事でもないし、給料が大きく上がる見込みもない。夢もなければ、楽しみも自由もない生活にうんざりしちゃったんです」 その思いがピークに達した2011年、日本での定住を優先し、ブラジルに帰る意思のなかった家族のもとを離れ、聖市に戻った。 現在は日系の国際引越し代行業者に勤務しながら、児童を対象としたバスケットボール教室の開講のための準備を進める。 「より多くの人にバスケの楽しさと素晴らしさを広めたいんです。安定した生活ではないけど、『バスケを通して何かしたい』っていう夢を追える生活は楽しい」と目を輝かせた。(2012年9月10日取材、酒井大二郎記者) 注1:伯=ブラジル、聖市=サンパウロ市、ポ語=ポルトガル語 注2:11回にわたり連載された「第2の子供移民〜その夢と現実=日伯教育矛盾の狭間で」の4〜7回を掲載しました。 |